夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
 ID


全969件 <更新> ページ移動 ⇒ [ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 終了]

PAGE 80 (791〜800)


材料の取捨選択
   2013/10/28 (月) 08:03 by Sakana No.20131028080321

10月27日

「写実法の表現について論じましたが、表現
だけでなく、材料の取捨選択も大事です」
「異常な人物や異常な事件でなく、平凡な人
物の平凡な事件を材料に選ぶというのが写実
法」
「実例で示します。詩人Crabbeによる『寡婦
の話』の一節を読んでみてください」
「平凡な農夫一家の食事、みんながつがつ肉
や団子を食いちらかし、ビールをがぶがぶ飲
んでいる。その様子を見て、町の学校から帰
ってきた内気でやさしい娘がとまどっている」
「Crabbeは古典派のPopeの一派ですが、この
ような平易卑近な材料を選んでいます。写実
派の仲間に入れてもよいでしょう」


 余は表現の写実を論ずるの序(ついで)、
取材の写実に及びて遂に本章の領外に進出せ
るを以て、茲(ここ)に二、三の実例を挙げ
てこの章を結ばんとす。十八世紀末の詩人
Crabbeは表現の形式において既にPope一派の
籬下に立つを免かれずと雖も、その取材の平
易卑近なるは優に写実法に一家をなせるもの
といふべし。

[Farm Servants at Meal.]

"To Farmer Moses, in Langar Vale, came down
His only daughter, from her school in town;
A tender, timid maid! who knew not how
To pass a pig-sty, or to face a cow;
Smiling she came, with petty talents graced,
A fair complexion, and  a slender waist.
  Used to spare meals, disposed in manner pure,
Her father's kitchen she could ill endure;
Where by the steaming beef he hungry sat,
And laid at once a pound upon his plate;
Hot from the field, her eageer brother seized
An equal part, and hunger's rage appeased;
The air, surcharged with moisture, flagg'd around,
And the offended damsel sigh'd and frown'd;
The swelling fat in lumps conglemerate laid,
And fancy's sickness seized the loathing maid.
But when the men beside their station took,
The maidens with them, and with these the cook;
When one huge wooden bowl before them stood,
Fill'd with huge balls of farinaceous food;
With bacon, mass saline, where never lean
Beneath the brown and bristly rind was seen;
When from a single horn the party drew
Their copious draughts of heavy ale and new;
When the coarse cloth she saw with many a stain.
Solid by rude hinds who cut and came again---
She could not breathe; but with a heavy sigh,
Rein'd the fair neck, and shut th'offended eye;
She minced the sanguine flesh in frustums fine,
And wonder'd much to see the creatures dine."
---The Widow's Tale. II. l 30.

{(食事中の農場使用人)/ランガー谷の農場主モスのもとへ/
一人娘が町の学校から帰ってきた。/
やさしい、内気な娘! 豚小屋の前を通ったり、/
牛と顔を合わせたりするのも苦手な子で、/
にこにこ顔で帰ってきた。ささやかながら芸事を身につけ、/
色白で、ほっそりした腰つきだった。/
彼女は品よく出された、少量の食事に馴れていたので、/
父の食堂が堪えられなかった。/
湯気の立つ牛肉のそばに、父は空腹をかかえて座り、/
すぐさま、一ポンドもある塊を自分の皿に載せた。/
野良から帰ったばかりの兄もがつがつと/
同じ量の肉を取って、猛烈な空腹を鎮めた。/
空気は湿気がこもってよどみ、/
気分の悪くなった娘は、溜息をつき、眉をひそめた。/
脂身の盛り上がった塊がどさっと置いてあるのは、/
思っただけでもぞっとし、胸がむかついた。/
けれども、作男たちがそばに腰掛け、/
女たちがいっしょになり、料理人も加わると、/
大きな澱粉の団子を山盛りにした/
大きな木の鉢が目の前に置かれた。/
ベーコンも添えられているのだが、/
まるで塩の塊で、/
ごわごわした褐色の皮の下に、赤身はまったく見えない。/
たった一つの角杯から満座の人たちが、/
搾りたての強いビールをがぶがぶと飲むのを見、/
何度も肉を切りに来る粗野な作男たちに/
粗布のテーブル掛けが染みだらけにされるのを見ると、/
娘は息もできず、重い溜息をついては/
色白の首をこわばらせ、不快になって目を閉じる。/
彼女は血色の肉を薄く細かく切りながら、/
この連中の食べっぷりに、ただ呆れるだけだった。
───『寡婦の話』一ー三十行]


