ほくしん文芸クラブ
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批評家の幻惑
   2015/9/28 (月) 07:02 by Sakana No.20150928070208

9月28日

「『文学論』では言及されていませんが、
批評家の幻惑も無視できません。読者の幻惑
の前に批評家の幻惑についてもコメントして
おきたいと思います」
「素人の読者は批評家の影響を受けやすい」
「主体を基準にして幻惑を分類すると、
 1)作者の幻惑(表出)
 2)批評家の幻惑(解説)
 3)読者の幻惑(受容)
という順番になるかと思います」
「批評家の解説や書評は、一般読者にとって
は文学作品案内ガイドとして役立つ」
「たとえば、新潮文庫版『三四郎』の解説者
柄谷行人の解説の引用箇所をどう思いますか」
「『それから』や『門』は、"小説"らしい現
代小説だが、『三四郎』はそうではないとい
うのは玄人の読者によるもっともらしい評と
して初心の読者に受けとめられる」
「私は初期三部作の中では『三四郎』がいち
ばん面白いと思ったのですが」
「そんなことをいうと、現代小説の読み手と
してはシロートだと軽蔑されかねない」
「漱石といえば、『猫』や『坊っちゃん』や
『草枕』の著者としてしか知らない読者が多
いと思いますが、これらの初期作品は、内的
要求に根しているとはいえ、未熟なものでし
かないのでしょうか」
「それは柄谷行人の見解にすぎないが、新潮
文庫版『三四郎』の解説をするだけあって、
彼のような批評家の影響力(=幻惑力)は大
きい」
「たしかに『三四郎』までは余裕派の作品と
して楽しみながら読めますが、『それから』
の後半からそれ以後の『門』、後期三部作、
『道草』、『明暗』は主人公の心理が重苦し
く、深刻すぎて読み続けるのがつらい。余裕
派の作品とはとてもいえないですね」
「余裕の有無は、現代小説鑑賞の評価基準で
はない」
「私は読書から気晴らしと慰謝を得ながら余
裕をもって余生を送りたいのですが」
「咄(とつ)この乾屎※ (かんしけつ)。さ
っさと死んでしまえ」

 漱石が、いわば"小説"らしい小説を書きは
じめるのは、『三四郎』の次の作品、『それ
から』や『門』からだといってよい。この時
期から、漱石の作品は重苦しく且つ深刻なテ
ーマを追求しはじめた。それとともに、それ
まで自然主義系の文壇主流から"余裕派"とし
て軽視されてきた漱石は、現代小説の書き手
として急速に重要な位置を占めはじめた。こ
の経緯は、今日でも評価の奇妙な分裂として
あとをとどめている。
 たとえば、多くの読者にとって、漱石は、
『猫』や『坊っちゃん』や『草枕』の著者と
してのみ知られている。他方、そのような素
朴な読者を軽蔑する者は、後期の小説を重視
し、初期作品に、のちに本格的に展開される
べき主題やモチーフの象徴的な提示をみよう
とする。このような視点は、明らかに"近代小
説"を前提しているのであって、ここから
みれば、漱石の初期作品は、内的要求に根ざ
しているとはいえ、未熟なものでしかないこ
とになる。  (柄谷行人『三四郎』解説)


読者の幻惑
   2015/9/25 (金) 08:33 by Sakana No.20150925083338

9月25日

「直接経験によって生ずる情緒fと間接経験
によって生ずる情緒fのずれは、作者から見
れば、作者の表出法が原因ですが、読者の立
場から見れば、読者の反応によってきまりま
す。漱石先生は後者を読者の幻惑と名付けま
した」
「読者の反応もしくは取捨選択と名付けたほ
うがよいのではないか。読者の幻惑では誤解
を招きやすい」
「そんなことを云っても今さらどうにもなり
ません」
「漱石はたしか、文学の第二の目的が幻惑だ
と云っているはずだ」
「それは、『文学論』第四編第八章 間隔論
の冒頭に掲げられています」
「その第二の目的という幻惑は、作者の表出
(創作)による幻惑という意味だろう」
「そうだと思います」
「ところが、ここでは読者の幻惑だという。
まぎらわしいではないか」
「私の頭も少し混乱気味ですが、作者の幻惑
と読者の幻惑はちがうので、区別して考える
必要があります。作者の幻惑は作者の表出法
をすでにいくつかご紹介済ですから、ここで
は読者の幻惑を考えましょう」
「読者の頭を混乱させないようきちんと交通
整理をしておいてくれ」

