夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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抽出の約束
   2015/2/2 (月) 09:01 by Sakana No.20150202090123

02月02日

「今回は抽出の約束について考えてみましょ
う」
「四種の理想のうち真に対して起こす情緒の
みを重視し、他の理想は抽出(dissociate)し
た小説をどう評価するか」
「一人の乞食が或る村でパンと葡萄酒を盗み出
して口腹の欲を充分充たして、眠くなり、うと
うとしているところへ村の女が通りかかってき
た。乞食は獣欲を遂行するという小説がモーパ
ッサンにあるそうです」
「そんな小説は読みたくもない」
「自然主義文学が流行していた頃は、面白いと
思う人がいたようです」
「今でもいるだろう。一般の世の中が腐敗して
道義の観念が薄くなればなるほどこの種の理想
は低くなる。つまり一般の人間の徳義的感覚が
鈍くなるから、作家批評家の理想も他の方面へ
走って、こちらは御留守(おるす)になる。つ
いに善などはどうでも真さえあらわせばと云う
気分になる」
「善や美に対する理想との折り合いをつけた抽
出の約束を守る必要があると思います」
「漱石はそんなことをいっているが、自分の作
品『明暗』には人間のエゴイズムの真ばかり描
写されていて、善の理想は影をひそめている」
「それは『明暗』が未完のまま、漱石先生があ
の世に旅立たれたからです。完結したかたちで
は則天去私の理想が描かれているはずです」
「それならいいが、「則天去私」は小宮豊隆や
松岡譲などの門弟たちがひろめた神話だという
江藤淳らの批判もある」
「抽出の約束は神話ではありません」

 次にこんな事を書いたら、どうなりましょう。一人の乞食(こじ
き)がいる。諸所放浪しているうちに、或日、或時、或村へ差しか
かると、しきりに腹が減る。幸(さいわい)ひっそりとした一構え
に、人の気(け)はいもない様子を見届けて、麺麭(パン)と葡萄
酒(ぶどうしゅ)を盗み出して、口腹の慾を充分充(み)たした上、
村外(むらはず)れへ出ると、眠くなって、うとうとしている所へ、
村の女が通りかかる。腹が張って、酒の気(け)が廻って、当分の
間ほかの慾がなくなった乞食は、女を見るや否や急に獣慾を遂行す
る。――この話しはモーパッサンの書いたものにあるそうですが、
私は読んだ事がありません。私にこの話をして聞かした人はしきり
に面白いと云っていました。なるほど面白いでしょう。しかしその
面白いと云うのは、やはりある境遇にあるものが、ある境遇に移る
と、それ相応な事をやると云う真相を、臆面なく書いた所にあるの
でしょう。しかしこの面白味は、前の唖の話と違って、ただ真を発
揮したばかりではない。他の理想を打ち壊しています。その打ち壊
された理想を全然忘れない以上は、せっかくの面白味は打ち消され
てしまうから役に立たんのみか、他の理想を主にする人からさんざ
んに悪口される場合が多いだろうと思います。こう云う場合に抽出
の約束は成立しそうにもない。約束が成立しない以上は、この作物
の生命はないと云うより、生命を許し得ないと云う方がよかろうと
思います。一般の世の中が腐敗して道義の観念が薄くなればなるほ
どこの種の理想は低くなります。つまり一般の人間の徳義的感覚が
鈍くなるから、作家批評家の理想も他の方面へ走って、こちらは御
留守(おるす)になる。ついに善などはどうでも真さえあらわせば
と云う気分になるんではありますまいか。日本の現代がそう云う社
会なら致し方もないが、西洋の社会がかく腐敗して文芸の理想が真
の一方に傾いたものとすれば、前後の考えもなく、すぐそれを担
(かつ)いで、神戸や横浜から輸入するのはずいぶん気の早い話で
あります。外国からペストの種を輸入して喜ぶ国民は古来多くある
まいと考える。私がこう云うとあまり極端な言語を弄するようであ
りますが、実際外国人の書いたものを見ると、私等には抽出法がう
まく行われないために不快を感ずる事がしばしばあるのだから仕方
がありません。


