あすなろ書評 
文・北松拓也 (C) / 随時更新
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 『名著「代表的日本人」を読む』
  2017/02/14

『名著「代表的日本人」を読む』
(内村鑑三 著、石井寛 訳、三笠書房、知的生きかた文庫)

 この本は、内村鑑三が英語で著した「代表的日本人」の完訳(原典の全文の翻訳)ではなく、縮めて訳したものです。そのためだと思われますが、この本には本来の題名の前後に「名著」と「を読む」という言葉が付け加えられています。ちなみに、「代表的日本人」の原題は、"Representative Men of Japan"です。

 この本の中で代表的日本人として取り上げられているのは、西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳(金次郎)、中江藤樹(とうじゅ)、日蓮上人の5人です。このうち、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳については、NHKの歴史解説番組「歴史秘話ヒストリア」とか、歴史上の人物たちの人生の極意に迫る「先人たちの底力、知恵泉(ちえいず)」のようなテレビ番組などでもよく取り上げられていますので、その人物像や事績について全国的によく知られていると思います。

 他方、中江藤樹については、名前こそ有名ですが、実際にどういう人物でどんなことをした人かという点については、あまり知られていないように思われます。実のところ、私もこの本を読むまで詳しくは知りませんでした。もちろん、中江藤樹は「近江聖人」と言われているので、地元の滋賀県の皆さんはよくご存じのことでしょう。

 話がちょっと飛びますが、何年か前に日本に観光に来たヨーロッパの人(たしかオーストリア人)が、旅先でせっかくの楽しい家族写真を撮影したカメラを電車の中に置き忘れてしまって困ったという出来事を伝える記事が新聞に掲載されたことがありました。その記事によれば、置き忘れたカメラはまもなく持ち主のもとに返ってきたそうですが、そのヨーロッパの人は、こんなことはヨーロッパではまずあり得ないことだと言って非常に感激したそうです。向こうでは、そのようにしてなくしたものは、二度と戻ってこないのが普通とのことでした。しかし、私たち日本人の多くは、電車の中に置き忘れたものは鉄道会社の遺失物係に届けを出せば、ほとんどの場合、取り戻すことができるものと考えているのではないでしょうか。

 なぜ日本人はそうなのかと思いをいたすならば、例えば「代表的日本人」に描かれている中江藤樹の儒教に基づいた「人の道」の教えというものの大きな影響がそこに感じ取れます。それを象徴するのが、次のような話の顛末です。

 あるとき、主君の命(めい)により数百両の金子を託された侍が、雇った馬子の鞍にその金子を結びつけたままうっかり馬子と馬を帰してしまい、その馬子の名前さえわからず途方に暮れ、あわや切腹するしかないとまで思い詰めたそうです。ところが、その馬子は真夜中にもかかわらず4里(16キロメートル)の遠い道を歩いて、侍の宿泊先まで金子をわざわざ届けてくれたばかりか、貧しい暮らしをしているのに金子を届けてくれたことに対する謝礼さえ受け取るのを断ったということです。侍がなぜそれほど無欲で正直で誠実にしていられるのかと尋ねると、小川村に住むその馬子は、中江藤樹が村人に対して教えてくれるままに歩んでいるだけなのだと答えたといいます。

 まさにこのような清廉な精神が、上に書いた電車の中の忘れ物の話に垣間見られるように、現在の私たちにも脈々と受け継がれているのだと考えると、たいへん心温まる思いがします。



   


 『禅と文明』
  2015/10/09

 弟子丸泰仙『禅と文明』(サンガ文庫)

 世界の知識人に向けて日本における禅の思想を最初に英語で紹介し高い評価を受けたのは、『Zen and its Influence on Japanese Culture(禅と日本文化)』を著した仏教哲学者の鈴木大拙であることはよく知られています。一方、具体的な坐禅の方法をヨーロッパ、特にフランスのパリにおいて最初に紹介し、西欧の多くの人々が実際に参禅できるように尽力した功労者が、この『禅と文明』の著者、弟子丸泰仙老師であることは、日本国内ではあまり知られていないかもしれません。