  文学の大目的の奈辺に存するかは暫く措く。
その大目的を生ずるに必要なる第二の目的は
幻惑の二字に帰着す。
   (『文学論』第四編第八章 間隔論)

 同じく物の全局を写さんとする場合におい
ても、科学者は概念を伝へんとし、文学者は
画を描かんとす。換言すれば前者は物の形と
機械的概念を捉へ、後者は物の生命と心持ち
を本領とす。尚科学者の定義は分類の具に供
せらるれど、文学者の叙述は物を活さんがた
めの用に過ぎず。科学者は類似をたどりて系
統を立てんと欲し、個々の物体にさしたる興
味を有するにあらず。文学者に至りては其目
指すところの物の秩序的配置にあらずして其
本質にあり、されば物の本性が遺憾なく発揮
せられて一種の情緒を含むに至る時は即ち文
学者の成功せる時なりとす。従って文学者が
あらはさんと力(つと)むる所は物の幻惑に
して、躍如として生あるが如く之を写し出す
を以て手腕とす。
       (『文学論』第三編第一章)


知的材料の表出法
   2015/9/22 (火) 07:12 by Sakana No.20150922071223

9月22日

「神は人間のせつな糞の凝結せる臭骸とは、
ひどい。こんな表出をする筆者は神経を病ん
でいるにちがいない」
「この手紙の差出人は立町老梅またの名を天
道公平という人物ですが、気狂いになって巣
鴨の病院へ収容されたそうです」
「さもありなん」
「ところが、苦沙弥先生はこの文章に深遠な
る意味があると考えて、何度も読み直し、何
とか理解しようとしているのです」
「先生と呼ばれる人種は、分らぬところに馬
鹿に出来ないものが潜伏しているのではない
かと思い、そんな作者を尊敬する傾向がある」
「天才と気狂いは髪一重といいますからね」
「漱石も夏目狂せりと噂を立てられた」
「しかし、漱石先生はこのような知的材料の
表出法によって狂気への衝動を克服し、文豪
と呼ばれるようになったのです。天道公平の
文章だって研究する価値はあると思います」
「ほどほどにしたほうがよい。書物を読むの
は極(ごく)悪う御座いますと、円覚寺の若
い僧侶は云っている」
「なぜでしょうか」
「読書によってくだらない知識が増すと、自
分が馬鹿だということをつい忘れがちになる。
つまり、悟りの邪魔になるからだろう」

 神は人間の苦しまぎれに捏造(ねつぞう)
せる土偶のみ。人間のせつな糞の凝結せる臭
骸のみ。恃むまじきを恃んで安しと云う。咄
々(とつとつ)。酔漢漫(みだ)りに胡乱
(うろん)の言辞を弄(ろう)して、蹣跚
(まんさん)として墓に向う。油尽きて燈自
(おのずか)ら滅す。苦沙弥先生よろしく御
茶でも上がれ。・・・・・・。(『猫』十)

「書物を読むのは極(ごく)悪う御座います。
有体(ありてい)に云うと、読書程修行の妨
(さまたげ)になるものは無い様です。私共
でも、こうして碧巌などを読みますが、自分
の程度以上の所になると、まるで見当が付き
ません。それを好加減(いいかげん)に揣摩
する癖がつくと、それが坐る時の妨げになっ
て、自分以上の境界(きょうがい)を予期し
てみたり、悟を待ち受けてみたり、充分突込
んで行くべきところに頓挫が出来ます。大変
毒になりますから、御止(およ)しになった
方が可いでしょう。もし強いて何か御読みに
なりたければ、禅関策進という様な人の勇気
を鼓舞したり激励したりするものが宜しゅう
御座いましょう。それだって、只刺激の方便
として読むだけで、道その物とは無関係です」
               (『門』)


