ほくしん文芸クラブ
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対置法---緩勢法
   2016/6/24 (金) 07:17 by Sakana No.20160624071709

06月24日
        
「対置法(Counterposition)の一番目は緩勢
法(methods of attenuation)です」
「緩勢法とは如何なる法か」
「醒覚に対する睡眠の如し」
「なんだ?」
「人間は一日二十四時間、覚醒したままではた
まりません。自然はこれに配して外界の刺激を
緩くしてくれるのです」
「それで苦沙弥は相変わらず昼寝をするのか」
「生活習慣になっていますから」
「午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦
沙弥のように生活習慣としてやるのは少々俗気
がすぎる」
「あるいはまた、蒲焼に対する漬物の如し」
「なんだ、なんだ?」
「うなぎは最も脂肪に富む濃厚な食物ですから
これを和らげるために清新な漬物を添える必要
があります」
「要するにバランスをとる工夫だ」
「それが緩勢法です」

「時にご主人はどうしました。相変わらず午
睡(ひるね)ですかね。午睡も支那人の詩に
出てくると風流だが、苦沙弥君の様に日課と
してやるのは少々俗気がありますね。何の事
あない毎日少しずつ死んでみる様なものです
ぜ。奥さん御手数だが一寸起していらっしゃ
い」と催促する。(『猫』六)


対置法
   2016/6/21 (火) 12:37 by Sakana No.20160621123737

06月21日

「同種もしくは類似の情緒fを偶する技巧を
調和法といい、異種殊に反対のfを配合する
場合を対置法といいます」
「すると・・・・・・」
「投出語法、投入語法、自己と隔離せる連想
は調和法の変体であり、対置法は滑稽的連想
を拡大したものです」
「よくわからん」
「対置はいわば消極の調和です。両者の関係
は死と生の如し」
「ますますわからん」
「対置法には強勢法、緩勢法、不対法の三種
があり、対置法もどきに仮対法があり、頭が
混乱するかもしれませんが、英訳をてがかり
にして理解をすすめてください。
 対置法   Counterposition
  強勢法      methods of emphasis
  緩勢法      methods of attenuation
    仮対法  pseudo-opposition
    不対法      methods of nonopposition」
「何のためにこんなことを理解しなければな
らないのか」
「文学の第二の目的即ち幻惑の方法を知って
おくためです」

「昔は亭主に口返答なんかした女は、一人も
なかったんだって云ふが、夫(そ)れなら唖
を女房にして居ると同じ事で僕などは一向難
有(ありがたく)ない。矢っ張り奥さんの様
にあなたは重いじゃありませんかとか何とか
云はれて見たいね。同じ女房を持つ位なら、
たまには喧嘩の一つ二つしなくちや退屈で仕
様がないからな。僕の母杯(など)と来たら、
おやぢの前へ出てはいとへいで持ち切って居
たものだ。さうして二十年も三十年も一所に
なつて居るうちに寺参りより外に外へ出た事
がないと云ふんだから情けないじゃないか」
              (『猫』六)


調和法は人工的因果の観念を去らんとす
   2016/6/18 (土) 10:44 by Sakana No.20160618104420

06月18日

「調和法の補足として、人工的因果という問
題にふれておきたいと思います」
「人工的因果?」
「ええ、文芸上の真を伝える文章で、自然の
因果を用いると調和法になりますが、人工的
因果はいけません」
「どうすればいいんだ?」
「作者の思想や情緒を読者に強いてはいけな
いのです。人工的因果の観念を去らんとせば
「故に」「従って」等凡て因果に関する接続
詞を廃せざる可らず」
「ああ、それで「故に」と「従って」という
接続詞がつかわれている文例をわざわざ探し
てきたのか」
「『猫』のなかでも、悪しき文例としてあえ
て御紹介しました」
「余は思考す故に余は存在すは、デカルトの
有名な言葉だ。「故に」がちっとも不自然な
感じがしない」
「よく考えてください。やはり不自然です」
「もう一つの「従って」の文例もそれほど不
自然な感じはしない」
「他にも。「だから」とか「然しながら」と
かの接続詞が使われています」
「飼主の苦沙弥が教師という因果な職業だか
ら、猫も自然に人工的因果が得意になるのだ
ろう」

 デカルトは「余は思考す故に余は存在す」
という三つ子にでも分る様な真理を考え出す
のに十何年か懸つたそうだ。凡て考え出す時
には骨の折れるものであるから猿股の発明に
十年を費やしたって車夫の智慧には出来過ぎ
ると云わねばならない。   (『猫』七)

