夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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詩的な文章と散文的な文章
   2015/3/4 (水) 07:25 by Sakana No.20150304072521

03月04日

「沙翁の句は一方において時間を煎じつめ、
一方では空間を煎じつめて、そうして鮮(あ
ざや)かに長時間と広空間とを見せてくれて
おります」
「時間と空間を煎じ詰める言葉の魔術」
「デフォーの文章のかき方は長いものは長い
なり、短いものは短いなりに書き放して毫
(ごう)も煎じつめたところがありません。
読者に対して不親切な書き方です」
「そうだろうか。沙翁よりもデフォーの文章
のほうが読みやすいと思う」
「デフォーは車夫のような文章家です」
「車夫?無法松の一生は面白かった」
「それは映画でしょう。ここでは文芸の哲学
的基礎を論じ、詩的な文章と散文的な文章を
比較しているのですよ」
「俺の心は汚い。奥さんにすまん!」

 してみると沙翁の句は一方において時間を煎じつめ、一方では空
間を煎じつめて、そうして鮮(あざや)かに長時間と広空間とを見
せてくれております。あたかも肉眼で遠景を見ると漠然(ばくぜん)
としているが、一(ひと)たび双眼鏡をかけると大きな尨大(ぼう
だい)なものが奇麗(きれい)に縮まって眸裡(ぼうり)に印する
ようなものであります。そうしてこの双眼鏡の度を合わしてくれる
のがすなわち沙翁なのであります。これが沙翁の句を読んで詩的だ
と感ずる所以(ゆえん)であります。
 ところがデフォーの文章を読んで見るとまるで違っております。
この男のかき方は長いものは長いなり、短いものは短いなりに書き
放して毫(ごう)も煎じつめたところがありません。遠景を見るの
に肉眼で見ています。度を合せぬのみか、双眼鏡を用いようともし
ません。まあ智慧(ちえ)のない叙方と云ってよいでしょう。ある
いは心配して読者の便宜(べんぎ)をはかってくれぬ書き方、呑気
(のんき)もしくは不親切な書き方と云っても悪くはありますまい。
もしくは伸縮方を解せぬ、弾力性のない文章と評しても構わないで
しょう。汽車電車は無論人力さえ工夫する手段を知らないで、どこ
までも親譲りの二本足でのそのそ歩いて行く文章であります。した
がって散文的の感があるのです。散文的な文章とは馬へも乗れず、
車へも乗れず、何らの才覚がなくって、ただ地道(じみち)に御拾
いでおいでになる文章を云うのであります。これはけっして悪口で
はありません、御拾いも時々は結構であります。ただ年が年中足を
擂木(すりこぎ)にして、火事見舞に行くんでも、葬式の供に立つ
んでも同じ心得で、てくてくやっているのは、本人の勝手だと云え
ば云うようなものの、あまり器量のない話であります。デフォーは
はなはだ達筆で生涯(しょうがい)に三百何部と云う書物をかきま
した。まあ車夫のような文章家なのです。


車夫が車を引くような文章
   2015/3/7 (土) 08:59 by Sakana No.20150307085914

03月07日

「車夫が車を引くような文章をデフォーが書
いているというのは差別的表現。デフォーは
ともかくとして、車夫に対して失礼だ」
「車夫という職業は現代の日本からは消えて
いるので、どこからも抗議の声はあがらない
でしょう」
「浅草では観光客を乗せた人力車が今も走っ
ている」
「粋ですね。あんな文章を書いてみたいもの
です」
「ところで、この話は数年前にも聞いた記憶
がある」
「ええ、七年前に『文学評論』でとりあげて
います。記憶をあらたにするため、そのとき
の問答を再掲しておきましょう」
「七年間、いったい何をしていたのだろう」

●車夫が車を引くような文章
   2008/10/19 (日) 08:48 by Sakana No.20081019084801

「デフォーは日常の事実以外に何事をも書か
ぬ人であると漱石先生は言っておられます」
「『ロビンソン・クルーソー』は非日常的な
漂流譚ではないか」
「その漂流譚でさえ車夫が車を引くような具
合に書いてあるそうです」
「古めかしいたとえだ。風情がある」
「ほめているのではなく、けなしているので
すよ」
「そうかな。カミユ『ペスト』の冒頭には次
の引用がある。<ある種の監禁状態を他のあ
る種のそれによって表現することは、何であ
れ実際に存在するあるものを、存在しないあ
るものによって表現することと同じくらいに、
理にかなったことである。 ダニエル・デフ
ォー>」
「それは『ロビンソン・クルーソー』ではな
く、おそらく『倫敦疫病日誌』からの引用で
しょう」
「宮崎嶺雄訳だから翻訳調なのは仕方がない
が、車夫が車を引くような具合に書いてある
とは思えない」
「見解の相違ですね」