オセロ──後味の悪い作品
   2015/2/5 (木) 08:53 by Sakana No.20150205085314

02月05日

「読書は抽出(dissociate)がうまく行われ
ないと、不快を感じることがあります」
「あるある。書店も図書館も後味の悪い不愉
快な作品だらけだ」
「シェイクスピアの『オセロ』は事件の発展
や、性格の描写は真を得ており、四大悲劇に
数えられている名作ですが、漱石先生は<読
んでしまって、いかにも感じがわるいと評し
ておられます」
「作者が無類の技巧を発揮して、すぐれた描
写の作品をつくり、評論家がその作品を絶賛
しても、読者に感銘を与えるとはかぎらない」
「日本文学で後味の悪い、不愉快な作品には
どんなものがありますか」
「『雪国』とか『万延元年のフットボール』
とか」
「ノーベル文学賞の対象作品──日本文学を
代表する作品です。そんなことをいうと、読
者の鑑賞力が問われますよ」
「後味の悪い不愉快な作品であるという自己
本位の印象は消えない」
「『明暗』は如何ですか」
「『明暗』は読者が則天去私の理想を想像力
で補って読まないかぎり、未完で現状のまま
なら不愉快な作品だ」

 現代の作物(さくぶつ)ではないが沙翁(さおう)のオセロなど
はその一例であります。事件の発展や、性格の描写は真を得ており
ましょう、私も二三度講じた事があるから、その辺はよく心得てい
る。しかし読んでしまっていかにも感じがわるい。悲壮だの芳烈だ
のと云う考えは出て来ない、ただ妙な圧迫を受ける。ひまがあった
ら、この感じを明暸(めいりょう)に解剖して御目にかけたいと思
うが今では、そこまでに頭が整うておりませんから一言にして不愉
快な作だと申します。沙翁の批評家があれほどあるのに、今までな
ぜこの事について何にも述べなかったか不思議に思われるくらいで
あります。必竟(ひっきょう)ずるにただ真と云う理想だけを標準
にして作物に対するためではなかろうかと思います。


ゾラとモーパッサン──探偵同様の下品な文学者
   2015/2/8 (日) 11:13 by Sakana No.20150208111358

02月08日

「漱石先生は現代文学が四種の理想のうち真
を偏重視する傾向にあることを批判し、その
ような現代文学の作者を探偵にたとえておら
れます」
「そういえば、漱石は探偵嫌いで、探偵とい
う職業を軽べつしていた」
「諸君は探偵と云うものを見て、歯(よわい)
する(交際する)に足る人間とは思わんでし
ょうと言っておられますね。探偵は事実をあ
げると云うよりほかに眼中には何もない。探
偵には道徳もなければ美感もない。荘厳の理
想などはもとよりない。探偵ができるのは人
間の理想の四分の三が全く欠亡して、残る四
分の一のもっとも低度なものがむやみに働く
からだ。かかる人間は人間としては無論通用
しない。人間ではなく器械としてなら、場合
によっては警視庁などで使えるだろう」
「そこまでいうと、探偵という職業に対する
偏見だ。『オリエント急行の殺人』のエルキ
ュール・ポワロや『八つ墓村』の金田一耕助
のように歯(よわい)するに足る人物もいる」
「ゾラとモーパッサンの例に至ってはほとん
ど探偵と同様に下品な気持がしますという発
言はどう思いますか」
「知らないよ。永井荷風か田山花袋に聞いて
みなさい」