超自然的材料の表出法
   2015/9/19 (土) 08:36 by Sakana No.20150919083617

9月19日

「超自然的材料には宗教的Fと妖怪変化、妖精、
妖婆など宗教的ならざるFがあります」
「宗教的Fの表出法となると、作者が特定の宗
教の信者かどうかによって変わってくる」
「漱石先生は、求道者です。神についての表出
法は哲学的、科学的ともいえますね」
「恋が宇宙的な活力というのが科学的な表出と
はいえない」
「しかし、在天の神ジュピターから土中に鳴く
蚯蚓、おけらに至るまでこの道にかけて浮身を
窶(やつ)すのが万物の習いというのは壮大な
表出であり、私は科学を感じます」
「理数を苦手とする者は安易に科学という言葉
を使うべきではない」
「人間が同じ材料でつくられているのに同じ顔
をしている者は世界中に一人もいないというこ
とを観察して、猫が製造家の伎倆に感服してい
ます。その製造家を神として崇めてはいるので
はなく、作者の伎倆に感服しているのです。科
学的な猫といえるのではないでしょうか

  抑(そもそ)も恋は宇宙的の活力である。上
は在天の神ジュピターより下は土中に鳴く蚯蚓、
おけらに至るまでこの道にかけて浮身を窶(や
つ)すのが万物の習いであるから、吾輩猫ども
が朧うれしと、物騒な風流気を出すのも無理の
ない話しである。回顧すればかく云う吾輩も三
毛子に思い焦がれた事もある。(『猫』五)

  古代の神は全智全能と崇(あが)められてい
る。ことに耶蘇教の神は二十世紀の今日までも
この全智全能の面を被っている。然し俗人の考
うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈
が出来る。こう云うのは明かにパラドックスで
ある。然るにこのパラドックスを道破した者は
天地開闢以来吾輩のみであろうと考えると、自
分ながら満更な猫でもないと云う虚栄心も出る
から、是非共ここにその理由を申し上げて、猫
も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間の
脳裏に叩き込みたいと考える。天地万有は神が
作ったそうな、して見れば人間も神の御製作で
あろう。現に聖書とか云うものにはその通りと
明記されてあるそうだ。さてこの人間に就いて、
人間自身が数千年来の観察を積んで、大に玄妙
不思議がると同時に、益(ますます)、神の全
智全能を承認する様に傾いた事実がある。それ
は外でもない。人間も斯様にうじゃうじゃ居る
が同じ顔をしている者は世界中に一人も居ない。
顔の道具は無論極っている。大きさも大概は似
たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ
材料から作り上げられている。同じ材料で出来
ているにも関らず一人も同じ結果に出来上って
おらん。よくもまああれだけの簡単な材料でか
くまで異様な顔を思い就いた者だと思うと、製
造家の伎倆に感服せざるを得ない。余程独創的
な想像力がないとこんな変化は出来んのである。
               (『猫』六)


人事的材料の表出法
   2015/9/16 (水) 07:43 by Sakana No.20150916074351

9月16日

「猫の観察によれば、苦沙弥先生は痘痕面
(あばたづら)です」
「作者の漱石があばただった。天然痘の予防
のために種痘をして、痒い痒いとむやみに顔
中ひっかきまわしたらたらあばたになってし
まったらしい」
「猫は、細君の禿も観察しています。禿なん
ざどうだって宜いじゃありませんかと、細君
は開き直っていますが」
「細君には初々しさがないね。結婚後何年目
だろう」
「十年目位でしょう。御両人は結婚後一ヶ年
も立たぬ間に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱
却せられた超然的夫婦ということになってい
ます」
「いやだね。結婚なんかするものではない」
「読者にそう思わせることも、漱石先生の表
出法です」
「漱石には江戸っ子らしい露悪家のところが
ある」
「己を知ろうとする心のあらわれともみるべ
きでしょう」
「鏡を見て己の醜さを知り、己の馬鹿さ加減
を知れということか」
「こんな顔でよくも人で候と反(そ)りかえ
って今日まで暮らされたものだと気がつく─
─そこへ気がついた時が人間の生涯中尤も難
有い期節であるという教えです」

