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『文学論』──自己本位の読み方のまとめ
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PAGE 23 (221〜230)


誠実
   2015/7/9 (木) 06:09 by Sakana No.20150709060934

7月9日

「一般に誠実や正直は人間の好ましい性質と
されています」
「さあ、どうかな」
「あなたは真っ直ぐでよい御気性だと坊っち
ゃんは下女の清に言われました」
「単なる馬鹿正直にすぎない」
「越智東風はどこまでも誠実で軽薄なところ
がありません。迷亭などとは大違いです」
「しかし、越智東風の新体詩は面白くない。
迷亭の法螺や作り話のほうが読者を楽しませ
てくれる」
「誠は天の道なり」
「されど、人の道にあらず」
「そういいながら、高等遊民の代助は三千代
との道ならぬ恋におぼれ、人の道にはずれる
行為にはしりました」
「恋は女の道なり、親爺の道にあらず」

「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なと
ころがないから好い。迷亭などとは大違いだ」
と主人はアンドレア・デル・サルトと孔雀
(くじゃく)の舌とトチメンボーの復讐(か
たき)を一度にとる。
          (『猫』二)

「あなたは真っ直ぐでよい御気性だ」
          (『坊っちゃん』)

「若い人がよく失敗(しくじる)というが、
全く誠実と熱心が足りないからだ。己も多年
の経験で、この年になるまで遣って来たが、
どうしてもこの二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却って遣り損う
こともあるでしょう」
「いや先(まず)ないな」
 親爺の頭の上に誠者天之道也と云う額が麗
々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰っ
たとか云って、親爺は最も珍重している。代
助はこの額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。
その上文句が気に喰わない。誠は天の道なり
の後へ、人の道にあらずと附け加えたいと様
な心持がする。 (『それから』)


嫉妬
   2015/7/6 (月) 05:45 by Sakana No.20150706054510

7月6日

「人類の心理作用で厄介なものの一つは嫉妬
です。猫はあまり嫉妬しないようですが」
「嫉妬は漱石作品、特に後期三部作の『彼岸
過迄』『行人』『こころ』で繰り返してとり
あげられているテーマだ」
「恋とからむ複雑情緒ですね」
「恋だけではない。ライバルへの嫉妬や兄弟
姉妹への嫉妬もある」
「『行人』の一郎は弟の二郎に対して嫉妬し
ているのではなく、妻の直に対して嫉妬して
いるのでしょう」
「それで、節操を試すために一緒に和歌山へ
行き、一泊してきてくれと弟に頼んだ。異常
心理としか思えない」
「それに比べると、『彼岸過迄』の須永市
藏の嫉妬は可愛いものです」
「それほど愛してもいない女でも、他の男と
親しくするのを見せつけられると、嫉妬する。
そのため、貴方は卑怯です。徳義的に卑怯で
すと千代子に言われてしまった」
「『こころ』の先生の嫉妬ぶりも情けないで
すね」
「先生と呼ばれるほどの馬鹿だ」

 横町を左へ折れると向うに高いとよ竹の様
なものが屹立(きつりつ)して先から薄い烟
(けむり)を吐いている。これ即ち洗湯であ
る。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口
から忍び込むのを卑怯とか未練とか云うが、
あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬ
ものが嫉妬半分に囃し立てる繰り言である。
昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にき
まっている。(『猫』七)

 彼女は此所へ来て急に口籠つた。不敏な僕
は其後へ何が出て来るのか、まだ覚れなかつ
た。「御前に対して」と半ば彼女を促がす様
に問を掛けた。彼女は突然物を衝き破つた風
に、「何故嫉妬なさるんです」と云ひ切つて、
前よりは劇しく泣き出した。僕はさつと血が
顔に上る時の熱りを両方の頬に感じた。彼女
は殆んど夫を注意しないかの如くに見えた。
 「貴方は卑怯です、徳義的に卑怯です。妾が
叔母さんと貴方を鎌倉へ招待した料簡さへ貴
方は既に疑つて居らつしやる。それが既に卑
怯です。が、それは問題ぢやありません。貴
方は他の招待に応じて置きながら、何故平生
の様に愉快にして下さる事が出来ないんです。
妾は貴方を招待した為に恥を掻いたも同じ事
です。貴方は妾の宅の客に侮辱を与へた結果、
妾にも侮辱を与へてゐます」
             (『彼岸過迄』)