 現代文学は皆この弊に陥(おちい)っているとは無論断言しませ
んが、いろいろな点においてこの傾向を帯びていることは疑いもな
いと思います。そうしてこの傾向は真の一字を偏重視(へんちょう
し)するからして起った多少病的の現象だと云うてもよいだろうと
思います。諸君は探偵と云うものを見て、歯(よわい)するに足る
人間とは思わんでしょう。探偵だって家(うち)へ帰れば妻もあり、
子もあり、隣近所の付合は人並にしている。まるで道徳的観念に欠
乏した動物ではない。たまには夜店で掛物をひやかしたり、盆栽の
一鉢(ひとはち)くらい眺める風流心はあるかも知れない。しかし
ながら探偵が探偵として職務にかかったら、ただ事実をあげると云
うよりほかに彼らの眼中には何もない。真を発揮すると云うともっ
たいない言葉でありますが、まず彼らの職業の本分を云うと、もっ
とも下劣な意味において真を探ると申しても差支(さしつかえ)な
いでしょう。それで彼らの職務にかかった有様を見ると一人前の人
間じゃありません。道徳もなければ美感もない。荘厳の理想などは
固(もと)よりない。いかなる、うつくしいものを見ても、いかな
る善に対しても、またいかなる崇高な場合に際してもいっこう感ず
る事ができない。できれば探偵なんかする気になれるものではあり
ません。探偵ができるのは人間の理想の四分の三が全く欠亡して、
残る四分の一のもっとも低度なものがむやみに働くからであります。
かかる人間は人間としては無論通用しない。人間でない器械として
なら、ある場合にあっては重宝でしょう。重宝だから、警視庁でも
たくさん使って、月給を出して飼っておきます。しかし彼らの職業
はもともと器械の代りをするのだから、本人共もそのつもりで、職
業をしている内は人間の資格はないものと断念してやらなくては、
普通の人間に対して不敬であります。現代の文学者をもって探偵に
比するのははなはだ失礼でありますが、ただ真の一字を標榜(ひょ
うぼう)して、その他の理想はどうなっても構わないと云う意味な
作物を公然発表して得意になるならば、その作家は個人としては、
いざ知らず、作家として陥欠(かんけつ)のある人間でなければな
りません。病的と云わなければなりません。(四種の理想は同等の
権利を有して相冒(あいおか)すべきものでないと、先に述べてお
きました。四種を同等に満足せしむる事は困難かも知れません。多
少は冒す場合があるでしょう。その場合には冒されたものが、屏息
(へいそく)し得るように、冒す方に偉大な特色がなければならぬ
のであります。この点においては、先に例証したオセロが一番弁護
しやすいように思われます。ゾラとモーパッサンの例に至ってはほ
とんど探偵と同様に下品な気持がします)


文芸は単なる技術ではない
   2015/2/11 (水) 10:48 by Sakana No.20150211104838

02月11日

「文芸の四種の理想は、一般人間の理想でも
あります」
「熊さん八っあんも真善美壮をもとめるか」
「熊さん八っあんは知りませんが、寅さんは
特に壮をもとめていますね」
「寅さんは文芸家ではない」
「この四面に渉(わた)ってもっとも高き理
想を有している文芸家は同時に人間としても
もっとも高くかつもっとも広き理想を有した
人であります。人間としてもっとも広くかつ
高き理想を有した人で始めて他を感化する事
ができるのでありますから、文芸は単なる技
術ではありません」
「文学者は単なる職人ではないということか」
「人格のない作家の作物は、卑近なる理想、
もしくは、理想なき内容を与うるのみだから
して、感化力を及ぼす力もきわめて薄弱であ
ります」
「現代の文学者は異論をとなえるかもしれな
い」
「それは現代の文学者が人格のない単なる技
術者だからです」
「人格という意味にもよるが、人格のない文
学者はいないと思う」
「文学者の偉大なる人格は、読者、観者もし
くは聴者の心に浸み渡って、その血となり肉
となって彼らの子々孫々まで伝わります。文
芸に従事するものはこの意味で後世に伝わら
なくては、伝わる甲斐(かい)がないのであ
ります」

