夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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感覚的なものとは何か
   2014/11/4 (火) 08:23 by Sakana No.20141104082351

11月04日

「そこで問題は二つになります。一は感覚的
なものとは何だと云う問題」
「感覚的なものとは感覚でとらえることがで
きるものにきまっている」
「もう一つは、いわゆる一種の情とは、感覚
的なものの、どの部分によって、どんな具合
にあらわされるか、また、「感覚的なものを
通じて」と云うのは感覚的なものを使って、
この道具の方便である情をあらわすと云うの
か、しからずんば感覚的なもの、それ自身が
この情をあらわす目的物かという問題であり
ます」
「説明が長すぎてわかりにくい」
「いわゆる一種の情とは、感覚的なものの、
どの部分によって、どんな具合にあらわされ
るか」
「具体的な例で説明してくれ」
「マドレーヌという菓子を口にしたら、その
味がきっかけとなって、幼少期に家族そろっ
て夏の休暇を過ごした町の記憶がよみがえっ
てきた」
「失われた時を求めて、ふん」
「また、「感覚的なものを通じて」と云うの
は感覚的なものを使って、この道具の方便で
ある情をあらわすと云うのか、しからずんば
感覚的なもの、それ自身がこの情をあらわす
目的物か」
「もういい。感覚が混乱してきた」

そこで問題は二つになります。一は感覚的なものとは何
だと云う問題で二はいわゆる一種の情とは、感覚的なも
のの、どの部分によって、どんな具合にあらわされるか
また、「感覚的なものを通じて」と云うのは感覚的なも
のを使って、この道具の方便である情をあらわすと云う
のか、しからずんば感覚的なもの、それ自身がこの情を
あらわす目的物かという問題であります。この問題を解
釈すると文芸家の理想の分化する模様が大体見当(けん
とう)がつきます。第一問の解釈、第二問の解釈として
順を追うては述べませんが、ただ秩序を立てて分りやす
くするためにやはり一二の番号をふって説明して行きま
す。


感覚的なものを通じて
   2014/11/7 (金) 07:46 by Sakana No.20141107074643

11月07日

「前回は、<感覚の混乱>といって、逃げて
しまいましたが、文学者の理想の分化する模
様という大きな問題です。もういちど、<感
覚的なものを通じて>と云うのは感覚的なも
のを使って、この道具の方便である情をあら
わすと云うのか、しからずんば感覚的なもの、
それ自身がこの情をあらわす目的物かという
問題を考えてみましょう」
「漱石はしつこいからいやだ。複雑な思考に
ついていけない」
「感覚的なる或物を通じて一種の情をあらわ
すと云うのは吾人文芸家の理想ですよ。理想
を見失ってはいけません。その<感覚的なも
のを通じて>と云うのは、
1)感覚的なものを使って、この道具の方便
である情をあらわすと云うのか、それとも、
2)感覚的なもの、それ自身がこの情をあら
わす目的物か、という問題です」
「うーん。風呂に入ってゆっくり考えてみる
から、その前に英訳を紹介してくれ」
「次の通りです」

そこで問題は二つになります。一は感覚的なものとは何
だと云う問題で二はいわゆる一種の情とは、感覚的なも
のの、どの部分によって、どんな具合にあらわされるか
また、「感覚的なものを通じて」と云うのは感覚的なも
のを使って、この道具の方便である情をあらわすと云う
のか、しからずんば感覚的なもの、それ自身がこの情を
あらわす目的物かという問題であります。この問題を解
釈すると文芸家の理想の分化する模様が大体見当(けん
とう)がつきます。

 Two distinct issues arise here. First, what is the object
of sense perception? The second concerns our "some kind of
emotion." In what way is it manifested via an object of sense
perception? What part of the object is involved? When we say
"by way of some object of sense perception," we face the question
of whether the object of sense perception is a mere tool used to
express the emotion or whether the object of sense perception is
what arouses the emotion in the first place. The various responses
to these questions allow us to present a rough sketch of the
different forms of literary ideas that exist.


