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日本人と桜と仏教
   2015/3/29 (日) 23:59 by 吉田海高 No.20150329235946

 本日の気象情報によれば、関東南部では早くも桜が満開とのこと。桜の花の
美しさに心華やぐ時節です。

 『万葉集』の時代には梅の花を最も好んで歌に詠んだ日本人は、『古今和歌
集』の時代になると、梅よりも桜の花の方を好むようになったと言われていま
す。

 桜の花は清らかで美しいけれども、それはほどなく散りゆく運命にある、束
の間の儚(はかな)い命です。そのことと、仏教で説かれるこの世の「無常」
という思いが結びついて、日本人の本来の心情にぴったりと重なるようになり、
「花」と言えば「桜の花」を指すまでに大きな存在になったのではないかと考
えています。

 どんな人間も生きていくうえで決して避けて通ることのできないものとして
「四苦」、つまり「生老病死(しょうろうびょうし)」という四つの苦があり
ます。次の3首の和歌はいずれも桜の花を詠む中で、「四苦」のうちの「老」
あるいは「死」を強く意識し、自己に引き寄せて表現したものです。

  花の色はうつりにけりないたづらに わが身よにふるながめせしまに
                            (小野小町)
  願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ  (西行)
  明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは  (親鸞)

 晴れ渡る弥生の空の下、満開の桜の花が発散する生命感の横溢。それが清新
で華麗で鮮烈であればあるほど、それが暗示する儚さや人の世の「無常」の定
めに私たちは一層心を惹かれることになるのではないでしょうか。
                              吉田 海高


読書随想録 (1):『良き人生について』
   2015/3/27 (金) 19:14 by 吉田海高 No.20150327191454

『良き人生について ──ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』
(ウィリアム・B・アーヴァイン著、竹内和世訳、白揚社)

 この本の「ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵」という副題にある「ローマの
哲人」というのは、古代ローマ帝国におけるストア哲学の代表的な4人の実践
者を指しています。

 この本で著者が目指すものは「心の平静」であり、それを得るために「ネガ
ティブ・ビジュアリゼーション」など、古代ローマの哲人が考案したいくつか
の有効な実践方法が説かれています。人生の価値をどういうところに置くかと
いう根本的な問題を含めて、この本に書かれているほとんどの内容に私は共感
を覚え、有意義だと思いました。

 この本の著者は大乗仏教の禅にも知識があり、ストア哲学と禅との共通点に
ついて触れているところが何箇所かあります。著者はそのことを踏まえたうえ
で、修行を要する禅よりもストア哲学の方が実践するのに時間と労力がかから
ないことや、自分にとっては論理的に考えて物事を探求する方が得意であると
いう理由から、禅よりもストア哲学の方が自分自身には向いていると判断し、
ストア哲学を選ぶことにしたといいます。

 確かに、著者にとってはストア哲学の方が禅よりも実践しやすいだろうとい
うことは推測できます。なぜなら、この本の全般的な話の展開の仕方を見ると、
あたかもディベート(討論)の準備をしているかのように、自分が提示する
様々な考え方や方法論などに対して、他者からありとあらゆる種類の疑念や批
判や異論や反論や不審や不安などがぶつけられることを想定して、それらに用
意周到に理路整然と一つひとつ答えて「心配ご無用」と証明するような調子で
話を前に進めているからです。

 大乗仏教の側からすれば、特に禅の場合は、教外別伝(きょうげべつでん)、
不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)を旨として、あま
り理詰めで事細かく他者に修行内容の意義について説明することが少ないので、
なるほどこの本の著者のように説明すれば、ストア哲学とほとんど共通の考え
方をしている禅の精神も欧米人に理解してもらえるのかもしれないという点で、
たいへん参考になると思いました。