 文芸に四種の理想があるのは毎度繰返(くりかえ)した通りであ
りまして、その四種がまたいろいろに分化して行く事も前に述べた
ごとくであります。この四種の理想は文芸家の理想ではあるが、あ
る意味から云うと一般人間の理想でありますからして、この四面に
渉(わた)ってもっとも高き理想を有している文芸家は同時に人間
としてももっとも高くかつもっとも広き理想を有した人であります。
人間としてもっとも広くかつ高き理想を有した人で始めて他を感化
する事ができるのでありますから、文芸は単なる技術ではありませ
ん。人格のない作家の作物は、卑近なる理想、もしくは、理想なき
内容を与うるのみだからして、感化力を及ぼす力もきわめて薄弱で
あります。偉大なる人格を発揮するためにある技術を使ってこれを
他の頭上に浴せかけた時、始めて文芸の功果は炳焉(へいえん)と
して末代までも輝き渡るのであります。輝き渡るとは何も作家の名
前が伝わるとか、世間からわいわい騒がれると云う意味で云うので
はありません。作家の偉大なる人格が、読者、観者もしくは聴者の
心に浸み渡って、その血となり肉となって彼らの子々孫々まで伝わ
ると云う意味であります。文芸に従事するものはこの意味で後世に
伝わらなくては、伝わる甲斐(かい)がないのであります。人名辞
書に二行や三行かかれる事は伝わるのではない。自分が伝わるので
はない。活版だけが伝わるのであります。自己が真の意味において
一代に伝わり、後世に伝わって、始めて我々が文芸に従事する事の
閑事業でない事を自覚するのであります。始めて自己が一個人でな
い、社会全体の精神の一部分であると云う事実を意識するのであり
ます。始めて文芸が世道人心に至大の関係があるのを悟るのであり
ます。我々は生慾の念から出立して、分化の理想を今日(こんにち)
まで持続したのでありますから、この理想をある手段によって実現
するものは、我々生存の目的を、一層高くかつ大いにした功蹟(こ
うせき)のあるものであります。もっとも偉大なる理想をもっとも
よく実現するものは我々生存の目的をもっともよく助長する功蹟の
あるものであります。文芸の士はこの意味においてけっして閑人
(かんじん)ではありません。芭蕉(ばしょう)のごとく消極的な
俳句を造るものでも李白のような放縦な詩を詠ずるものでもけっし
て閑人ではありません。普通の大臣豪族よりも、有意義な生活を送
って、皆それぞれに人生の大目的に貢献しております。


いかにして生存するか
   2015/2/14 (土) 07:21 by Sakana No.20150214072104

02月14日

「理想とは何でしょうか」
「?」
「いかにして生存するかという問題に対して
与えた答案です」
「なんだ、そんなことか。それなら人間も動
物も大昔から理想を追求している」
「画家の画、文士の文もこの答案です」
「芭蕉の俳句や李白の詩では腹の足しにはな
らない。生存に役立つ理想とは思えない」
「芭蕉(ばしょう)のごとく消極的な俳句を
造るものでも李白のような放縦な詩を詠ずる
ものでもけっして閑人ではありません。普通
の大臣豪族よりも、有意義な生活を送って、
それぞれに人生の大目的に貢献しております」
「古池や蛙飛びこむ水の音──この句が生存
に役立つというのか」
「景が目の前にはっきり浮かびますね。明瞭
です。答案が有力であるためには明暸でなけ
ればなりません、せっかくの名答も不明暸で
あるならば、相互の意志が疏通せぬような不
都合に陥ります。いわゆる技巧と称するもの
は、この答案を明暸にするために文芸の士が
利用する道具であります」

 理想とは何でもない。いかにして生存するがもっともよきかの問題
に対して与えたる答案に過ぎんのであります。画家の画、文士の文、
は皆この答案であります。文芸家は世間からこの問題を呈出されるか
らして、いろいろの方便によって各自が解釈した答案を呈出者に与え
てやるに過ぎんのであります。答案が有力であるためには明暸(めい
りょう)でなければならん、せっかくの名答も不明暸であるならば、
相互の意志が疏通せぬような不都合に陥ります。いわゆる技巧と称す
るものは、この答案を明暸にするために文芸の士が利用する道具であ
ります。道具は固(もと)より本体ではない。