農家の厨房
   2013/10/30 (水) 07:37 by Sakana No.20131030073711

10月30日

「前回、ご紹介したCrabbeの『寡婦の話』は
その用韻の末においては古典派Popeの詩に似
ている所があるそうですが、実質は労役と汚
穢(おわい)とを兼ねたる農家の厨房の写実
的描写です」
「農家の厨房なんかに詩趣があるのか」
「これを誦して詩趣を呼び起さずと訴ふるは
誦するものの罪なり」
「形式は古典派、内容は写実派ということな
ら俳句のようなものかな」
「俳句ほど短くはありませんが、写実的幻惑
が狙いですから、写生俳句に通じるところは
あると思います」

 Popeの詩を読むものにしてこの篇に対せば
その用韻の末において互に相似る所あるに関
せず、その実質を比較する時宵攘(しょうじ
ょう)の差あるを見るべし。叙する所は農事
の事なり。しかも彼らの想像に成る古典的臭
味を帯びたる農事にあらずして、労役と汚穢
(おわい)とを兼ねたる農家の厨房なり。こ
れを誦して詩趣を呼び起さずと訴ふるは誦す
るものの罪なり。ただ眼前に彼等が生活状態
の如何に素樸にして不作法なるかを相見すれ
ば足る。Crabbeの吾人に与ふ所のものは架空
の詩にあらず、田舎の実景なり。この実景に
眉をひそめて野人に同情を寄するとき、彼の
目的は達し得たりといふべし。もしそれ食膳
の叙記に至ってはKeatsのThe Eve of St. Agnes
中の一節、及びMooreのLolla Rookh中のThe
Light of the Harumの篇を通読してこれと相
対照して始めて詩家毛頴子を動かすの法決し
て一ならざるを知るべし。Crabbeの欲する所
は写実的幻惑なり。(今、煩(わずらい)を
避けて一々にこれを比較せず。就(つ)いて
見るべし)。その他Peter Crimesにおける河
岸の光景、Strolling Playersにおける優人の
技を学ぶの状、The Smoking Clubにおける酔
漢の語に至って、一として所謂詩境を<はい>
脱して実世界の断片を憚りなく写さざるもの
なし。


写実の妙味
   2013/11/3 (日) 06:47 by Sakana No.20131103064709

11月03日

「Jane Austinを賞翫する能はざるものは遂
に写実の妙味を解し能はざるものなり」
「そうかな。例文を読むかぎりではNHKの
朝ドラのようだ」
「Jane Austinは写実の泰斗なり。平凡にして
活躍せる文字を草して技(わざ)神に入るの点
において、優に髭眉(しゅび)の大家を凌ぐ」
「どうせ、ヒロインが意中の紳士と結婚してハ
ッピーエンドというホームドラマだろう」
「ハッピーエンドでいいじゃありませんか。
読者はそれをもとめているのです。ハッピーエ
ンドに至るプロセスで写実の妙味が発揮されて
いれば名作の評価につながります」

 Jane Austinは写実の泰斗なり。平凡にして
活躍せる文字を草して技(わざ)神に入るの
点において、優に髭眉(しゅび)の大家を凌ぐ。
余いふ。Austinを賞翫する能はざるものは遂に
写実の妙味を解し能はざるものなりと。例を挙
げてこれを証せん。