 ただ、惜しむらくは、この本の著者は、理性万能主義的な枠の中だけで「心
の平静」を求めようとしているところに限界があるのではないかと感じました。
むかし流行った「スーダラ節」という歌に「わかっちゃいるけど、やめられな
い」という一節があったように、理性では重々分かっていても、その通りには
実行できないというのが、煩悩多き人間の性(さが)です。そういうときに力
強い助けとなるのが、ストア哲学の核心部分の考え方を内包しつつも、理性だ
けでなく人間の深層意識までをも網羅した大きな心理的働きかけの枠組みを持
つ大乗仏教の修行と言えるのではないでしょうか。

 ですから、もしもこの本の著者が、ストア哲学だけでなく、禅の修行にも時
間と労力をかけてある程度の体験を積まれたならば、きっとさらに深みのある
人生哲学の著書を書くことができるのではないかと考えました。

 この300ページほどの本は、序文が比較的長く、また第1部(67頁まで)は、
古代ギリシャ及びローマの哲学についての史的概説や、ストア哲学を代表する
4人のローマ人についての説明などに費やされています。これらを読むことで、
その後に書かれていることを理解するうえで多少は役に立ちますが、哲学科の
学生ではない一般の読者にとっては、やや退屈を覚えるところだろうと思いま
す。そういう場合には、思い切って第1部を読み飛ばして、いきなり第2部の
実践的内容から読み始めるのもいいかもしれません。
                              吉田 海高


読書随想録 (0):はじめに
   2015/3/27 (金) 18:54 by 吉田海高 No.20150327185439

 岡倉天心の『茶の本』(英語の原題は "The Book of Tea")の中に、「変化
こそ唯一の永遠である」という意味のことが書かれていたと思います。

 人間の心や意識というものもその一つで、常に揺れ動き変化しつつ存在し続
けているものであるということが、年齢を重ねるごとに強く実感されてきます。

 読書においてもそれは言えることで、読み終わった本について私の心に湧き
上がってきた共感や感動や異論といったさまざまな思いや、興味や関心の対象
となった事柄などは、その時の私にとっては真実のことであっても、その同じ
本をいつの日か読み返したときには、かなり違ったものになる可能性が大いに
あります。

 だからといって、もしもそのように変わりゆくことを厭い、未来永劫変わる
ことのない確定的なものをつかむまでは、何も語らないようにしようとすれば、
私は読書について永遠に沈黙せざるを得ないしょう。しかし、変化することが
とりもなおさず生きるということそのものであるからには、そのように窮屈に
考えて沈黙することは無意味であるに違いありません。そこで、炯眼を持った
先哲が言い当てた「変化こそ唯一の永遠である」という普遍的な真理に従うの
が自然だと思い至ったとき、無常の大海に我が心の航跡を描いていこうという
覚悟がようやく定まりました。

 そのようなわけで、この「読書随想録」シリーズにこれから書くことは、私
の変転してやまない折々の心に触れたいろいろな本について、あくまでもその
時点で印象に残ったことや喚起された考えなどを切り取った静止画のようなも
のであり、それは私の中で将来にわたって変化することを止めた不動の性質の
ものではありません。
                              吉田 海高


「何気に」という言い方について
   2014/11/22 (土) 11:17 by 北松拓也 No.20141122111734

 振り返れば、「何気に」という言い方を耳にするようになってから、ずいぶ
ん長い年月が経っています。それでも、この言い方は私にとって今も違和感が
ついてまわるので、少し考えてみることにしました。

 言うまでもなく、「何気に」の本来の言い方は「何気なく」あるいは「何気
なしに」ですが、調べてみると、かなり古い版の『現代用語の基礎知識』でも、
この「なにげに」がすでに「若者用語」として記載されていて、そこには「何
気なく。なんとなく。わりと」という語義が書かれているのが確認できます。

 一方、『広辞苑』(第六版)でも、「なにげに」の項目が立てられているの
を見ることができますが、そこには、

  ------------------------------------------------------------
  なにげ-に【何気に】
  「何気無い」の連用修飾の形として「何気無く」「何気無しに」と
  いうところを、1980年代から、誤って使われ始めた語形。
  ------------------------------------------------------------