漢文脳と英語脳
   2014/11/10 (月) 07:42 by Sakana No.20141110074253

11月10日

「感覚的なものが英訳ではsense perception
となっているが、これは重訳すれば、感覚の
知覚ではないだろうか」
「そうですね。感覚を知る自覚です」
「それを感覚的なものと日本語で言ってしま
うと、日本人は理解できない」
「理解できる日本人もいます」
「突兀的情操はa sublime sentiment、飄逸的
情操はan aloof sentiment──などというのも
わかりにくい」
「漱石先生の漢文脳と英語脳は高度に発達して
いるのです。先生の突兀的飄逸的情操が理解で
きなければ、文芸の哲学的基礎も理解できない
でしょう」
「うーん。このボンクラ頭の中味を漢文で考え
る脳と英語で考える脳に改造しなければならな
いようだ」
「ついでにhtml言語も学習してください」

(一)私は最前(さいぜん)空間、時間の建立(こんり
ゅう)からして、物我の二世界を作ると申しました。そ
の物なるものは自然である、人間である、(単に物とし
て見たる)神である(我以外に存在するとすれば)と申
しました。このうちで神は感覚的なものでないから問題
になりません。もし文芸に神が出現するときは感覚的な
或物を通じてくるのだから、出現するとしても、他と同
じ分類のなかに這入(はい)るからしてやはり問題にす
る必要はありません。すると残るものは自然と人間であ
ります。そうして我々は自然とこの人間とに対して一種
の情を有しております。換言すれば感覚的なる自然と感
覚的なる人間そのものの色合やら、線の配合やら、大小
やら、比例やら、質の軟硬やら、光線の反射具合やら、
彼らの有する音声やら、すべてこれらの感覚的なるもの
に対して趣味、すなわち好悪(こうお)、すなわち情、
を有しております。だからこれらの感覚的な物の関係を
味わう事ができます。のみならずそのうちでもっとも優
れたる関係を意識したくなります。その意識したい理想
を実現する一方法として詩ができます、画ができます。
この理想に対する情のもっとも著しきものを称して美的
情操と云います。(実は美的理想以外にもいろいろな理
想が起る訳であります。あるいは一種の関係に突兀(と
っこつ)と云う名を与え、あるいは他種の関係に飄逸
(ひょういつ)と云う名を与えて、突兀的情操、飄逸的
情操と云うのを作っても差支(さしつかえ)ない。分化
作用が発達すれば自然とここへ来るにきまっています。

1. At the outset today, I started with the construction of space and time
and said that the two worlds of self and objects arise from them. I said the
world of objects included nature, people, and divine beings (when regarded
solely as things---everything that exists other than the self. Since divine 
beings are not actually objects of sense perception, they are not at issue 
here. When a god appears in literature, it always appears by way of something
perceptible, so that its appearance belongs to the same category as other
objects and hence does not call this difinition into question.
 We are left, then, with natural objects and with human beings. When we 
encounter nature or a person, we have an emotional response. In other words,
when we encounter the sensible features of of a person or something from nature
---its coloring, its outlines, its size, its proportions, its softness or
hardness, the way light reflects of it, the sound it makes---we respond 
according to our taste, that is, according to our likes and dislikes---meaning
that ultimately we have some emotional reaction. This is what makes it possible
possible for us to savor our relationship with sensible objects. Moreover it 
prompts us to experience the consciousness of the highest possible relationship
with that object. One possible means for realizing this ideal form is through a
poem, while another is through painting. The most pronounced form of this 
emotional ideal is called aesthecic sentiment. (In fact, there are many other
ideals besides the aesthecic. If, for example, we experience one kind of 
relationship with that we call sublimity and another kind of relationship we
call aloofness, there is nothing preventing us from speaking of a sublime
sentiment or ar an aloof sentiment. In fact, the unfolding of our function of
differentiation would naturally bring us to this result.
                                   (translated by Michael K. Bourdaghs)


