則天去私の文学論 『米国篇:多元的宇宙』

長谷部さかな 著

【本文中の記号について】
◇ 漱石文からの転記。
☆ ジェームズ文、吉田夏彦訳からの転記。
◆ ジェームズ文からの転記。     
★ 補足的事実、研究者の論文からの転記、その他。
◎ 本稿筆者の感想。

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主知主義に対するベルグソンの批判(15)
   2017/8/19 (土) 07:26 by Sakana No.20170819072626

8月19日

◆Motion, to take a good example, is originally
a turbido sennsation, of which the native shape
is perhaps best preserved in the phenomenon of
vertigo. In vertigo we feel that movement is, and
is more or less violent or rapid, more or less in
this direction or that, more or less alarming or
sickening. But a man subject to vertigo may gradually
learn to co-ordinate his felt motion with his real
position and that of other things, and intellectualize
it enough to succeed at last in walking without
staggering. The mathematical mind similarly organizes 
motion in its way, putting it into a logical definition;
motion is now conceived as 'the occupancy of serially 
successive points of space at serially successive instants
of time.' With such a definition we escape wholly from the
turbid privacy of sense. 

☆たとえば、運動は、もともと暗いはっきり
しない感覚であって、その本来のかたちは多
分、めまいの現象の中に、もっともよく保存
されているであろう。めまいにおいて我々は、
運動があるということ、それが激しかったり
早かったりすること、こちらの方向かあちら
の方向かを向いていること、警告的であった
り胸をわるくするものであることを、多少と
も漠然と感じる。しかしめまいを感じている
人間は、次第に、彼の感じている運動を、彼
のほんとうの位置や、他のものの位置に関係
づけることを覚え、遂にはそれを知性化して、
よろめかずに歩くようになる。数学的な精神
も、同様に、それなりのやり方で、運動を組
織してこれに論理的な定義を与える。運動は
今や「相次ぐ時点において、相次ぐ空間点を
しめること」と考えられる。このような定義
によって、我々は感覚の混乱したわたくし性
から、完全にのがれるのである。
             (吉田夏彦訳)


本来のわたくし性とあいまいさ
   2017/8/16 (水) 06:53 by Sakana No.20170816065307

8月16日

◎「本来のわたくし性とあいまいさ」("the 
aboriginal privacy and vaguness")とはど
ういう意味か。直訳すれば、「原住民のプラ
イバシーとあいまいさ」である。

◎私は「本来のプライバシー(わたくし性)」
をただすことには異存はないが、プライバシ
ーの権利、たとえば、放っておかれる権利
(the right to be let alone)は保持したい。
同様に、本来のわたくしのあいまいさも幾分
かは留保したいと思っている。

◎"aborigine"は「原住民」「野生の人」とい
う意味である。私は「原住民」「野生の人」
なのであろうか?然り、本来の私は「原住民」
「野生の人」にちがいない。しかし、現在の私
は、言葉を知っており、時間の観念があり、
論理を駆使する「文明人」「知識人」である。

◎しかし、「数量化された瞬間に分解される、
客観的で<等質な>時間の流れという考え方」
や「共通の図式的ないし概念的な時間のものさ
しの上にならべた理論」は、疑ったほうがよい。


主知主義に対するベルグソンの批判(14)
   2017/8/13 (日) 05:17 by Sakana No.20170813051728

8月13日

 We thus straighten out the aboriginal privacy and 
vagueness, and can date things publicly, as it were, 
and by each other. The notion of one objective and 
'evenly  flowing' time, cut into numered instants, applies
itself as a common measure to all the steps and phases,
no matter how many, into which we cut the processes of
nature. They are now definitely contemporary, or later
or earlier one than another, and we can handle them
mathematically, as we say, and far better, practically
as well as theoretically, for having thus correlated
them one to one with each other on the common scgematic 
or conceptual time-scale.

☆我々はこのようにして本来のわたくし性と
あいまいさをただし、いわば公的に事物に日
付けを与えることができるのである。数量化
された瞬間に分解される、客観的で「等質な」
時間の流れという考え方は、(我々が自然の
過程をそれへと分断する)すべての段階と相
とに対し、共通の尺度として適応される。こ
れらの段階はいまや、お互いに、同時のもの
であるか、それよりもほかのものより後のも
のか、前のものか、がはっきりする。そうし
て我々はそれらを数学的に、かつ実用的にも
理論的もはるかに巧みに、とり扱うことがで
きるようになる。それは、それらを、このよ
うに、共通の図式的ないし概念的な時間のも
のさしの上にならべたからである。
             (吉田夏彦訳)

◎ジェームズの原文で、"the aboriginal privacy
and vaguness"をどう日本語に翻訳するか。吉
田夏彦訳では、「本来のわたくし性とあいま
いさ」となっている。


しずくの分解
   2017/8/10 (木) 06:19 by Sakana No.20170810061946

8月10日

◎われわれが感ずるものはすべてしずく(drops)
である。しずくを観念的にさらにこまかな部
分に分解するのは知性の興味だけのもの、つ
まり観念の遊びにすぎない。