 "My dear Mr. Benette," said his lady to him one day, "have you heard
that Netherfield Park is let at last?"
 Mr. Benette replied that he had not.
 "But it is," returned she; "for Mrs. Long has just been here, and she
told me all about it."
 Mr. Bennet made no answer.
 "Do not you want to know who has taken it ?" cried his wife impatiently.
 "You want to tell me, and I have no objection to hearing it."
 This was invitation enough.
 "Why, my dear, you must know. Mrs. Long says that Netherfield is taken by
a young man of large fortune from the north of England; that he came down
on Monday in a chaise and four to see the place, and was so much delighted
with it that he agreed with Mr. Morris immediately; that he is to take
possession before Michaelmas, and some of his servants are to be in the
house by the end of next week."
 "What is his name ?"
 "Bingley."
 "Is he married or single ?"
 "Oh, single, my dear, to be sure! A single man of large fortune, four or
five thousand a year. What a fine thing for our girls!"
 "How so ? how can it affect them ?"
"My dear Mr. Benette," replied his wife, "how can you be so tiresome ? You
must know that I am thinking of my marrying one of them."
 "Is that his design in settling here ?"
 "Design ? nonsense, how can you talk so! But it is very likely that he may
fall in love with one of them, and therefore you must visit him as soon as
he comes."
 "I see no occasion for that. You and the girls may go, or you may send them
by themselves, which perhaps will be still better, for you are as handsome as
any of them. Mr. Bingley might like you the best of the party."
 "My dear, you flatter me. I certainly have had my share of beauty, but I don't
pretend to be anything extraordinary now. When a woman has five grown-up 
daughters, she ought to give over thinking of her own beauty."
 "In such cases, a woman has not often much beatuy to think of."
 "But my dear, you must indeed go and see Mr. Bingley when he comes into the
neighbourhood."
 "It is more than I engage for; I assure you."
 "But consider your daughters. Only think what an establlishment it would be
for one of them. Sir William and Lady Lucas are determined to go merely on
that account; for in general, you know, they will visit no newcomers. Indeed
you must go for it; for it will be impossible for us to visit him if you do 
not."
 "You are over scrupulopus, I daresay Mr. Bingley will be very glad to see
you and I will send a few lines to assure him if my hearty consent to his
marrying whichever he chooses of the girls, though I must throw in a good
word for my little Lizzy."
 "I desire you will do no such thing. Lizzy is not a lot better than the
others; and I am sure she is not half handsome as Jane, nor so good-
humoured as Lydia. But you are always giving her the preference."
 "They have none of them much to recomment them," replied he; "they are
all silly and ignorant like other girls; But Lizzy has something more of
quickness than her sisters."
 "Mr. Benette, how can you abuse your own children in such a way ? You take
delight in vexing me. You have no compassion on my poor nerves."
 "You mistake me, my dear. I have a high respect for your nerves. They are
my old friends. I have heard you mention them with consideration these
twenty years at least."
 "Ah, you do not know what I suffer."
 "But I hope you will get over it, and live to see many young men of
four thousand a year come into the neighbourhood."
 "It will be no use to us, if twenty such should come, since you will not
visit them."
 "Depend upon it, my dear, that when there are twenty, I will visit them
all."
---Austin. Pride and Prejudice. chap.1)