技巧とは何だ
   2015/2/17 (火) 08:28 by Sakana No.20150217082804

02月17日

「いわゆる技巧と称するものは、いかにして
生存するかという問題の答案を明暸にするた
めに文芸の士が利用する道具です」
「わかったようで、わからない説明だ」
「ふつうは思想をあらわす手段です」
「その手段によって発表される思想は、思想
を離れて、手段だけを考える訳には行かず、
また手段を離れて思想だけを拝見する訳には
行かない。それでだんだん論じつめて行くと、
どこまでが手段で、どこからが思想だかはな
はだ曖昧(あいまい)になる」
「哲理的に論じると面倒ですから、分りやす
くするために実例で説明しましょう」
「実例結構。結構毛だらけ猫灰だらけ」
「沙翁の文章とデフォーの文章です。この二
つの文章を比較すると、技巧と内容の区別が
はっきりとわかります。
 Uneasy lies the head that wears a crown.
 Kings frequently lamented the miserable 
consequences of being born to great things, 
and wished they had been in the middle of 
the two extremes, between the mean and the 
great.」

 そこで諸君はわかったと云われるかも知れぬ。またはわからぬと
云われるかも知れぬ。分った方(かた)はそれでよろしいが、分ら
ぬ方には少々説明をしなければなりません。ただいま技巧は道具だ
と申しました。そう一概に云うと明暸(めいりょう)なようである
が退(しりぞ)いて考えるとなかなかわかりにくい。技巧とは何だ
と聴かれた時に、たいてい困ります。普通は思想をあらわす、手段
だと云いますが、その手段によって発表される思想だからして、思
想を離れて、手段だけを考える訳には行かず、また手段を離れて思
想だけを拝見する訳には無論行きません。それでだんだん論じつめ
て行くと、どこまでが手段で、どこからが思想だかはなはだ曖昧
(あいまい)になります。ちょうどこの白墨について云うと、白い
色と白墨の形とを切離すようなものでこの格段な白墨を目安(めや
す)にして論ずると白い色をとれば形はなくなってしまいますし、
またこの形をとれば白い色も消えてしまいます。両(ふた)つのも
のは二にして一、一にして二と云ってもしかるべきものであります。
そこで哲理的に論ずるとなかなか面倒ですから、分りやすいために
実例で説明しようと思います。せんだって大学で講義の時に引用し
た例がありますから、ちょっとそれで用を弁じておきます。
 ここに二つの文章があります。最初のは沙翁(さおう)の句で、
次のはデフォーと云う男の句であります。
 これを比較すると技巧と内容の区別が自(おのずか)ら判然する
だろうと思います。
 Uneasy lies the head that wears a crown.
 Kings frequently lamented the miserable consequences of being 
born to great things, and wished they had been in the middle of 
the two extremes, between the mean and the great.


技巧と思想
   2015/2/20 (金) 07:23 by Sakana No.20150220072308

02月20日

「沙翁とデフォーによる二つの文章を比較し
て考えましょう」
「言わんとしている思想は似たようなものだ」
「そうですね。冠(かんむり)を戴(いただ)
く頭(かしら)は安きひまなしと云うのが沙翁
の句で、高貴の身に生れたる不幸を悲しんで、
両極の中(うち)、上下の間に世を送りたく思
うは帝王の習いなりと云うのがデフォーの句」
「沙翁の句は韻語(いんご)の一行で、デフォ
ーの文章は長い散文小説中の一句だ」
「比較してみると、技巧の点において大きな差
異があることがわかります」
「要するに、韻文と散文の違い」
「読者が受ける感じが違いますね。なぜこんな
相違があるのでしょう」
「そんなことは考えてもしかたがない」
「そこで思考停止にならないのが漱石先生です。
先生がその感じを解剖した結果を次回にご紹介
します」

