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『文学論』──自己本位の読み方のまとめ
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悲劇に伴う情緒
   2015/11/6 (金) 06:13 by Sakana No.20151106061301

11月06日

「第二編 文学的内容の数量的変化 で最後
に、悲劇に伴う情緒fにふれておきたいと思
います」
「『虞美人草』の甲野君曰く、悲劇は喜劇よ
り偉大である。猫はどう云っているのか」
「我等猫族が親子の愛を全くして美しい家族
的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅せ
ねばならぬという白君の過激な意見を一々尤
もな議論と思うとは云っていますが、鼠を捕
るにも苦労していますから、どう見ても悲劇
的な猫とはいえません。革命家の素質はなさ
そうです」
「最後はビールを飲みすぎて水桶に落ち、溺
死したそうだが」
「悲劇というよりも喜劇ですね」
「悲劇に伴う情緒という点ではものたりない
が、偉大なる喜劇として終わりよければすべ
てよしというエンディングになっている」
「それでは喜劇は悲劇より偉大であるとなっ
てしまいます。読者はなぜ悲劇を好むのでし
ょうか」
「苦痛は私たちがもっとも忌むところである
が故にもっとも存在の自覚をうながす。憂き
ことのなおこの上に積もれかし、限りある身
の力試さん」
「戦国時代に滅んだ尼子氏の武将山中鹿之助
ですね。私のご先祖は尼子の落人という言い
伝えがあり、この歌は私の魂を奮い立たせる
ところがあります」
「とすると、悲劇には魂を奮い立たせ、弱い
性格をきたえるという効用があるかもしれな
い」

 吾輩の尊敬する筋向の白君などは逢う度毎
に人間程不人情なものはないと言っておられ
る。白君は先日玉の様な子供を四匹産まれた
のである。ところがそこの家の書生が三日目
にそいつを裏の池へ持って行って四匹ながら
棄てて来たそうだ。白君は涙を流してその一
部始終を話した上、どうしても我等猫族が親
子の愛を全くして美しい家族的生活をするに
は人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬとい
われた。一々尤もな議論と思う。
              (『猫』一)

  悲劇は喜劇より偉大である。
            (『虞美人草』)


知的分子の除去
   2015/11/3 (火) 09:18 by Sakana No.20151103091804

11月03日

「読者が文学賞翫に際して行う除去法には、
 1)自己関係の除去
 2)善悪の除去
 3)知的分子の除去
があることがわかりました。このうち1)と
2)についてはすでにとりあげたので、最後
に3)知的分子の除去を一瞥しておきたいと
思います」
「そもそも知的分子が欠如している人間が世
の中にはうようよいる。そんな奴はそもそも
除去するものが何もない」
「ここでは仮に人間には知的分子があるとい
うことにしておきましょう」
「それで知的分子の除去とはどういうことだ」
「むっとして弁じましたる柳かな、という俳
句を鑑賞してください」
「それだけなら意味不明の句だが、『猫』を
読んでいると。寒月が思わず吹き出した位だ
から読者も笑を誘われる」
「意味がわからない句は面白くないと思うの
ですが」
「わからぬが故に文学的価値ありだ。しかし、
『猫』では前後関係から楽屋裏がわかってし
まう。一句として独立していないから駄句と
見なされてもしかたがない」
「駄句でも小説のの中で、知的分子を除去し
使用すれば滑稽句として面白いという例のよ
うですね」

 かの俳文学の如きは誠に個中の消息を伝へ
て遺憾なきものといふべし。俗人は知的に意
味が解し難きが故に面白からずといふ。され
どある俳句に至ってはわからぬが故に文学的
価値ありとさへいひ得べし。
                (『文学論』第二編)