(「ねえ、あなた」とベネット夫人がある日、夫に言った。「お聞きになった?
ネザーフィールドのお屋敷にとうとう借り手がついたんですって」。
 ベネット氏は、いや聞いていない、と答えた。
「でも、そうなの」と彼女は言葉を返した。「ロングさんの奥様がいらして、す
っかり話してくださったわ」。
 ベネット氏は黙ったままだった。
「どなたが借りたか、お聞きになりたくないの?」と、じれったそうに夫人が叫
んだ。
「君が話したいのじゃないのかい。伺わせていただくことに異存はないよ」。
 これは十分に誘い水だった。
「ねえ、あなた、それがねえ、ロング奥様の話だと、ネザーフィールドの借り手
は北イングランドの若い方で、たいそうなお金持だそうよ。月曜に四頭立ての馬
車で見にいらして、気に入ったので、その場でモリスさんと話を決めておしまい
になったんですって。聖ミカエル祭の前にお移りになる予定で、来週の末までに
は召使が何人か住み込むようですわ」。
「何という人?」
「ビングリーさん」。
「結婚してるのかい。それとも独身?」
「あら、独身よ、もちろん! 独身で、お金持、年収四千か、五千ポンド。うち
の娘たちには素敵なお話ね!」
「どうして? 娘たちとどういう関係があるんだい?」
「まあ、あなたったら」と夫人は答えた。「何てじれったいのかしら? その方
が娘たちの誰かと結婚することにならないかしらって、考えて当然じゃないです
か」。
「その人がここに住むのは、そういう思惑なのかい?」
「思惑? つまらないことを。何ということをおっしゃるの? でも、娘の誰か
を好きにおなりになることは十分考えられますね。ですから、あの方がいらした
ら、すぐご挨拶にいらしてくださいね」。
「そんなことをする必要はないね。君と娘たちで行けばいい。それとも、娘たち
だけで行かせるか。そのほうがいいかもしれない。何しろ君は娘たちの誰にも負
けない美人だからな。ビングリーさんがいちばん気に入ったのが君だった、なん
てね」。
「いやだ。お上手なんかおっしゃって。たしかに、昔はこれでも美人のお裾分け
くらいになったこともあったわ。でも、今では多少とも目立つところがあるなん
て言う気もあるません。女が、一人前に育った娘の五人も持てば、自分の器量な
んぞにかまっていられませんもの。」
「それに、かなうだけの器量が残っていないこともよくあるからね」。
「でも、ほんとうに、あなた、ビングリーさんがご近所にいらしたら、会いにい
らしてくださいね」。
「それは、ちょっと請け合えないな」。
「だけど、娘たちのことも考えてくださいな。選ばれた娘(こ)には玉の輿って
もんですもの。サー・ウィリアムと奥様のルーカス夫人も伺うつもりですって。
そのためだけにね。だって、ふだん、あの方たち、あたらしく来られた方を訪ね
たりなんかなされないのよ。ほんとうに、いらしてくださらなくては困りますわ。
あなたがいらっしゃらなければ、私たちだって行くことができませんもの」。
「そりゃ、遠慮しすぎだよ。きっとビングリーさんは喜んで会ってくれるさ。な
んんあら一筆書いて、君に届けてもらおうか。──どの娘を結婚相手としてお選
びっくだされようとも心より同意申し上げます、とでも。ただしリジーには、ひ
とこといい文句を付け加えなきゃいかんと思うけどね」。
「そんなことなさらないで。リジーは、ほかの子にくらべて、ちっともいいとこ
ろがないじゃりませんか。ジェーンの半分も綺麗じゃないし、リディアほど気立
てが良くもないの。それなのに、いつもあの子に贔屓なさるので」。
「どの子もたいしてご推賞というわけにはいかないよ」と彼は答えた。「揃いも
揃って世間の娘たち同様、抜けたところがあるし、もの知らずだし。ただリジー
には姉妹たちよりちょっぴり機転がきくところがある」
「あなた、ご自分の娘たちに、よくそんなにひどいことをおっしゃるわね。私を
いじめて楽しんでいらっしゃるんだわ。私のかぼそい神経に、まるきり同情がな
いのね」。
「そりゃ、君、誤解だよ。君の神経はご尊敬申し上げている。昔馴染だものなあ。
少なくともこの二十年間、君の神経のことを、たいそうな思いやりをもって口に
するのを耳にし続けてきたよ」。
「ああ、あなたにはわかっていらっしゃらないんだわ。わたしがどんなに苦しん
でいるのか」。
「でも、君はそれに打ち勝って、長生きして、年収四千ポンドの青年たちが、こ
のあたり一帯に群れをなして押し寄せてくるのを見ることになるさ」。
「何にもなりませんわ。たとえ二十人やってこようと、あなたが訪ねてくださら
ないんですもの」。
「まかせておきたまえ。二十人もきたら、一人のこらず、訪ねてやるよ」。・・・
───『高慢と偏見』第一章)


平凡の大功徳
   2013/11/7 (木) 07:57 by Sakana No.20131107075757

11月06日

「ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』
はお読みになりましたか」
「NHKの朝ドラのような読後感だった」
「では、楽しんでいただけたのですね」
「まあ、楽しんだといえないこともない」
「もし、楽しむことができないとしたら、
平凡の大功徳を忘れています」
「平凡な小説よりも天才が書いた小説のほ
うが面白い」
「ジェーン・オースティンは平凡の大功徳を
読者に教えてくれる天才です」
「それにしても、漱石の文章はわけがわから
ん。<篇中非凡なる人物の動作の、自(おの
ず)からなる連続にして、両者の間には截然
たる溝渠あってこれを二区に劃するにあらず
と思はしめざるべからず>──<あらずと思
はしめざるべからず>とは否定か肯定か、ど
っちなのだ」
「そう言う場合には英訳を参考にしてくださ
い。
Because of this continuity between the 
extraordinary activities of the characters
in the book, we are made to forget the clear 
gulf separating the two realms.