 ここに二つの文章があります。最初のは沙翁(さおう)の句で、
次のはデフォーと云う男の句であります。
 これを比較すると技巧と内容の区別が自(おのずか)ら判然する
だろうと思います。
 Uneasy lies the head that wears a crown.
 Kings frequently lamented the miserable consequences of being 
born to great things, and wished they had been in the middle of 
the two extremes, between the mean and the great.
 大体の意味は説明する必要もないまでに明暸であります。すなわち冠
(かんむり)を戴(いただ)く頭(かしら)は安きひまなしと云うのが
沙翁の句で、高貴の身に生れたる不幸を悲しんで、両極の中(うち)、
上下の間に世を送りたく思うは帝王の習いなりと云うのがデフォーの句
であります。無論前者は韻語(いんご)の一行で、後者は長い散文小説
中の一句であるから、前後に関係して云うと、種々な議論もできますが、
この二句だけを独立させて評して見ると、その技巧の点において大変な
差違があります。それはあとから説明するとして、二句の内容は、二句
共に大同小異である事は、誰も疑わぬほどに明かでありましょう。だか
ら思想から見ると双方共に同様と見ても差支(さしつかえ)ないとしま
す。思想が同様であるにも関わらず、この二句を読んで得る感じには大
変な違があります。私はせんだって中(じゅう)デフォーの作物を批評
する必要があって、その作物を読直すときに偶然この句に出合いまして、
ふと沙翁のヘンリー四世中の語を思い出して、その内容の同じきにも関
(かかわ)らず、その感じに大変な相違のあるに驚きましたが、なぜこ
んな相違があるかに至っては解剖して見るまでは判然と自分にもわから
なかったのであります。そこでこれから御話しをするのは私の当時の感
じを解剖した所であります。


詩的な作用
   2015/2/23 (月) 10:43 by Sakana No.20150223104313

02月23日

「沙翁の句、"Uneasy lies the head that 
wears a crown("冠(かんむり)を戴(いただ)
く頭(かしら)は安きひまなし)をどう思いま
すか」
「さあ、どうかな。幸か不幸か。冠を頭に戴いた
ことがないからね」
「沙翁の詩的なところはおわかりですか」
「よくわからん」
「十年二十年の状態を一瞬の間につづめたもの、
煮つめたもの、煎(せん)じつめたものを脳裏
(のうり)に呼び起すことができます。そこでこ
の煮つめたところ、煎じつめたところが沙翁の詩
的なところで、読者に電光の機鋒(きほう)をち
読者に電光の機鋒(きほう)をちらっと見せて、
長い時間の状態を一時に示す詩的な作用です」
「そんなものを見せられたら頭がUneasyになる」
「漱石先生の解説をよく読んでください」
「うん、すこしわかってきたような気がする」
「ほんとうに大丈夫ですか」

 沙翁の方から述べますと――あの句は帝王が年中(十年でもよい、二
十年でもよい。いやしくも彼が位にある間だけ)の身心状態を、長い時
間に通ずる言葉であらわさないで、これを一刻につづめて示している。
そこが一つの手際(てぎわ)であります。その意味をもっと詳(くわ)
しく説明するとこうなります。uneasy(不安)と云う語は漠然(ばくぜ
ん)たる心の状態をあらわすようであるが実は非常に鋭敏なよく利(き)
く言葉であります。例(たと)えば椅子の足の折れかかったのに腰をか
けて uneasy であるとか、ズボン釣りを忘れたためズボンが擦(ず)り
落ちそうで uneasy であるとか、すべて落ちつかぬ様子であります。も
ちろん落ちつかぬ様子と云うのは、ある時間の経過を含む状態には相違
ないが、長時間の経過を待たないで、すぐ眼に映る状態であります。だ
からこの uneasy と云う語は、長い間持続する状態でも、これを一刻も
しくは一分に縮(ちぢ)めて画のようにとっさの際(きわ)に頭脳の裏
(うち)に描き出し得る状態であります。
 ある人はこう云って、私の説を攻撃するかも知れぬ。――なるほど君
の云うような uneasy な状態もあるかも知れない。しかしそれは身体
(からだ)の uneasy な場合で心の uneasy な場合ではない。身体の 
uneasy な状態は長い時間を切って断面的にこれを想像の鏡に写す事も
できようが、心の uneasy な場合すなわち心配とか、気がかりというよ
うなものは、そういう風に印象を構成する訳には行かんだろうと。私は
その攻撃に対しては、こう答える。――そういう uneasy な状態はある
に相違ない。ないが、ここにはそんな事を考える必要はない。よし帝王
の uneasiness が精神的であっても、そう考える必要はない。必要はな
いと云うよりもそんな余裕はない。uneasy の下(もと)に lies すなわ
ち横わるとある。lies と云うと有形的な物体に適用せらるる文字である。
だから uneasy と読んで、どちらの uneasy かと迷う間もなく、直 lies 
と云う字に接続するからして uneasy の意味は明確になってくる。する
とまたこう非難する人が出るかも知れぬ。――lies にも両様がある。有
形物について云う事は無論であるが無形物についてもよく使う字である。
だから uneasy lies では君の云うように判然たる印象は起って来ないと。
この非難に対する私の弁解はこうであります。 uneasy lies では印象が
起らぬと云うなら第三字目の head という字を読んで見るがよかろう。
head は具体的のものである。よし head までも比喩的な意味に解せられ
るとしても uneasy lies the head と続けて読んで、しかもこの head 
を抽象的な能力とか知力とか解釈する者はあるまい。誰でも具体的の髪の
生えた頭と解釈するであろう。head を具体的と解する以上は lies も無
論有形物の lie する有様に相違ない。してみると uneasy もまた形態に
関係のない目に見えぬ意味とは取りにくい。しかもその uneasy な有様は
いつまで続くか無論わからないが、よし長時間続く状態にしても、いやし
くも続いている間は、いつでも目に見える状態である。いつでも見える状
態であるからして、そのいずれの一瞬間を截(た)ち切ってもその断面は
長い全部を代表する事ができる、語を換えて云えば、十年二十年の状態を
一瞬の間につづめたもの、煮つめたもの、煎(せん)じつめたものを脳裏
(のうり)に呼び起すことができると。そこでこの煮つめたところ、煎じ
つめたところが沙翁の詩的なところで、読者に電光の機鋒(きほう)をち
らっと見せるところかと思います。これは時間の上の話であります。長い
時間の状態を一時に示す詩的な作用であります。