 主人は痘痕面(あばたづら)である。御維
新前はあばたも大分流行ったものだそうだが
日英同盟の今日から見ると、こんな顔は聊か
時候遅れの感がある。あばたの衰退は人口の
増殖と反比例して近き将来には全くその跡を
断つに至るだろうとは医学上の統計から精密
に割り出されたる結論であって、吾輩の如き
猫といえども毫も疑いを挟(さしはさ)む余
地のない程の名論である。現在地球上にあば
たっ面を有して生息している人間は何人位あ
るか知らんが、吾輩が交際の区域内に於いて
打算してみると、猫には一匹もない。人間に
はたった一人ある。しかしその一人が即ち主
人である。甚だ気の毒である。
 吾輩は主人の顔を見る度に考える。まあ何
の因果でこんな妙な顔をして臆面なく二十世
紀の空気を呼吸しているのだろう。(『猫』九)

「成程似ているな」と主人が、さも感心した
らしく云うと「何がです」と細君は見向きも
しない。
「何だって、御前の顔にゃ大きな禿があるぜ。
知ってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手を已め
ずに答える。別段露見を恐れた様子もない。
超然たる模範細君である。
「嫁にくるときからあるのか。結婚後新たに
出来たのか」と主人が聞く。もし嫁に来る前
から禿げているなら欺されたのであると口へ
は出さないが心の中で思う。
「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ。禿
なんざどうだって宜いじゃありませんか」と
大(おおい)に悟ったものである。
              (『猫』四)

 かくとも知らぬ主人は甚だ熱心なる容子を
以て一張来の鏡を見詰めている。元来鏡とい
うものは気味の悪いものである。深夜蝋燭を
立てて、広い部屋の中で一人鏡を覗き込むに
は余程の勇気がいるそうだ。吾輩などは始め
て当家の令嬢から鏡を頭の前へ押し付けられ
た時に、はっと仰天して屋敷のまわりを三度
駈け回った位である。如何に白昼といえども、
主人の様にかく一生懸命に見詰めている以上
は自分で自分の顔が怖くなるに相違ない。只
見てさえあまり気持のいい顔じゃない。稍あ
って主人は「成程きたない顔だ」と独り言を
言った。自己の醜を自白するとは見上げたも
のだ。容子から云うと慥かに気違いの所作だ
が言うことは真理である。これがもう一歩進
むと、己の醜悪な事が怖くなる。人間は吾身
が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄
に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦
労人でないと到底解脱は出来ない。
              (『猫』九)

 人間にせよ動物にせよ、己を知るのは生涯
の大事である。己を知る事が出来さえすれば
人間も人間として猫から尊敬を受けてよろし
い。           (『猫』十)


感覚的材料の表出法
   2015/9/13 (日) 07:59 by Sakana No.20150913075922

9月13日

「作家はさまざまな材料を用いて独自の表出
法の工夫をこらしています。ここでは漱石流
の表出法を学びましょう」
「表出法とはなじみのない言葉だ。漱石の手
口を学ぶといったらどうだ」
「手口なんて下品な言葉は使いたくないです
ね。まず感覚的材料の表出法の文例として乾
尿※ (かんしけつ)という漢字変換も難しい
禅語をとりあげてみたいと思います。不浄物
がそのまま乾いたクソカキベラという意味だ
そうです。きたないですね」
「多々良三平君は猫のことをクソカキベラ同
等とみなし、しかも猫鍋にして食うという。
そんなきたないものがよく食えるものだ」
「三平はげてもの食いなんですよ。寒月さん
に代わって、鼻子の娘を嫁にするような男で
すから」
「しかし、この会話はクソカキベラを材料に
したわりにはきたないという感じがしない」
「それは乾尿※ (かんしけつ)が、禅の世界
では、連想の作用により、活眼を開いてみれ
ば不浄物も真理であることになっており、そ
の連想が読者の意識に働くからです」
「『猫』だけではなく、『草枕』でも使われ
ている」
「悪口として使われていますが、言ったのが
春風に青い頭をゆらす門前の小僧という点に
格別の興趣があります」