技巧・余裕派と人生・深刻派
   2015/3/10 (火) 07:17 by Sakana No.20150310071758

03月10日

「沙翁とデフォーの文章の比較によって、文
芸に在(あ)って技巧は大切なものであると
云う結論を得ることができました」
「文芸は英語でいうと、literary artだから
英文学を学べば技巧が必要だと思うだろうよ」
「技巧などはどうでもよいと主張する一派も
いますね。人生に触れるのが文芸の大目的だ
と」
「自然主義文学の一派だ。彼らは漱石を余裕
派と呼んで敵視した」
「本当に余裕があれば、神経衰弱や胃潰瘍に
はなりませんよ。人生の深淵に触れていなが
ら、余裕派に見せかける技巧を磨いて、やっ
と狂気を抑えることができたのです。生きて
いく上では余裕も大切なものではないでしょ
うか」」
「文人墨客として俳句や漢詩をつくったりし
ていると、余裕派とみなされる。赤貧洗うが
ごとき貧乏をしながら愛欲地獄にのたうつ人
生を露骨に描写しなければならないと自然主
義の一派は主張する」
「貧すれば鈍するともいいますね」

 これで二家の文章の批評は了(おわ)ります。この批評によって、
我々の得た結論は何であるかと云うと、文芸に在(あ)って技巧は
大切なものであると云う事であります。もし技巧がなければせっか
くの思想も、気の毒な事に、さほどな利目(ききめ)が出て来ない。
沙翁とデフォーは同じ思想をあらわしたのでありますが、その結果
は以上のごとく、大変な相違を来(きた)します。思想が同じいの
にこれほどな相違が出るのは全く技巧のためだと結論します。近頃
日本の文学者のある人々は技巧は無用だとしきりに主張するそうで
すが、いまだ明暸(めいりょう)なる御考えを承(うけたまわ)っ
た事がないから、何とも申されませんが、以上の説明によると、文
芸家である以上は、技巧はどうしても捨てる訳には、参るまいと信
じます。そうして以上の説明はけっして論理その他の誤謬(ごびゅ
う)を含んでおらんと信じます。有名な人の作曲さえやれば、どん
な下手が奏しても構わないと云う御主意ならば文章も技巧は無用か
も知れませんが、私にはそうは思われません。そうして技巧を無用
視せらるる方(かた)のうちには人生に触れなくては駄目だ、技巧
はどうでもよい、人生に触れるのが目的だと言われる人が大分ある
ようですが、これもまだ明暸な説明を承った事がないから何の意味
だか了解できませんが、この言葉を承わるたびに何だか妙な心持が
します。ただ触れろ触れろと仰(おおせ)があっても、触れる見当
(けんとう)がつかなければ、作家は途方に暮れます。むやみに人
生だ人生だと騒いでも、何が人生だか御説明にならん以上は、火の
見えないのに半鐘を擦(す)るようなもので、ちょっと景気はいい
ようだが、どいたどいたと駆(か)けて行く連中は、あとから大に
迷惑致すだろうと察せられます。人生に触れろと御注文が出る前に、
人生とはこんなもの、触れるとはあんなもの、すべてのあんな、こ
んなを明暸にしておいてさてかような訳だから技巧は無用じゃない
かと仰せられたなら、その時始めて御相手を致しても遅くはなかろ
うと思って、それまでは差し控える事に致しております。もし私の
方で申す人生に触れるという意味が御承知になりたければ今じきに
明暸なる御答えを仕(つかまつ)ってもよろしいが、ついでもある
事だから、次の節まで待っていただきましょう。