「二郎驚いちゃ不可(いけ)ないぜ」と兄が
繰返した。そうして現に驚いている自分を嘲
ける如く見た。自分は今の兄と権現社頭の兄
とを比較してまるで別人の観をなした。今の
兄は翻(ひる)がえし難い固い決心を以て自
分に向つているとしか自分には見えなかった。
「二郎己は御前を信用している。御前の潔白
な事は既に御前の言語が証明している。それ
に間違はないだろう」
「ありません」
「それでは打ち明けるが、実は直の節操を御
前に試して貰いたいのだ」
 自分は「節操を試す」という言葉を聞いた
時、本当に驚いた。当人から驚くなという注
意が二遍あったに拘わらず、非常に驚いた。
只あっけに取られて、呆然としていた。
「何故今になってそんな顔をするんだ」と兄
が云った。  
・・・(中略)・・・
「試すって、どうすれば試されるんです」
「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊っ
て呉れれば好いんだ
「下らない」と自分は一口で退ぞけた。する
と今度は兄が黙った。
       (「行人」)

 そのうち御嬢さんの態度がだんだん平気に
なって来ました。Kと私が一緒に宅(うち)
にいる時でも、よくKの室の縁側へ来て彼の
名を呼びました。そうして其所へ入って、ゆ
っくりしていました。無論郵便を持って来る
事もあるし、洗濯物を置いて行く事もあるの
ですから、その位の交通は同じ宅にいる二人
の関係上、当然と見なければならないのでし
ょうが、是非お嬢さんを専有したいという強
烈な一念に動かされている私には、どうして
もそれが当然以上に見えたのです。ある時は
御嬢さんがわざわざ私の室へ来るのを回避し
て、Kの方ばかりへ行くように思われる事さ
えあったのです。 (『こころ』)


両性的本能(恋)
   2015/7/3 (金) 05:37 by Sakana No.20150703053704

7月3日

「古今の文学、ことに西洋の文学の90パーセ
ントは恋の情緒をふくんでいます。特に小説、
戯曲の類は恋の分子なしに存在することはほ
とんど不可能といってもよいでしょう」
「漱石の小説も恋の分子をたっぷりふくんで
いる」
「そうですね。以前にまとめたリストに『趣
味の遺伝』をつけ加えて再掲します」

趣味の遺伝   ○  河上浩一    小野田の令嬢
吾輩は猫である X  珍野苦沙弥   細君
坊っちゃん   △  坊っちゃん   マドンナ
草枕      △  予(画工)   那美
野分      X  白井道也    妻君
虞美人草    ○  甲野欽吾    (藤尾)小夜子 糸子
坑夫           △    自分      艶子 澄江
夢十夜     ○  自分      百合の女
三四郎     ○  小川三四郎   里見美禰子
それから    ○  長井代助    平岡三千代(旧姓:菅沼)
門       △  野中宗助    御米
彼岸過迄    ○  須永市藏    田口千代子
行人      ○  長野一郎    お直
こころ     △  先生      静
道草      X  健三      お住
明暗      ○  津田由雄    津田延子 関清子

「『趣味の遺伝』の趣味とは、DNAにイン
プットされた異性への好みというような意味
です」
「猫の恋も春先になるとさかりがついて、
妙な声を出すようにDNAにインプットされ
ているらしい」


 ほのかに承われば世間には猫の恋とか称す
る俳諧趣味の現象があって、春さきは町内の
同族共の夢安らかぬまで浮かれ歩るく夜もあ
るとか云う。(『猫』五)

 御母さんの仰(おお)せには「近頃一人の
息子を旅順で亡(な)くして朝、夕淋(さみ)
しがって暮らしている女がいる。慰めてやろ
うと思っても男ではうまく行かんから、おひ
まな時に御嬢さんを時々遊びにやって上げて
下さいとあなたから博士に頼んで見て頂きた
い」とある。早速博士方へまかり出て鸚鵡
(おうむ)的口吻(こうふん)を弄(ろう)
して旨(むね)を伝えると博士は一も二もな
く承諾してくれた。これが元で御母(おっか)
さんと御嬢さんとは時々会見をする。会見を
するたびに仲がよくなる。いっしょに散歩を
する、御饌(ごぜん)をたべる、まるで御嫁
さんのようになった。とうとう御母さんが浩
さんの日記を出して見せた。その時に御嬢さ
んが何と云ったかと思ったら、それだから私
は御寺参(おてらまいり)をしておりました
と答えたそうだ。なぜ白菊を御墓へ手向(た
む)けたのかと問い返したら、白菊が一番好
きだからと云う挨拶であった。
     (『趣味の遺伝』)