 と書かれていて、あくまでも誤用という扱いであって、正式な言い方ではな
いという認識が持たれていることが分かります。

 それでは、「何気無く」のもとになっている形容詞の「なにげ‐な・い【何
気無い】」はどういう意味かといえば、同じ『広辞苑』(第六版)には、「こ
れといって特別の意図もない。特に注意せず、関心を示さない。さりげない」
という語義が示されています。この解釈に従うならば、「無い」という部分を
脱落させて連用修飾の形にした「何気に」という言い方は、「何か特別の意図
があって」という逆の意味になるというのが、自然な解釈だと思います。しか
し、実際には「何気なく」あるいは「何気なしに」という意味で通用している
という不思議な現象が起きています。

 そこで、このような現象を支えているものは何かという点が気になるわけで
すが、一つには、多くの人たちが「何気なく」と同じ意味の言い方として使用
しているうちに皆がそれに慣れてしまって、すっかり慣用化したためというこ
とができるかと思います。これは、ソシュールの言語学の用語を借用するなら
ば、シニフィアン(能記)の本来の意図するところとは別に、シニフィエ(所
記)が恣意的に規定されてしまった例と考えられます。

 次に、このような現象を支えているもう一つの理由として考えられることは、
あえて音節を減らした言い方をすることによって、カジュアルな口語表現の感
じを出したいという話者の欲求ではないでしょうか。

 『広辞苑』(第六版)に記されているように、この「何気に」という言い方
が1980年代から用いられているとすれば、もうかれこれ30年もの長きにわたっ
て存続しているということであって、一般的な流行語のように10年も経たない
うちに廃れる類のものではないようです。もしかすると、これは今後も使われ
続けて定着していく言い方なのかもしれないという気もします。
                                 拓也


「半端ない」という言い方について
   2014/11/21 (金) 18:27 by 北松拓也 No.20141121182708

 先日テレビを見ていたら、御年77の加山雄三氏が若い人たちとのくだけた会
話の中で「半端ない」という近年の流行表現を使われていたので、「おや」と
思い、改めて考えてみたい気がしました。

 言うまでもなく、本来の言い方では「半端ではない」または「半端じゃない」
ですが、くだけた口語表現では、音節数をなるべく減らそうという意識が働い
て「半端ない」という言い方が若者の間の言葉として生まれたのではないかと
思います。そして、それはそれで格式ばらない感じ、堅苦しくない感じ、ざっ
くばらんな感じ、さらにはある種の親近感などが醸し出されていると言ってい
いでしょう。

 ただし、論理的に考えれば、「半端ない」という言い方にはちょっと引っか
かるものがあります。つまり、「半端ではない」または「半端じゃない」と言
った場合、「半端以外の」という意味になり、それが暗示するのは「いいかげ
んではない」「ちゃんとした」「完全な」といったことだと思います。それに
対して、「半端ない」という言い方を素直に解釈すれば、「半端が存在しない」
ということではないでしょうか。

 そうだとすれば、「半端ない」は半端の存在を否定しているだけで終わって
いて、「半端以外の」すなわち「いいかげんではない」「ちゃんとした」「完
全な」という意味を言葉の先に暗示するような働きがないわけで、「半端では
ない」または「半端じゃない」を縮めた言い方としては無理があるということ
になります

 私自身は「半端ない」という言い方には抵抗感があるので実際に用いること
は今後もなさそうですが、さすがに加山雄三氏は「若大将」だけあって心も身
体も若々しく、気さくなお人柄のようなので、若い人たちの感覚に合わせる形
で「半端ない」という言葉がくだけた会話の中では違和感なく自然に口から出
てくるのではないかと思われます。

 ちなみに、「半端ない」をさらにくだけた言い方にすると「ぱねぇ」となる
ようですが、ここまで縮約するとあまりにも極端で、品のないぞんざいな物言
いに感じられるので、使用者が増えて一般化することはないでしょう。
                                 拓也