キャッシュメモリ
   2015/2/26 (木) 11:13 by Sakana No.20150226111340

02月26日

「詩的な表現と散文的な表現とを比較した沙
翁とデフォーの文章は、どこかで読んだよう
な記憶がありますね」
「きみがシェイクスピアやデフォーの原文を
読んでいるとは思えない」
「調べてみたら、2008/9/16に『文学評論』か
らの引用としてご紹介しています」
「自分で書いたものを忘れてしまったのか」
「キャッシュメモリには保存していたのです
が、長期記憶にはなっていなかったようです」
「そんな風に、せっかく書いたものをどんど
ん忘れているようでは、時間をかけて『文学
論』を読んでもなんにもならない」
「そう悲観したものでもないでしょう。ここ
で記憶をリフレッシュしたのですから」

●沙翁とデフォー
   2008/9/16 (火) 08:41 by Sakana No.20080916084133

「次の二句の作者をあててください」

a. Uneasy lies the head that wears a crown.
b, Kings have frequently lamented the miserable
consequences of being born to great things, 
and wished that they had been placed in the
middle of the two extremes, between the mean
and the great.

「詩的な表現と散文的な表現の違いを示す例
文というわけか。どうせ、長い方がデフォー
だろう」
「よくわかりましたね。短い方は沙翁シェク
スピアです」
「内容は似たようなものだが、一方は詩で、
一方は散文というわけか」
「一方は人を留まらせる。一方は人を走らせ
る。一方は考えさせる。一方は一字ごとには
きはきと片付いていく──どちらが好みです
か」
「デフォーのほうがわかりやすい」
「冠を頂く頭は安からず、という句のほうが
帝王の不安を無期限にあらわしており、いい
と思いませんか」

(平井正穂によるbの日本語訳:偉い地位に生
まれついたばかりに、昔からどれほど多くの
王侯がその悲しみを味わってきたことか。二
つの極端の、つまり貴賤の、中間に生まれて
きていたら、とどれほど願ってきたことか)