同情 
   2015/7/1 (水) 05:23 by Sakana No.20150701052344

6月30日

「猫は有名になるにつれて、だんだん人間か
ら同情を寄せられるに従って、己が猫である
事を忘却してきます」
「たかが猫のくせに、偉そうな態度をとるよ
うになる」
「人間がそうですね。ちょっと世間で知名度
があがってチヤホヤされると、ほんとうに自
分が偉くなったかのような錯覚を抱いてしま
います」
「西洋の詩は同情だとか、愛だとか、正義だ
とか、自由だとか、浮世の勧工場にあるもの
だけで用を弁じている」
「浮世の勧工場とはデパートのことでしょう。
愛だとか、正義だとか、自由だとかは、新聞、
雑誌、テレビ、ラジオ、インターネットだの
でよく見かけます」
「日本も西洋の影響を受けて、ずいぶん変わ
ったが、うれしい事に東洋の詩歌はそこを解
脱したのがある。彩菊東籬下、悠然見南山。
只それぎりの裏(うち)に暑苦しい世の中を
まるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣
の娘が覗いている訳でもなければ、南山に親
友が奉職している次第でもない。超然と出世
間的に利害損得の汗を流し去った心持になれ
る」

先達ては主人の許(もと)へ吾輩の写真を送
ってくれと手紙で依頼した男がある。この間
は岡山の名産吉備団子(きびだんご)を態々
(わざわざ)吾輩の名宛で届けてくれた人が
ある。だんだん人間から同情を寄せらるるに
従って、己(おのれ)が猫である事は漸く忘
却してくる。(『猫』三)

ことに西洋の詩になると、人事が根本になる
から所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱
する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛
だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧
工場にあるものだけで用を弁じている。
            (『草枕』)


人類の心理作用──怒
   2015/6/27 (土) 05:43 by Sakana No.20150627054354

6月27日

「恐怖の次は怒です。最近、怒ったことがあ
りますか?」
「怒っちゃあいけねぇよと、四六時中、自分
に言い聞かせている」
「御父さん、たまには怒ってください。まだ
枯れてしまうのは惜しい」
「どうやら体内から怒液がなくなってしまっ
たようだ」
「鈍液と憂液ばかりでは、神経が鈍くなり、
人間が陰気になります。もっと陽気にいきま
しょう」
「血液ならまだ若干残っている」
「血液サラサラですか」
「サラサラとまではいかないが、循環はして
いる。だから若し逆上する者があらば血液よ
り外にはあるまい」

古来欧州人の伝説によると、吾人の体内には
四種の液が循環しておったそうだ。第一に怒
液と云う奴がある。これが逆さに上ると怒り
出す。第二に鈍液と名づくるのがある。これ
が逆さに上がると神経が鈍くなる。次には憂
液、これは人間を陰気にする。最後が血液、
これは四肢を壮(さか)んにする。その後人
文が進むに従って鈍液、怒液、憂液はいつの
間にかなくなって、現今に至っては血液だけ
が昔の様に循環しているという話だ。だから
若し逆上する者があらば血液より外にはある
まいと思われる。(『猫』八)

「御父さんは怒っている」
 代助は答をしなかった。ただ遠い所を見る眼
をして、兄を眺めていた。
        (『それから』)



人類の心理作用──恐怖
   2015/6/24 (水) 05:48 by Sakana No.20150624054853

6月24日

「人類の心理作用で、文学的内容の基本成分
とみなされるものといえば、まず恐怖です。
渡る世間は鬼ばかりで、コワイ!」
「近頃は黒を見て恐怖するような吾輩ではな
いと強がっているが、車屋の黒も名なしの権
兵衛の黒も猫だろう。猫は人類ではない」
「擬人法の小説ですから、この名なし猫の心理
は人類、おそらくは作者自身の心理とみてよ
いでしょう」
「逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい」
「羅生門や地獄門を連想しますね」
「倫敦塔中に生きながら葬られた幾千の罪人
は舟を捨ててひとたびこの門を通過するやい
なや娑婆の太陽に再び照らされることはなか
った。テームズは彼らにとって三途の川で、
この門は冥府(よみ)に通ずる入口であった」
「カロンという渡し守がいて通行料を死者か
ら徴収するそうです」
「地獄の沙汰も金次第──いちばん恐ろしい
のは死にも金がからんでいることだ」