 「さて愈(いよいよ)本題に入りまして弁
じます」「弁じますなんか講釈師の云い草だ。
演舌家はもっと上品な詞(ことば)を使って
貰いたいね」と迷亭先生又交ぜ返す。「弁じ
ますが下品なら何と云ったらいいでしょう」
と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。
「迷亭のは聴いているのか、交ぜ返している
のか判然としない。寒月君そんな野次馬に構
わず、さっさと遣るが好い」と主人はなるべ
く早く難関を切り抜けようとする。「むっと
して弁じましたる柳かな、かね」と迷亭は不
相変(あいかわらず)飄然たる事を云う。寒
月は思わず吹き出す。    (『猫』三)



芸術のための芸術
   2015/10/31 (土) 06:56 by Sakana No.20151031065649

10月31日

「文学鑑賞において善悪の分子を除去してし
まうと、いわゆる<Art for art──芸術のた
めの芸術>(純芸術派)の説に帰することに
なります」
「芸術至上主義者だ。苦沙弥の細君のように
掃除のための掃除をする主婦もその仲間に入
るかもしれない」
「当然、読者は少ないですね」
「ヘンリー・ジェームズやジョージ・メレジ
スのような個性的作家や葛西善蔵、嘉村磯多
のような私小説作家の読者はきわめて少ない」
「道徳家(モラリスト)が、芸術至上主義者
を批判するからでしょうか」
「善悪に敏感な道徳家が善悪の分子を除去す
る芸術至上主義者を承認するはずがない」
「でも、道徳は感情にすぎません。文学の内
容は情緒を主とするものですから、読者の道
徳観を刺激して情緒再発を促すような作品を
つくったほうがよいのではないでしょうか」
「それは読者の道徳観におもねる大衆文学作
家のやることだ」
「ものはいいようですが、消費者の欲求に応
えるサービスとは考えられませんか」
「芸術家は読者に迎合してはいけない」
「それにしても、芸術至上主義の道は孤独で、
さびしいですね」
「掃除のための掃除する苦沙弥の細君もさび
しからずや」

 一体掃除の目的は運動の為か、遊戯の為か。
掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところで
ないから、知らん顔をしていれば差し支えな
い様なものの、ここの細君の掃除法の如きに
至っては頗る無意義のものと云わざるを得な
い。何が無意義であるかと云うと、この細君
は単に掃除の為の掃除をしているからである。
はたきを一通り障子へかけて、箒を一応畳の
上へ滑らせる。それで掃除は完成した者と解
釈している。掃除の源因及び結果に至っては
微塵の責任だに背負っておらん。かるが故に
綺麗所は毎日綺麗だが、ごみのある所、ほこ
りの積っている所はいつでもごみが溜ってほ
こりが積っている。     (『猫』十)

「いや君のだから読まないのじゃない。人々
個々各(おのおの)特別の個性もってるから、
人の作った詩文なぞは一向面白くないのさ。
現に今でも英国などではこの傾向がちゃんと
あらわれている。現今英国の小説家中で尤も
個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレ
ジスを見給え、ジェームズを見給え。読み手
が究めて少ないじゃないか。少ない訳さ。あ
んな作品はあんな個性のある人でなければ読
んで面白くないんだから仕方がない。この傾
向が段々発達して婚姻が不道徳になる時分に
は芸術も全く滅亡さ。そうだろう君のかいた
ものは僕にわからなくなる。僕のかいたもの
は君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間
には芸術も糞もないじゃないか」
             (『猫』十一)