 この本の内容をごく大まかに言ってしまえば、近代西洋哲学とそれを基礎として築かれた近代西洋文明に対する、禅の立場からの批判的考察です。

 著者は、今日の文明世界に生きる私たちが、近代西洋哲学の創始者、デカルト以来の合理主義的な「科学的思考法」ばかりを重視することに疑問を抱き、禅の「身体的思考法」の重要性に目を向けることを提唱しています。

 「科学的思考法」は、大脳前頭葉(新皮質部)から発動した知性的な自己意識によって生み出され、啓蒙主義が依拠する「理性」もその産物ですが、その「科学的思考法」によって今日の文明が危機的な方向に向かいつつあると著者は指摘しています。

 著者の説くところによれば、大脳前頭葉の「科学的思考法」をいったん中止し、大脳中枢の無意識(=非思量的無意識)の発動にまかせたときに得られる「身体的思考法」によって、生命力、直観や智慧が生まれるといいます。そして、「身体的思考法」の根源的な基盤となる身体の行動の基本姿勢として、道元禅師の教えである「只管打坐(しかんたざ)」を著者は紹介しています。

 この本のなかで言及されている「真理は身体をもって得ねば頭だけでは到底得られない」という道元禅師の考え方は、私ならずとも多くの人々が自らの人生経験に照らし合わせれば納得できるのではないでしょうか。

 次の記述部分は、心身の健康を考える上で、誰にとっても参考になるものと思われますので、ここに引用しておくことにします。

  なぜならば、生命の本質は人間の身体内ばかりでなく、それは宇宙の秩序 とインターディペンダンス(相関、縁起)の関係にあるからだ。(中略)つ まり宇宙のエネルギーないしいわゆる「気」(Activity)によって人間は生か されている。だからこの宇宙の気が人間の生命の根源となり、……(中略) それは身体の内側から発動されるものではない。外界のエネルギーを体内に 吸収することによって、人間の生命は、生きて動くものとなる。この感得は、 私たちの坐禅時において、主体的にはっきりと意識裡に実証されるものであ る。(同書、p.263)

 この本は、1976年、つまり40年近く前に刊行されたものですが、ここに書かれている省察や批判は、少しも古びていないばかりか、現在の私たちの人生のあり方にそのまま深く、というよりはますます深く関わっていると思いました。



   


 『資本主義の終焉と歴史の危機』
  2015/10/06

 水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)

 この本によれば、先進国ではすでに1970年代半ばに交易条件が悪化しており、「地理的・物理的空間」(=実物経済)での利潤低下に直面し、モノづくりでは割に合わなくなっていたといいます。そこで、アメリカは資本主義に代わる新たなシステムを構築するのではなく、資本主義の延命策として別の空間、すなわち「電子・金融空間」に利潤のチャンスを見つけ、「金融帝国」化していくという道を選んだ、と著者は分析しています。

 しかし、「周辺」に対して「中心」が行う「蒐集」という活動において利潤を上げるのに最も効率の良かったこれまでの資本主義システムでは、今や「金融帝国」となったアメリカでさえも、「周辺」から利潤を上げることに行き詰っています。つまり、グローバリゼーションの結果、もはや「周辺」と呼べるものが存在しなくなってしまったからです。そのような状況に置かれた資本家たちは、今度は外の世界に「周辺」を求めるのではなく、国内に「周辺」を作り、そこから利潤を得ようとし始めました。そのために、国内における経済格差が拡大し、中間層が次第に薄くなると同時に社会全体で「持てる者」と「持たない者」へ二極分化が進行している、というのが著者の説です。

 これはおそらく現在の世界認識として間違ってはいないだろうと思います。
ただ、この本の著者は、このような限界に突き当たった資本主義の次に創造されるであろう新たな経済システムがどのようなものであるのかというビジョンについては、今は示すことができないと繰り返し述べています。

 こうしてみると、「地理的・物理的空間」の拡大はおろか「電子・金融空間」の拡大さえも頭打ちになって利潤が得られなくなった資本主義の危機的状況の只中に、いま私たちは暮らしていることが分かります。別の見方をすれば、西洋が中心になって構築してきた現代文明の黄昏の中に私たちは立っているといえるのではないでしょうか。とは言っても、目の前に広がる黄昏の風景は、現代の最先端の科学技術によってきらびやかにライトアップされているので、多くの人々にとって黄昏としての実感は乏しいかもしれません。