市気匠気のある芸術家
   2015/3/13 (金) 08:20 by Sakana No.20150313082051

03月13日

「画家が一本の線を引くとき、その一線だけ
では画は成立しませんが、勢いがあって、画
家の意志に対する理想を示すことができます」
「機械的に線や点を描く技巧だけで画家にな
ろうと希望してもダメということか」
「この理想のない技巧家を称して、いわゆる
市気匠気(いちきしょうき)のある芸術家と
云うのだそうです」
「市気匠気?どういう意味だ」
「英訳ではA technician who lacks any sort 
of ideal can be called a show-ff, a blustering 
hack of an artist.です」
「要するに、はったり屋のニセモノだな。する
と作家でも文章の技巧だけがすぐれていても
ダメだということになる」
「理想がないと、技巧に走りすぎているとい
われてしまいます」
「しかし、世の中に理想のある批評家が存在
しているだろうか」

 御待遠だといかぬから、すぐさま次の節に移って弁じます。文学
者の一部分で、しきりに触れろ触れろと云い、技巧は無用だ無用だ
と云っているに反して、画家の方では――画家は我々のように騒々
しくない、おとなしく勉強しておられるから、むやみに三(み)つ
番(ばん)は敲(たた)かれぬようであるが――しかしその実行し
ておられるところを拝見すると、触れるの触れぬのと云う事は頓着
(とんじゃく)なくただ熱心に技術を研(みが)いておられるよう
に見受けます。申すまでもなく私は極(きわ)めて画道には暗い人
間であります。だから画の事に関して嘴(くちばし)を容(い)れ
る権利は無論ないのですが、門外漢の云う事も時には御参考になる
だろうし、こうして諸君に御目にかかる機会も滅多(めった)にあ
りませず、かつ文芸全体に通じての議論ですから、大胆なところを
述べてしまいます。――あなた方の方では人間を御かきになるとき
はモデルを御使いになります、草や木を御かきになるときは野外も
しくは室内で写生をなさいます。これはまことに結構な事で、我々
文学者が四畳半のなかで、夢のような不都合な人物、景色、事件を
想像して好加減(いいかげん)な事を並べて平気でいるよりも遥
(はるか)に熱心な御研究であります。その効能は固(もと)より
御承知の事で、私などがかれこれ申すのも釈迦(しゃか)に何とか
いう類(たぐい)になりますが、まず講話の順序として分らぬなが
ら、分ったと思う事だけを述べます。こう云う修業で得る点は私の
考えではまず二通りになるだろうと思います。一つは物の大小形状
及びその色合などについて知覚が明暸(めいりょう)になりますの
と、この明暸になったものを、精細に写し出す事が巧者にかつ迅速
(じんそく)にできる事だと信じます。二はこれを描(えが)き出
すに当って使用する線及び点が、描き出される物の形状や色合とは
比較的独立して、それ自身において、一種の手際(てぎわ)を帯び
て来る事であります。この第二の技術は技術でありかつ理想をもあ
らわしているからして純然たる技巧と見る訳には参りません。現に
日本在来の絵画はおもにこの技巧だけで価値を保ったものでありま
す。それにも関わらず、これに対して鑑賞の眼を恣(ほしいまま)
にすると、それぞれに一種の理想をあらわしている、すなわち画家
の人格を示している、ために大なる感興を引く事が多いのでありま
す。たとえば一線の引き方でも、(その一線だけでは画は成立せぬ
にも関わらず)勢いがあって画家の意志に対する理想を示す事もで
きますし、曲り具合が美に対する理想をあらわす事もできますし、
または明暸で太い細いの関係が明かで知的な意味も含んでおりまし
ょうし、あるいは婉約(えんやく)の情、温厚な感を蓄える事もあ
りましょう。(知、情の理想が比較的顕著でないのは性質上やむを
えません)こうなると線と点だけが理想を含むようになります。ち
ょうど金石文字や法帖(ほうじょう)と同じ事で、書を見ると人格
がわかるなどと云う議論は全くこれから出るのであろうと考えられ
ます。だから、この技巧はある程度の修養につれて、理想を含蓄し
て参ります。しかし前種の技巧、すなわち物に対する明暸なる知覚
をそのままにあらわす手際(てぎわ)は、全然理想と没交渉と云う
訳には参りませんが、比較的にこれとは独立したものであります。
これをわかりやすく申しますと、物をかいて、現物のように出来上
っても、知、情、意、の働きのあらわれておらんのがあります。何
(なん)だか気乗りのしないのがあります。どことなく機械的なの
があります。私の技巧と云うのは、この種の技巧を云うのでありま
す。私の非難したいのは、この種の技巧だけで画工になろうと云う
希望を抱く人々であります。無論諸君は、画工になるにはこの種の
技巧だけで充分だと御考えになってはおられますまい。しかし技巧
をおもにして研究を重ねて行かれるうちには、時によると知らぬ間
に、ついこの弊(へい)に陥る事がないとは限らんと思います。再
び前段に立ち帰って根本的に申しますと、前に述べた通り、文芸は
感覚的な或物を通じて、ある理想をあらわすものであります。だか
らしてその第一主義を云えばある理想が感覚的にあらわれて来なけ
れば、存在の意義が薄くなる訳であります。この理想を感覚的にす
る方便として始めて技巧の価値が出てくるものと存じます。この理
想のない技巧家を称して、いわゆる市気匠気(いちきしょうき)の
ある芸術家と云うのだろうと考えます。市気匠気のある絵画がなぜ
下品かと云うと、その画面に何らの理想があらわれておらんからで
ある。あるいはあらわれていても浅薄で、狭小で、卑俗で、毫(ご
う)も人生に触れておらんからであります。