 取材既に淡々たり。表現亦酒々として寸毫
の粉飾を用ゐず。これ真個に吾人の起臥し衣
食する尋常の天地なり。これ尋常他奇なきの
天地を眼前に放出して客観裏にその機微の光
景を楽しむ。もし楽しむ能はずといはばこれ
喫茶喫飯のやすきに馴れて平凡の大功徳を忘
れたるものの言なり。かの詩人といひ墨客と
号せるも動(やや)もすれば動心驚魄の事を
天地に捕へて、動心驚魄の筆を紙上に駆るに
あらずんば文章にあらずと思へり。然れども
動心驚魄の事は尋常一様の人を千載一遇の異
堺に置いて始めて発展の実を挙げ得べきもの。
従ってかの徒の所謂深刻といひ、痛切といひ、
熱烈といひ、日常茶飯裏の活計と交渉なきに
似たる活劇も、またこれ尋常一様人の所作の
権化に過ぎず。もし尋常一様の人にあらずと
主張するとき、彼らの描写する人物と、平凡
なる吾らのとの間に同情の一縷だも縁の糸と
なって纏はざるを以て、深刻も、痛切も、熱
烈も、悉くこれ天外の深刻と痛切と熱烈にし
て、実世界の感動にあづからず。<しし>千
万語をつらねて遂に読者の一笑を買ふに過ぎ
ず。この故に如何なる非凡異常の活劇を描く
も、これを演ずるものは遂に平凡なる現実社
会の一員たらざるべからず。少なくともこの
平凡なる一員が特殊の境界、特殊の所作を実
現するものと仮定せざるべからず。否仮定す
るの必要なく比隣郷党の某々を拉してこの特
殊の境界に置くとき、彼らもまた篇中の人物
と同じく特殊の所作を実現すべしとの基礎を
背景に置て、読者の胸裏に終局の安易を与へ
ざるべからず。安穏とは──平凡なる吾ら読
者も一度び非平凡なる境界に入るとき、非平
凡の所作を現ずるの已(や)むを得ざるに至
るべきを思ふて、書中に叙述する所の如何に
吾平生を離れたるにも関せず、有条件の事実
なりと認識するの謂(い)いなり。従ってこ
れら非平凡の行為は平凡なる日常の行為と、
質において渾然として融和して、一脈の流水
の本末の如き観を呈せざるべからず。篇中非
凡なる人物の動作の、自(おのず)からなる
連続にして、両者の間には截然たる溝渠あっ
てこれを二区に劃するにあらずと思はしめざ
るべからず。


夫婦の性格
   2013/11/9 (土) 08:54 by Sakana No.20131109085419

11月09日

「Austenの描く所は単に平凡なる夫婦の無意
義なる会話にあらず。興味なき活社会の断片
を眼前に髣髴せしむるを以て能事をおわるも
のにあらず。この一節のうちに夫婦の性格の
躍然として飛動せるは文字を解するもの否定
する能はざる所なるべし」
「そうかな。『坑夫』の語り手は<性格なん
てものはない><よく小説家がこんな小説を
書くの、あんな性格をこしらえるのと云って
得意がっている。読者もあの性格がこうだの、
ああだのと分ったような事を云っているが、
ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を
読んで嬉しがってるんだろう。本当のことが
小説家などに書けるものじゃないし、書いた
って小説になる気づかいはあるまい>と云っ
ておるぞ」
「しかし、<夫の鷹揚にして、婦の小心なる。
夫の無頓着にして婦の神経質なる。夫の話諧
の範を超えずして、しかも揶揄の戯を禁じ得
ざる>というオースティンの性格描写はうま
いですね」
「まるで苦査弥先生とオタンチンパレオロガ
スみたいだな」
「たしかに、苦沙弥先生の細君は、オタンチ
ンパレオロガスと呼ばれていますが、婦の児
女の将来を思ふて咫尺(しせき)の謀(はか
りごと)に余念なき─ということはありませ
ん」
「それは、『虞美人草』の謎の女だ。いずれ
にしても、漱石がオースティンの写実法を実
作に応用した形跡はみとめられる」