空間的な解剖
   2015/3/1 (日) 08:46 by Sakana No.20150301084635

03月01日

「Uneasy lies the head that wears a crown.
(冠を頂く頭は安からず)という沙翁の詩句の
時間的な特色については前回までにご説明しま
した。次に空間的な特色についてご説明します」
「うむ」
「帝王の画を描いてみろと言われても、私たち
の脳中では帝王というものがすこぶる漠然とし
ています。帝王と云えば個人として帝王の全部
を想像しなければなりません、全部を想像する
と勢(いきおい)ぼんやりする。ぼんやりしな
いために、局部を想像しようとすると、局部が
たくさんあるので、どこを想像してよいか分り
ません。そこで沙翁は多くある局部のうちで、
冠を戴く頭を想像するのが一番いいと教えてく
れたのであります」
「冠は帝王の精髄を示す」
「ええ、冠が明瞭に見えれば、全体を明瞭に見
たと同じことになります。つまり、物を見るべ
き要点を沙翁が教えてくれたのです」
「なるほど」
「この要点は全体を明かにするにおいて功力が
あるのみならず、要点以外に気を散らす必要が
なく、不要の部分をことごとく切り棄てる事も
できるからして、読者から云えば注意力の経済
になります。この要点を空間に配して云うと、
沙翁は king と云う大きなものを縮めて、単な
る「冠を戴く頭」に変化さしてくれたのであり
ます。かくして六尺の人は一尺に足らぬ頭と煎
(せん)じつめられたのであります」
「相手は沙翁だか漱石だから知らないが、巧み
にいいくるめられているような気がしてきた」

 ところで沙翁(さおう)には今一つの特色があります。上述の時
間的なるに対してこれは空間的と云うてもよかろうと思います。す
なわちこういう解剖なのです。帝王と云う字は具体の名詞か抽象の
名詞かと問えば、誰も具体と答えるだろうと思います。なるほど具
体名詞に相違ないです。けれどもただ具体的だと承知するばかりで、
明暸(めいりょう)な印象は比較的出にくいのです。帝王の画を眼
前でかいて見ろと云われても、すぐと図案は拵(こしら)えられん
だろうと思います。私共の脳中にはこの帝王と云うものがすこぶる
漠然(ばくぜん)として纏(まとま)らない図になって畳み込まれ
ています。ところへ the head that wears a corwn と云われると、
帝王と云う観念が急に判然とします。なぜかと云うと、今までは具
体であるということだけが解っていたけれど、局部の知識はすこぶ
る曖昧(あいまい)で取とめがつかなかったのであります。あたか
も度の合わぬ眼鏡で物を見るように、その物は独立して存在してい
るが他の物と独立している事だけが明暸で、その物の内容は朦朧
(もうろう)としておったのであります。ところが uneasy lies the
 head that wears a crown と云われたので焼点(しょうてん)が急
にきまったような心持がするのであります。帝王と云えば個人とし
て帝王の全部を想像せねばならん、全部を想像すると勢(いきおい)
ぼんやりする。ぼんやりしないために、局部を想像しようとすると、
局部がたくさんあるので、どこを想像してよいか分りません。そこで
沙翁は多くある局部のうちで、ここを想像するのが一番いいと教えて
くれたのであります。その教えてくれたのは、帝王の足でもない、手
でもない。乃至(ないし)は背骨(せぼね)でもない。もしくは帝王
の腹の中でもない。彼が指さして、あすこだけを注意して御覧、king 
がよく見えると教えてくれた所は、燦爛(さんらん)たる冠を戴(い
ただ)く彼の頭であります。この注意をうけた吾々(われわれ)は今
まで全局に眼をちらつかせて要領を得んのに苦しんでいたのに、かく
注意を受けたから、試みにその方へ視線をむけると、なるほど king 
が見えたのであります。明暸なのは局部に過ぎぬけれども、この局部
が king を代表してしかるべき精髄であるからして、ここが明暸に見
えれば全体を明暸に見たと同じ事になる。取(とり)も直(なお)さ
ず物を見るべき要点を沙翁が我々に教えてくれたのであります。この
要点は全体を明かにするにおいて功力があるのみならず、要点以外に
気を散らす必要がなく、不要の部分をことごとく切り棄てる事もでき
るからして、読者から云えば注意力の経済になる。この要点を空間に
配して云うと、沙翁は king と云う大きなものを縮めて、単なる「冠
を戴く頭」に変化さしてくれたのであります。かくして六尺の人は一
尺に足らぬ頭と煎(せん)じつめられたのであります。



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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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