ほくしん文芸クラブ
|||||||||||||||||| フォーラム ||||||||||||||||||
 ID


全241件 <更新> ページ移動 ⇒ [ 1 2 3 4 5 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 終了]

PAGE 6 (51〜60)


情緒の再発(復起)
   2016/12/21 (水) 08:28 by Sakana No.20161221082850

12月21日

「作者が表出した作品を読んだ読者の中で幻
惑を受けるのは、情緒を再発(復起)させる
人にかぎられます」
「読解力があり、しかも感受性の強い読者だ
ろう」
「由来この情緒の復起なき人は文学に縁のな
き人々にして、世の中にはかくの如き人すこ
ぶる多し」
「しかし、文章のうまい人が情緒を復起させ
すぎるとアブナイ。たとえば、芥川龍之介、
太宰治、川端康成、三島由紀夫」
「彼らは作家として成功したからそれでいい
のです。問題は情緒を復起しすぎる読者でし
ょう」、
「そんな読者に文学の読書をすすめてはいけ
ない」
「真に文学を楽しむ資格を持っているのは、
文学書中にある焦点的印象又は観念Fより己
の情緒fを部分的に復起する人々で、この部
分的に復起することが、ちょうど適度に文学
を味わい得る程度です。つまり、直接経験と
間接経験との差異はそのfの強弱に存します
が、間接経験がその強さにおいて直接経験に
劣るというところに文学をして永く世界に跡
をたたしめざる一原因なるべしだそうです」
「そういう漱石だって情緒の復起過剰気味で
かなりアブナかった」
「漱石先生は漢学の素養と文学論の研究によ
って、危機を乗りこえました」


諺言(分子の除去)
   2016/12/18 (日) 12:05 by Sakana No.20161218120552

12月18日

「作者の表出による幻惑の手口としては省略
や誇張などがありますが、そのうち省略は、
焦点的印象又は観念Fや情緒fの一部の分子
を除去することです」
「そんな難しい理屈をこねくりまわさないで、
もっとわかりやすく説明せよ」
「では、諺言(げんげん)、つまり、諺(こ
とわざ)で説明しましょう」
「諺は処世の知恵ではあるが、文学ではない」
「五七五にすれば俳句か川柳になります」
「俳句と川柳の違いがわかっているのか」
「わかっていますが、今、ここでは同じよう
なもので、しかも諺に近い片言ということに
しておきましょう」
「俳人や川柳人が怒るぞ」
「彼らが風雅だとか、花鳥諷詠だとか、うが
ちだとか、風刺だとかいったって、要するに
一部の分子を除去した勝手な概括の試みにす
ぎません」
「概括ではない。表出だ」
「言葉はちがっても、中身は同じようなもの
です。諺を例にとると、去るものは日々に疎
し(Out of sight, out of mind.)と、不在が
愛(いと)しさをつならせる(Absence makes 
the heart grow fonder.)とでは、反対の意味
になりますが、両者とも無理ならぬこととし
て私たちは納得しています。状況によって都
合よき場合のみを概括することによって矛盾
が生じるのです」
「矛盾は生じても、時と場合によってはどち
らも真実の表現だ」
「このような分子の除去が、作者の幻惑、即
ち表出の腕の見せどころになっています」


作者の表出と読者の幻惑
   2016/12/18 (日) 12:01 by Sakana No.20161218120134

12月15日

「読書は間接体験ですから、実生活におけ
る直接体験とはずれが生じます」
「そのずれを漱石は数量変化というか」
「ええ、ずれをきたす原因は二つあります。
一つは与えられた材料に対して作者が表出
する態度、もう一つはそのように表出され
た作品に対する読者の態度です」
「要するに作者の技巧と読者の鑑賞力だ」
「技巧というのは、醜いものを連想の作用
によって美となすような表出の方法であり、
一方、読者は一般的に作者の表出方法に同
意し、嬉々として幻惑されます」
「この世の中はそんな単純素朴な読者ばか
りではない。高度な鑑賞力を自負する目利
きの評論家もいる」
「評論家の言うことも間接体験に基づいて
いますから、信用できません」
「作者がいくら巧みに表出の方法を工夫し
ても、八十歳の老婆を十八歳の乙女よりも
美しく描くのは無理だろう」
「それはそうですが、善を悪とし、悪を善
として描くことはできます」
「作者が表出を工夫することによって読者
を幻惑する余地があるということは、ぶっ
ちゃけていうと、その幻惑への対価を得る
ことによって、作家という職業が成立する」
「そういうことはいえます」
「漱石は成功者だが、あくまでそれは文学
の第二の目的に関していえることだ」