晩秋の肌寒さ
   2014/11/17 (月) 18:11 by 北松拓也 No.20141117181132

 すでに暦の上では11月7日が立冬でしたが、気象上は12月から2月までが冬と
されていますので、今はまだ秋です。それでも最低気温が10度以下になった今
日この頃では、日差しの乏しい日にはだいぶ肌寒く感じられます。いよいよ冬
になるという実感が強くなってきたところへ、わが町では灯油の巡回販売業者
が音楽を鳴らしながら車を走らせているのが聞こえてくるようになりました。

 昨夜のテレビのニュースでは、オーストリアの首都ウイーンで始まったクリ
スマスマーケットの様子が報じられ、市庁舎前に立てられた高いクリスマスツ
リーにやわらかに灯されたイルミネーションや、露店に並ぶ煌(きら)びやか
なクリスマスの装飾品の数々が、そこに集まった人々のさざめきとともにクリ
スマスシーズンの雰囲気を盛り上げていました。このマーケットは、来月のク
リスマスイブまで続くそうです
                                 拓也


「逸」の字の読み方について
   2014/11/6 (木) 00:09 by 北松拓也 No.20141106000915

 11月9日から福岡国際センターで大相撲十一月場所(九州場所)が開かれま
すが、今度の場所で最も注目を集めている力士の一人は、逸ノ城(いちのじょ
う)と言って間違いないでしょう。

 モンゴル出身で21歳の逸ノ城は、入門からわずか5場所という異例のスピー
ドで入幕を果たしたことが評判になっています。それだけでも大変な出世であ
るのに、入幕したばかりの九月場所で、なんといきなり13勝2敗の好成績を上
げて準優勝しました。そして、今度の十一月場所の番付では関脇として名前が
記されるという驚くべき快進撃を続けています。この勢いをもってすればさら
なる躍進が見られるのではないだろうかと、熱烈な大相撲ファンならずとも十
一月場所が始まるのを待ち遠しく思っている人が多いのではないでしょうか。

 さて、「逸ノ城」という四股名(しこな)ですが、実況中継のアナウンサー
がその名を「いちのじょう」と発音するのを初めて耳にしたとき、テレビ画面
に映った対戦力士の字幕では「逸ノ城」と書かれていました。すぐに「いちの
じょう」というのは私の聞き間違えではないかと自分の耳を疑いました。「逸」
の字は「いつ」と読むものとばかり思っていたからです。しかしその後、アナ
ウンサーだけではなく解説者の方も「いちのじょう」と言っているのを聞いて、
確かに「いちのじょう」という呼び方なのだと納得しました。

 ところで、「逸」の字を含む言葉で思い浮かぶのは、たとえば「散逸、安逸、
逸脱、放逸、逸品」などです。このうちの「逸品」では「つ」の部分が促音に
なるものの、すべて基本的に「いつ」という読みです。「逸ノ城という稀にみ
る逸材」と言う場合の「逸」も同じく「いつ」と読みます。また、昔読んだ夏
目漱石の初期の小説に「泰平の逸民」という表現があったことがなつかしく思
い出されますが、この「逸民」の「逸」も「いつ」です。さらには、昔、社会
党左派の理論的支柱と言われ、マルクスの『資本論』の訳者としても知られて
いた向坂逸郎という方の名前は「さきさかいつろう」と読み、この場合の「逸」
の字も「いつ」です。

 ちなみに、「向坂」という苗字を初めて見た人は、おそらくこれを「さきさ
か」ではなく「こうさか」と読んでしまうのではないでしょうか。京都の「先
斗町」という地名が「ぽんとちょう」という読みであることや、横須賀の「不
入斗」という地名が「いりやまず」という読みであることなど、知らない人に
とっては非常に意外性のある読みですが、「向坂」という苗字についても同じ
ことが言えるかもしれません。日本の人名や地名は、こういう点で覚えるのが
なかなか厄介です。東京都の「豊島区」の「豊島」は「としま」という読みで
あるのに、人名となると同じ「豊島」が「とよしま」のほかに「てしま」とい
う読まれ方もします。

