ことば・翻訳・そして文化
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なぜ麻生首相は「未曾有」を読み間違えたのか?
   2009/7/30 (木) 18:49 by 司馬拓也 No.20090730184909

 昨年、麻生首相が国会で「踏襲」を「ふしゅう」と誤読し、また11月12日に
学習院大学の日中青少年交流行事の挨拶の中で、「頻繁」を「はんざつ」、
「未曾有」を「みぞうゆう」と誤読したことがマスコミで大きく報道されまし
た。民放各局のテレビ番組では、そのときの映像が何日にもわたって繰り返し
繰り返し放送されていました。まるで揶揄することが目的であるかのようなそ
の執拗な取り上げ方には、少なからず違和感を覚えました。私は現政権の支持
者ではありませんので、麻生首相の肩を持つつもりは毛頭ありませんが、それ
でも自国の首相の、大筋から見れば枝葉末節とも言うべきいくつかの誤読を針
小棒大にあげつらって、あたかも鬼の首でも取ったかのような気分に浸ってい
る日本のマスコミの姿勢というのは、いかがなものかと思いました。

 一般的に、「踏襲(とうしゅう)」や「頻繁(ひんぱん)」という語が誤読
されるケースというのは極めて少ないと思いますが、「未曾有(みぞう)」の
場合は、麻生首相流に誤読されても不思議ではない理由があります。それは次
の通りです。

 日本語表記の中で、漢字には音読みと訓読みがあることはよく知られている
ことです。音読みは中国語の原音に基づく読み方であり、もう一方の訓読みは
漢字を大和言葉に翻訳した読み方です。ところが、音読み、つまり中国語の原
音に基づく読み方は1種類ではありません。それが問題です。それぞれの漢語
が日本にもたらされた時代によって、異なる音読みが存在します。その中では、
呉音や漢音が圧倒的な多数派を占めますが、そのほかに唐音あるいは宋音と呼
ばれる音読みがあり、たとえば「行灯(あんどん)」「行脚(あんぎゃ)」
「普請(ふしん)」などがそれに当たります。

 さて、それでは問題の「未曾有(みぞう)」はどうかといえば、これは呉音
で読む単語です。呉音というのは、古い時代の中国の南方系の発音が伝来した
もので、仏教用語などに非常に多く見られ、それらは今でも使われています。
その仏教用語のうちの一つが「未曾有」なので、「みぞう」と呉音で読まれる
わけです。ちなみに、「未曾有」は、サンスクリット語(梵語)の adbhuta
(「いまだかつてあらず」の意)を漢訳した言葉です。麻生首相が「みぞうゆ
う」と読んだのは、この「未曾有」を漢音で読むものと勘違いしてしまったた
めです。

 漢音というのは、隋・唐代の洛陽(今の河南)や長安(今の西安)などの中
国の黄河中流地方で用いられていた標準的な発音を写したもので、奈良時代か
ら平安初期にかけて、遣唐使・留学生・音博士などによって日本に伝えられま
した。当時、漢音は官府や学者に多く用いられ、呉音は仏家に用いられること
が多かったと言われています。

 「未曾有」の「曾」は漢音で読むと「曾祖父(そうそふ)」の「そう」、ま
た「有」は漢音では「所有(しょゆう)」の「ゆう」ですから、全体の漢音の
読みは発音上「そう」の「そ」が「ぞ」という濁音に変化して「みぞうゆう」
となりますが、これは仏教用語のため慣用としては呉音を用いて「みぞう」と
読むことになっています。

 それと同様の例としては、「希有(けう)」という仏教用語があります。こ
れを漢音で「きゆう」と読むことはできません。また、日本の防衛問題に関し
て「有事立法」というときの「有事」は漢音で「ゆうじ」と読みますが、道元
禅師の主著『正法眼蔵』に書かれている「有時」は「ゆうじ」ではなく「う
じ」と読まなければなりません。「