君主の道徳と奴隷の道徳
   2015/10/28 (水) 06:20 by Sakana No.20151028062013

10月28日

「そもそも普遍的な道徳というものはありま
せん。君主の道徳と奴隷の道徳はちがいます」
「そんな区別をつけて世間を騒がせたのは哲
学者ニーチェだ。彼はキリスト教徒の道徳は
奴隷の道徳だから、これを捨て、別に君主の
道徳を樹立すべしと主張したらしい」
「苦沙弥先生へ華族様から郵便が届いたこと
があります。日露戦役から凱旋した将校下士
卒に対する凱旋祝賀会への義捐金の要請です」
「華族様が君主の道徳により、軍人遺族を慰
謝するためにも凱旋祝賀会を挙行することに
したのに、大平の逸民である苦沙弥は知らん
顔をして義捐金を出そうともしないのはけし
からん。非国民だ」
「でも、東北の凶作には二円か三円かの義捐
金を出しておられます」
「漱石は明治二十五年に、北海道岩内町吹上
町十七番地浅岡仁三郎方に本籍を移した。人
口の少ない北海道に本籍を移せば日清戦争へ
の徴兵逃れができるという判断からだろうと
いわれている」
「『一夜』の作者として送籍という詩人が大
平の逸民の間で噂になっていますね」
「朦朧体で徴兵忌避の事実をごまかしている」
「すると、漱石先生は君主の道徳よりも奴隷
の道徳を奉じておられたのでしょうか」
「ニーチェによれば、奴隷の道徳を奉じたの
はキリスト教徒だ。右の頬を打たれたら左の
頬を差し出せとキリストはいう。しかし、漱
石はキリスト教を信じなかった」
「でも、ストア派の哲学者エピクテタスを読
んでいます。ローマ帝国の時代、エピクテタ
スは奴隷でした。侮辱されたら、仕返しをせ
ず、ユーモアで応えることをすすめています。
特に自己卑下のユーモアが有効だと。『猫』
の苦沙弥に影響しているのではないでしょう
か」
「苦沙弥はエピクテタスの本を叩きつける様
に机の上に抛り出しているぞ」
「それはジェスチャーだけでしょう。金田に
そそのかされた落雲館の生徒たちとの<戦争>
から手をひいたのは、禅僧八木独仙のいう消
極的修養にしたがったかたちにはなっていま
すが、私は苦沙弥先生の行動にはエピクテタ
スの奴隷の哲学が反映されているような気が
しています」

 拝啓愈(いよいよ)御多祥奉賀候回顧すれ
ば日露の戦役は連戦連勝の勢に乗じて平和克
復を告げ吾忠勇義烈なる将士は今や過半万歳
声裡に凱歌を奏し国民の歓喜何ものか之に若
(し)かん曩(さき)に宣戦の大詔煥発せら
るゝや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の
異境に在りて克(よ)く寒暑の苦難を忍び一
意戦闘に従事し命を国家に捧げたるの至誠は
永く銘して忘るべからざる所なり而して軍隊
の凱旋は本月を以て殆んど終了を告げんとす
依って本会は来る二十五日を期し本区内一千
有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代
表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺
族を慰藉せんが為め熱誠之を迎え聊(いささ
か)感謝の微衷を表し度就ては各位の御協賛
を仰ぎ此盛典を挙行するの幸を得ば本会の面
目不過之(これにすぎず)と存候間何卒御賛
成奮って義捐(ぎえん)あらんことを只管
(ひたすら)希望の至に堪えず候  敬具
              (『猫』九)

、「先達(せんだっ)ても私の友人で送籍と
いう男が一夜という短編をかきましたが、誰
が読んでも朦朧としてとりとめがつかないの
で、当人に逢って、とくと主意のあるところ
を糺してみたのですが、当人もそんなことは
知らないよと云ってとりあわないのです。全
くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人
かもしれないが随分妙な男ですね」と主人が
云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君
を打ち留めた。       (『猫』六)

 そっと庭から廻って書斎の縁側へ上って障
子の隙間から覗いて見ると、主人はエピクテ
タスとか云う人の本を披いて見ておった。も
しそれが平常の通りわかるなら一寸えらいと
ころがある。五六分するとその本を叩き付け
る様に机の上へ抛り出す。大方そんな事だろ
うと思いながら猶注意していると、今度は日
記を出して下の様な事を書きつけた。
  寒月と、根津、上野、池之端、神田辺を
  散歩。池之端の待合の前で芸者が裾模様の
  春着をきて羽根をついていた。衣装は美し
  いが顔は頗るまずい。何となくうちの猫に
  似ていた。              (『猫』(二)

 吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで
机の上に叩きつける位な学者の家に寄寓する
猫で、世間一般の痴猫、愚猫とは少しく撰を
異にしている。      (『猫』三)


不道徳文学──純美感
   2015/10/25 (日) 05:02 by Sakana No.20151025050210

10月25日

「猫が風呂(公衆浴場)にまぎれこみ、人間
の裸と衣服について意見を述べる面白い場面
があります」
「デカルトの法則の発見を車夫による猿股の
発明と比較するとはひどい」
「公衆浴場で裸になるのはよいが、裸で町を
歩くとわいせつ物陳列罪になると皮肉りもし
ています」
「そもそも美術館には裸体画が陳列されてい
るのに、わいせつ物とはみなされないのがお
かしい。矛盾している」
「論理より来る矛盾ではありません。同一の
裸体画Fに対して起る情緒fの質的差異によ
る矛盾です」
「現実社会においては裸体を一個の道徳的F
として観察し、これを醜なるものとみなして
いる」
「ところが、いったん美術館に足を入れると、
単に感覚的Fとしてこれを遇し、心おきなく
芸術的鑑賞にふけることができます」
「道徳的Fはどこに行ってしまったのだ」
「識末で小さくなっています」
「そのせいか、この種の不道徳文学は最近は
話題にもならなくなったようだ」
「今となってはチャタレー裁判がなつかしい
ですね」
「昭和二十五年、D.Hローレンス作伊藤整訳
『チャタレー夫人の恋人』の大胆な性描写が
問題となり、猥褻文書販売罪で起訴され、二
年後、最高裁で発行者・訳者ともに有罪とさ
れた」

 近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体
を主張する先生もあるがあれはあやまってい
る。生れてから今日(こんにち)に至るまで
一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、
どうしても間違っている。裸体は希臘(ギリ
シャ)、羅馬(ローマ)の遺風が文芸復興時
代の淫靡(いんび)の風に誘われてから流行
りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常か
ら裸体を見做(みな)れていたのだから、こ
れをもって風教上の利害の関係があるなどと
は毫(ごう)も思い及ばなかったのだろうが
北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなる
ものかと云うくらいだから独逸(ドイツ)や
英吉利(イギリス)で裸になっておれば死ん
でしまう。死んでしまってはつまらないから
着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服
装の動物になる。一たび服装の動物となった
後に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認め
ない、獣(けだもの)と思う。それだから欧
洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像を
もって獣として取り扱っていいのである。猫
に劣る獣と認定していいのである。美しい? 
美しくても構わんから、美しい獣と見做(み
な)せばいいのである。(『猫』七)

  その昔(むか)し自然は人間を平等なるもの
に製造して世の中に抛(ほう)り出した。だか
らどんな人間でも生れるときは必ず赤裸である。
もし人間の本性が平等に安んずるものならば、
よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべき
だろう。しかるに赤裸の一人が云うにはこう誰
も彼も同じでは勉強する甲斐がない。骨を折っ
た結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰
が見てもおれだと云うところが目につくように
したい。それについては何か人が見てあっと魂
消る物をからだにつけて見たい。何か工夫はあ
るまいかと十年間考えてようやく猿股(さるま
た)を発明してすぐさまこれを穿(は)いて、
どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩
いた。これが今日(こんにち)の車夫の先祖で
ある。単簡なる猿股を発明するのに十年の長日
月を費(つい)やしたのはいささか異(い)な
感もあるが、それは今日から古代に溯(さかの
ぼ)って身を蒙昧(もうまい)の世界に置いて
断定した結論と云うもので、その当時にこれく
らいな大発明はなかったのである。デカルトは
「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子
にでも分るような真理を考え出すのに十何年か
懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れ
るものであるから猿股の発明に十年を費やした
って車夫の智慧には出来過ぎると云わねばなる
まい。            (『猫』七)