裸体画
   2014/11/13 (木) 07:15 by Sakana No.20141113071558

11月13日

「西洋人の唱えだした美とか美学とか云うも
ののため我々日本人は大いに迷惑しています」
「それも黒船来航ショックの後遺症の一つだ」
「かようにして美的理想を自然物の関係で実現
しようとするものは山水専門の画家になったり、
天地の景物を咏(えい)ずる事を好む支那詩人
もしくは日本の俳句家のようなものになります」
「山水画家や俳諧師は西洋人が美とか美学を唱
える以前からいたのに、迷惑というのは如何な
ものか」
「この美的理想を人物の関係において実現しよ
うとすると、美人を咏ずる事の好きな詩人がで
きたり、これを写す事の御得意な画家になりま
す。現今西洋でも日本でもやかましく騒いでい
る裸体画などと云うものは全くこの局部の理想
を生涯の目的としているのです。人によると裸
体画さえかけば、画の能事は尽きたように吹聴
(ふいちょう)している。私は画の方は心得が
ないから、何(なん)とも申しかねるが、あれ
は仏国の現代の風潮が東漸(とうぜん)した結
果ではないでしょうか」
「裸体画なら江戸時代に歌麿も描いている。珍
しくもなんともない。迷惑でもない」
「とにかく、画でも詩でも文でも構わない。感
覚物として見たる人間がすでに感覚物の一部分
に過ぎん上に、美的情操と云うのがまた、この
感覚物として見たる人間に対する情操の一部に
過ぎんと判然した以上は、裸体美と云うものは
尊いものかは知れぬが、狭いものには相違ない
でしょう」
「狭いという見方は狭い。屁理屈だ」

 西洋人の唱(とな)え出した美とか美学とか云うもののために我
々は大に迷惑します)かようにして美的理想を自然物の関係で実現
しようとするものは山水専門の画家になったり、天地の景物を咏
(えい)ずる事を好む支那詩人もしくは日本の俳句家のようなもの
になります。それからまた、この美的理想を人物の関係において実
現しようとすると、美人を咏ずる事の好きな詩人ができたり、これ
を写す事の御得意な画家になります。現今西洋でも日本でもやかま
しく騒いでいる裸体画などと云うものは全くこの局部の理想を生涯
(しょうがい)の目的として苦心しているのであります。技術とし
てはむずかしいかも知れぬが文芸家の理想としては、ほんの一部分
に過ぎんのであります。人によると裸体画さえかけば、画の能事は
尽きたように吹聴(ふいちょう)している。私は画の方は心得がな
いから、何(なん)とも申しかねるが、あれは仏国の現代の風潮が
東漸(とうぜん)した結果ではないでしょうか。とにかく、画でも
詩でも文でも構わない。感覚物として見たる人間がすでに感覚物の
一部分に過ぎん上に、美的情操と云うのがまた、この感覚物として
見たる人間に対する情操の一部に過ぎんと判然した以上は、裸体美
と云うものは尊いものかは知れぬが、狭いものには相違ないでしょ
う。

 The way Westerners trumpet on only about beauty and aesthetics
causes us no end of mischief. Those who try to realize this sort
of aesthetic ideal in relation to natural objects become painters
of traditional landscapes, or they become poets of the Chinese
style or of Japanese haiku, singing the praises of natural scenery.
Those who instead try to realize this sort of aesthetic ideal in
relation to people become poets who sing the praises of beautiful women
---or painters whose oeuvre consists of portraits. The nude portraits
that have caused such a stir lately both in the West and in Japan are
the result of those who struggle to make this one limited ideal their
life's sole purpose. However technically demanding this may be, in terms
of the reange of ideals available to literary writers, it represents 
only one possibility. I'm told that if you paint a nude, people declare
that you have mastered the art of painting. I can't say much about
painting, but isn't this just the result of the eastward march of 
contemporary French fashions? At any rate, it makes no real difference
whether we speak about this in terms of painting, poetry, or prose. 
A person taken up as an object of sense perception represents only one
possible choice among the many availanle perceptible choices, just as
the aesthetic sentiment represents only one kind of emotional reaction
we can have when we encounter as an object of sense perception, In so far
as that is true, the beauty of the nude body may be something quite lofty,
but it is also only one narrow segment of the full possible range.


情操の混同
   2014/11/16 (日) 08:30 by Sakana No.20141116083019

11月16日

「文芸家の理想は、感覚物を感覚物として見
た時にその関係から生じるものであります」
「うむ」
「すなわち、この際における情操は、感覚物
そのものを目的物として見た時に起こるので、
これを道具に使って、その媒介によって感覚
物以外の或るものに対して起こす情操と混同
してはならんのであります」
「漱石の講義はますます複雑深遠難解になっ
てきて、ついていくのが大変だ。いったい何
を言いたいのか?」
「感覚物以外のもの、たとえば、花を花とし
て見た時に美しいと思う情操と花という観念
に対して起こす情操とを混同してはいけない
という意味でしょう」
「美しい「花」がある。「花」の美しさとい
様のないと小林秀雄が言ったのもそういう意
味か」
「そうです。美しい「女」がいる。「女」の
美しさという様なものはない」