 吹き通しも夏はせいせいして心持ちがいい
ものだ。不用心だって金のない所に盗難のあ
る筈はない。だから主人の家に、あらゆる塀、
垣、乃至は乱杭、逆茂木の類は全く不要であ
る。然しながらこれは空地の向うに住居する
人間若(もし)くは動物の種類如何に因って
決せらるる問題であろうと思う。従ってこの
問題を決する為には勢い向う側に陣取ってい
る君子の性質を明かにせんければならん。
              (『猫』六)



調和法
   2016/6/15 (水) 06:10 by Sakana No.20160615061047

06月15日

「次は調和法(Harmonization Technique)で
す」
「黄金律を応用した文章が調和法だというのな
らともかく、金田鼻子の鼻は黄金律を失してい
る、つまり調和を欠いているというのではむし
ろ不調和法と称するべきではないか」
「では小事件を叙し了り、大事件を述べ了って
から余瀾を描き出して、全篇の結びを付けると
いう構想はどうでしょう」
「それも知的材料の理屈がすぎる。知的材料だ
けでは読者がついてこないから、感覚的材料を
添えて、調和をはかってくれ」
「そうですね。知的材料は力の弱い文学的材料
ですから、勢いがさらに有力な感覚的内容や人
事的内容を配することによって全体の興味を大
ならしめることを考えたほうがよいでしょう。
余瀾を描く際に登場する人物の描写に感覚的な
材料が使用されている文例もつけ加えました。
読んでみてください」
「なるほど、迷亭はふわふわと池に浮いている
金魚、鈴木藤三郎は藁で括った蒟蒻、哲学者は
長くなって泥の中に埋っている自然薯と、大平
の逸民たちがみんな具体的なイメージで目の前
にうかんでくるようだ」
「調和法の極意がおわかりいただけたでしょう
か」

「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの
顔は到底調和しない。ツァイシングの黄金律を
失していると云う事なんで、それを厳格に力学
上の公式から演繹して御覧に入れようと云うの
であります。先ずHを鼻の高さとします。αは
鼻と顔の平面の交差より生ずる角度であります。
Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大
抵お分かりになりましたか・・・・・」
「分かるものか」と主人がいう。「寒月君はど
うだい」「私にもちと分りかねますな」「そり
ゃ困ったな。苦沙弥はとにかく、君は理学士だ
から分かるだろうと思ったのに。この式が演説
の首脳なんだからこれを略しては今までやった
甲斐がないのだが──まあ仕方がない。公式は
略して結論だけ話そう」(『猫』(三))

 吾輩は既に小事件を叙し了り、今又大事件を
述べ了ったから、これより大事件の余瀾を描き
出して、全篇の結びを付ける積りである。凡て
吾輩のかく事は、口から出任せのいい加減と思
う読者もあるかも知れないが決してそんな軽率
な猫ではない。一字一句の裏に宇宙の一大哲理
を包含するは無論の事、その一字一句が層々連
続すると首尾相応じ前後相照らして、瑣談繊話
と思ってうっかりと読んでいたものが忽然豹変
して容易ならざる法語となるんだから、決して
寝ころんだり、足を出して五行ごと一度に読む
のだなどと無礼を演じてはいけない。
                  (『吾輩は猫である』八)

  何と云う名前か知らん。只顔の長い上に、山
羊の様な髭を生やしている四十前後の男と云え
ばよかろう。迷亭の美学者たるに対して、吾輩
はこの男を哲学者と呼ぶ積りである。なぜ哲学
者と云うと、何も迷亭の様に自分で振り散らす
からではない。只主人と対話する時の様子を拝
見していると如何にも哲学者らしく思われるか
らである。これも昔しの同窓と見えて両人共応
対振り至極打ち解けた有様だ。
「うん迷亭か。あれは池に浮いている金魚麩の
様にふわふわしているね。先達て友人を連れて
一面識もない華族の門前を通行した時、一寸寄
って茶でも飲んで行こうと云って引っ張り込ん
だそうだが随分呑気だね」
「それでどうしたい」
「どうしたか聞いてもみなかったが、------、
まあ天賓の奇人だろう。その代わり考えも何も
ない金魚麩だ、鈴木か、-----あれがくるのい、
へぇー-、あれは理屈はわからんが世間的には
利口な男だ。金時計は下げられるたちだ。然し
奥行きがないから落ちつきがなくて駄目だ。円
滑円滑と云うが、円滑の意味も何もわかりはせ
んよ。迷亭が金魚麩ならあれは藁で括った蒟蒻
だね。ただわるく滑かでぶるぶる振えているば
かりだ」
 主人はこの奇警な比喩を聞いて、大に感心し
たものらしく、久し振りでハハハと笑った。
「それなら君は何だい」
「僕か。そうさな僕なんかは------まあ、自然
薯位なところだろう。長くなって泥の中に埋っ
てるさ」
「君は始終泰然として気楽な様だが、羨ましい
な」(『猫』八)