 然も彼の多々良三平君の如きは形を見て心
を見ざる第一流の人物であるから、この三平
君が吾輩を目して乾尿※ (かんしけつ=拭い
た不浄物がそのまま乾いたクソカキベラ)同
等に心得るのも尤もだが、恨むらくは古今の
書籍を読んで、稍事物の真相を解し得たる主
人までが、浅薄なる三平君に一も二もなく同
意して、猫鍋に故障を差挟(さしはさ)む景
色のない事である。(『猫』五)

「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒め
ておられる」
 「石段をあがると、何でも逆様だから叶わ
ねえ。和尚さんが、何て云つたって、気狂は
気狂だろう。──さあ、剃れたよ。早く行っ
て、和尚さんに叱られて来ねえ」
「いやもう少し遊んで行って誉められよう」
「勝手にしろ、口の減るらねえ餓鬼だ」
「咄(とつ)この乾屎※ (かんしけつ)」
「何だと?」
 青い頭は既に暖簾をくぐって、春風に吹か
れている。          (『草枕)



表出の方法
   2015/9/10 (木) 09:14 by Sakana No.20150910091436

9月10日

「人生は文学にあらず。人生における直接経
験のfと読書による間接経験のfとの間には
ずれがあります」
「それはもう何度も聞いて耳にタコができた」
「実生活の直接経験で誰かに嘘をついている
ことがわかれば腹が立ちますが、間接経験の
読書で迷亭のような大平の逸民が法螺(ほら)
ばかりふいていても腹が立たない。またかと、
笑って読み流せます。ところが、実業家の細
君である鼻子がやってきて、偉そうな態度で
ものを言うと、腹が立つ。これは作者による
表出の方法に読者が幻惑されているからです」
「作者が罪のない読者を幻惑するとはけしか
らん」
「元来吾人が文学を賞翫するとはそれ作者の
表出法に対する同意を意味するものとす。け
しからんと思えば、読まなければよい──そ
れだけのことです」
「現実には利害関係がない読者にとっては迷
亭の法螺も鼻子の鼻もお笑いネタにすぎない」
「それは第三者の地位に立っているからです。
見たり読んだりする間だけは詩人です」
「迷亭や鼻子を相手にしていたのでは詩人に
はなれない」

「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」
と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人
が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻
子は「実は私はつい御近所で──あの向う横
町の角屋敷なんですが」「あの大きな西洋館
の倉のあるうちですか、道理であすこには金
田と云う御札が出ていますな」と主人は漸く
金田の西洋館と、金田の身を認識した様だが
金田夫人に対する尊敬の気持は前と同様であ
る。「実は宿(やど)が出まして、御話を伺
うんですが会社の方が大変忙しいもんですか
ら」と今度は少し利いたろうという眼付きを
する。主人は一向動じない。鼻子の先刻から
の言葉遣いが初対面の女にしては余り存在
(ぞんざい)過ぎるので既に不平なのである。
「会社でも一つじゃ無いんです。二つも三つ
も兼ねているんです。それにどの会社でも重
役なんで──多分御存知でしょうが」これで
も恐れ入らぬかという眼付きをする。
              (『猫』三)

  恋はうつくしかろ。孝もうつくしかろ。忠
君愛国も結構だろう。然し自身がその局に当
れば利害の旋風(つむじ)に捲き込まれて、
うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩ん
でしまう。従ってどこに詩があるか自身には
解しかねる。
 これがわかる為めには、わかるだけの余裕
のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者
の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説
も見て面白い。芝居を観て面白い人も、小説
を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げ
ている。見たり読んだりする間だけは詩人で
ある。          (『草枕』)