 本来、呉音で読むべき語を間違えてうっかり漢音読みしやすいものとしては、
法隆寺の「精霊会」なども例として挙げられるでしょう。これは仏教関係の語
ですので、「せいれいかい」という漢音ではなく、「しょうりょうえ」と呉音
で読みます。同様に、「一期一会」は「いっきいっかい」ではなく、「いちご
いちえ」です。


日本人は小学校から英語を学ぶべきか?
   2009/7/15 (水) 23:09 by 司馬拓也 No.20090715230932

 横浜が開港してから今年でちょうど150周年です。今では1万円札の肖像画
になっている福沢諭吉がその150年前の開港直後に横浜見物にやってきて気づ
いたことは、世界では英語が主流の時代になっているということでした。それ
まで大坂にあった緒方洪庵の敵塾などでオランダ語を身につけ、1858年には江
戸で蘭学塾を開いていた福沢諭吉でしたが、以後、英語の習得に努めました。

 このことから分かるように、日本において英語学習に本格的に目が向けられ
たのは、たかだか150年前のことにすぎません。例えばこれを日本における漢
文の学習と比べてみると、甚だ歴史の浅いことです。日本では701年(大宝元
年)に大宝律令が制定されたときから文書行政システムが始動しましたが、そ
の文書に使われたのは漢文でした。そういうこともあって、その当時から幕末
まで、日本の知識人やエリートたちが幼少の頃から漢文を学び身につけるのは
普通のことでした。つまり、日本人は、今から1300年以上も前から先進的な文
明や知識や先端技術などを取り入れるために漢文を学んできました。それに対
して、英語を学ぶようになってからは、まだ150年しか経っていないわけです。
ですから、外国の植民地になったことが一度もない日本において、英語とは全
く異なる系統の言語を日常の母語として使用しているわれわれ日本人が、国際
的に見れば、全体としてあまり英語ができないとしても、それはごく当たり前
のことです。

 ただ、幕末に横浜を訪れた福沢諭吉が世界における英語の通用性に刮目(か
つもく)して以来、150年にわたって英語はなお国際語として主流の座を保ち
続けています。ですから、日本人が先進的な文明や知識や先端技術などを取り
入れたり、あるいはそれらを世界に向けて発信したりする意欲を持ち続ける限
りは、これからますます英語を身につけることは必要なことでしょう。そして、
そうであるならば、昔の日本の知識人が幼少の頃から漢文を学んだように、現
在の日本人も英語を重要な外国語としてなるべく早くから学ぶ方が有利である
に決まっています。

 ところが問題は、日本国内で日常生活を送るだけならば、日本人の誰もが英
語を身につけなければならないという必要性などほとんどないという現実です。
外国語の習得には膨大な時間と労力がかかりますが、日本社会で生きていく上
で英語を自由自在に用いる能力など必要のない人々にとっては、どうせなら英
語学習よりももっと別なことの修得に時間と労力をかける方がよりよい人生を
送れる可能性があります。

 したがって、どの年齢から学校で全員一斉に英語教育を受けさせるのが適切
かということは、一概に言うことはできず、いつまで議論しても正解は分から
ないと思います。結局、各人の生き方や職業の選択によって英語の必要性はま
ちまちであり、全員横並びに英語を学び始めることを学校教育課程で設定する
こと自体にもともと無理があるのでしょう。英語教育とはそういう性質のもの
だということを承知の上で、現実に沿った適当な妥協点を見つけるしかないよ
うな気がします。

 将来、高度な英語の実用能力がどうしても必要になる人にとっては、漱石や
鴎外が5歳ぐらいから漢文を学んだように、小学生になる前から英語を学ぶこ
とが理想的かもしれません。また、本当に英語を身につけるには今の学校教育
での英語の授業時間だけでは少なさすぎますので、個人的にさらに英語を学習
する時間や機会を確保することが重要になると思います。