  この結論を提(さ)げて再び写実の領域に
帰り来るとき、吾人は彼らのために斬新なる
一種の主張をもたらし帰りきたるが如き心地
あり。Austenの描く所は単に平凡なる夫婦の
無意義なる会話にあらず。興味なき活社会の
断片を眼前に髣髴せしむるを以て能事をおわ
るものにあらず。この一節のうちに夫婦の性
格の躍然として飛動せるは文字を解するもの
否定する能はざる所なるべし。夫の鷹揚にし
て、婦の小心なる。夫の無頓着にして婦の神
経質なる。夫の話諧の範を超えずして、しか
も揶揄の戯を禁じ得ざる。婦の児女の将来を
思ふて咫尺(しせき)の謀(はかりごと)に
余念なき──悉く筆端に個々の生命を託する
に似たり。夫婦の寿はもとより知りがたく、
遭逢(そうほう)の変また計りがたきは云ふ
を待たずと雖ども、この一節によりて、彼ら
の平生を想見するは容易なり。即ちこの一節
は夫婦の全生涯を一幅のうちに縮写し得たる
の点において尤も意味深きものなり。ただに
縮写なるが故に意味深きのみならず、吾人一
度び彼ら性格の常態をこの縮写によって把住
(はじゅう)するとき、かねてその変態をも
予知し得べきが故なり。有為といひ、転変と
なづくる浮世にあって、運命の翻弄一定の度
を超過するとき、彼らもまた特殊の境界に入
りて特殊の活劇を演ずるやも計りがたしと雖
ども、この活劇は既にこの一節において表出
せられたる彼らの性格の意識中に含有せらる
るにあらずや。彼らの運命に対するあらゆる
飛躍はこの常態より脱化するものにして、こ
の常態と独立するものにあらざればなり。も
し独立するとき吾人は脈略の感を失ひて吾人
は一人を目して二人もしくは三人となさざる
べからず。吾人と交渉なき星の人物と見倣さ
ざるべからず。故に両者が依然として吾人の
同情を惹き、結局の安慰を吾人の胸裏に与へ
んがためには、この常態があらゆる境遇に応
じて変化する凡ての可能性を含めりといはざ
るべからず。含むといふのは不穏当ならば徹
底の深きにこの可能性を同時にても喚起する
の資格ありと断ぜざるべからず。この故にこ
の一種の描写は単に彼ら性格の常態を縮図に
せるの点において深さを有するのみならず、
併せてその可能的変態をも封緘せるの点にお
いて深きを有するものとす。この断案を許す
とき動心驚嘆の事を借りて異常の世界に尋常
の人を運び去るにあらざるよりは人生の機微
を穿って、深奥なる能はずとも主張するは誤
りにちかぎが如し。


平淡なる写実中に潜伏し得る深さ
   2013/11/12 (火) 07:03 by Sakana No.20131112070308

11月12日

「前回の引用文には転記漏れがあり、失礼し
ました。追加しておきます」
「平淡なる写実中に潜伏し得る深さ──それ
がAustenの文学の深さというわけだな」
「ええ、一笑にして万斛(ばんこく)の涙を
蔵するものあり。これがわかる人は、Austen
の文学の深さを知る人です」
「泣かざれば泣くと思はぬものにはそれがわ
からない」
「Infinite sadness can be hidden behid a
single smile.」

 人を殺して血を見ざれば已まずといひ、風
雲を叱し、雷<てい>を<か>せざれば壮な
らうといふ。いふは可なり。これを以て深し
と思ふは却つて解すべからず。当面の珍事は
大に人を動かすが故に深からん。然れども露
骨にして含蓄を欠くが故に浅しともいひ得べ
し。一笑にして万斛(ばんこく)の涙を蔵す
るものあり。泣かざれば泣くと思はぬものに
はこの笑は無意識なるやも知るべからず。吾
は却つてこれらをこそ深きものと思へ。這裏
(しゃり)の消息に通ずるものはAustenの深
さを知るべし。Austenの深さを知るものは平
淡なる写実中に潜伏し得る深さを知るべし。


写実家の表現法、取材法、構事法
   2013/11/15 (金) 08:54 by Sakana No.20131115085432

11月15日

「写実家の表現法(expressive technique)
と取材法(methods of thematization)につ
いては既にご説明した通りです」
「了解」
「次に範囲に制限を加ふる所の構事法です」
「なんだ、それは?」
「英訳によれば、"the techniques of construction 
involved in delimiting the domain of topics"
です」 
「主題のドメイン(領域)を定める構成法?
それが、オースティン『分別と多感』からの
引用文とどう結びつくのか、わけがわからん」
「平明な文章です。じっくり読んで、考えて
ください」

 写実家の表現法は彼(か)の如く、その取
材法またかくの如し。更に取材の範囲に制限
を加ふる所の構事法を見ればその目的はいよ
いよ分明なり。Marianneは病にかかるもの、
Elinorは病を看護するもの、Austenその光景
を叙して曰く、

"The repose of the latter became more and more disturbed; and her sister,
who watched, with unremitting attention, her continual change of posture,
and heard the frequent but inarticulate sounds of complaint which passed
her lips, was almost wishing ti rouse her from so painful a slumber, when
Marianne, suddenly awakened by some accidental noise in the house, started
hastily up, and, with feverish wilderness, cried out---
"Is mamma coming ?"
"Not yet ?"replied the other, conceding her terror, and assisting Marianne
to lie down again; but she will be here, before it is long. It is a great
way, you know, from hence to Barton.
 But she must not go round by London," cried Marianne, in the same hurried
manner. I shall never see her, if she goes by London."
---Sense and Sensibility. chap.x1iii.