情緒fそのものの性質
   2015/9/7 (月) 05:58 by Sakana No.20150907055836

9月07日

「これまでのところは、情緒fについて漠然
と論じただけで、情緒fそのものの性質の細
目にわたっては論及していません」
「遠慮せず、論及してくれ」
「たとえば、私たちが人事界または天然界に
あって直接経験をする時の情緒fは、読書で
間接経験をする時の情緒fとは性質が違いま
す」
「どこがどう違うんだ」
「直接経験の情緒fは忘れてしまえば、それ
っきりですが、記憶に残っていれば、何かの
きっかけでよみがえります。間接経験により
記憶想像のFに伴ってfが生ずることもあれ
ば、記憶叙景の詩文に対してfを起すことも
ある──これは興味深い問題ですので、数言
をついやしてみなさまの参考に資すよう弁じ
たいとと思います」
「みなさまの参考になるかどうかはわからな
いが、数言でも数百言でもついやしてくれ」
「直接経験より生ずるfと間接経験より生ず
るfとはその強弱及び性質において異なるこ
とはもちろんですが、このような差異がある
ために、普通の人事界や天然界では不快に感
じるようなことが間接経験になると一回転し
て快感を生ずることがあります。黒が白にな
り、円が三角になってしまうのです」
「そんなことがあるものか」
「よくありがちなことです」
「もしそうだとすれば、文学亡国論や文学無
用論につながりかねない」
「これほどの相違をもたらす原因はどこにあ
ると思いますか」
「知らん」
「作者の表出法と読者の幻惑──原因はこの
二通りです。実は私もこの問題についてこれ
まではきちんと理解していなかったのですが」
「表出とか幻惑とか、まぎらわしい用語だ。
作者の幻惑と読者の幻惑のように並べて比較
すれば、もっとわかりやすい。きみがきちん
と理解できなかったのは、漱石がまぎらわし
い用語を使ったからだろう」
「漱石先生が悪いのではありません。私が馬
鹿だったからです。次回からは頭をすっきり
させて、この二通りについて論じることにし
ましょう」

 さて邸(やしき)へは忍び込んだもののこ
れから先どうして善(い)いか分らない。そ
のうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、
雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予
(ゆうよ)が出来なくなった。仕方がないか
らとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあ
るいて行く。今から考えるとその時はすでに
家の内に這入っておったのだ。ここで吾輩は
彼(か)の書生以外の人間を再び見るべき機
会に遭遇(そうぐう)したのである。第一に
逢ったのがおさんである。これは前の書生よ
り一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり
頸筋(くびすじ)をつかんで表へ抛(ほう)
り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼
をねぶって運を天に任せていた。しかしひも
じいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。
吾輩は再びおさんの隙(すき)を見て台所へ
這(は)い上(あが)った。すると間もなく
また投げ出された。吾輩は投げ出されては這
い上り、這い上っては投げ出され、何でも同
じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。
その時におさんと云う者はつくづくいやにな
った。この間おさんの三馬(さんま)を偸
(ぬす)んでこの返報をしてやってから、や
っと胸の痞(つかえ)が下りた。(『猫』一)


感情の固執
   2015/9/4 (金) 07:06 by Sakana No.20150904070645

9月04日

「親兄弟に見離され、あかの他人の傾城に、
可愛がらりょう筈がない、という苦沙弥先生
の感情の固執について考えてみましょう。傾
城(けいせい)とは、美人、遊女という意味
です」
「非論理的な文章だ。親兄弟に見離されるこ
ととあかの他人の傾城に可愛がられることと
の間には論理的な関連がない」
「これは俗に角兵衛と呼ばれる常磐津・長唄
掛合いの曲中で歌われる投節の文句──江戸
っ子の情緒に訴える文句ですよ」
「そうか、なるほど。いずれにしても、苦沙
弥は不惑の年になってもなお、親兄弟に見離
されたという感情に固執している。また、女
にもてたいという願望はあるものの、もてる
はずがないという諦念に固執しているのか」
「金まわりのいい実業家を嫌うという感情、
それに、教師を続けても月給がたいしてあが
らないという不満にも固執しています」
「苦沙弥はそのまま不遇をかこちそうだが、
漱石は苦沙弥ではない。朝日新聞からの誘い
を受け、月給二百円プラス盆暮の賞与という
好条件で入社した後は、そんな感情に固執し
なくなった」
「もう一つ感情の固執の例をあげると、『そ
れから』の長井得は、廃藩置県で藩がなくな
った後も、藩主から貰った誠者天道也(まこ
とはてんのみちなり)という額を麗々と掛け、
封建的な忠君思想に固執しています」
「息子の代助はそのような感情の固執に反発
し、人の道にあらず、と云った。固執するの
がよいか、しないのがよいか──これは現代
の家族のトラブルにも通じる問題だ」