 美的にせよ、突兀的にせよ、飄逸的にせよ、皆吾人の物の関係を
味う時の味い方で、そのいずれを選ぶかは文芸家の理想できまるべ
き問題でありますから、分化の結果理想が殖(ふ)えれば、どこま
で割れて行くか分りません。しかしいくら割れても、ここに云う理
想は、感覚物を感覚物として見た時にその関係から生ずるのであり
ます。すなわちこの際における情操は、感覚物そのものを目的物と
して見た時に起るので、これを道具に使って、その媒介(ばいかい)
によって、感覚物以外の或るものに対して起す情操と混同してはな
らんのであります。

 Whether we speak of the beautiful, the sublime, or the aloof,
each represents one way of savoring our relationship with objects,
and the choice among them is a matter determined by the particular
ideals espoused by the literary writer. As a result of further
differentiation, the range of possible ideals available might expand
---and we have no way of knowing how far this process might go. However
far this division into new types may progress, though, the new ideals
produced would still be born of the relationships that occur when we
encounter objects of percception as objects of perception. That is,
the sentiments that might arise in such cases would still be those that
arise when we take up the object itself as our main concern and should
not be confused with the sentiments that arise when we use the object
as a tool or medium through which to take up indirectly something other
than the object itself. (translated by Michael K. Bourdaghs)


感覚的の具体
   2014/11/19 (水) 08:28 by Sakana No.20141119082833

11月19日

「我と物のうち、物に対する理想と情操とは
以上の説明で大抵お分かりになったろうと思
います」
「お分かりになっていないよ」
「分からない方は放っておいて、前へ進みま
しょう。今度は我の作用です」
「我の作用を知情意に区別することは分かっ
た。知の働きを主にして物の関係を明らかに
するものが哲学者や科学者だということも分
かっている」
「すると、残りは情です。ここに哲学者や科
学者をさておいて、文芸家が活躍する出番が
あるのです」
「物の関係を明らかにする知の働きであり、
哲学者や科学者の領分だということは分かっ
ている」
「ですが、関係を明かにするために一種の情
が起るならば、情が起ると云う点において、
知の働きであるにもかかわらず文芸的作用と
云わねばならんのです」
「そのことも分かっておる」
「ところが知を働かして情の満足を得るため
には前に説明した通り感覚的なものを離れて、
単に物の関係のみを抽象してあらわしてはな
らんのであります。換言すると文芸的に知を
働かせるため感覚的の具体を藉(か)りて来
なければ成立しないのです」
「感覚的の具体というものが分かりにくい」
「英訳ではa sensible, concrete object で
すが」
「?」
「脳の働きがsensibleでないようですね」

(二)物我のうち物に対する理想と情操とは以上で大抵御分りにな
ったろうと思います。すると今度は我の番でありますから、こちら
を少々説明します。
(い)我の作用を知情意に区別することは前に述べた通りで、この
知の働きを主にして物の関係を明かにするものは哲学者もしくは科
学者だと申しました。なるほど関係を明かにすると云う点より見れ
ば哲学科学の領分に相違ないが、関係を明かにするために一種の情
が起るならば、情が起ると云う点において、知の働きであるにもか
かわらず文芸的作用と云わねばならんかと思います。ところが知を
働かして情の満足を得るためには前に説明した通り感覚的なものを
離れて、単に物の関係のみを抽象してあらわしてはならんのであり
ます。換言すると文芸的に知を働かせるため感覚的の具体を藉(か)
りて来なければ成立しない、具体を藉りてその媒介を待てば知の働
きといえどもこれを文芸化するを得べしと云う事になります。

2. In terms of the relationship between self and objects, I hope
that I have sufficiently explained the ideals and sentiments we
hold toward objects. Next I will turn my attention to the self.
a) As I have already discussed, we can differentiate three functions
within the self: intellect, emotion, and will. I also noted that
those who clarify our relationship to objects primarily by means
of the intellect are philosophers and scientists. It only seems 
natural that --- since this is a matter of primarily clarifying
that relationship --- it would fall within the domain of philosophy
or science, but if, in order to clarify this relationship, we summon
up some emotion, then to the extent this relies on our emotions we
must call it a literary function even if it does involve the use of
intellect. Moreover, as I have already explained, if we want to satisfy
our feelings even as we employ our intellect, we cannot do so in the
absence of some sensible object, that is, we cannot achieve this solely
through relationship itself, abustracted away from the object. In other
waords, in order to exercise our intellct in a literary fashion, we need
to borrow some sensible, concrete object; only through the mediation of
such a concrete object can we render literary the workings of the
intellect. 