人生に触れる
   2015/3/16 (月) 08:40 by Sakana No.20150316084018

03月16日

「市気匠気のある絵画がなぜ下品かと云うと、
その画面に何らの理想があらわれておらんから
です。あるいはあらわれていても浅薄で、狭小
で、卑俗で、毫(ごう)も人生に触れておらん
からであります」
「人生に触れておらんとはどういうことか」
「我々は意識の連続を希望します」
「希望しようがしまいが、生まれたときから死
ぬまで意識は連続するようになっている」
「連続の方法と意識の内容の変化とが吾人に選
択(せんたく)の範囲を与えます。この範囲が
理想を与えます。そうしてこの理想を実現する
のを、人生に触れると申します」
「人生はお先まっくら。とても理想なんか持て
ない」
「人生に触れないことになりますが、それでい
いですか」
「どうすればよいのだ」
「この理想は真、美、善、壮の四種に分れます
からして、この四種の理想を実現し得る人は、
同等の程度に人生に触れた人であります」
「真、美、善、壮」
「その一つだけが触れて、他は触れぬものだと
断言することはできません。真は深くもなり、
広くもなり得る理想ですが、真だけが人生に触
れて、美や善や壮の理想は人生に触れないとは
いえないのです」

 私は近頃流行する言語を拝借して、人生に触れておらんと申しまし
た。私のいわゆる人生に触れると申す意味は、前段からの議論で大概
は御分りになったろうとは思いますが、御約束だから形式的に説明致
しますと、比較的簡単で明暸であります。少くとも私だけにはそう思
われます。我々は意識の連続を希望します。連続の方法と意識の内容
の変化とが吾人に選択(せんたく)の範囲を与えます。この範囲が理
想を与えます。そうしてこの理想を実現するのを、人生に触れると申
します。これ以外に人生に触れたくても触れられよう訳がありません。
そうしてこの理想は真、美、善、壮の四種に分れますからして、この
四種の理想を実現し得る人は、同等の程度に人生に触れた人でありま
す。真の理想をあらわし得る人は、美の理想をあらわし得る人と、同
様の権利と重みとをもって、人生に触れるのであります。善の理想を
示し得る人は壮の理想を示し得る人と、同様の権利と重みをもって、
人生に触れたものであります。いずれの理想をあらわしても、同じく
人生に触れるのであります。その一つだけが触れて、他は触れぬもの
だと断言するのは、論理的にかく証明し来ったところで、成立せぬ出
放題の広言であります。真は深くもなり、広くもなり得る理想であり
ます。しかしながら、真が独(ひと)り人生に触れて、他の理想は触
れぬとは、真以外に世界に道路がある事を認め得ぬ色盲者の云う事で
あります。東西南北ことごとく道路で、ことごとく通行すべきはずで、
大切と云えばことごとく大切であります。