 ともあれ、このような現状を自覚したとしても、必ずしも将来を悲観したり不安に駆られたりする必要はないと思います。なぜなら、私たちの祖先は、長い歴史の中で幾多の危機的状況を経験しながらも、その度ごとに大きな知恵を働かせて生き延び、次の世代、そのまた次の世代へと命をつないできたのであり、その子孫たる私たちにも未曽有の危機を乗り越える潜在力が備わっているはずだからです。



   


 『アメリカの文化戦争』
  2015/09/21

 『アメリカの文化戦争 ──たそがれゆく共通の夢』
 (トッド・ギトリン 著、疋田三良・向井俊二 訳/解説 樋口映美、彩流社)

 この翻訳書が刊行されたのは2001年ですが、英語の原書は1995年に初版が出版されています。したがって、原書の出版からすでに20年が経過しています。
しかし、この本に書かれている内容はアメリカ社会の成り立ちや根源的な社会問題などを知るうえで、今でも非常に参考になります。

 この世界には人類共通の普遍的な理念や真理というものが存在するものと信じている人間がいます。私もその一人ですが、そういう普遍的な理念や真理を追求してきた人間にとって、この本に書かれているアメリカ社会の実相は衝撃的なものと言ってよいと思います。

 ホートン・ミフリン社の歴史教科書の内容、とりわけ歴史認識を巡ってカリフォルニア州オークランド市で繰り広げられた火の出るような激しい論争の事実関係から書き起こされた本書は、アメリカ合衆国という多人種・多民族・多文化の社会が抱えている問題の根深さを、建国以来の歴史的な考察を含めて多角的に浮き彫りにしています。

 啓蒙思想の根幹である理性に基づく普遍主義でさえも、もはや白人中心主義の偏見として否定されるようになってしまったアメリカ社会では、人種・民族・文化・伝統・宗教・価値観などを異にする多数のグループが自らのアイデンティティを主張してせめぎ合う分裂状態になっているといいます。「アメリカとは何か」「アメリカ人とは何か」といった統一的な理念についての問いには答えられないというのが、1995年時点でのアメリカ合衆国の実情のようです。

 奴隷解放運動、公民権運動、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)、PC運動など市民の自由・平等の権利を求める激動の歴史を経験してきたアメリカ社会は、分厚く強靭で多種多様な言論が巨大な渦を巻き、驚くほどダイナミックに変化し続けています。

 ちなみに、著者のトッド・ギトリン氏は1960年代の左翼の活動家で、この本の執筆当時は大学で社会学を教える教授であり、また家系としてはユダヤ系の白人です。

 この本の後ろの方に記載されている解説では、著者の説明が足りない部分や、問題の扱い方に偏りがある部分などを的確に指摘し、客観的視点から補足説明などを加え、バランスの取れた翻訳書に仕上げています。一般的に、本の内容についての称賛や、記述の手際の良さなどへの賛美に終始するような解説が多い中で、本書のように著者の行き届かない点を率直に取り上げているのは、学究としての真摯な姿勢が感じられます。そして、それを是とした出版社の担当編集者も立派だと思います。



   


 『百寺巡礼 第二巻 北陸』
  2011/03/03

 『百寺巡礼 第二巻 北陸』
 (五木寛之著、講談社文庫)