真に対する理想
   2014/11/22 (土) 08:51 by Sakana No.20141122085100

11月22日

「具体を藉りてその媒介を待てば知の働きといえどもこ
れを文芸化することができます」
「a sensible, concrete objectの媒介があれば、知の
働きを文芸化することができる──何となくわかったよ
うな、わからないような気分だ」
「もう一息です、そうすると、ここに新しい文芸上の理
想が出来上ります。この理想を真(しん)に対する理想
と云います」
「文学論が難解すぎて、理想を見失いかけていたが、一
筋の光が見えてきたのかな」
「真に対する理想は哲学者及び科学者の理想であると同
時に文芸家の理想にもなります。ただし後者は具体を通
じて真をあらわすと云う条件に束縛されただけが、前者
と異なるのであります」
「哲学者や科学者と違って、文芸家は抽象的論理だけで
はなく、具体的な物(some concrete object)を通じて真
をあらわす」
「この真のあらわし方、すなわち知を働かす具合も分化
していろいろになりますが、おもに人間の精神作用が、
あらかじめ吾人の予想した因果律(いんがりつ)と一致
するか、またはこの因果律に一歩の分化を加えたる新意
義に応じて発展する場合に多く用いられるのであります」
「因果律(the law of cause and effect)は不変ではな
いのか」
「因果律もいろいろあります。予想した因果律に一歩の
分化を加えた新意義に応じて発展する場合の人間の精神
作用の描写が文芸では興味深いのです」
「言わんとするところはわかるような気もするが、もっ
とわかりやすく説明してほしい」

そうすると、ここに新しい文芸上の理想が出来上ります。
すなわち物を道具に使って、知を働かし、その関係を明
かにして情の満足を得ると云う理想であります。この理
想を真(しん)に対する理想と云います。だからして真
に対する理想は哲学者及び科学者の理想であると同時に
文芸家の理想にもなります。ただし後者は具体を通じて
真をあらわすと云う条件に束縛されただけが、前者と異
なるのであります。そうしてこの真のあらわし方、すな
わち知を働かす具合も分化していろいろになりますが、
おもに人間の精神作用が、(この場合には(一)におけ
るごとく人間を純感覚物と見做(みな)さないのである)
あらかじめ吾人の予想した因果律(いんがりつ)と一致
するか、またはこの因果律に一歩の分化を加えたる新意
義に応じて発展する場合に多く用いられるのであります。

If we do this. we have fashioned a new literary ideal
---an ideal, that is, in which, using some object as
a means, we obtain emotional satisfaction by clarifying
our relationship to that object through the workings of
our intellect. Let us call this the ideal of truth. This
ideal of truth is thus an ideal for philosophers and
scientists, as well as for literary writers. The latter,
however, differ from the former in that they are bound by
an additional condition---that the truth be expressed through
some concrete object. We can differentiate between various 
ways of manifesting this truth, that is, between various ways
of employing the intellect. Human mental functioning (in this
case we cannot, as in {1} above, regard a person as a simple
object of perception) generally proceeds according to the known
laws of cause and effect, or in response to some new significance
that is developed through additional differentiation beyond the
previous known laws of cause and effects.(translated by Michael K. Bourdaghs)


真を理想にする文芸家
   2014/11/25 (火) 07:47 by Sakana No.20141125074748

11月25日

「人間の精神作用から云うと真はいろいろです。時には
相反しても依然として双方共真──好んでこう言う事を
かく文芸家を真を理想にする文芸家と云います」
「英訳を参考にしなければ理解できないような文学論は
読者泣かせの困った論文だが、今回の説明は英訳を参考
にしなくても論旨がよくわかる」
「父子(おやこ)が激論をしていると、急に火事が起っ
て、家が煙につつまれる。その時今まで激論をしていた
親子が、急に喧嘩(けんか)を忘れて、互に相援(あい
たす)けて門外に逃げるところを小説にかく。すると書
いた人は無論読む人もなるほどさもありそうだと思う。
すなわちこの小説はある地位にある親子の関係を明かに
したと云う点において、作者及び読者の知を働かし得て、
真に対する情の満足を得せしむる──具体的でわかりや
すい説明ですね」
「下町の人情喜劇だ」
「または反対に、大変中(なか)のよかった夫婦が飢饉
(ききん)のときに、平生の愛を忘れて、妻の食うべき
粥(かゆ)を夫が奪って食うと云う事を小説にかく。す
るとこれもある位地境遇にある夫婦の関係を明かにする
と云う点で同様の満足を作者と読者に与えるかも知れま
せん」
「人生の不条理を描いた実存的悲劇、なるほど、このよ
うな作品を書くのが、真を理想にする文芸家なんだね」