文芸の聖人
   2015/3/19 (木) 09:14 by Sakana No.20150319091411

03月19日

「もっとも深き理想を実現する人を、深刻に
人生に触れた人と申します」
「破滅型私小説作家は破滅することによって
深刻に人生に触れている」
「云うまでもなく深刻とは真、善、美、壮の
四面にわたって申すべき形容詞であります。
悲惨だから深刻だとか、暗黒だから深刻だと
か云うのは無意味の言語です」
「破滅型作家には理想がないというのか」
「一方、もっとも広き理想を実現する人を、
広く人生に触れた人と申します」
「浅き理想の実現と狭き理想の実現を目指す
人もいる。浅く人生に触れ、狭く人生に触れ
ることで満足している」
「もっとも新しい理想を実現する人を人生に
おいて新意義を認めた人と云います」
「単なる新しいもの好きもいる」
「この三つを兼ねて、完全なる技巧によりて
これを実現する人を、理想的文芸家、すなわ
ち文芸の聖人と云うのであります」
「聖人? 職人ではないのか」
「聖人の理想と申して別段の事もありません。
ただいかにして生存すべきかの問題を解釈す
るまでであります」
「それなら、おまえさんだって聖人だ」

 四種の理想は分化を受けます。分化を受けるに従って変形を生じ
ます。変形を生じつつ進歩する機会を早めます。この変形のうち、
もっとも新しい理想を実現する人を人生において新意義を認めた人
と云います。変形のうちもっとも深き理想を実現する人を、深刻に
人生に触れた人と申します。(云うまでもなく深刻とは真、善、美、
壮の四面にわたって申すべき形容詞であります。悲惨だから深刻だ
とか、暗黒だから深刻だとか云うのは無意味の言語であります)変
形のうちもっとも広き理想を実現する人を、広く人生に触れた人と
申します。この三つを兼ねて、完全なる技巧によりてこれを実現す
る人を、理想的文芸家、すなわち文芸の聖人と云うのであります。
文芸の聖人はただの聖人で、これに技巧を加えるときに、始めて文
芸の聖人となるのであります。聖人の理想と申して別段の事もあり
ません。ただいかにして生存すべきかの問題を解釈するまでであり
ます。




文芸の極致
   2015/3/22 (日) 06:05 by Sakana No.20150322060504

03月22日

「発達した理想と、完全な技巧と合した時に、
文芸は極致に達します」
「日本文学は極致に達したのだろうか」
「夏目漱石全集を読めば極致に達したことが
納得できます」
「百年後の現在の日本文学は?」
「文芸の極致は、時代によって推移するもの
です。これに接するものはもしこれに接し得
るだけの機縁が熟していれば、還元的感化を
受けます」
「還元的感化?きみは現代の日本文学からそ
んな感化を受けたことがあるのか」
「ええ、たとえば、東野圭吾『容疑者Xの献
身』や宮部みゆき『ソロモンの偽証』は、発
達した理想と完全な技巧と合して、文芸の極
致に達した作品だと思います。私は還元的感
化を受けました」
「後期高齢者にしては感化されやすい。ボケ
がはじまっているのではないか」
「ボケてはいません。フレキシビリティの極
致に達しているのです」

 発達した理想と、完全な技巧と合した時に、文芸は極致に達しま
す。(それだから、文芸の極致は、時代によって推移するものと解
釈するのが、もっとも論理的なのであります)文芸が極致に達した
ときに、これに接するものはもしこれに接し得るだけの機縁が熟し
ていれば、還元的感化を受けます。この還元的感化は文芸が吾人
(ごじん)に与え得る至大至高の感化であります。機縁が熟すと云
う意味は、この極致文芸のうちにあらわれたる理想と、自己の理想
とが契合(けいごう)する場合か、もしくはこれに引つけられたる
自己の理想が、新しき点において、深き点において、もしくは広き
点において、啓発(けいはつ)を受くる刹那(せつな)に大悟する
場合を云うのであります。縁なき衆生(しゅじょう)は度しがたし
とは単に仏法のみで言う事ではありません。段違いの理想を有して
いるものは、感化してやりたくても、感化を受けたくてもとうてい
どうする事もできません。