不道徳文学──崇高
   2015/10/22 (木) 07:13 by Sakana No.20151022071308

10月22日

「およそ自己以上の勢力──精神的あるいは
肉体的──に対して生じる感情は崇高という
名称の下に総括できます。この崇高という感
情にひたると、私たちは崇高に圧倒されて、
道徳的情緒を忘れてしまいがちになります」
「たとえば?」
「漱石先生があげておられるのは、三陸の海
嘯(津波)、安政の地震、天明の大火です」
「関東大震災、東京大空襲、広島と長崎への
原爆投下、阪神淡路大震災、東日本大震災─
─漱石は経験していないが、いずれもはるか
に大きな破壊をもたらした」
「『猫』で破壊的崇高の例を探してみると、
鼠捕り大作戦でバルチック艦隊を迎え撃つ東
郷大将をほうふつとさせるような悲壮と云う
崇高な美感を抱いたのにもかかわらず、猫が
眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり
動かなくなった場面の描写があります」
「崇高が滑稽に堕した事例だ」
「寒月さんが山の上でヴァイオリンを弾くと
いう崇高な行為を思いついたのに、突然後ろ
の古沼の奥でギャーと云う声がしたので、驚
いて逃げ帰ったという滑稽な事例もあります」

 吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から駈け
出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上がり、
台所の真ん中に頑張っていると三方面共少々
ずつ騒ぎ立てる。小癪なと云おうか、卑怯と
云おうか到底彼等は君子の敵ではない。吾輩
は十五六はあちら、こちらと気を疲らし心を
労(つか)らして奔走努力してみたが遂に一
度も成功しない。残念ではあるがかかる小人
を敵にしては如何なる東郷大将も施こす術が
ない。始めは勇気もあり敵愾心もあり悲壮と
云う崇高な美感さえあったが遂には面倒と馬
鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真
中へ坐ったなり動かない事になった。然し動
かんでも八方睨みを極め込んでいれば敵は小
人だから大した事は出来んのである。
              (『猫』六)

「ハハハハハこれは上出来。そこまで持って
行くには大分苦心惨憺たるものがあったのだ
ろう。僕は男子のサンドラ・ペロニが東方君
子の邦(くに)に出現するところかと思って、
今が今まで真面目に拝聴していたんだよ」と
云った迷亭君は誰かサンドラ・ペロニの講釈
でも聞くのかと思(おもい)の外、何にも質
問が出ないので「サンドラ・ベロ二が月下に
竪琴を弾いて、伊太利亜風の歌を森の中でう
たっているところは、君の庚申山へヴァイオ
リンをかかえて上るところと同曲にして異巧
なるものだね。惜い事に向うは月中の嫦娥
(じょうが)を驚ろかし、君は古沼の怪狸に
おどろかされたので、際(きわ)どいところ
で滑稽と崇高の大差を来たした。さぞ遺憾だ
ろう」と一人で説明すると、
「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は
存外平気である。
「全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、
ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と
今度は主人が酷評を加えると、
「好漢鬼窟裏に向って生計を営む。惜しい事
だ」と独仙君は嘆息した。凡そ独仙君の云う
事は決して寒月君にわかったためしがない。
恐らく誰にもでもわからないだろう。
             (『猫』十一)


不道徳文学──滑稽
   2015/10/19 (月) 05:22 by Sakana No.20151019052231

10月19日

「善悪観念を抽出した文学には非人情の文学
とは別に不道徳文学があります。この種の文
学では道徳の除去が行われ、特に落語の如き
は全くこの除去を行い得ることにより始めて
価値を有するものです」」
「落語は文学ではない。それに、非人情は許
せるが、不道徳は許せない」
「そんな発言をすると、江戸っ子から野暮と
言われますよ。実際においては道徳的に行動
している野暮な人も文学上または文学を味わ
う時にかぎって不道徳な行動をよしとする場
合があります」
「それなら漱石の作品から事例を示してもら
おう」
「実業家の細君の鼻が大きいので、鼻子と呼
ぶのは婦人に対して失礼であり、不道徳だと
思います」
「金の力で偉そうな態度をとる実業家の鼻を
からかって滑稽の効果をねらった作者の表出
法だ。明治時代は男尊女卑の時代であり、そ
んなことは不道徳にはならん」
「女性に対する嫌がらせ、つまりセクハラの
一種です」
「それなら、<クレオパトラの鼻が少し短か
ったならば世界の表面に大変化を来しただろ
う」と云った哲学者パスカルもセクハラ疑惑
で告発したらよかろう」

