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日本語漫遊(5):「ガチで」
   2011/6/25 (土) 18:35 by 司馬拓也 No.20110625183515

 しばらく前にテレビでスポーツ番組を見ていたときのことです。インタビュ
ーを受けたあるサッカー選手が話の中で「ガチでやります」と発言しました。
それは初めて聞く表現だったので、すぐには意味を理解できずに「『ガチ』っ
ていったい何だろう」と思いました。

 その後、数日のうちにいくつかのテレビ番組で「ガチで……」という言い方
を何度か耳にする機会に恵まれ、帰納的推理によってようやくその意味が呑み
込めました。

 つまり、相撲や競技の世界では「真剣勝負」の意味で「ガチンコ対決」とい
う俗語表現が近年よく用いられますが、「ガチ」というのは、この「ガチンコ」
の頭の2字だけ取り出して短く言ったものなんですね。したがって、「ガチで」
の意味は、「本気で正々堂々と」「手加減せず」「裏での申し合わせなど一切
なしに」ということと解釈されます。


日本語漫遊(4):「敷居が高い」
   2011/6/25 (土) 12:06 by 司馬拓也 No.20110625120636

 近頃、「敷居が高い」という慣用表現が本来の意味から外れたところで用い
られているのを時々耳にします。

 たとえば、先日テレビ番組を見ていたら、若い出演者の方が、ある植物を栽
培するのは難しそうで自信がない、すなわち「自分の実力では手に余るほどレ
ベルが高い」ということを言おうとして、「それは私には敷居が高いですね」
という表現を使っていました。しかし、これは本来の意味からすれば明らかに
誤用です。それを言うならば、「それは私にはハードルが高いですね」とする
方がよかったでしょう。

 学研の『故事ことわざ辞典』には、「敷居が高い」という表現の意味として、
「不義理などをして、相手の家に行きにくくなることのたとえ」と書かれてい
ます。また、この表現の注釈のところには、「訪ねにくくなって相手の家の敷
居が高く感じられるようになるの意から」と、由来が記されています。

 ただし、「敷居が高い」と「ハードルが高い」とを混同した上記のような誤
用が若い人たちの間でどんどん増えていけば、誤用がいつの間にか慣用になっ
てしまう可能性がなきにしもあらずです。いくら言葉は世につれて変化する生
き物とはいっても、そうなってほしくないものです。


mit seinem Blute とは?
   2011/5/10 (火) 18:34 by 司馬拓也 No.20110510183452

 前回書いたNHK教育テレビの「100分de名著」という番組についての余談
です。番組の中で『論語』を取り上げているのにもかかわらず、オープニング
の画面で「100分de名著」というタイトル文字よりも先に、いきなり現れるの
は次のような横文字の文章です。

       Von allem Geschriebenen liebe ich nur das,
       was einer mit seinem Blute schreibt.

 これが漢文ではなく、『論語』とはおよそ何の関係もなさそうな横文字であ
るところに意表を突かれた思いがしないでもありません。これはほかでもなく
ドイツ語の文章です。英語に直訳すれば、Of all written things, I love 
only what one writes with his blood. となります。ちなみに、原文の中で 
mit seinem Blute は、英語に置き換えれば with his blood です。また、こ
れの前にある einer は英語の one に相当する不定代名詞の主格。文末にある
schreibt は、動詞 schreiben(書く)の三人称単数現在形で、英語の writes
に相当する語です。

 このドイツ語の文章は、おそらく誰かの言葉に違いないだろうと思い、イン
ターネットで検索してみたところ、19世紀のドイツの哲学者、フリードリヒ・
ニーチェ (Friedrich Nietzsche) の著書『ツァラトゥストラはかく語りき 
(Also sprach Zarathustra)』の中に書かれている言葉だと分かりました。

 これに対する日本語訳としては、「一切の書かれたもののうち、私はただそ
の人がその血をもって書いたものだけを愛する」や「一切の書かれたもののう
ち、私はただ血で書かれたもののみを愛する」などが一般に知られているよう
で、上記のニーチェの著書ではこの文のあとに「血をもって書け。君は、血が
精神であることを知るだろう」という意味の言葉が続いていることもインター
ネットでの検索で分かりました。

 しかし、「血が精神である」つまり「血=精神」であるならば、ニーチェが
言う「血をもって書いたもの」は「精神をもって書いたもの」と同義になるは
ずです。が、はたしてそうだろうかという疑問が生じます。ニーチェといえば、
「弱者のルサンチマン」とか「背後世界論者」とか「教養俗人」などといった
激しい批判の言葉を同時代の知識人たちに突きつけた人です。したがって「精
神をもって書いたもの」というのでは、いかにも生ぬるい感じがします。むし
ろ、一般に考えられている「精神」をかなぐり捨てて「血」をこそ「精神」と
なすべきだというのが、「血が精神である」についてのニーチェの真意だった
のではないかと思います。