 人間も返事がうるさくなる位無精になると、
どことなく趨があるが、こんな人に限って女
に好かれた試しがない。現在連れ添う細君です
ら、あまり珍重しておらん様だから、その他は
推して知るべしと云っても大した間違はなかろ
う。親兄弟に見離され、あかの他人の傾城に、
可愛がらりょう筈がない、とある以上は、細君
にさえ持てない主人が、世間一般の淑女に気に
入る筈がない。(『猫』十)

「先生教師などしておったちゃ到底あかんで
すばい。ちょっと泥棒に逢っても、すぐ困る
──一丁今から考えを換えて実業家にでもな
んなさらんか」
「先生は実業家は嫌だから、そんな事を言っ
たって駄目よ」
「と細君が傍から多々良君に返事をする。細
君は無論実業家になって貰いたいのである。
「先生学校を卒業して何年になんなさるか」
「今年で九年目でしょう」と細君は主人を顧
みる。主人はそうだとも、そうで無いとも云
わない。
「九年立っても月給は上がらず、いくら勉強
しても人は褒めちゃくれず、郎君独寂寞です
たい」と中学時代で覚えた詩の句を細君のた
めに朗吟すると、細君は一寸分りかねたもの
だから返事をしない。(『猫』五)

  その昔し藩の財政が疲弊して、始末が付か
なくなった際、整理の任に当つた長井は、藩
侯に縁のある町人を二三人呼び集めて、刀を
抜いてその前に頭を下げ、彼等に一時の融通
を頼んだ事がある。固(もと)より返せるか、
返せないか、分らなかったんだから、分らな
いと真直に自白して、それがためにその時成
功した。その因縁でこの額を藩主に書いて貰
ったんである。爾来長井は何時でも、これを
自分の居間に掛けて朝夕眺めている。代助は
この額の由来を何遍聞かされたか知れない。
            (『それから』)



感情の拡大
   2015/9/1 (火) 05:48 by Sakana No.20150901054812

9月01日

「感情の転置の次に、感情の拡大という心理
作用について考えてみたいと思います」
「よかろう」
「『猫』で中学二年生の古井武右衛門君が、
退校になるおそれがので、なんとか退校にな
らないようにしてくださいと苦沙弥先生に相
談にやってきました」
「いったい何をやらかしたんだ」
「金田家令嬢をからかってやろうという悪友
の誘いに乗って、悪友が艶書を書き、武右衛
門君の名前で投函してしまったのです」
「今どきそんなことで退校になる心配はない」
「明治三十九年の頃は、それだけで退校にな
るおそれがあったのです」
「だからといって、苦沙弥のような先生に相
談したってどうにもならない」
「そうですね。武右衛門君は悄然として薩摩
下駄を引きずって門を出た。打ちゃって置く
と巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むか
も知れない──と、これは武右衛門君の感情
の拡大を察しているが、だからといって、先
生の知ったことではないというのが、その時
の苦沙弥の心理作用でしょう」
「苦沙弥=漱石=金之助には苦い思い出があ
る。巌頭の吟を書き遺して、華厳滝から飛び
込んだ藤村操は漱石の教え子で、不勉強を叱
責した直後に自殺されてしまった。その教訓
が武右衛門君に生かされていない」        
「漱石の文学論竟に何等のオーソリチィーを
價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして
悉す、曰く、「不可解」」

 この様子ではいつまで嘆願をしていても、
到底見込がないと思い切った武右衛門君は突
然彼(か)の偉大なる頭蓋骨を畳の上に圧
(お)しつけて、無言の裡(うち)に暗に訣
別の意を表した。主人は「帰るかい」と云っ
た。武右衛門君は悄然として薩摩下駄を引き
ずって門を出た。可哀想に。打ちゃって置く
と巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むか
も知れない。        (『猫』十)

  悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の
小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショ
の哲學竟に何等のオーソリチィーを價するも
のぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰
く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終
に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及ん
で、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
              (藤村操『巌頭の感』)


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