 この本は、第一巻から第十巻までシリーズとして刊行されている『百寺巡礼』のうちの第二巻です。各巻で十ヵ寺ずつ取り上げられていますので、全十巻で合計「百寺」になります。この第二巻に書かれているのは、北陸地方にある十ヵ寺についてです。
 「北陸を旅して」と題する序文の冒頭には、「北陸は私にとって『第三の故郷』といっていい土地である。」と述べられていて、北陸十ヵ寺を旅する著者の深い思いが伝わってきます。
 ちなみに、『百寺巡礼』という題名を見ると、昔読んで大いに感銘を受けた和辻哲郎の名著『古寺巡礼』を思い出します。それとの比較でごく大雑把な印象を言えば、『古寺巡礼』がその記述内容における優れた芸術性や精神性に特徴があるのに対して、『百寺巡礼』は民衆の信仰や心の拠り所といったものをそれぞれの寺院の成り立ちや歴史と重ね合わせて生き生きと親しみやすく描き出しているところに特色があるように思われます。
 この本には、この世に生きる上で大切なことやヒントになることがいろいろと書かれていますが、特に注目したいのは、「第十七番 永平寺」のところに書かれている「五観の偈(げ)」と「幸せの要求水準」に関することです。
 「五観の偈」というのは、永平寺の食事の作法として、食べはじめる前と食べ終わったときに唱える言葉です。観光客や在家の人々に供される食事では、箸袋(はしぶくろ)にその言葉が書かれていて、コーチ役の雲水(うんすい)さんが一緒に唱えてくれるそうです。「五観の偈」の内容はここには書き写しませんが、「食事を受けるときに反省や感謝など五つの教えをよく考えるための経句(きょうく)」(p.177)である「五観の偈」を見ると、食事をいただくということが本来いかに深い意義のある修行であるかが分かり、心を打たれます。
 他方、「幸せの要求水準」について、著者は自らの戦後の体験などを交えながら、「禅寺では『坐って半畳、寝て一畳』で人間には十分だということを学ぶ。(中略)生活の要求水準を低く保つということは、大事なことではないか。最低線の設定を低くしておけば、いつも幸福を感じていられるのだから。」と述べています。確かにこれは古今に通じる真理で、いわゆる「家康遺訓」にも「不自由を常とおもへば不足なし、こゝろに望おこらば、困窮したる時を思ひ出すべし」との言葉があります。が、これには異論の向きもあることを見越して、この本の著者は「人間の進歩とは、欲求不満や欲望がもたらしたものだ、とも言われる。しかし、その進歩幻想というもの自体が、もはや崩壊しているのが現実ではないだろうか。」と警告しています。そのあたりのことについては、ウィリアム・B・アーヴァイン著、竹内和世訳『欲望について』(白揚社)という本の中で、「ミスウォンティング」といった概念などを用いて科学的、哲学的、宗教的な解明が試みられていて、たいへん参考になります。
 さて、これらの「五観の偈」や「幸せの要求水準」についての話を読むと、現代日本人の多くが日常生活の中で利害損得勘定では表せない、人間として大切なものを見失ってしまっていることの大きさを痛感させられます。それを見失っていること自体、現代という時代のもつ偏見と言えるでしょう。
 なお、「第十九番 明通寺」のところで、この本の著者が次のように現代文明への強い疑念を表明していることも心に留めておくべきことだと思います。それは、「二十世紀までの文明の特徴は、『傲慢さ』だったと思う。それを生み出したのは、科学や技術に対する過信だった。あるいは、そういうものを駆使する人間に対する過信だったとも言えるだろう。(中略)文明が進むにつれて戦争が増えていく。戦争の犠牲者が増えていく。こんな馬鹿なことがあっていいのか。人間は愚かだ。この文明は根底からまちがっている。私にはそう思えてならない。」(p.225)ということです。



   


 『ふだん使いの正しい敬語』
  2011/02/25

 『ふだん使いの正しい敬語』
 (奥秋義信著、講談社+α文庫)