 それでは、その場合の「血」とは何か。ドイツ語で、「〜 mit der Hand 
schreiben」といえば「〜を手書きする」という意味ですが、「〜 mit 
seinem Blut(e) schreiben」については、日本における時代がかった誓紙など
でない限り、文字通り「〜を血書する」ということはあり得ないので、これは
言うまでもなく比喩でしょう。

 日本語には、「血のにじむような努力」とか「血涙を絞る」といったような
表現があります。これらに用いられている「血」という語は、「命がけの執念」
や「ただならぬ情念」を感じさせるもので、ニーチェが言う「血」に近いかも
しれません。さらに勝手な揣摩憶測で言うならば、その「血」は、軍歌や与謝
野晶子の歌にある「若き血潮」や「熱き血潮」の「血」、すなわち何か理想的
なものを求めてやまない人間の原初的な生命力や情熱をも内包しているような
気がします。


「恕」について
   2011/5/7 (土) 23:03 by 司馬拓也 No.20110507230312

 現在、NHK教育テレビで毎週水曜日の午後10時から25分間「100分de
名著」という番組を放送しています。目下その番組で取り上げられている名著
は『論語』です。全4回で完結ということで、5月4日に放送された第1回の
テーマは「人生で一番大切なこと」でした。

 この第1回の中で、人間には「3つのたい病」があると解説されていました。
「3つのたい病」とは、「金持ちになりたい」「えらくなりたい」「有名にな
りたい」の3つです。これらを孔子は否定せず、ある大切なものを守っていれ
ば、人間は正しく生きることができる、と説いたそうです。その大切なものと
は「恕(じょ)」ということでした。「恕」とは「思いやり」という意味です。

 私は「恕」という文字を見ると、高校時代の漢文の教科書に載っていた「夫
子の道は忠恕のみ」という『論語』の言葉を思い出します。これは、孔子の門
弟である曾子が他の門弟に「孔子先生の一貫した道とは何か」と問われて答え
た言葉で、「先生の道は、まごころと思いやりにほかならない」という意味で
す。

 日本語には「思いやり」という言葉がありますので、「恕」という1文字だ
けで用いられることは滅多にないと思いますが、「寛恕」という形で使われて
いるのを見かけることはあります。たとえば、格式張った文章で相手に許しを
請うときに、「何卒ご寛恕の程、お願い申し上げます」というように用いられ
ます。


日本語漫遊(3):「〜しないことができる」
   2011/2/2 (水) 18:01 by 司馬拓也 No.20110202180111

 昨年のことですが、ある地方自治体が作成した公的な文書の中に、次のよう
な文章が記載されているのを目にして「えっ!」と驚きました。

  ───────────────────────────────
  ※年の途中に退職した方で、給与支払金額が30万円以下の方の場合は
   提出しないことができます。
  ───────────────────────────────

 このような内容のことを言う場合、通常の日本語では「提出しないことがで
きます」ではなく「提出しなくても結構です」とか「提出しなくても差し支え
ありません」といったような表現を用いるはずです。「〜しないこと(動作・
行動の否定)ができる(可能)」という表現形式は、日本語としては馴染まな
い気がしました。

 これは一見すると、西洋語の直訳調の文体であるかのようにも見えますが、
実際にはそうではなさそうです。「〜しないことができる」というのを、たと
えば強いて英語に直訳しようとすると、「be able not to do 〜」といったよ
うな言い回しになるかと思いますが、そういう英語表現は今までに見たことも
なければ聞いたこともなく、どうも不自然な感じがします。そんなわけで「提
出しないことができます」というのは、日本語として出自不明の珍妙な表現と
言えるのではないでしょうか。


日本語漫遊(2):「みだりに」
   2011/2/1 (火) 23:12 by 司馬拓也 No.20110201231250

 先日、某地下鉄に乗ったときのこと、車内のドア付近に備え付けてある「非
常用通報器 (EMERGENCY PHONE)」のところに、次のような内容の掲示があるの
を見ました。

     ──────────────────
            お願い
     非常の場合、みだりに車外に出ることは
     危険です。係員の誘導に従って下さい。
     ──────────────────

 これを一読して、表現の上で微妙に引っかかるものを感じました。引っかか
った部分というのは、「みだりに」という言葉の使い方です。そのほかの部分
は、単に事務的な注意や指示の言葉であるのに対して、「みだり」という言葉
には道徳的な教示のニュアンスが含まれているように感じられたのです。

 念のため、岩波書店の『広辞苑』(第六版)を引いてみると、の「みだりに」
の項には、この副詞の語義として「秩序をみだして。むやみに。わけもなく。
思慮もなく。無作法に。しまりなく。」とあり、また三省堂の『大辞林』には
「(1)分別なく行うさま。(2)正当な理由や資格もなく行うさま。」と書かれて
いました。いずれの辞書にもこの語の漢字仮名交じり表記として、「妄りに・
濫りに・猥りに」というように、モラル上マイナスイメージを帯びた3種の漢
字が示されていました。