fにともなう幻惑
   2016/12/12 (月) 07:39 by Sakana No.20161212073953

12月12日

 「ここで情緒fの変化にともなう幻惑という
現象に注目しておきます」
 「文学の第二の目的だと漱石がいう幻惑だな」
 「幻惑が生じる原因は大きく分けて二つあり
 ます。作者の表出による幻惑と読者が勝手に
抱く幻惑です」
 「作者は表出を工夫することによって読者を
幻惑しようとし、一方、読者は幻惑されたが
 っている。そこに需要と供給の市場経済が成
 立する」
 「そんな市場経済にまで『文学論』は踏み込
んでいません。幻惑どまりですが、文学作品
を読書する場合、実生活における価値判断が
幻惑によって変わってしまうことがあります」
 「つまり、実生活の直接体験における価値判
 断が読書の間接体験ではずれてしまう。普通
の人事界や天然界では不快に感じるようなこ
 とが間接経験になると一回転して快感を生ず
 る」
 「その通りです。価値判断がずれるというこ
 とは、いわば、人格が変わってしまうことで
 す。学校の先生はむやみやたらに子供たちに
読書をすすめますが、それでいいのでしょう
 か」
 「人生は文学にあらず、ということさえわか
 っていればよい」
 「それでは何のために文学を研究するのです
 か」
 「漱石に聞いてくれ」
 「その答えも『文学論』には見当たりません」


fの変化
   2016/12/9 (金) 09:06 by Sakana No.20161209090623

12月9日 

「焦点的印象又は観念Fの変化にともない情
緒fも変化します」
「漱石のように感情の起伏のはげしい人はつ
くあいにくい」
「漱石先生は文学論の研究によってfの変化
をコントロールし、狂気と神経衰弱を克服さ
れました」
「胃潰瘍は克服できなかった」
「fの増加は三つの法則によって支配されま
す。即ち、(一)感情の転置、(二)感情の
拡大、(三)感情の固執」
「その三つの法則が『猫』に応用されている
という指摘は記憶に残っている」
「そんなこともありましたね。感情の転置は、
俳人高浜虚子の行水の女に惚れる烏かな、と
いう俳句を例にとりました。
「烏が人間の女に惚れるはずがない」
 「ですから、俳人虚子が美しい女の行水をし
て いるところを見て、はっと思う途端に惚れ
込んだ。つまり作者が自分の感情を烏に転置
したという解釈になります。次に感情の拡大
は中学二年生の古井武右衛門君が巌頭の吟で
も書いて華厳滝から飛び込みそうな風情で悄
然として門を出る姿が例にあげられています」
「作者の立場から見れば、誇張法だね」
「感情の固執は、親兄弟に見離され、あかの
他人の傾城に、可愛がらりょう筈がない、と
いう苦沙弥先生のひがみ根性を例にとって説
明しましたので、記憶に強く残ったのだろう
と思います」


Fの変化
   2016/12/6 (火) 07:41 by Sakana No.20161206074156

12月6日 

「Fは如何に変化するか。一個人の生涯を通
じて観察すると面白いですね」
「面白いとか、面白くないとかの問題ではな
い」
「赤ん坊の頃より、幼年、少年、青年、成年、
老年とFは変化します。その間に識別力が発
達するとともに、識別すべき事物が増加しま
す」
「天才の意識は特別ではなかろうか。三島由
紀夫は生まれたとき、産湯の盥のふちに日の
光が射していたことを覚えていたという。生
まれた瞬間からすでに識別力がすでに発達し
ていたのだ」
「それは小説『仮面の告白』に書かれていま
すが、私には信じられません」
「三島由紀夫が天才だったということは認め
るだろう」
「東京大学の銀時計組で、大蔵省に入省した
という事実だけでも頭が並外れてよかったこ
とは認めますが、赤ん坊の記憶に関してはど
んなものでしょう。私は脳ミソをいくら刺激
しても三歳以前の記憶にはさかのぼることが
できません。そんな私でも三歳の記憶が今も
なお残っていることは不思議です。いったい
三歳の私は現在の私と同一人物なのでしょう
か」
「三つ子の魂百までという。きみの身体はあ
きらかに三歳の頃のきみの身体ではないが、
魂は同じかもしれない」
「そうなると、天才か凡才かとはかかわりな
く、また、文学の技法ともかかわりなく、意
識の流れという現象そのものが私には非常に
興味深いものに思われます」
「意識は毎夜、睡眠中に中断されている」
「睡眠中は夢でつながっているようです。朝、
目覚めると、また意識の流れが戻っています。
こんな不思議な現象が他にあるでしょうか」