 いずれにしても、日本人にとって、かつての漢文と同じように、現代では英
語を知っていることが紛れもなく重要な教養の一つです。それは今後何百年あ
るいはそれ以上も続くかもしれないという潜在力を秘めていますので、子ども
たちが学校で英語教育を受ける年齢を今よりも早めることは、横浜が開港した
150年前から現代にいたる歴史の趨勢や、国際化時代のコミュニケーションの
必要性などにもマッチした動きとしてとらえることができると思います。


今こそ経世済民を…
   2009/2/13 (金) 17:29 by 司馬拓也 No.20090213172932

 「経済」という言葉は、英語の economy に対する翻訳語として遅くとも明
治時代には使われていました。その economy ですが、そのもとをたどれば古
代ギリシャ語に行き着きます。economy の頭の eco の部分は古代ギリシャ語
の oikos(オイコス)に由来し、「家」という意味です。一方、後半部分の 
nomy は古代ギリシャ語の nomia、つまり「管理」という意味の語から来てい
ます。つまり、oikos + nomia = oikonomia という複合語であり、「家の管
理」とか「家政」を意味します。この語がラテン語及び中期フランス語を経
由して英語に取り入れられ、economy になったというわけです。

 一方、「経済」は本来「経世済民」の略語です。その「経世済民」とは、儒
教思想から生まれもので、「世の中を治めて、民の苦しみを救う」ということ
を意味していますので、economy が意味するものとはだいぶスケールが違い、
また「経世済民」には economy にはない仁愛の精神が込められていると言え
るでしょう。当時は、そのように社会的な志の高さをもつ「経世済民」の略で
ある「経済」を economy の翻訳語にすることに異議を唱える知識人や政治家
がいたようですが、翻訳語としての「経済」は時を経て日本語として定着し、
今日に至っています。

 ご存じのように、アメリカの金融危機に端を発した世界的な不況は、現在、
日本社会にも深刻な影響を及ぼしています。営業不振等の理由により、昨年来、
大手企業をはじめとして多くの企業が大規模な人員削減を次々と発表している
ことがマスコミにより頻繁に報じられています。今年はこれから職や住居を失
う人々がますます増えていくことが予想されます。このような日本経済の悪化
によって社会不安が大きく広がっています。今や景気回復は政治の最優先課題
であって、早急に日本経済を立て直すことが「経世済民」の実践であり、同時
にそれが諸外国にもよい影響となって世界経済の活路が開けるものと思います。


謹賀新年
   2009/1/2 (金) 16:38 by 司馬拓也 No.20090102163811

 あけましておめでとうございます。皆さまにとりまして良い年であります
よう念じております。今年もご厚誼の程どうぞよろしくお願いいたします。


小泉改革の負の遺産
   2009/1/1 (木) 17:51 by 村崎海音 No.20090101175151

 毀誉褒貶は世の常であり、旗幟鮮明にすれば反対意見の勢力からの風当たり
が強くなるのが世の習いである。しかし、それを百も承知の上であえて言わな
ければならないこともある。たとえば、あの小泉改革の負の遺産は何であるか
ということである。その負の遺産の大きな一つは、規制緩和という甘美な名辞
のもとに、万民が拠って立つ市場という土俵を仁義礼智忠信なき冷酷非情の乱
闘の場にし、金銭的な私利私欲に駆り立てられた弱肉強食、弱者切り捨ての横
行する社会的風潮を日本列島の津々浦々にもたらしたことだろうと思う。そう
いう風潮の中から、濡れ手で粟の事故米偽装の事件なども起きたし、自己中心
的な欲得のためなら手段を選ばないような連中が増えたせいか、人を騙すこと
しか頭にないような大勢の詐欺師がまじめな市民生活を送っている人々を苦し
めている。ついでに私事を言わせてもらえば、NTTの代理店を装い言葉巧み
に甘言を弄してNTTの顧客を横取りしようとするインチキな電話会社から電
話回線契約更新を勧める電話が多くかかってくるのには迷惑している。「NT
Tの担当者に確認しましたが、あなたが言ったような電話の基本料金を値下げ
する予定はないと言っていますよ。あなたが本当にNTTの代理店なら、そん
なことは分かっているでしょう。いったいお宅はどちらの電話業者なんですか」
とインチキ勧誘者に不審を問うと、それを聞くか聞かないうちに、いきなりガ
チャンと電話を切る音がするというのが、その種の電話のよくあるパターンで
ある。こういう詐欺的な行為が社会の中で近年どんどん増えているのを見聞き
するつけ、我が愛すべき日本はこの先大丈夫なのだろうかと憂国の念を抱かざ
るを得ない。