還元的感化
   2015/3/25 (水) 09:12 by Sakana No.20150325091226

03月25日

「還元的感化ということばはわかりにくい。
説明してくれ」
「こういう意味になります。文芸家は自己の修
養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であら
わします」
「文芸家はみんな修養して理想を得ているのだ
ろうか」
「他の作家はわかりませんが、少なくとも漱石
先生は修養して得た理想を言語で表現されてい
ると思います」
「『行人』の一郎や『こころ』の先生や『明暗』
の津田などの言動が修養して得た人物の理想と
は思えない」
「その現わされる理想は、ある種の意識が、あ
る種の連続をなすのを、そのままに写し出した
ものに過ぎません。読者が『行人』や『こころ』
や『明暗』を読んで、享楽の境に達したとすれ
ば、作者である漱石先生があらわした意識の連
続に随伴したことになります」
「義理で読書のおつきあいしただけだ。一郎や
津田の言動に共感したわけではない」
「それでも作者があらわした意識の連続に随伴
して、なにがしかの感化を受けているはずです。
読者の意識の連続が、作者の意識の連続とある
程度まで一致しなければ、享楽と云う事は行わ
れるはずがありません。いわゆる還元的感化と
はこの一致の極度において始めて起る現象です」
「すると、『文学論』を読みとくという行為は
・・・」
「そう。漱石先生の意識の連続と私の意識の連
続を一致させ、その一致の極度において還元的
感化を受けることです」

 還元的感化と云う字が少々妙だから、御分りにならんかと思います。
これを説明すると、こういう意味になります。文芸家は今申す通り自
己の修養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であらわすので、その
現わされる理想は、ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、その
ままに写し出したものに過ぎません。だからこれに対して享楽(きょ
うらく)の境(さかい)に達するという意味は、文芸家のあらわした
意識の連続に随伴すると云う事になります。だから我々の意識の連続
が、文芸家の意識の連続とある度まで一致しなければ、享楽と云う事
は行われるはずがありません。いわゆる還元的感化とはこの一致の極
度において始めて起る現象であります。


物我の境の超越
   2015/3/28 (土) 07:17 by Sakana No.20150328071701

03月28日

「我を忘れて読書に集中すると、読者の意識は
作者の意識と一致します」
「それが還元的感化か」
「ええ、その意識の連続が読者の心のうちに浸
み込んで、本を放した後までも痕跡を残します」
「はたして漱石の意識ときみの意識が一致する
だろうか」
「この境界に入ればすでに普通の人間の状態を
離れて、物我の上に超越しております」
「そこまでいくと、神秘的であやしげな境地に
接近する」
「時間も空間もなく、ただ意識の連続あるのみ
です」
「そのとき、蚤に食われたら、どうする?」
「我に帰ります。時計が鳴って我に帰ることも
あります。したがって、間髪を容(い)れざる
完全の意識の連続というわけにはいきません」
「時々、我を忘れて、物我の境を超越すること
があれば、それでよしとしょう」
「生涯に一度も無我の境界に点頭し、恍惚の域
に逍遥したことがない人は可哀想ですね」
「きみはその可哀想な人ではないのか」

 一致の意味は固(もと)より明暸で、この一致した意識の連続が
我々の心のうちに浸み込んで、作物を離れたる後までも痕迹(こん
せき)を残すのがいわゆる感化であります。すると説明すべきもの
はただ還元の二字になります。しかしこの二字もまた一致と云う字
面のうちに含まれております。一致と云うと我の意識と彼の意識が
あって、この二つのものが合して一となると云う意味でありますが、
それは一致せぬ前に言うべき事で、すでに一致した以上は一もなく
二もない訳でありますからして、この境界に入ればすでに普通の人
間の状態を離れて、物我の上に超越しております。ところがこの物
我の境を超越すると云う事は、この講演の出立地であって、またあ
らゆる思索の根拠(こんきょ)本源になります。したがって文芸の
作物に対して、我を忘れ彼を忘れ、無意識に(反省的でなくと云う
意なり)享楽を擅(ほしいまま)にする間は、時間も空間もなく、
ただ意識の連続があるのみであります。もっともここに時間も空間
もないと云うのは作物中にないと云うのではない、自己が作物に対
する時間、また自己が占めている空間がないという意味であって、
読んで何時間かかるか、また読んでいる場所は書斎の裡(うち)か
郊外か蓐中(じょくちゅう)かを忘れると云うのと同じ事でありま
す。普通の場合においてこれを忘れる事ができんのは、ある間は作
者の意識連続と一致し、あるときはこれを離れるから、我は依然と
して我、彼は依然として彼なのであります。一致している際に蚤
(のみ)に食われて急に我に帰り、時計が鳴ってにわかに我に帰る
というようであるから、間髪を容(い)れざる完全の一致より生ず
る享楽を擅(ほしいま)まにする事ができんのであります。かくの
ごとく自己の意識と作家の意識が離れたり合ったりする間は、読書
でも観画でも、純一無雑と云う境遇に達する事はできません。これ
を俗に邪魔が這入(はい)るとも、油を売るとも、散漫になるとも
云います。人によると、生涯(しょうがい)に一度も無我の境界に
点頭し、恍惚(こうこつ)の域に逍遥(しょうよう)する事のない
ものがあります。俗にこれを物に役(えき)せられる男と云います。
かような男が、何かの因縁(いんねん)で、急にこの還元的一致を
得ると、非常な醜男子(ぶおとこ)が絶世の美人に惚(ほ)れられ
たように喜びます。