文学的内容の数量変化
   2016/12/3 (土) 08:27 by Sakana No.20161203082742

12月03日

「第二編 文学的内容の数量変化にすすみま
す」
「文学的内容の数量変化とはとんでもない発
想だ。漱石の頭がおかしいという噂がたった
のも無理はない」
「しかし、ウィリアム・ジェームズの『心理
学』に触発されて、意識の流れに着目し、情
緒は文学の試金石にして、始にして終なりと
すという考えがひらめいたことから(F+f)
の法則を打ち立てとすると、数量変化の発想
もわかるような気がします」
「そのような気がする理由は?」
「漱石先生の意識の流れを想像してください。
ロンドン留学中、根本的に文学とは如何なる
ものぞという疑問が湧いた。これは知的Fで
すが、倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉
快の二年なりなどという情緒fがくっついて
います。そして、(F+f)が変化していっ
て、文学脳が異常発達し、帰国後は英文学者
のFが実作者の(F+f)になったのです」
「第二編では、Fの変化とfの変化を論じ、
さらにfに伴う幻惑についても論じている」
「その幻惑も『文学論』の重要な着眼点です。
第二編では文学の目的については言及されて
いませんが、第四編 文学的内容の相互関係 
第八章 間隔論では、文学の大目的について
はふれず、文学の第二の目的が幻惑なりとな
っています」
「とすると、漱石の『文学論』は実は『幻惑
論』だ」
「そう云われないように、幻惑はあくまでも
文学の第二の目的ということになっています。
そして、その幻惑を説明する伏線として、第
二編では文学的内容の数量変化が論じられて
いるのです」
「文学の第一の大目的とは関係がないんだな」
「それはまったく別物です」


文学的内容の分類と価値的等級
   2016/11/30 (水) 07:52 by Sakana No.20161130075250

11月30日
       
「文学的内容たりうべき一切のもの、換言すれ
ば(F+f)の形式に改めうべきものを分類す
れば、(一)感覚的F、(二)人事F、(三)
超自然的F、(四)知的Fの四種になります」
「それはあくまで漱石の私的分類であって、文
学界の定説にはなっていない」
「Fが印象であるか又は観念であるかに着目す
ると、(一)感覚的F、(二)人事F、(三)
超自然的Fは印象であり、(四)知的Fだけが
観念だと思います」
「(三)超自然的Fの英訳はmetaphisicial F
というが、metaphisicialには形而上的という
意味がある。形而上的なら観念だ」
「日本語で超自然的なら印象だと思います」
「英語と日本語との間で差異があるようでは困
る。翻訳者泣かせの分類だ」
「『文学論』はその分類を前提としているので
す。(三)超自然的Fと(四)知的Fは、四種
のうち、比較的Fの明瞭を欠き、抽象度が高く
なります。それに関連してカントへの言及があ
ることにあらえあめて気がつきました」
「それは意外だね」
「以上詩に就(つ)て述べしところのものは散
文にもまた適用すべきものなり。具体的成分減
少して極端に至ればKantの論文の如く、Hegelの
哲学講義の如く、或はEuclidの幾何学の如く、
毫(ごう)も吾人の感興を惹かざるに至るべし」
「その言い方は否定的だ。それから判断しても、
漱石がカントをきちんと読んでいたとは思えな
い」
「それでは今後、ウィリアム・ジェームズの心
理学とともにカントの哲学論文をしっかり読ん
で補足するということにしておいて、第一章の
読み直しはこれまでにしておきましょう」