滑稽的連想の厭味
   2016/6/12 (日) 06:16 by Sakana No.20160612061602

06月12日

「『文学論』の副産物である『吾輩は猫であ
る』は明治三十八年(1905)1月から翌年8月
まで『ホトトギス』に発表され、好評を博し
ました」
「そのおかげで、漱石は十年計画で研究する
予定だった『文学論』を放り出してしまった」
「大学教師を辞めて、朝日新聞に入社し、専
業作家になるという運命です」
「それはまあ理解できないこともないが、一
つ疑問がある。『猫』は余裕派の作品で、こ
のような気楽な書き方ならいくらでも続編が
量産できそうだ。ストレス解消になって、胃
潰瘍にもなりにくい。朝日新聞の読者もそれ
を期待していたはずだが、なぜ滑稽的連想小
説を二度と書かなかったのだろう」
「滑稽的連想には厭味があるからです。その
ことについては『文学論』で言及されていま
す」
「柳の下にいるもう一匹の泥鰌を捕まえれば
よかったのにもったいない」
「『猫』が評判になりすぎて、文体を模倣す
る人があらわれました。たとえば、渋川玄耳
『東京見物』とか米窪太刀雄『海のロマンス』
とか」
「きみの書く文章だって『猫』を模倣してい
る。よく十年間もそのような模倣的文体で書
き続けられるものだ」
「私は脳と胃の健康のためにやっているので
す。おかげさまで私は神経衰弱にも胃潰瘍に
もなっていません」

「東京見物」が東朝(東京朝日新聞の略)紙
上にあらはれたのが余の入社と前後した為め、
且は其の筆致の「猫」に似て居る為め、掲載
の当時は漱だ>>と云ふ評判が大分八釜敷か
った。余計なお世話である。
(渋川玄耳『東京見物』序文 明治四十年)

 あなたの文章は才筆です。少しの淀みもな
く、それからそれと縦横にペンを駆使して行
く御手際は殆んど素人らしくありません。
(中略)あなたの文章は私が昔し書いたもの
の系統を何処かに引いて居ます。それが私に
は猶更辛いのです。人の文章が自分の文章の
悪い所に似てゐる。私に取って是程面目ない
事はありません。私は「猫」を書いて何遍か
後悔しました。さうして其後悔の過半は「猫」
らしい文章を読んだ時に起つたのです。あな
たが私の文章を真似たと云っては失礼です。
然し私の文章の悪い所があなたの文章にもあ
ると云ふ事は疑もない事実です。私は其後自
分の非を改めた積りです。
(米窪太刀雄『海のロマンス』(大正二年十
二月二十日付の書簡体序文)


滑稽的連想(口合、頓才)
   2016/6/9 (木) 07:28 by Sakana No.20160609072828

06月09日

「次は滑稽的連想(Comic Association)で
す」
「いよいよ『文学論』の副産物というか、
文豪漱石の文壇デビューにつながる『吾輩
は猫である』のおでましだ」
「投出語法や投入語法は常識的な共通性の
ある二者の連想ですが、滑稽的連想は意表
外な共通性により突飛なる綜合を生じたる
時始めてその特性を発揮するものです」
「その代表的な例が、オタンチン・パレオ
ロガスか。馬鹿バカしい」
「オタンチンというのはまぬけという意味
です」
「そんなことはわかっている」
「東ローマ帝国最後の皇帝の名前はコンス
タンチン・パレオロガスです]
「語呂合わせの駄洒落にすぎない」
「口合(pun)というそうです。それに対し
て頓才(wit)は論理的知力の作用を待って
滑稽的興味を喚起するもの」
「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が
必ずカーライルにはなれないさなどという
屁理屈が論理的知力の作用とみなすのは如
何なものか」