たとえば父子(おやこ)が激論をしていると、急に火事が起って、
家が煙につつまれる。その時今まで激論をしていた親子が、急に喧嘩
(けんか)を忘れて、互に相援(あいたす)けて門外に逃げるところ
を小説にかく。すると書いた人は無論読む人もなるほどさもありそう
だと思う。すなわちこの小説はある地位にある親子の関係を明かにし
たと云う点において、作者及び読者の知を働かし得て、真に対する情
の満足を得せしむるのであります。または反対に、大変中(なか)の
よかった夫婦が飢饉(ききん)のときに、平生の愛を忘れて、妻の食
うべき粥(かゆ)を夫が奪って食うと云う事を小説にかく。するとこ
れもある位地境遇にある夫婦の関係を明かにすると云う点で同様の満
足を作者と読者に与えるかも知れない。(人間の精神作用から云うと
真はいろいろである。時には相反しても依然として双方共真である)
好んでこう言う事をかく文芸家を真を理想にする文芸家と云います。


文芸家の理想としての情
   2014/11/28 (金) 09:30 by Sakana No.20141128093046

11月28日

「人間の第一の精神作用は知、第二の精神作
用は情。この情を理想として働かせる人が文
芸家です」
「情に棹させば流される。文芸家は流される
人だ」
「単に情というとあいまいです。なぜなれば、
我々が情の活動を得んがために、文芸上の作
物を仕上げたり、またはこれを味う時に働か
しむる情は、作物中に材料として使用する情
とは区別する必要があるからであります」
「文芸上の作物を仕上げようとしている人は
情に流されないように気をつけているのか」
「我々は感覚物(an object of perception)
を感覚物として見るときに一種の情を起しま
す。この情はすなわち文芸家の理想の一です」
「文芸家の英訳はa literary writer。一種の
情の英訳は a kind of feeling。理想の英訳
はideal」
「我々はまた感覚物を通じて知を働かせると
きに一種の情を起します。この情もまた文芸
家の理想の一であります」
「知に働けば角が立つ 」
「次に我々は同じく感覚物を通じて情を働か
せるときにまた一種の情を得ねばならぬ訳で
あります。この両(ふたつ)の情はたとえそ
の内容において彼此(ひし)相一致するとし
ても、これを同体同物としては議論の上にお
いて混雑を生ずる訳であります」
「If you work by reason, you grow rough-edged; 
if you choose to dip your oar into sentiment’s 
stream, it will sweep you away. Demanding your 
own way only serves to constrain you. However 
you looked at it, the human world is not an easy 
place to live.(translated by Meredith McKinney)

(ろ)吾人の有する第二の精神作用は情であります。この情を理想
として働かせる人を文芸家と云う事は前に述べた通りでありますが、
説いてここに至ると混雑を生じやすいからして、少々弁じた上進行
します。単に情と云うと曖昧(あいまい)であります。なぜなれば
我々が情の活動を得んがために、文芸上の作物を仕上げたり、また
はこれを味う時に働かしむる情は、作物中に材料として使用する情
とは区別する必要があるからであります。我々は感覚物を感覚物と
して見るときに一種の情を起します、この情はすなわち文芸家の理
想の一であります。我々はまた感覚物を通じて知を働かせるときに
一種の情を起します。この情もまた文芸家の理想の一であります。
次に我々は同じく感覚物を通じて情を働かせるときにまた一種の情
を得ねばならぬ訳であります。この両(ふたつ)の情はたとえその
内容において彼此(ひし)相一致するとしても、これを同体同物と
しては議論の上において混雑を生ずる訳であります。
 b. The second mental function that we possess is feeling. As I
said earlier, those who work by taking feelings as their ideal
are literary writers. This point, however, can easily give rise
to confusion, and so I would like to explain it more fully before
proceeding. Simply to say feelings is ambiguous. This is because
the feeling that moves us to produce a work of literary work and 
the feelings that we experience when we are employing the work
must be distinguished from the feelings that are depicted in it,
the feelings that are employed as material in the work itself.
When we see an object of perception directly as an object of perception,
one kind of feeling arises; the feeling is one of the ideas of a
litery writer. When. on the other hand, our intellect is moved through
the mediation of some object of perception, another kind of feeling
arises. This feeling, too, is one of the ideals of a litery writer. Next,
when our feelings are prompted through the mediation of some object of
perception, we necessarily have yet another kind of feeling. Even if
these two feelings are identical in content, to treat them as the same
thing, the same entity, will confuse our discussion. 
(translated by Michael K. Bourdaghs)