 帰りに例の茶園(ちゃえん)を通り抜けよ
うと思って霜柱(しもばしら)の融(と)け
かかったのを踏みつけながら建仁寺(けんに
んじ)の崩(くず)れから顔を出すとまた車
屋の黒が枯菊の上に背(せ)を山にして欠伸
(あくび)をしている。近頃は黒を見て恐怖
するような吾輩ではないが、話しをされると
面倒だから知らぬ顔をして行き過ぎようとし
た。黒の性質として他(ひと)が己(おの)
れを軽侮(けいぶ)したと認むるや否や決し
て黙っていない。「おい、名なしの権兵衛」
(ごんべえ)、近頃じゃ乙(おつ)う高く留
ってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食っ
たって、そんな高慢ちきな面(つ)らあする
ねえ。人(ひと)つけ面白くもねえ」黒は吾
輩の有名になったのを、まだ知らんと見える。
       (『猫』二)

 逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来
から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は
皆舟からこの門まで護送されたのである。彼ら
が舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいな
や娑婆(しゃば)の太陽は再び彼らを照らさな
かった。テームスは彼らにとっての三途(さん
ず)の川でこの門は冥府(よみ)に通ずる入口
であった。(『倫敦塔』)


人類の内部心理作用
   2015/6/21 (日) 05:24 by Sakana No.20150621052411

6月21日

「文学的内容の基本成分としてまず感覚的要
素についてざっと漱石作品から文例をいくつ
かひろってみました 触覚、温度、味覚、嗅
覚、聴覚、視覚(耀、形、運動、色)です」
「感覚的要素は他にもあるぞ。痛覚、圧覚、
皮膚感覚、平衡感覚、崩壊感覚、共通感覚等
々」
「Groos『人の戯』にしたがっています。その
他の感覚の文例は適宜収集してください。次
は、人類の内部心理作用に移りましょう。Ribot
『情緒の心理』により恐怖、怒、同感、恋、
嫉妬、忠誠心の文例をさがしてみます」
「笑と涙がぬけているのはおかしい。漱石作
品の『吾輩は猫である』『坊っちゃん』は笑
が文学的内容の基本成分であり、尾崎紅葉の
『金色夜叉』、泉鏡花の『婦系図』などは涙
が基本成分だ」
「では、おまけとして笑と涙の文例もさがす
ことにしましょう」


視覚──色
   2015/6/18 (木) 13:00 by Sakana No.20150618130024

6月18日

「猫が昼寝をしているところを苦沙弥先生が
スケッチしています」
「昔、以太利(イタリー)の大家アンドレア・
デル・サルトが言った事がある。画をかくな
ら何でも自然その物を写せと」
「自然その物の猫を自然に写生するならいい
のですが、先生の描く猫は色が違うのです」
「どう違う」
「モデルの猫は黄を含んだ淡灰色に漆の如き
斑入りの皮膚を有していますが、苦沙弥先生
の描く猫は黄でもなければ黒でもない。灰色
でもなければ褐色(とびいろ)でもない。さ
ればといってこれ等を交ぜた色でもない。只
一種の色であるというより外に評し方のない
色なのです」
「天才かもしれない」
「三四郎のほうがよく観察しています。九州
から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づ
いて来るうちに、女の色が次第に白くなるそ
うです」

 然しいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主
人に描き出されつつある様な妙な姿とは、ど
うしても思われない。第一色が違う。吾輩は
波斯(ペルシア)産の猫の如く黄を含める淡
灰色に漆の如き斑入りの皮膚を有している。
これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と
思う。然るに今主人の彩色を見ると、黄でも
なければ黒でもない。灰色でもなければ褐色
(とびいろ)でもない。去ればといってこれ
等を交ぜた色でもない。只一種の色であると
いうより外に評し方のない色である。
    (『猫』二)