◎しずく(drops)はわれわれの感覚が受け取
るが、それを知性や論理が概念的なものに分解
してしまう。

◎生きている主体の経験の中で、じかに感じら
れるしずくのような時間は、もともと共通の尺
度をもたないし、概念的なものに分解しても意
味がない。

◎すべての感じられる時間は漠然と共存し、重
なりあい、侵入しあっている。

◎しかし、それらを共通のものさしの上になら
べるという工夫によって、我々はそれらにもと
もとまつわっている混乱をへらすことができる。

◎この同じものさしの上に、(自然のさまざま
な変化を分解してえられる)相継起する段階を
ならべてみることは、一層役にたつことでもあ
る。


主知主義に対するベルグソンの批判(13)
   2017/8/7 (月) 06:43 by Sakana No.20170807064354

8月07日

◆Our ideal decomposition of the drops which
are all that we feel into still finer fractions
is but an incident in that great transformation
of the perceptual order into a conceptual order
of which I spoke in my last lecture. It is made
in the interest of our rationalizing intellect 
solely. The times directly felt in the experiences
of living subjects have originally no common measure,
Let a lump of sugar melt in a glass, to use one of
M. Bergson's instances. We feel the time to be long
while waiting for the process to end, but who knows
how long or how short it feels to the sugar? All
felt times coexist and overlap or compenetrate each
other thus vaguely, but the artifice of plotting
them on a common scale helps us to reduce their 
aboriginal confusion, and it helps us still more
to plot, against the same scale, the successive possible
steps into which nature's various changes may be
resolved, either sensibly or conceievably. 

☆我々が感ずるものはすべてしずくなのであ
るが、これを観念的にさらにこまかな部分に
分解する作用については、前回の講義でのべ
たが、これは、合理化しようとする、我々の
知性の興味だけのために行われるものである。
生きている主体の経験の中で、じかに感じら
れる時間は、もともと共通の尺度をもたない。
ベルグソン氏の一つの例を引いていえば、砂
糖の一端をコップの中に入れてとかしてみよ
う。我々は、この過程が終わるまで待ってい
る間、時間がながいと感じる。しかし砂糖に
とって、どれ程ながくあるいはどれ程短く感
じられるのか、ということは誰が知っていよ
う。すべての感じられた時間はこのように、
漠然と共存し、重なりあい、侵入しあってい
るのである。しかしそれらを共通のものさし
の上にならべるという工夫によって、我々は
それらにもともとまつわっている混乱をへら
すことができる。そうして、この同じものさ
しの上に、(自然のさまざまな変化を分解し
てえられる)相継起する段階をならべてみる
ことは、一層役にたつことである。この分解
は、感覚的なものでも、概念的なものでもか
まわない。


離散的部分集合と意識のしきい(閾値)
   2017/8/4 (金) 06:07 by Sakana No.20170804060722

8月04日

◎離散的(discreet、ディスクリート)とは、
連続的な集合の部分集合が,ばらばらに散ら
ばった状態であること。この集合を離散的部
分集合と呼ぶ。意識も離散的部分集合現象か?

◎意識のしきい(閾値、threshold)とは、
ある感覚や同種の刺激の相違を感知できるか
否かの境目である。

◎刺激量の強度R が変化する時、これに対応
する感覚量E は、刺激の強度ではなく、その
対数に比例して知覚される。これをフェヒナ
ーの法則あるいはウェーバー・フェヒナーの
法則という。

◎フェヒナーの哲学思想は、精神と物質はひ
とつであり宇宙は一つの面から見れば意識、
一つの面から見れば物質であるというもので
ある。彼は宇宙を意識的存在と見ることを
「昼の見方」、無生物として見ることを「夜
の見方」と呼び、夜の見方の眠りに落ちた人
々を昼の見方に目覚めさせることを目指した。
目覚めさせられた一人に西田幾多カがいる。


主知主義に対するベルグソンの批判(12)
   2017/8/1 (火) 06:51 by Sakana No.20170801065143

8月01日

◆All our sensible experiences, as we get
them immediately, do this change by discrete
pulses of perception, each of which keeps us
saying 'more, more, more,' or 'less, less,
less,' as the definite increments or dimunitions
make themselves felt. The discretness is still
more obvious when, instead of old things changing,
they cease, or when altogether new things come. 
Fechner's term of the 'threshold,' which has played
such a part in the psychology of perception, in any
one way of naming the quantitative discreteness in 
the change of all our sensible experiences, They 
come to us in drops, Time itself comes in drops.