 主人のうちへ女客は希有だなと見ていると、
かの鋭い声の所有主は縮緬の二枚重ねを畳に
擦り付けながら這入って来る。年は四十の上
を少し超した位だろう。抜け上がった生え際
から前髪が堤防工事の様に高く聳えて、少な
くとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせ
り出している。眼が切り通しの坂位な勾配で、
直線に釣るし上げられて左右に対立する。直
線とは鯨より細いという形容である。鼻だけ
は無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真
中へ据え付けた様に見える。三坪程の小庭へ
招魂社の石灯籠を移した時の如く、独りで幅
を利かしているが、何となく落ち付かない。
その鼻は所謂鍵鼻で、ひと度は精一杯高くな
ってみたが、これでは余りだと中途から謙遜
して、先の方へ行くと初めの勢に似ず垂れか
かって、下にある唇を覗き込んでいる。かく
著しい鼻だから、この女が物を言うと云わん
より、鼻が口をきいているとしか思われない。
吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表する為め、
以来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶ積りで
ある。           (『猫』三)

「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」
と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人
が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻
子は「実は私はつい御近所で──あの向う横
町の角屋敷なんですが」「あの大きな西洋館
の倉のあるうちですか、道理であすこには金
田と云う御札が出ていますな」と主人は漸く
金田の西洋館と、金田の身を認識した様だが
金田夫人に対する尊敬の気持は前と同様であ
る。「実は宿(やど)が出まして、御話を伺
うんですが会社の方が大変忙しいもんですか
ら」と今度は少し利いたろうという眼付きを
する。主人は一向動じない。鼻子の先刻から
の言葉遣いが初対面の女にしては余り存在
(ぞんざい)過ぎるので既に不平なのである。
「会社でも一つじゃ無いんです。二つも三つ
も兼ねているんです。それにどの会社でも重
役なんで──多分御存知でしょうが」これで
も恐れ入らぬかという眼付きをする。
              (『猫』三)

「パスカルがこんな事を云っている」
「どんな事を」
「若(も)しクレオパトラの鼻が少し短かっ
たならば世界の表面に大変化を来しただろう
と」
「成程」
「それだから君の様にそう無雑作に鼻を馬鹿
にしてはいかん」      (『猫』四)


非人情
   2015/10/16 (金) 07:44 by Sakana No.20151016074431

10月16日

「猫が観察する主人の苦沙弥先生と『道草』
の健三はどちらも『文学論』を執筆中の作者
自身をモデルにしています。比較してみてく
ださい」
「苦沙弥は余裕派だが、健三には殆んど余裕
がない」
「どちらが、作者のほんとうの実像だと思い
ますか」
「どちらも実像だろうが、同一人物とはとて
も思えない」
「表を写せば、書きたいことを書いて、よく
昼寝をする余裕派だが、裏を写せば書きたい
ことを書く余裕もなく、始終机の前にこびり
ついている男──どちらも写実的な描写のよ
うですが、事実の半面しか写していないこと
がおわかりでしょう。これが作者の表出法で
あり、作者の幻惑です」
「それに対して読者が幻惑されたくないと思
えば、非人情の立場をとるしかない」
「つまり、読者は作者の表出法に幻惑されな
いように第三者の立場をとり、茶店の婆さん
を高砂の媼にしてしまうように心がけたほう
がよいということのようですね」
「能や漢詩など東洋の文学にはこの非人情趣
味深きが如く、吾が俳文学にありて殊に然り。
次に文学の不道徳分子は道化趣味と相結ばれ
て存することありと、漱石は云っているが、
いささか我田引水の気味があるのではないか」

