「諏訪の御柱祭りと縄文文化」 文/北松 拓也

 NHK総合テレビの「NHKスペシャル」で、諏訪(すわ)の御柱(おんばしら) 祭りが取り上げられているのを見ました。  御柱祭りには縄文人の信仰の風習が受け継がれているということ、そしてま た縄文人と弥生人の融和の中から諏訪大社の御柱祭りが生まれたということ、 これらのことをこの番組を見て知り、新しい歴史観、新しい日本文化観を得る ことができたような気がして、非常に感動しました。  この番組を見るまでは、弥生人が日本列島に持ち込んだ稲作農業は、西日本 から東日本へと順次広まっていったものと漠然と考えていました。しかし実際 はそうではなかったのです。  信濃の諏訪地方から東方面の関東地方を含む広い地域では、稲作農業を容易 に受け入れなかったといいます。そのため、この地域を飛び越えて、先に東北 地方へと稲作農業が伝播していったと、番組の中で解説されていました。  本州の中で、最後まで稲作農業の受容に抵抗していた諏訪地方の縄文人は、 稲作に頼らなくても十分に安定した食料を確保できるだけの豊かな自然環境に 恵まれ、高い文化生活を送っていたものと推測されます。  ところが、そこへやってきたのが、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと) の息子、タケミナカタ(建御名方)でした。タケミナカタは、大国主命に国譲 りを要請した天つ神に追われて、出雲から逃げてきたのです。そして、そこで 諏訪の豪族モリヤ(守矢)氏と戦い、勝利しましたが、モリヤ一族を滅亡させ ることはしませんでした。それどころか、タケミナカタは自身を祀る神社の祭 祀を司る職にモリヤ氏を就け、重用したのです。  こうして、まっすぐに伸びた樹齢200年ほどの大木を山から切り出し、平地 の聖域まで運んで地面に立てるという諏訪の縄文人の信仰の風習が、諏訪大社 の御柱祭りの中に残り、今日も生き続けています。これは、戦いの後の縄文人 と弥生人の融和がなかったならば実現しなかったに違いありません。現在の日 本人や日本文化の成り立ちの原点がそこにあったと考えていいのだろうと思い ます。                          (2016/7/9)