  女とは京都からの相乗りである。乗った時
から三四郎の目についた。第一色が黒い。三
四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京
大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に
白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくよう
な哀れを感じていた。『三四郎』



視覚──運動 
   2015/6/15 (月) 05:05 by Sakana No.20150615050522

6月15日

「次は視覚──運動です。猫の目が廻って
眼から火花が出ました」
「誰が火花を見たのか」
「猫でしょう。猫にも視覚がありますから」
「自分の眼から出た火花が見えるかな」
「見えますよ。私は見たことがあります」
「それよりも、菜の花が一面に咲いている
野の上空で雲雀が十文字にすれ違う景色の
ほうが面白い」
「そういえば、芭蕉の高弟、向井去来の句
に、郭公なくや雲雀と十文字、があります
ね」
「その句は、カッコー、カッコーという郭
公の鋭い鳴き声に、ピーヒョロロという雲
雀の長閑な鳴き声を対比させた聴覚な句だ。
郭公の声を水平にとらえ、雲雀の声を垂直
にとらえて、十文字をなしている」
「聴覚と視覚の十文字が交叉しているよう
でもありますね」

 この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に
坐っておったが、暫くすると非常な速力で運
転し始めた。書生が動くのか自分だけが動く
のか分らないが無暗に目が廻る。胸が悪くな
る。到底助からないと思っていると、どさり
と音がして眼から火が出た。(『猫』一)

 横に見下ろすと、菜の花が一面に見える。
雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、
あの黄金の原から飛び上がってくるのかと思
った。次には落ちる雲雀と、上がる雲雀が十
文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ち
る時も、上がる時も、また十文字にすれ違う
ときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思っ
た。 (『草枕』)


視覚──形
   2015/6/12 (金) 06:53 by Sakana No.20150612065335

06月12日

「次は視覚がとらえた形の文例です。『猫』
からは枝ぶりのよい首懸の松、『草枕』から
は湯烟の向こうに見える黒髪の美しい女、を
選んでみました。どうです、この眺めは?」
「松も時なり、女も時なり。時は飛去すると
のみ解会すべからず」
「時は視覚でとらえることができませんよ」
「絵にするのだ。文章でもよい。芸術の醍醐
味はそこにある」
「でもあの女の生身の姿は、そのまま眺めて
いるだけではもったいないような気がします」
「それでは久米の仙人だ。まだまだ修行が足
りない。あの松の枝にぶら下がり、首を縊っ
て死んでしまえ」
「好い枝ぶりの松ですね。どうかしてあすこ
の所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかし
らと、四辺(あたり)を見渡すと生憎(あい
にく)誰も来ない。仕方がない、自分で下が
ろうか知らんとも思いましたが、やめました」
「そんな卑怯未練な奴ばかりが長生きして、
高齢化社会になってしまった。ああ、いやだ、
いやだ」
 
「首懸の松は鴻の台でしょう」寒月が波紋を
ひろげる。
「鴻の台のは鐘懸の松で、土手三番町のは首
懸の松さ。なぜこうい名が付いたかと云うと、
昔しからの言い伝えで誰でもこの松の下へ来
ると首が溢りたくなる。土手の上に松は何千
本となくあるが、そら首縊(くびくく)りだ
と来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。
年に二三返(べん)はきっとぶら下がってい
る。どうしても他(ほか)の松では死ぬ気に
ならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方
へ横に出ている。ああ好い枝振りだ。あのま
まにしておくのは惜しいものだ。どうかして
あすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来な
いかしらと、四辺(あたり)を見渡すと生憎
(あいにく)誰も来ない。仕方がない、自分
で下がろうか知らん。いやいや自分が下がっ
ては命がない、危(あぶ)ないからよそう。
      (『猫』二)
 
 注意をしたものか、せぬものかと、浮きな
がら考える間に、女の影は遺憾なく余が前に、
早くもあらわれた。漲り渡る湯烟の、やわら
かな光線を一分子毎に含んで、薄紅の暖かに
見えたる奥に、漂わす黒髪を雲とながして、
あらん限りの背丈を、すらりと伸した女の姿
を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のと云う
感じは悉く、わが脳裏を去って、只ひたすら
に、うつくしい画題を得たとのみ思った。
     (『草枕』)
   、   


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