 吾輩の主人は滅多(めった)に吾輩と顔を
合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校
から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど
出て来る事がない。家のものは大変な勉強家
だと思っている。当人も勉強家であるかのご
とく見せている。しかし実際はうちのものが
いうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び
足に彼の書斎を覗(のぞ)いて見るが、彼は
よく昼寝をしている事がある。時々読みかけ
てある本の上に涎(よだれ)をたらしている。
               (『猫』一)

 健三は実際その日その日の仕事に追われて
いた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は
少しもなかった。その上彼は自分の読みたい
ものを読んだり、書きたい事を書いたり、考
えたい事を考えたりしたかった。それで彼の
心は殆んど余裕というものを知らなかった。
彼は始終机の前にこびりついていた。
              (『道草』)

 どうせ誰か出るだろうとは思っていた。竈
(へつい)に火は燃えている。菓子箱の上に
銭が散らばっている。線香は呑気(のんき)
に燻っている。どうせ出るにはきまっている。
しかし自分の見世(みせ)を明(あ)け放し
ても苦にならないと見えるところが、少し都
とは違っている。返事がないのに床几に腰を
かけて、いつまでも待ってるのも少し二十世
紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白
い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
 二三年前宝生(ほうしょう)の舞台で高砂
を見た事がある。その時これはうつくしい活
人画だと思った。箒を担(かつ)いだ爺さん
が橋懸(はしがか)りを五六歩来て、そろり
と後向(うしろむき)になって、婆さんと向
い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につ
く。余の席からは婆さんの顔がほとんど真
(ま)むきに見えたから、ああうつくしいと
思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメ
ラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔
はこの写真に血を通わしたほど似ている。
              (『草枕』) 


善悪の抽出
   2015/10/13 (火) 06:52 by Sakana No.20151013065227

10月13日

「次に読書が文学を賞翫する際における善悪
の抽出という問題を考えたいと思います」
「善悪を抽出してしまうと、この世は闇だ。
世の中の秩序と安全はどうなる?」
「然るに、文学は少なくとも道徳的問題に対
し其の道徳的分子を忘れ得るものにして、此
の性質なき人は完全に文学を理解する能はざ
る奇怪な地位にあるものとす」
「それは具体的にはどういうことか」
「華厳の滝に飛び込んで死んだ藤村操の巌頭
の詩は読者に壮烈な感動を与えますが、それ
は読書という間接経験の場合にかぎられます。
もし私たちが現実に目の前で身投げをしよう
とする青年を見かけたら、背後から抱きとめ
て、<死んで花見が咲くものか>と、命を救
おうとするでしょう」
「つまり直接経験においては壮烈美の満足よ
りは徳義の情に駆られて人命救助を優先する
ということか」
「このような人生と文学の違い、直接経験の
情緒fと間接経験の情緒fとのずれという現
象は注目に値します。『猫』では迷亭が、五
歳か六歳の頃、つまり明治維新直後の混乱期
には、女の子を唐茄子の様に籠へ入れて天秤
棒で担いで売ってあるいたと言っていますが、
そんな人身売買が赦されると思いますか」
「いくら明治初年の混乱期でも、白昼堂々、
そんな人身売買があったとは思えない。迷亭
の法螺だろうが、笑い話としては面白い」
「坊っちゃんが宿直をしている夜に外出して
温泉に入るのは規則違反で悪いことですが、
坊っちゃんが屁理屈をこねて正しいことにし
てしまいます。読者はその屁理屈を受け入れ
て、悪いことだとは思わないような心理にさ
せられます」
「この善悪観念の抽出が文学の或る部分の賞
翫に欠くべからざる条件というのか」
「ええ、二種類に分けられます。一つは非人
情と名づくべきもの、もう一つは不道徳文学
と名づくべきものです」