「まるで論理に合わん。それだから貴様は
オタンチン、パレオロガスだと云うんだ」
(『猫』五)

  せんだってその友人で某なにがしという
学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべ
ての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果
にほかならないと云う議論をした。大分研
究したものと見えて、条理が明晰で秩序が
整然として立派な説であった。気の毒なが
らうちの主人などは到底これを反駁くする
ほどの頭脳も学問もないのである。しかし
自分が胃病で苦しんでいる際だから、何と
かかんとか弁解をして自己の面目を保とう
と思った者と見えて、「君の説は面白いが、
あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたか
もカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名
誉であると云ったような、見当違いの挨拶
をした。すると友人は「カーライルが胃弱
だって、胃弱の病人が必ずカーライルには
なれないさ」と極め付けたので主人は黙然
としていた。(『猫』二)




自己と隔離せる連想
   2016/6/6 (月) 08:21 by Sakana No.20160606082133

06月06日

「投出語法、投入語法に続いて、文芸上の真
を伝える連想法として、自己と隔離せる連想
(Dissociation)を考えてみたいと思います」
「この薬罐が自己と隔離せる連想だというの
か」
「作者の自己が投出されているのは猫ですが、
猫は書生の顔と隔離されているし、薬罐とも
隔離されています」
「書生の顔は薬罐と似ている」
「それは猫とはかかわりがありません」
「しかし、書生の顔から薬罐を連想するのは
猫即ち作者のこころだ。したがって、作者の
心理が投出されているともいえるのではない
か」
「そうともいえますが、作者=猫の自己とは
隔離されている。投出語法や投入語法と同列
にするわけにはいきません」
「どうでもいいようなことだと思うが、まあ
いいだろう」

 掌の上で少し落ち付いて書生の顔を見たの
が所謂人間というものの見始であろう。この
時妙なものだと思った感じが今でも残ってい
る。第一毛を以て装飾されべき筈の顔がつる
つるしてまるで薬罐だ。その後猫にも大分逢
ったが、こんな片輪には一度も出会(でく)
わした事がない。 (『猫』一)
 


投入語法
   2016/6/3 (金) 05:02 by Sakana No.20160603050229

06月03日

「次は投入語法にすすみます」
「投出語法とどうちがうんだ」
「英語でいうと、投出語法(擬人法をふくむ)
はProjection (Personification or Prosopopeia)、
投入語法は、Introjection (Metaphor, Simile)
となっています。Metaphorは暗喩、隠喩、 Simile
は直喩、明喩」
「それで、どうせ僕なんか行徳の俎なんだか
らなあと、迷亭がいうと、行徳の俎が迷亭に
投入されていると理解してよいのだな」
「そうだと思います」
「しかし、行徳の俎がどんなものかわからな
い」
「まずそんなところだろうと、苦沙弥先生は
知らなくても、誤魔化していますから、読者
である私たちもわかったふりをして、笑って
いればよいでしょう」

  迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕
などは行徳の俎(まないた)という格だから
なあ」と笑う。「まずそんなところだろう」
と主人が云う。実は行徳の俎と云う語を主人
は解さないのであるが、さすが永年教師をし
て誤魔化しつけているものだから、こんな時
には教場の経験を社交上にも応用するのであ
る。             (『猫』)


投出語法──漢詩
   2016/5/31 (火) 05:11 by Sakana No.20160531051115

05月31日

「『明暗』は作者の死によって未完のまま、
わけがわからんままに終わった近代小説の名
作です」
「わけがわからん代物がなぜ近代小説の名作
なのか?」
「久米正雄と芥川龍之介あての手紙の漢詩に
ヒントがあるようです」
「明暗雙雙三萬字------ますますわけがわか
らん」
「わけのわからん小説を読んで、大いに俗了
されたこころが漢詩によって洗われたような
心地がしてきませんか」
「小説よりも漢詩を読んだほうがましという
心地なら理解できる」
「住みて人間に在り道情足(おお)し------
道をもとめる情が多いという詩句に注目して
ください。悩みながら、道をもとめる作者が
投出されていると思います」
「漢詩に作者が投出されていることはみとめ
るが、『明暗』という小説に作者が投出され
ているかどうかはわからん」
「小説と漢詩は一体とみなせばよいでしょう」