情緒は文学の試金石
   2016/11/27 (日) 08:14 by Sakana No.20161127081444

11月27日

「情緒は文学の試金石にして、始にして終なり
とす」
「ロンドン留学中の漱石にその考えがひらめい
たのはウィリアム・ジェームズの『心理学』を
読んだことがきっかけだというのがきみの仮説
らしいが、大丈夫か?」
「今田寛『心理学』第二十四章に次のような記
述があるのを発見しました。<情動が小説の中
で記述されていると、われわれもこれに共感さ
せられるために興味を感じる。われわれは種々
な情動を喚起する具体的対象や事件を次第に熟
知するようになっているので、ページを彩る内
省に少し触れるだけで、即座に感情的反応が生
じる。格言的な哲学をふくんだ文学作品もまた、
明らかにわれわれの情動生活に光を転じ、その
折々喜びを与える。しかし情動の「科学的心理
学」に関する限り、この問題についての古典的
業績をうんざりするほど読みすぎたせいか、こ
れを再読するよりは、ニューハンプシャーの畑
にある無数の岩の形をいちいち描写したものを
読む方がまだよいと思う>」
「その箇所を読んで漱石はこれだととびついて
思索をめぐらせ、ついに(F+f)の法則を打
ち立てたというのか」
「まさにその通りだと思います。英文学の詩や
小説など古今上下数千年の書籍を読破せんとし
てうんざりし、かくの如くせば白頭に至るも遂
に全般に通ずるの期はあるべからずと落胆して
いたところへ、一条の光がさしこんできたので
す」
「漱石は『文学論』で格言や諺言を論じ、『猫』
でも格言的な哲学をやたらに多用しているが、
それもジェームズが<明らかにわれわれの情動
生活に光を転じ、その折々喜びを与える>と述
べていることに勇気づけられたのかもしれない」
「文学上の真と科学上の真を比較対象して論じ
たことともかかわりがありそうです」


悲しきが故に泣くにあらず、泣くが故に悲し
   2016/11/24 (木) 08:32 by Sakana No.20161124083208

11月24日

「ロンドン留学中に漱石先生の文学脳が爆発
的に発達したきっかけはウィリアム・ジェー
ムズの『心理学』を読んだことであるという
仮説を前回、申し上げました」
「その理由を述べよ」
「『文学論』と『心理学』との間に重なり合
う箇所がいくつかあることに気がついたので
す」
「『文学論』では『心理学』への直接的な言
及はないはずだが」
「それは読み落としです。私が確認したとこ
ろ、第一編第二章 文学的内容の基本成分の
うち、情緒的精神状態が文学の内容となって
入り込んでくる両性的本能のところで言及さ
れています」
「あ、そうか。それはうっかり、見落として
いた」
「わかっていただければいいのです」
「漱石は『文学論』で何と言っている?」
「もしJamesが説く如く情緒は肉体的状態の変
化に伴ふものにして、肉体的状態変化の因に
あらずと仮定すれば、悲しきが故に泣くにあ
らず、泣くが故に悲しとの結論に達す」
「すると、可笑しきが故に笑うにあらず、笑
うが故に可笑しという理屈になるが、それで
いいのかな?」
「James曰く、<これらの下等情緒を論ずる自
然の経路は、先ずある事実を知覚し、その結
果として情緒と名(なず)くべき心理感情を
誘起し、この状態更に進んで肉体的表白を発
するに至るべきなれども、余の説は全然この
反対に出づるものにして、即ち興奮的事実の
知覚に次ぐに直ちに肉体的反応を以てし、こ
の変化はやがて情緒として現はるるものなる
べきを信ず(Principles of Psychology『心
理学大綱』第二章、四四九頁)。この議論を
とって直ちに普通の恋の上に応用せん事頗
(すこぶ)る不都合なるやも計りがたし。さ
れど普通一般の小説戯曲中にあらはるる善男
善女の徒、必ずその恋を結婚に終り、もし終
り得ざる時は読者観客は不満足の感を生ずる
より推する、所謂恋情なるものより理性的本
能即ち肉感を引き去るの難きは明らかなりと
す>」
「わかりにくいが、要するに、恋は盲目的本
能と言っているのか」
「Principles of Psychology『心理学大綱』
というのは、『心理学原理』のことですね。
私が読んだ今田寛訳『心理学』は、その短縮
版、Psycology, Briefer Course、『心理学要
論』ですが、<われわれは泣くから悲しい、
殴るから怒る、震えるから恐ろしい><悲し
いから泣き、怒るから殴り、恐ろしいから震
えるのではない>とあります。『文学論』の
記述とちゃんと重なり合っているでしょう」
「要するに、まず、知覚があり、肉体的反応
がそれに続き、その後で、悲しみや怒りや恐
怖などの情緒があらわれるというのがジェー
ムズの説で、漱石はその説と意識の流れの説
に触発されて、凡そ文学的内容の形式は(F
+f)なることを要す、というあやしげな説
を打ち立てたということになるのかな」


ページ移動 ⇒ [ 1 2 3 4 5 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 終了] <照会>
  • 投稿したい方は登録が必要です.
  • ログインしている状態で投稿が可能です.
  • 同じログインIDで投稿した記事の削除が可能です.
  • ログインIDはパスワードと同じで、誰にも教えてはいけません.
  • 公序良俗に反する内容の投稿は固くお断りします.