☆我々の感覚経験はすべて、我々が直接感じ
るかぎりでは、このような離散的な(ディス
クリートな)知覚の脈動によって変化してい
るのである。この脈動のそれぞれは、一定の
増大ないし減少それぞれ感じさせ、それに応
じて「もっと、もっと、もっと」とか、「も
っと少なく、もっと少なく、もっと少なく」
とかいいつづけているのである。この離散性
は、古い事物が変化するのではなく、止って
しまう時、または全く新しい事態が生ずる時、
よりはっきりする。フェヒナーの「意識のし
きい」ということばは、知覚の心理学におい
て重要な働きをしてきたものであるが、我々
の感覚経験のすべてにおける変化の量的な離
散の名前の一つにすぎない。感覚的な経験で
は、我々にとってしずく状に生ずる時間それ
自身が、しずくのかたちで生成するのである。

◎ここで読者の日常生活でなじみのない用語
は、離散的(discreet、ディスクリート)と
意識のしきい(threshold、閾値)であろう。


『多元的宇宙』まとめ 2017年7月
   2017/7/31 (月) 09:48 by Sakana No.20170731094846

2017年7月

・主知主義に対するベルグソンの批判 (7)
・主知主義に対するベルグソンの批判 (8)
・主知主義に対するベルグソンの批判 (9)
・主知主義に対するベルグソンの批判(10)
・主知主義に対するベルグソンの批判(11)
・アキレスと亀
・詭弁の論破
・時間は無限に分割可能か
・自然は卵をいかにしてつくるか
・我々の時間知覚は脉をきざんでふえていく

◎第六講 「主知主義に対するベルグソンの
批判」の続きを読む。「アキレスは亀をおい
こすことはできない。なぜなら、アキレスが
亀に出発点に到達する時までには、亀はすで
にその出発点の先にでているから」というゼ
ノンの詭弁についてベルクソンが論じている。

◎時間は無限に分割可能であるという主知主
義的原則に立てば、ゼノンの詭弁を論破でき
ないが、我々の時間知覚が一定量の持続単位
のつみかさねだと考えれば論破できる。


我々の時間知覚は脉をきざんでふえていく
   2017/7/29 (土) 05:13 by Sakana No.20170729051323

7月29日

◎もし一つの瓶をあけるのに、中の液体の相次
ぐ減少の無限個が必要ならば、瓶が空になり終
ることは、数学的論理では不可能だが、実際に
は瓶は、有限回の減少によって空になる。

◎雨どいからは、一滴の雨滴全体がしたたりお
ちるか、何もおちないかのどちらかである。も
しすべての変化がこのように、いわばしずくの
かたちでおこなわれるなら我々はゼノンのパラ
ドックスやカントのアンチモニーになやむこと
はないだろう。

◎また、もし真の時間が、丁度我々の時間知覚
が脉をきざんでふえていくように、一定量の持
続単位のつみかさねよってふえていくものなら
ば、我々はゼノンのパラドックスやカントのア
ンチモニーになやむことはないだろう。

◎ベルクソンがいうように、もし真の時間が、
丁度我々の時間知覚が脉をきざんで("by pulses"
=パルス=脈動ーー短時間で急峻な変化をする
信号の総称)ふえていくように、一定量の持続
単位のつみかさねよってふえていくものならば、
アキレスは二十秒で亀に追いつくことができる。


主知主義に対するベルグソンの批判(11)
   2017/7/26 (水) 07:34 by Sakana No.20170726073443

7月26日

◆And it gives trouble then only if the 
succession of steps of change be infinitely
divisible. If a bottle had to be emptied 
by an infinite number of successive decrements,
it is mathematically impossible that the emptying 
should ever positively terminate, In point of
fact, however, bottles and coffee-pots empty 
themselves by a finite number of decrements,
each of definite amount. Either a whole drop
emerges or nothing emerges from the spout. If
all change went thus dropwise, so to speak, 
if real time spouted or grew by units of duration
of determinate amount, just as our perceptions
of it grow by pulses, therw would be no zenonian
paradoxes or kantian antinomies to trouble us.

☆もし一つの瓶をあけるのに、中の液体の相次
ぐ減少の無限個が必要ならば、瓶が空になり終
ることは、数学的に不可能である。しかし実際
には瓶やコーヒーポットは、有限回の減少によ
って空になる。雨どいからは、一滴の雨滴全体
がしたたりおちるか、何もおちないかのどちら
かである。もしすべての変化がこのように、い
わばしずくのかたちでおこなわれるなら、もし
真の時間が、丁度我々の時間知覚が脉をきざん
でふえていくように、一定量の持続単位のつみ
かさねよってふえていくものならば、我々はゼ
ノンのパラドックスやカントのアンチモニーに
なやむことはないだろう。

◎ゼノンのパラドックス(逆説)に手をやいて
いるところへ、カントのアンチモニー(二律背
反)という手強い難問が新たにあらわれた。
zenonian(ゼノニアン)やkantian(カンティア
ン)は屁理屈をこねるソフィストの徒輩らしい。
こんな徒輩の屁理屈を理解しなければならない
哲学という学問は困ったものだ。


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則天去私の文学論 『米国篇:多元的宇宙』 長谷部さかな 著
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