学問は覇道!?
   2008/10/11 (土) 12:17 by 司馬拓也 No.20081011121715

 「学問に王道なし」という言葉の存在を、私が初めて知ったのはだいぶ昔の
ことで、受験生向けの英語の参考書に載っていたと記憶しています。

 さて、中国の戦国時代の儒学者、孟子によれば、「王道」とは夏・殷・周3
代の先王の政道であって、徳によって本当の仁政を行うことを意味します。一
方、孟子が言う政道にはもう1種類あって、それが「覇道」です。「覇道」と
は、春秋時代の覇者の政道であって、武力によって借り物の仁政を行うことで
す。そして、「覇道」よりも「王道」の方が優れていると孟子は説きました。

 このように孟子が創唱した天下統一の二つの理念としての「王道」と「覇道」
という弁別法に基づけば、「王道なし」ということは、その逆、つまり「覇道」
ということになってしまいます。ところが、非常に紛らわしいことに「学問に
王道なし」と言うときの「王道」は、孟子が説いた「王道」とは違います。で
すから、「学問に王道なし」というのは、幸いなことに「学問は覇道である」
ということにはなりません。

 「学問に王道なし」という言葉の由来をたどれば、紀元前300年頃にギリ
シャの数学者ユークリッドから幾何学を学んでいたエジプト王のプトレマイオ
ス一世が、「もっと手っ取り早く幾何学を学ぶ方法はないのか」と尋ねたのに
対して、ユークリッドが「幾何学に王道なし」と答えたという故事によるもの
とされています。ただし、ギリシャの哲学者アリストテレスがアレキサンダー
大王の家庭教師として赴任したときの言葉という説もあるようです。

 いずれにしても、「学問に王道なし」の意味するところは、「学問をするの
に安易な方法(=楽な道、近道)はない」ということであって、冒頭に書いた
受験生向けの英語の参考書には、"There is no royal road to learning." と
いう英訳が併記されていたと思います。

 以上をまとめると、孟子が説いた東洋の「王道」は、「徳によって本当の仁
政を行うこと」であり、古代ギリシャ人が説いた西洋の「王道(royal road)」
は、「安易な方法、楽な道、近道」ということです。この2つの意味内容は、
「王道」という一つの語で表すにはあまりにも違いが大きいことが分かります。


古代ローマ人の言葉
   2008/10/10 (金) 22:09 by 司馬拓也 No.20081010220926

 アメリカ合衆国における金融危機に端を発した世界的な株価の暴落が連日連
夜、新聞やテレビなどで報じられているのを目にすると、これは天下大乱の兆
しかとさえ思えてきます。

 さて、天下大乱といえば、ふと思い出すことがあります。学生だった頃に国
際政治学の授業で教わった次のような古代ローマ人の言葉です。

     汝(なんじ)平和を欲するならば戦争を準備せよ。

 なるほど平和憲法を掲げる日本でも専守防衛のための陸・海・空の兵力は保
持しています。ましてや、戦乱の絶えることがなかった古代ローマの時代なら、
「戦争を準備せよ」という戒めは無理からぬことであったでしょう。しかし、
表現の面から見れば、「戦争を準備せよ」というのは、どうも翻訳調の堅い表
現であって少し違和感があり、またこの表現には、自ら進んで戦争を仕掛ける
ための準備をするというようなニュアンスが感じられて、あまり好ましくない
のではないかと長年疑問に思っていました。