(後者(=メアリアン)の睡眠はますます落着きのないものになってきた。姉は
妹が絶えず寝返りをうつのを、休みなく見守っていたが、その唇から繰り返し洩
れる、はっきりしない訴えを耳にしていると、こんな苦しい微睡(まどろみ)な
ら、むしろ目醒めさせてやったほうがいいとさえ思うようになった。するとメア
リアンは、家のなかのふとした物音に不意に目を覚まし、いそいで起き上がると、
熱に浮かされて昂ぶった声で叫んだ。
「ママが来るの?」
「まだよ」と姉は答え、自分の恐怖をおし隠しながら、メアリアンがまた横にな
るのを手伝ってやった。「でも、いらっしゃると思うわ。間もなく。ここからバ
ートンまでは長い道のりですものね」。
「だけど、ママがロンドン回りの道をおとりになったら駄目だわ」とメアリアン
が、同じせかせかした調子で言った。「もしママがロンドンを回っていたら、わ
たしはもう会えないわ」。
───『分別と多感』第四十三章)



平生以下の我の妄語か玄妙の予言か
   2013/11/18 (月) 07:51 by Sakana No.20131118075101

11月18日

「病人が高熱でうなされているときは、平生
の我を失い、半ば無意識に迷乱の語を口走り
ます」
「平生の我でもたわごとを言っているのに、
平生以下の我になると、いったい何をほざく
か」
「Austenは写実家ですから小女マリアンヌの
母に関する妄語をそのまま直叙しています」
「それは直叙する以外に方法がない」
「詩歌の空想郷に立てば、その妄語に玄妙の
予言を聴き取ることもあります」
「その場合、マリアンヌは巫女となる」

 この一節は病者発熱の際、半ば無意識に口
に上す迷乱の語をそのままに直叙せるものに
過ぎず。然れども神経の異状を呈せる病者の
言語は二種の解釈を許す。彼は平生の我を失
へるものなり。平生の我を失ふものは平生以
上の我を得たるか、平生以下の我に堕せるか
の二に過ぎず。常識を以て判ずるに、体熱昂
上して精神昏昧の境に彷徨するは自然の勢な
るを以て、Marianneの母に関する妄語の如き
は平生以下の我を発現せるものと見倣すを以
て至当とす。然れども詩歌の空想郷に立って、
この現象を見るときは、廻然(けいぜん)と
して別種の観あるを妨げず。日常の自我を遺
失せる刻下に、己霊の幽光を千里の遠きに放
つて、双耳双目の視聴以外に、物象の先後す
るを知り得て、傍人の解すべからざる玄妙の
予言を道破し得たりと解するもまた高遠の趣
きなきにあらず。二者いずれに従はんかの問
題を決し得るとき、写実派と浪漫派の区別を
決し得べし。


二様の解釈
   2013/11/21 (木) 07:50 by Sakana No.20131121075022

11月21日

「小女Marianneのうわごとをそのまま描写す
る写実家Austenの文章は、平生以下の我の妄
語か、それとも玄妙の予言か、二様の解釈が
できますが、その解釈は読者にゆだねられま
すが、一方では浪漫派のBronteのように玄妙
の予言を読者に押しつける作者もいます」
「引用文を読むかぎりでは、Marianneのうわ
ごともJaneの言動も似たようなものだ」
「次回に引用するJane Eyreの第37章の部分
を読めば、両作者の違いがわかります」
「こっちは忙しいのだ。そんな風に手持ちの
情報を小出しにするな」
「失礼しました。そろそろ師走ですが、お見
受けしたところ、お忙しそうではないと思っ
たのです」

 Austenは写実家なり。写実家としてのAusten
がこの小女のげい(口へん+藝)語を如何に
利用せるかを説くに当つて、類似の場合にお
ける浪漫派の態度を説くの便宜なるべきを信
ず。
 Janeの情人と策居して、思慕の念に耐へざ
るや、月明の夜、一室の上に坐して、遙かに
吾名を呼ぶものあるを聞く。耳を峙(そばだ)
つるに室中より起るにあらず。庭際より来る
にあらず、天より下るにあらず、地より出ず
るにあらず。しかも人間の声なり。しかも吾
が情人の声なり。吾が情人の苦しんで、狂ふ
て、切に吾を呼ぶ声なり。作者Bronte女主人
公の口を借りてその行動を叙して曰く。

 "I am coming!" I cried, "Wait for me! Oh, I will come!"
I flew to the door, and looked into the passage; it was dark.
I ran into the garden; it was void. 
 "Where are you ?" I exclaimed.
 The hills beyond Marsh Glen sent the answer faintly back.
"Where are you ?" I listened. The wind sighed low in the firs;
all was moorland loneliness and midnight hush.
---Jane Eyre. chap. xxxv.