 閑話休題。それでは「逸ノ城」の「逸」が、なぜ「いつ」ではなく「いち」
と読まれるのか。そう思って『漢字源』に当たってみると、「逸」の項目のと
ころに次のように記されていました。

   《常用音訓》イツ
   《音読み》 イツ(漢)/イチ(呉)
   《訓読み》 はしる/のがれる(のがる)/はやる

 要するに、「逸」を「いつ」と読むのは漢音であり、漢音伝来よりも古い時
代に仏教用語などとともに日本に伝えられた呉音では「いち」と読むのだとい
うことです。

 これであっけなく一件落着となりました。
                               北松拓也


犬種の呼び方について
   2014/11/1 (土) 17:14 by 北松拓也 No.20141101171427

 いつのころからか気になりはじめたのが、放送局のアナウンサーによる日本
犬の犬種の呼び方です。どのアナウンサーの方も異口同音に「〜いぬ」と言っ
ておられることに、だいぶ以前に気がつき、以来なにか引っかかるものを覚え
るようになりました。

 私は関東南部で育ち、子供のころからまわりの人たちの話し言葉を聞いて、
柴犬は「しばけん」、土佐犬は「とさけん」、秋田犬は「あきたけん」と呼ぶ
ものと耳で覚えていました。

 国語辞典を引いてみると、土佐犬については、『広辞苑』でも『大辞林』で
も見出し語は「とさいぬ」であって、『大辞林』では語義解説の中でかろうじ
て「とさけん」という別の呼び方も示されていますが、『広辞苑』ではそれす
らもありません。一方、柴犬については『広辞苑』でも『大辞林』でも見出し
語はやはり「しばいぬ」ですが、「しばけん」という呼び名も両方の辞典の語
義解説の中に取り上げられていました。

 ところが不思議なことに、秋田犬については、『広辞苑』の見出し語として
「あきたけん」が堂々と立てられていて、逆に「あきたいぬ」という見出し語
には「あきたけん」を参照するようにという指示があります。他方、『大辞林』
では、他の犬種と同様に見出し語はあくまで「あきたいぬ」であり、語義解説
の中で「あきたけん」という別の呼び方が示されているだけです。

 アナウンサーの方々が、なぜ「〜けん」ではなく「〜いぬ」と呼ぶのかと、
その理由を考えたときに思い当たることの一つは、たとえば「あきたけん」と
呼ぶと、それが「秋田犬」なのかそれとも「秋田県」なのか、高低アクセント
には少し違いがあるものの、区別がつきにくくなることを避けるための配慮で
はないかということです。しかしながら、上記の『広辞苑』の見出し語では、
むしろ「あきたけん」という呼び方を優先しているので、この推測には疑問が
あります。また、柴犬や土佐犬については、「柴県」とか「土佐県」といった
県名は実在しませんので、県名として聞き間違えられることはあり得ないこと
です。

 このように考えると、なぜ「〜けん」と呼ばずに「〜いぬ」と呼ぶのかとい
うこ疑問が解けずに、謎のまま残ります。
                               北松拓也


書評:『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』
   2014/9/5 (金) 23:18 by 北松拓也 No.20140905231819

 『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』
 (川口マーン惠美著、講談社+α新書)

 この本を本屋の店頭で最初に見かけたとき、「8勝2敗で……」とは妙に俗っ
ぽいタイトルなので手に取るのが憚られたが、2度目に目にしたとき、どうも
気になり買ってしまった。