 『大辞林』には、上記の(2)の意味の用例として「みだりに立ち入ることを
禁ず」という禁止表現が載っていましたが、この「みだりに」の使い方は上記
の「みだりに車外に出ることは」の「みだりに」と一致すると思います。従っ
て、「みだりに車外に出ることは」というのは「正当な理由や資格もなく車外
に出ることは」という意味に解釈できるものと考えられます。そして、このよ
うな「正当な……もなく〜することは」という表現には、心得違いをしてはな
らないといったような、その行為に対する道徳的な非難がましさが一般的に感
じられるのではないでしょうか。このことが、乗客の安全を願って「車外に出
ることは危険です」と言っていることとの間に、ニュアンスの上で違和感を生
み出しているように思われます。


日本語漫遊(1):「節約疲れ」
   2010/12/22 (水) 12:30 by 司馬拓也 No.20101222123003

 以前に何度か「節約疲れ」という言葉を見聞きしたときには、あまり気にも
とめていませんでした。しかし、つい数日前にテレビのニュース番組を見てい
てこの言葉が耳に飛び込んできたときには、少し引っかかりを覚えました。と
いうのは、「節約」することには「飽きる」ことはあるかもしれないけれども、
果たして「疲れる」といっていいのだろうか、と思ったのでした。

 たとえば、「待ちくたびれる」というのなら分かります。待つ身にとっては
心が落ち着かず、そわそわすることはよくあることで、そのために精神的に余
計なエネルギーを費やすことになるので、「くたびれる」のはごもっともな話
です。

 他方、「節約」することは、どうして「疲れる」ことにつながるのか。よく
よく考えてみると、「節約」するためには欲しいものがあっても買わずにじっ
と我慢したり、少しでも他より安い価格のものを探したり、無駄遣いしないよ
うに金銭の計算を綿密にしたりして、それなりに神経を使い、注意力を維持し
続けなければなりません。その意味で「疲れる」といっても差し支えはなさそ
うです。

 ところで、「節約疲れ」という言葉は、私が子どもの頃には聞いたことがな
かったような気がします。おそらくバブル経済崩壊後、つまり1990年代以降に
この言葉が用いられるようになったのではないかと思われます。


化学研究者の「serendipity」
   2010/10/8 (金) 22:34 by 司馬拓也 No.20101008223414

 今年のノーベル化学賞が決まった日の夜、テレビのニュース番組のインタビ
ューに応じた受賞者の鈴木章氏は、画期的な有機合成法の開発につながった自
らの発見について感想を述べる中で「セレンディピティ」と言った後で、それ
を分かりやすい日本語表現で言い直すかのように、自らのたゆまぬ努力の中で
新しい発見の幸運に恵まれたというような説明をしておられました。

 さて、上記の「セレンディピティ」、つまり英語で書けば serendipityとい
う語ですが、一般的な英和辞典には「思わぬ発見をする特異な才能、(偶然に)
ものをうまく見つけ出す能力、掘り出し物上手」といったような語義が記載さ
れています。

 ちなみに、serendipityという語の由来は、The Three Princes of Serendip
というペルシア語のおとぎ話の主人公たちが、捜してもいない珍宝を偶然に発
見するという能力を持つことから、Horace Walpole(1717〜97年:英国の小説
家・エッセイスト)が [serendip+-ity] の形で造語したものとのこと。


祝 ノーベル化学賞の日本人W受賞
   2010/10/7 (木) 22:04 by 司馬拓也 No.20101007220412

 今年のノーベル化学賞の受賞者として、根岸英一氏、鈴木章氏という二人の
日本人の名前がスウェーデンの王立科学アカデミーにより昨日発表されました。
これはほんとうにすばらしいことで、感動しました。

 受賞理由となった業績は、パラジウムを触媒とする「クロスカップリング」
と呼ばれる有機合成法の開発で、これが有機合成化学に飛躍的な進展をもたら
したとのことです。いま私がパソコンでこの文章を書きながら見つめている液
晶ディスプレイの液晶も、この「クロスカップリング」の技術によって生み出
されたものだそうで、たいへんありがたいことです。


「一週間de資本論」について
   2010/10/5 (火) 23:08 by 司馬拓也 No.20101005230827

 先週の月曜日から木曜日まで四夜連続で「一週間de資本論」という番組が、
NHK教育テレビで放送されたので見ました。番組のオープニングの映像の中
で、Aller Anfang ist schwer, gilt in jeder Wissenschaft.(すべての物事
の始まりには困難があり、それはどの学問にも当てはまることだ)というドイ
ツ語の文が映し出されましたが、確かに、学生のときに『資本論』を買って読
みはじめたときには、内容はもちろん文章表現自体もかなり難しく感じられ、
結局根気が続かず、最後まで読み進めることができませんでした。しかし、こ
の番組の中で引用された箇所をいくつか見て、意外にもやさしく感じられ、今
ならば『資本論』をかなりの程度まで理解できるような気がしました。それは
翻訳や解説のうまさのおかげだと思いますが、それに加えて私自身も学生のと
きよりは多くの人生経験を積んで見聞を広め、社会の成り立ちや仕組みが分か
るようになってきたからなのでしょう。


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