(「今行きます!」とわたしは叫んだ。「待っていて! 行きますから!」
わたしはドアのところへ飛んで行き、廊下を見渡した。暗かった。庭に
走り出た。何も見てなかった。
 「どこにいるの?」わたしは叫んだ。
 マーシュ・グレンの彼方の山々がかすかにこだまを返してきた。「どこ
にいるの?」わたしは耳を澄ました。風が樅(もみ)の木立のあいだで低く
ため息をついた。あたりは一面、荒れ野の孤独と、夜半の静寂だった。
───『ジェーン・エア』第三十五章) 

と。Janeの吾名を空裏に聞くは、Marianneの遠
き母を云々するが如し。その双方既に両作家の
好尚をあらはして歩趨既に一ならずと雖も、引
用せる節に二様の解釈を許すは両者異なる所な
し。二様の解釈を許すにも関せず、Bronteの断
固として玄秘主義を執れるは後段の照応を見て
知るべし。


読者の信頼
   2013/11/24 (日) 09:49 by Sakana No.20131124094930

11月24日

「『ジェーン・エア』は恋人同士の相思の念
が霊界に呼応して、肉団五官の諸縁に超絶せ
る例です」
「現実にはそんなことはありえない」
「それは恋をしたことのない人の見解です」
「浪漫派の作家は信頼できない」
「たしかに異常の事を描写しすぎると、読者
遂に作家を信ぜざらんとす、ということにな
りかねません」
「ビジネスにおいてだけでなく、文学におい
ても信用は大事だ」
「そんなことばかりいっていたら、夢も希望
もなくなってしまいます」
「否! 写実の中にこそ夢と希望はある」

  書の三十七篇に曰く

 "As I exclaimed "Jane! Jane!" Jane!---I cannot tell whence the voice 
came, but I know whose voice it was---replied, "I am coming! wait for 
me!" and a moment after, when whispering on the wind, the words---"Where
are you ?..."Where are you ? seemed spoken amongst mountains; for I
heard a hill sent echo repeat the woods."
---Jane Eyre. chap. xxxvii.

(ぼくが「ジェーン! ジェーン! ジェーン!」と叫ぶと、声が答えた──
声はどこから聞こえてくるのかわからないが、誰のものかはわかっていた。──
「今行きます! 待っていて!」 一瞬ののち、風に乗ってささやくように言葉
が伝わってきた。──「どこにいるの?」・・・「どこにいるの?」という言葉
が山々のあいだで交わされたように思われた。山々がこだまして、その言葉を繰
り返しているのが聞こえたのだ。)
───『ジェーン・エア』第三十七章)

とこれ情人RochesterのJaneに告ぐるの声なり。
これに由ってこれを見れば女の聴けるは空裏
の幻音にあらず。男の受けたるは夢中の妄答
ならず、離群百里にして、相思の念、霊界に
呼応して、肉団五官の諸縁に超絶せるものな
り。二二四(ににんがし)をなすの世界に在
つてこの不可思議の因縁を窺ふとき、吾人は
事の異常なるに驚いて逡巡する事数歩ならん
とす。然れども一度び現実の俗念を放下し得
て醍醐の詩味に全身を委棄して顧みざるとき
壷中に天地あり。蓬莱また咫尺(しせき)な
るを知る。これを浪漫派得意の興致とす。
(C.Readeはその著The Cloister and the
Hearthにおいてまたこの浪漫的方法を用ゐて
読者をして自然以上の情緒に耽らしめんと力
めたるものの如く。Chap ixx. ixxix. ixx.
皆これ超自然の消息に触るるを見る。然りと
雖もこれら異常の事はその異常なるがために
半ば興懐を杳遠にするの効力あるもの、これ
を用ゐる事多きに失すれば、読者遂に作家を
信ぜざらんとす。質において異常なるものは
何度繰り返さるるも玄秘の感を免れずして、
しかもその効果のみは平凡となるが故ななり。
怪力乱神を説く事二六時中なるも怪力乱神は
遂に怪力乱神にして、その人を怖れしむるの
程度は説くに従って減ずるが如し。この故に
如何に浪漫派の作物と雖も感応の場合の如き
は一あつて一あるべからざるもの、Readeは慥
かにこの点において失敗せるものといふべし)。


ページ移動 ⇒ [ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 終了] <照会>
 
「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2014 Sakana Hasebe