「実にお気の毒さ。しかもその時分の女が必
ずしも今の女より品行がいいと限らんからね。
奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのとや
かましく云いますがね。なに昔はこれより烈
(はげ)しかったったんですよ」「そうでし
ょうか」と細君は真面目である。「そうです
とも。出鱈目じゃやない。ちゃんと証拠があ
るから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も
覚えているかもしれんが僕等の五六歳の時ま
では女の子を唐茄子の様に籠へ入れて天秤棒
で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」
「僕はそんな事は覚えておらん」「君の国じ
ゃどうだか知らないがが、静岡じゃ慥かにそ
うだった」「まさか」と細君が小さい声を出
すと、「本当ですか」と寒月君が本当らしか
らぬ様子で聞く。
「本当さ。現に僕のおやじが値を付けた事が
ある。その時僕は何でも六つ位だったろう。
おやじと一緒に油町から通町へ散歩に出ると、
向こうから大きな声をして女の子はよしかな、
女の子はよしかなと怒鳴ってくる。僕等が丁
度二丁目の角へ来ると、伊勢源と云う呉服屋
の前でその男と出っ食わした。(『猫』六)

 飯は食ったが、まだ日が暮(く)れないか
ら寝る訳に行かない。ちょっと温泉に行きた
くなった。宿直をして、外へ出るのはいい事
だか、悪るい事だかしらないが、こうつくね
んとして重禁錮(じゅうきんこ)同様な憂目
に逢うのは我慢の出来るもんじゃない。始め
て学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょ
っと用達(ようたし)に出たと小使が答えた
のを妙だと思ったが、自分に番が廻ってみる
と思い当る。出る方が正しいのだ。おれは小
使にちょっと出てくると云ったら、何かご用
ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはい
るんだと答えて、さっさと出掛けた。
           (『坊っちゃん』)



自己関係の除去
   2015/10/10 (土) 06:53 by Sakana No.20151010065322

10月10日

「自己関係の除去とはどういうことだ」
「私たちが文学作品を愛読するという場合、
その作者の表出の方法に同意しているはずで
す。ところが、その作者の表出法は故意にあ
るいは無意識のうちに多くの事実的分子を除
去しています」
「けしからん」
「作者の表出法に同意している以上、文句は
いえません。そのような事実的分子を除去し
た文学作品を読んだ結果、私たちに生じる情
緒fは、その実物に対して感じる情緒fと質
において異なります」
「自分の情緒fを作者の掌中にゆだねた結果、
洗脳されてしまう危険もある」
「文芸に没自己の性ありと言われるように、
自己関係の除去は、読書という間接経験の特
徴の一つです」
「たしかに、読者の自己は作中人物との利害
関係を持たない」
「自己が現実に猫を飼っていれば、その猫が
車屋の黒のようなガラの悪い猫と交際しては
いけないと思うでしょうが、小説なら猫が誰
と交際しようと何とも思いません」
「『虞美人草』のヒロインの藤尾が虚栄の毒
を仰いで死ぬと、読者からの抗議が殺到した
そうだが、そんな読者は自己関係を除去して、
藤尾のような虚栄の女に魅せられたにちがい
ない。作者の表出法がすぐれていたというべ
きか、それとも読者が幻惑されやすいという
べきか」

 吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざ
るを得なかった。「己(お)れあ車屋の黒(く
ろ)よ」昂然(こうぜん)たるものだ。車屋
の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。
しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育
がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠
主義の的(まと)になっている奴だ。
              (『猫』一)

 凝る雲の底を抜いて、小一日空を傾けた雨
は、大地の髄に浸み込むまで降って歌んだ。
春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、李に、
且つ散り、且つ散って、残る紅も亦夢のよう
に散ってしまった。春に誇るものは悉く亡ぶ。
我の女は虚栄の毒を仰いで斃れた。花に相手
を失った風は、徒に亡き人の部屋に薫り初め
る。          (『虞美人草』)


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