 さて、「8勝2敗で……」とあるので、著者は競技の審判のような立場から、
日独両国の社会や文化の比較論を書いているものだと思い、読み始めてみた。
すると、それとは一見関係なさそうな尖閣諸島についての現地取材のレポート
が長々と続いていたので、何か政治的な本かとやや戸惑いを覚えた。しかし、
さらに読み進めてみるとそうではなかった。

 著者は、生活の現場に密着した視点で日本とドイツのいろいろな面での違い
を取り上げ、それぞれの長所と短所を考察している。現在の日本のあり方や今
後の進むべき道を考える上で少なからず参考になった。

 とくに興味深かったのは、原発を廃止した場合の問題と、EU(欧州連合)が
いま抱えている課題についての話だった。この本では「グリーン・パラドック
ス」という用語は使われていないが、ドイツでの事例によって、原発に依存し
ない社会をつくることがなかなか一筋縄ではいかないことを思い知らされる。

 また、2度にわたる世界大戦の教訓から生まれたEUは、通貨の統一により経
済統合を進めてきたが、南欧の加盟国が債務危機に陥ったことで理念と現実の
間の矛盾が浮き彫りになっている。

 さらにもう一つ注目すべきことは、日独の教員の労働に対する考え方の違い
だ。日本の学校での「部活」がドイツの学校にはなぜないのかが、これを読む
とよく分かる。
                               北松拓也


後世に遺すべきもの
   2014/5/30 (金) 23:31 by 北松拓也 No.20140530233147

 華の熟年さんがお書きのように、現実を直視する人は原発から出る高濃度の
放射性廃棄物が最終処分場の見つからないまま膨大な量に増え続けていくこと
について、非常に大きな危機意識をもっていることと思います。

 また、原発を停止して廃炉作業を行うとしても、途方もない労力と、気の遠
くなるような時間がかかることも分かっています。たとえば、福島第一原発で
メルトダウンが起こった1号機から3号機までの廃炉作業を行うには、およそ
40年の歳月を要するだろうと予測されています。しかも、廃炉作業にあたる作
業員は基準を超える線量を被曝すると、廃炉作業から離脱しなければなりませ
んので、経験と知識のある熟練した作業員はだんだんと少なくなっていき、や
がてはシロウト同然の作業員が廃炉作業にあたるという恐ろしいことになって
いくようです。

 先日テレビで放送された「NHKスペシャル シリーズ 廃炉への道」という
番組で、そのような廃炉の現実が明らかにされました。

 私たちは、良心を持っている限り、そのような高濃度の放射性廃棄物という
負の遺産を後世の人々にできる限り遺さないように努めるべきであることは議
論の余地のないことだと思います。

 一方、脱原発に向けて舵を切ったドイツでは、再生可能エネルギーへの依存
率を高めることによる製造コストの高騰を避けるため、製造部門の企業が価格
の安い電力を求めて、隣のチェコ共和国のようなところに生産拠点を移しつつ
あるそうです。先日テレビで放送された「NHKスペシャル エネルギーの奔
流」では、そのような実態が「グリーン・パラドックス」として紹介されてい
ました。

 もはやひとつの国だけの努力では解決しえないところまで来ている高濃度の
放射性廃棄物による環境汚染の問題や二酸化炭素の排出による気候変動の問題
に、私たち一人ひとりが後世の人々への責任と危機意識を持ってどう取り組ん
でいくかということが喫緊の課題として問われているのが現状だと認識してい
ます。

 高濃度の放射性廃棄物が増えすぎてにっちもさっちもいかなくなり、また化
石燃料が枯渇する日がそう遠くない将来にやってくることは確かです。私の世
代が生きているうちは大丈夫であっても、次の世代の人々はそのとき大きな危
機に直面します。この重大な問題に解決の道筋をつけるのに人類に残された時
間はあまり多くないと感じています。

 私たちがこの世に遺すべき価値あるものは、お互いへの慈悲と寛容に基づく
平和を愛する心と、後世の人々が平穏な暮らしを続けていける社会や経済の仕
組みではないでしょうか。


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