 先月、とある駅のホームで電車を待っていたとき、近くに本の自動販売機があることに気づきました。見ると、販売機のガラス越しに展示されているいくつかの文庫本のなかにこの本のタイトルがありました。面白そうだと思って、私が生まれて初めて自販機で購入した本がこれです。
 閑話休題。生まれたときから日本人として日本語の中で毎日暮らしていても、敬語というのはなかなか難しいもので、明らかに間違った敬語の使い方をしているのを見たり聞いたりすることがしばしばあります。
 そういう日本語環境の中で、日常生活で頻繁に使われる敬語表現について、一般読者向けに分かりやすく書かれているこの本は、多くの方々にとって非常に参考になると思います。
 この本の「まえがき」の冒頭には、「敬語は必要。だけど自信が持てない」と考える人が多いことが日本語の各種の調査に現れていると述べられています。この本は、コラムのページ以外は基本的にQ&A形式で構成されていますので、まずQ(問い)のページを見て例題の正誤を自分なりに判定し、それから解説を読むことによって、それぞれのQに関して日頃の自分自身の敬語の感覚が正しいか間違っているかを確認することができます。
 ただ、Qに対する自分の正誤の判定が間違っていた場合には、この本に書かれている文法的な説明を読んで理解し納得したとしても、それだけで敬語が身につくわけではないでしょう。理屈では分かっても、実際に敬語を使う場面で、いちいち頭の中でその理屈を考えながら話したり書いたりするのでは、時間がかかるばかりでなく、敬語の使い方に気を取られて肝心の内容の方がおろそかになってしまいます。ですから、大事なのは、それぞれの敬語についての説明を読んで理解したことを自分の中でいかに感覚化するレベルまで引き上げ、特に意識しなくても正しい敬語の使い方ができるようになるかということだと思います。
 他方、人が使っている敬語表現の誤りに気づいてそれを指摘するときに、なぜそれが誤りであるのかを説明することが必要な場合もあると思います。しかし、いざうまく説明しようとしても、どう言ったらいいのか困ることもあるでしょう。そんなときに、この本を読んで敬語に関する説明方法を知っていれば、たいへん役に立つに違いありません。
 ところで、この本に取り上げられている敬語の中で、著者の見解にやや同調しかねるところがわずかながらありました。その一つは、「5番線に電車が参ります」と言うよりも「5番線に電車が入ります」と言う方がよいでしょうと、著者が少し遠慮がちに判定している点です(本書、pp.93-94)。敬語の使い方の理論としては確かにそうなのでしょうが、私はむしろ「5番線に電車が入ります」という言い方に違和感があります。実際に「○○番線に電車が入ります」というアナウンスは聞いた覚えがないような気がします。
 たとえば、ついこの間、JR京浜東北線の駅のホームでアナウンスに耳を傾けてみたところ、「まもなく○○番線に□□行きの上り電車が到着します」とか「○○番線に電車が参ります」という表現が使われていて、小さな電光掲示板には「電車がきます」と表示されていました。一方、「電車が入ります」という表現は見聞きできませんでした。このことからすると、「電車が参ります」という言い方は、敬語としての使い方の適否はともかくとして、すっかり慣用表現になってしまったのだと言えるのかもしれません。
 ともあれ、日常使われる敬語についての自らの弱点を認識し克服する上で、この本は大きな力となる好著と言えると思います。



   


 『日本辺境論』
  2011/02/22

 『日本辺境論』
 (内田樹著、新潮新書)

 この本の帯には「新書大賞2010 第1位!!」とデカデカと書かれていて、まずそこに目を引かれます。
 この本の書き方の特徴として気づいたことは、不当な批判や揚げ足取りに備えて随所に予防線が張り巡らされていること、そして『広辞苑』や『大辞林』にも項目として取り上げられていないような高度な漢字語が少々用いられていることなどです。が、それはともかくとして、これは「新書大賞」を受賞するだけの内容のある本だと思いました。
 面白いのは、著者が本のはじめの章に、次のように書いていることです。

 日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません(あら、いきなり結論を書いてしまいました)。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。(本書、p.23)

 また、この少しあとには、

 丸山が言うとおり、「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」態度こそはまさしく日本人のふるまいの基本パターンです。それは国家レベルでもそうですし、個人についても変わりません。(本書、p.24)

と書かれていて、そのふるまいの基本パターンを通じて「日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけれど、変化する仕方は変化しない」と著者は解説しています。つまり、それが日本文化の有り様というわけです。
 ところで、近年、「KY」という語が流行し、「空気が読めない」人間を非難したり揶揄したりするのに使われています。しかし、この本に、

「お前の気持ちがわかる」空気で戦争
 日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」であると看破したのは山本七平でした。(本書、pp.44-45)