 あなたがたから端書がきたから奮發して此
手紙を上げます。僕は不相變「明暗」を午前
中書いてゐます。心持は苦痛、快樂、器械的、
此三つをかねてゐます。存外凉しいのが何よ
り仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな
事を書いてゐると大いに俗了された心持にな
りますので三四日前から午後の日課として漢
詩を作ります。日に一つ位です。さうして七
言律です。中々出來ません。厭になればすぐ
已めるのだからいくつ出來るか分りません。
あなた方の手紙を見たら石印云々とあつたの
で一つ作りたくなつてそれを七言絶句に纏め
ましたから夫を披露します。久米君は丸で興
味がないかも知れませんが芥川君は詩を作る
といふ話だからこゝへ書きます。
 尋仙未向碧山行。住在人間足道情。
  明暗雙雙三萬字。撫摩石印自由成。
 (句讀をつけたのは字くばりが不味かつた
からです。明暗雙々といふのは禪家で用ひる
熟字であります。三萬字は好加減です。原稿
紙で勘定すると新聞一回分が一千八百字位あ
ります。だから百回に見積ると十八萬字にな
ります。然し明暗雙々十八萬字では字が多く
つて平仄が差支へるので致し方がありません
故三萬字で御免を蒙りました。結句に自由成
とあるは少々手前味噌めきますが、是も自然
の成行上已を得ないと思つて下さい) 
 (夏目漱石から久米正雄・芥川龍之介あて
  の手紙 大正5年8月21日)


投出語法──明暗
   2016/5/27 (金) 08:32 by Sakana No.20160527083200

05月28日

 「『明暗』の津田は三十歳。『それから』の
代助と同年齢ですが、代助と違って勤め人だ
 し、妻帯もしています」
 「漱石も三十歳の頃、熊本の高校で先生勤め
 をしていたし、妻帯もしていた」
 「津田のように父親からの生活費の援助を受
けていません。逆に月給の一部をさいて、父
 親に仕送りするような孝行息子でした。津田
には作者が投出されているとは思えません」
 「小林という貧乏な友人と津田との会話は不
 自然だね。友人ではなく、天敵のようだ」
 「そういわれてみると、そうですね」
 「小林は津田の心に入り込んで、下司の勘ぐ
 りのようないやみを吐き散らす。そして、僕
が予言するから見ていろ。今に戦いが始まる
 から、などという」
 「悪魔のささやきでしょうか」
 「戦場は津田の心だ。つまり小林は津田の内
 面心理に侵入している。もしかしたら、小林
に作者の一部が投出されているのかもしれな
 い」
 「まさか」
 「いや、実は津田にも小林にも作者が投出さ
 れていて、二人芝居をしているのかもしれん
 ぞ。なにしろ作者は神経衰弱で狂気の多重人
 格者だから、読者を幻惑するためには何をす
 るかわからん」
 「そんな風に考えはじめたら私の頭が変にな
 ってきます」

 「君は自分の好みでお延さんを貰ったろう。
だけれども今の君は決してお延さんに満足し
 ているんじゃなかろう」
 「だって世の中に完全なもののない以上、そ
 れも已(や)むを得ないじゃないか」
 「という理由を付けて、もっと上等なのを探
し廻る気だろう」
 「人聞(ひとぎき)の悪い事を云うな。失敬
な。君は実際自分でいう通りの無頼漢だね、
 観察の下卑で皮肉な処から云っても、言動の
無遠慮で、粗野な所から云っても」
 「そうしてそれが君の軽蔑に値する所以(ゆ
 えん)なんだ」
 「勿論さ」
 「そらね。そう来るから畢竟(ひっきょう)
 口先じゃ駄目なんだ。矢っ張り実戦でなくち
 ゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見てい
 ろ。今に戦いが始まるから。その時漸く僕の
敵でないという意味が分かるから」
 「構わない。擦れっ枯らしに負けるのは僕の
名誉だから」
 「強情だな。僕と戦うんじゃないぞ。
 「じゃ誰と戦うんだ」
 「君は今既に戦いつつあるんだ。それがもう
少しすると実際の行為になって外へ出るだけ
 なんだ。余裕が君を煽動して無役(むえき)
の負戦(まけいくさ)をさせるんだ」
  津田はいきなり懐中から紙入れを取り出し
 て、お延と相談の上、餞別の用意に持って来
た金を小林に突き付けた。
 「今渡して置くから受取っておけ。君と話し
 ていると、段々この約束を履行するのが厭に
 なるだけだから」
  小林は新らしい十円紙幣の二つに折れたの
 を広げて丁寧に、枚数を勘定した。
 「三枚あるね」






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