 ところがあるとき、テレビのCMで流れていたナレーションを耳にして、よ
うやく納得がいきました。そのCMでは、上記の古代ローマ人の言葉が、次の
ように述べられていました。

     汝(なんじ)平和を欲するならば戦いに備えよ。

 これならば、いつなんどき不意に戦いの禍が降りかかってくるか分からない
から、油断することなくそのような事態に普段から備えておくように、という
ニュアンスの言葉として受け止められます。要するに、「戦争を準備せよ」と
「戦いに備えよ」とは、同じような意味の表現でありながら、日本語としての
こなれ方やニュアンスといった点にかなりの違いがあるといえるでしょう。

 私はラテン語を学習したことがないので、この古代ローマ人の言葉が、原語
であるラテン語で何というのかは分かりません。が、もしも現代英語で表現す
るとすれば、

     If you want peace, prepare for war.
     あるいは
     If you want peace, you should prepare for war.

といった言い方になるのではないかと思います。


言語と民族で見るグルジア問題
   2008/8/19 (火) 23:03 by 司馬拓也 No.20080819230300

 1516年にラテン語で刊行されたトマス=モーアの空想的社会小説『Utopia』
は、題名が一般名詞化し、utopiaとして用いられるようになった。日本語では
「ユートピア」「理想郷」の他に「無何有郷(むかうのさと)」とも訳される
この言葉は、もとはギリシア語で「どこにもない場所」を意味する。

 今日の世界を見渡せば、戦争、紛争、抗争、貧困や差別など人類が直面して
いる問題は数知れず、複雑で深刻であり、解決への道のりは気の遠くなるほど
長い。まさしく「ユートピア」というのは「どこにもない場所」なのだと実感
せざるを得ない。

 さて、前置きが長くなったが、話は先ごろグルジアとロシアとの間で武力衝
突が起きた問題である。武力衝突の対象となったのは、グルジア共和国内の南
オセチア自治州だが、そこにおいて話される言語は、グルジアで多数派を占め
る人々が話すグルジア語ではなく、オセット語である。もともとグルジア語を
話す人々とオセット語を話す人々とは民族が異なる。オセット語はインド・イ
ラン諸語の中の一つであるから、大きく見れば、ロシア語と同じインド・ヨー
ロッパ語族に属する。それに対して、グルジア語は、5世紀にさかのぼる最古
のグルジア文字の文献を有しながらも、インド・ヨーロッパ語族とは関係のな
いカフカス諸語に属する言語である。

 詳しくは知らないが、南オセチア自治州の人々がロシアへの編入を希望して
いる背景には、彼らが話すオセット語が上記のようにロシア語と親縁関係にあ
るということも一因としてあるのかもしれない。


国際格差と金メダル
   2008/8/19 (火) 19:02 by 司馬拓也 No.20080819190251

 北京五輪の女子マラソンでは、日本人選手による3連覇はならず、ルーマニ
アの選手が優勝した。38歳という年齢でありながら、世界の強豪をおさえて、
42.195キロを一番のタイムで走りきったのは、お見事と賞賛するしかない。

 オリンピックでの各国の獲得メダル数は、その国の経済力にほぼ比例すると
いう説を耳にしたことがある。そう言われれば、そのようにも思えるが、実際
にはどうなのだろうか。

 ルーマニアは、ヨーロッパの中では貧しい国といっていいだろう。ドイツと
比べると、現在のルーマニアの労働コストは10分の1ぐらいらしい。だから、
フィンランドの世界的な携帯メーカーのノキアは、ドイツにある工場を労働コ
ストの安いルーマニアに移転することに決めたようだし、ドイツ国内の大手電
機メーカーでさえも生産拠点をルーマニアに移すことになって、ドイツ産業の
空洞化を懸念する声が出ているとか。