と書かれているのを読むと、「KY」という語の流行には一抹の不安を覚えます。というのは、日本人は空気を読むのに機敏であるがゆえに、論理性も基礎づけの明証性もないまま、その場の空気に従ってあの戦争に踏み切ってしまったと考えるならば、「KY」というレッテル張りによって、場の「空気」に従わせようと人に圧力をかける風潮が近年蔓延していることは、論理性や基礎づけの明証性よりも、場の「空気」を優先する戦前の思考様式に日本人は逆戻りしていることになるからです。
 この本の最後の章では、政策論争に見られる日本人の議論のやり方のおかしな点として、次のような指摘がなされています。

 私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらう」ということにはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策論議番組を見ていると、どちらが「上位者」であるかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。(本書、pp.216-217)

 また、これと同じ章では「日本語がマンガ脳を育んだ」という見出しのもとに、日本語の構造の特殊性に触れた上で、次のように書かれているのは、たいへん興味深いことです。

 マンガを読むためには、「絵」を表意記号として処理し、「ふきだし」を表音記号として処理する並列処理ができなければならないわけですが、日本語話者にはそれができる。並列処理の回路がすでに存在するから。だから、日本人は自動的にマンガのヘビー・リーダーになれる。(本書、p.231)



   


 『英語学習 7つの誤解』
  2007/08/26

 『英語学習 7つの誤解』
 (大津由紀雄著、生活人新書、NHK出版)

 この本を読む意義を一言で表すとすれば、英語学習に関して巷に氾濫している「幻想」を払拭し、英語習得の重要ポイントとしてあたかも常識のように思い込まされている「妄想」から解脱することです。これは最新の科学的な研究成果を踏まえて、一般人向けに冷静かつ論理的に書かれた本であるため、良識とバランス感覚のある内容の正当性に納得がいきます。
 本の後半には、達人たちの英語学習法の紹介や、外国語学習の正否に影響を与える3つの要因についての解説などが記載されています。これから高いレベルの英語力を身につけようとしている方々にとって、これらは貴重な参考になると思います。
 本書の中で、学習英文法の重要性が繰り返し述べられているのは、まさに英語学習指南の王道といえるでしょう。



   


 『カラー版 ブッダの旅』
  2007/08/26

 『カラー版 ブッダの旅』
 (丸山勇著、岩波新書)

 仏教の創始者、釈尊ゆかりの地を文章と写真でたどる本です。釈尊生誕の地である現ネパール領ルンビニーをはじめ、出家、修行、成道、そして45年間にわたる説法をしたインド各地に釈尊の足跡を追い、現在の風景描写を交えつつ往時の様子を偲び、釈尊にまつわる有名な説話の数々を紹介しています。美しいカラー写真の効果もあって、仏教の源流に漂う奥深い精神世界の厳かな清々しさや懐かしさといったものが、読み進む間に胸のうちに静かに満ちてくるのが感じられます。
 巻末(pp.183-201)には前田專學氏による「ゴータマ・ブッダ ── その人と思想」と題する解説文が掲載されています。これは仏教の一番のエッセンスを分かりやすく簡潔にまとめたもので、「仏教とは何であるか」ということを一気に手っ取り早く知りたいと思っている方々には、最適なガイドになると思います。



   


 『無思想の発見』
  2006/05/11

 『無思想の発見』
 (養老孟司著、ちくま新書)

 常識と思われている物の見方、考え方を逆転する事柄がいろいろと書かれている本であるが、最も強く感じたのは、この本が近代西洋文明がもたらした近代的自我の呪縛を解く決定的な鍵を与えてくれたということである。意識がすべてであるという観念論はもう捨て去らねばならないだろう。個性とか独創といったものを尊重するのはよいが、その実態をよく見直し正しく対応しなければならないだろう。封建的として一蹴されてきた伝統的な日本文化の多くの要素を改めて再評価しなければならないだろう。長い歴史の中で世間の人々の経験と知恵によって積み上げられてきた日本のシステムを、風土と伝統を無視した場当たり的な借り物の思想でなし崩しにしていくことはもうやめなければならないだろう。そのようなことをこの本を読んで考えた。



   

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