批評学の研究課題
   2015/4/1 (水) 07:44 by Sakana No.20150401074451

04月01日

「<意識の連続>のうちで比較的連続と云う
事を主にして理想があらわれてくると、おも
に文学ができます。比較的意識そのものの内
容を主にして理想があらわれて来ると絵画が
成立します」
「文学と絵画の違いか。長い文字の連続を読
まされる読者の立場からいうと、文学のほう
が骨が折れる。絵画は美術館を訪れて眺める
だけでよい」
「問題は読者が還元的感化を受けるかどうか
です。文学の理想はおもに意識の推移する有
様であらわれてくるので、この推移法が理想
的に行く作品は、読者をして還元的感化を受
けやすくします。これを動の還元的感化と云
います」
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりし
ている」
「その意識の推移には私も中学一年生で還元
的感化を受けました」
「それに対して意識が停留したいところを見
計って、その刹那を捕えると、観物をして静
の還元的感化を受けやすくするというが、心
当りがあるかい」
「やはり、中学生の頃ですが、ミレーの晩鐘
を観たときですか」
「ルーブル美術館で?」
「そんなことよりも、推移の法則は文学の力
学として論ずべき問題で、逗留(とうりゅう)
の状態は文学の材料として考えるべき条項で
す。双方とも批評学で研究の余地は幾らでも
あります。漱石先生も文学論で先生の考えの
一端を述べておられます」
「そうだったかな」
「第五編 集合的F を読み直してください」


「意識の連続」のうちで比較的連続と云う事を主にして理想があら
われてくると、おもに文学ができます。比較的意識そのものの内容
を主にして理想があらわれて来ると絵画が成立します。だからして
前者の理想はおもに意識の推移する有様であらわれて来ます。した
がってこの推移法が理想的に行く作物は、読者をして還元的感化を
うけやすくします。これを動の還元的感化と云います。それから後
者の理想はおもに意識の停留する有様であらわれて来ます。だから
停留法がうまく行くと、すなわち意識が停留したいところを見計っ
て、その刹那(せつな)を捕えると、観者をして還元的感化をうけ
やすくします。これを静の還元的感化と云います。しかしながらこ
れは重なる傾向から文学と絵画を分ったまでで、その実は截然(せ
つぜん)とこう云う区別はできんのであります。しばらくこの二要
素を文学の方へかためて申しますと、推移の法則は文学の力学とし
て論ずべき問題で、逗留(とうりゅう)の状態は文学の材料として
考えるべき条項であります。双方とも批評学の発達せぬ今日は誰も
手を着けておりませんから、研究の余地は幾らでもあります。私は
自分の文学論のうちに、不完全ながら自分の考えだけは述べておき
ましたから、御参考を願います。固(もと)より新たに開拓する領
土の事でありますから、御参考になるほどにはできておりません。
けれども、あの議論の上へ上へとこれからの人が、新知識を積んで
行って、私の疎漏(そろう)なところを補い、誤謬(ごびゅう)の
あるところを正して下さったならば、批評学が学問として未来に成
立せんとは限らんだろうと思います。私はある事情から重に創作の
方をやる考えでありますから、向後この方面に向って、どのくらい
の貢献ができるか知れませんが、もし篤実な学者があって、鋭意に
そちらを開拓して行かれたならば、学界はこの人のために大いなる
利益を享(う)けるに相違なかろうと確信しております。




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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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