感覚物に附着した怒と自己中に起る
   2014/12/1 (月) 10:36 by Sakana No.20141201103658

12月01日

「例えば、ある感覚物(a certain object of 
perception)を通じて怒という情をあらわす場
合を想定しましょう」
「息子になりすました男から振り込め詐欺の電
話がかかってきた。この野郎!」
「振り込め詐欺を題材にした小説を読んだ場合
と比較してみてください。怒の性質がちがうは
ずです」
「前の怒は原因で、後の怒は結果か、なるほど」
「わかりやすく言い直すと、前の怒は感覚物に
附着した怒で、後の怒は我と云う自己中に起る
怒です」
「そんな風にわかりやすく言い直されると、か
えってわかりにくくなる」
「とにかく、混同を防ぐためにこの二つを区別
しておかなければならないのです」
「要するに怒を二つに区別して考えるというと
ころまではわかった」


例えばある感覚物を通じて怒(いかり)と云う情をあらわすとすれ
ば、この作物より得る吾人の情もまた同性質の怒かも知れぬけれど
も(時には異性質の情を起す事あるはもちろんである)両者同物で
はない。前の怒りは原因で後の怒りは結果である。わかりやすく言
い直すと、前の怒りは感覚物に附着した怒である。(たといその源
は我の有する作用中の怒りを我以外に放射して創設せるものにもせ
よ)後の怒は我と云う自己中に起る怒りである。だから混同を防ぐ
ためにこの二つを区別しておいて歩を進めます。しかしその論法は
大体において(い)の場合、すなわち吾人は知の働きを愛して、こ
れに一種の情を付与すと云う条(くだ)りに説明したものと変りは
ありません。吾人の心裏(しんり)に往来する喜怒哀楽は、それ自
身において、吾人の意識の大部分を構成するのみならず、その発現
を客観的にして、これをいわゆる物(多くの場合においては人間で
あります)において認めた時にもまた大に吾人の情を刺激するもの
であります。けれどもこの刺激は前に述べた条件に基(もとづ)い
て、ある具体、ことに人間を通じて情があらわるるときに始めて享
受(きょうじゅ)する事ができるのであります。情において興味を
有するからと云うて心理学者のように情だけを抽象して、これを死
物として取扱えば文芸的にはなり兼ねるのであります。もっとも当
体が情であるだけに、知意に比すると比較的抽象化しても物になら
んとは限りませんが、これを詳(くわ)しく説明する余裕がないか
ら略します。
 For example, if through a certain object of perception the
feeling of anger appears, the feeling that we obtain through
a work depicting this might be anger of the same quality (of
course, at times a different sort of emotion will arise). yet
these two are not the same thing. The first anger is a cause,
whereas the subsequent anger is an effect. To put this into
clearer tems, the first anger is an anger that adheres to the
object of perception (even if the source of the anger is in me
is only projected outside of me and thereby established elsewhere).
The subsequent anger is one that arises entirely within the self.
Having made this distinction to prevent confusion between the two,
I will move on. The logic here, however, is basically the same as
I explained in (a), when I discussed how we love the workings of the
intellect and bestow onto these one king of feeling. The happiness,
anger, sadness, and joy that are active in our psyche form the larger
part of our consciousness. Moreover, when they are manifested objectively, 
when we recognize them in some so-called object (in most cases another
person), this, too, greatly stimulate our feelings. However, this
stimulus, based on the conditions I described earlier, is something
we only receive when the feeling is manifested by way of some concrete
thing or person. If you are interested in feeling, but like a psychologist,
you deal with them in  the abstract as inanimate things, you will fail to
deal with them in a literary fashion. It is true, however, that feelings
are more readily dealt with in the abstract. as compared with the intellect
and will, but I do not have time today to explain this in any detail.


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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