 産業の空洞化といえば、日本ではすでに2度の石油危機を経験した1970
年代から時事的な話題になっていて、確か、NHK総合テレビで磯村尚徳氏の
「世界の中の日本」とかいうシリーズ特集番組でも問題として取り上げられて
いたように記憶している。その後、日本産業の空洞化はどの分野でどの程度進
んでいるのかよく分からないが、組み立て工場を労働コストの安い中国や東南
アジア等に移転するか、あるいはそれらの地域で委託生産する形をとる企業が
増えていることは間違いないだろう。

 それはともかくとして、最貧国の一つに数えられながらも北京五輪の陸上競
技で金メダルを獲得していま世界で注目を集めているのがジャマイカだ。多く
の人はジャマイカと聞けば、まずポピュラー音楽の「レゲエ」を思い浮かべる
かもしれない。だが、過去のオリンピック陸上短距離走で金メダルを獲得した
選手には、外国籍で出場したジャマイカ出身者が多いという。だから、今回の
北京五輪の陸上男子100m走でジャマイカのウサイン・ボルト選手が世界新記録
(9秒69)をたたき出して金メダルに輝いたのも、女子100m走でジャマイカの
選手がメダルを独占したのも、ジャマイカの伝統に見合うものだと言っていい
だろう。

 それから、キューバも貧しい国の一つだと思うが、一昨年に行われた野球の
WBCのときに、キューバの選手たちに立派なキューバ魂というものを感じた。
今回の北京五輪でも野球のキューバ代表チームは強い。

 国際的な経済格差という不平等に負けずに、北京五輪の残りの競技種目でも、
いつまでも世界の人々の心に残るすばらしいルーマニア魂、ジャマイカ魂、キ
ューバ魂を見せてくれることを期待している。ただ、野球では星野ジャパンの
選手たちが今度こそ笑顔で金メダルを取れるよう祈っている。


嵐の前の静けさ
   2008/8/14 (木) 23:01 by 司馬拓也 No.20080814230123

 この間、ドイツのニュースサイトを見ていたら、Die Ruhe vor dem Sturmと
いう言葉が目に止まった。これは「嵐の前の静けさ」という意味である。岩波
書店の「広辞苑」に書かれているように、これは「変事の起る前の、一時の無
気味な静穏さのたとえ」として使われる。時代劇の台詞としても何度か聞いた
ような覚えがあるこの言い方は、それまでは、日本古来の表現だろうというイ
メージがあったから、ドイツ語にも全く同じ発想のこの表現が存在しているこ
とは意外だった。

 ドイツ語の辞書を調べてみると、Ruheの項目のところに、Die Ruhe vor dem
Sturm が確かに用例として記載されていた。だから、これはドイツ語本来の表
現だろうと推測される。そうだとすると、日本語の「嵐の前の静けさ」という
言い方の出自は、どうだろうか。もしかすると幕末から明治にかけて、ドイツ
語あるいは西洋語から借用された翻訳表現なのかもしれない。

 そこで、手もとの和英辞典で「静けさ」という見出し語を引いてみると、英訳
例の中に「あらしの前の静けさ/ the calm [quiet] before the storm」という
のがあった。ここに使われている calm をキーワードとして、今度は英和辞典を
引いてみると、

  the calm before the storm あらしの前の静けさ
  It was the calm before the storm. あらしの前の静けさだった。

といった用例が載っていた。一方、quiet をキーワードとして、今度は英和辞典を
引いてみると、

  the quiet after a storm あらしの後の静けさ

のように、before ではなく after を使った用例が見つかった。まあ、嵐の前にも
後にも、ともに静けさがあるものだ──ということだろう。

 ついでながら、After a storm comes a calm.(嵐あらしの後には凪が来る;待て
ば海路の日和あり)という諺(ことわざ)もある。


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