夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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水は水なり
   2013/7/29 (月) 07:26 by Sakana No.20130729072600

07月29日

「次に文学者と科学者との差異は事物に対す
る態度にあります」
「文学者は態度がでかい。科学者も態度がで
かい。差はないと思うが」
「科学者の事物に対する態度は解剖的です。
その成分を分解し、その性質を究めようとし
ます。それに対して文学者の態度は通俗的で
す」
「通俗作家の態度は通俗的かもしれないが、
純文学の作家は通俗的ではない」
「純文学の作家でも天下の事物はことごとく
全形において存在するものなりと信じていま
す。人は人にして、馬は馬なりと」
「彼は人なり、我らも人なり、我何ぞ彼を畏
れんや」
「彼ら科学者は水を分解して H2Oとなすとき、
彼らの要するところのものはHとOにしてH2Oよ
り成立する水そのものにあらざるなり。

 次に来るべき文学者科学者間の差異はその
態度にあり。科学者の事物に対する態度は解
剖的なり。由来吾人は常に通俗なる見解を以
て、天下の事物は悉(ことご)く全形におい
て存在するものなりと信ず。即ち人は人にし
て、馬は馬なりと思ふ。然るに科学者は決し
てこの人或は馬の全形を見てそのままに満足
するものにあらず、必ずやその成分を分解し、
その性質を究めざれば已まず。即ち一物に対
する科学者の態度は破壊的にして、自然界に
おいて完全形において存在するものを、細に
切り離ちて、その極致に至らざれば止まず。
単に肉眼の分解を以て満足せずして百倍乃至
千倍の顕微鏡を用ゐてその目的を達せんとす。
複合体にあまんずることなく、これを元素に
還し、これを原子に分つ。さて如此(かくの
ごとき)分解の結果は遂にその主成分より成
立するその全形を等閑視することしばしばに
して、またこれを顧みるの必要なきことも或
る場合においては事実なりといひ得べし。例
へば、彼らは水を分解して H2Oとなすとき、
彼らの要するところのものはHとOにしてH2Oよ
り成立する水そのものにあらざるなり。


解剖
   2013/8/1 (木) 08:21 by Sakana No.20130801082152

08月01日

「文学者が科学者と違うのは解剖に取組む態
度です」
「小説家は性格を解剖するし、物象の特徴を
列挙する。このような解剖的態度がなければ、
物の選択的取捨をする場合に、文学的に必要
な部分を引き立たせ、必要ではない部分を後
景に引き込ませることができない」
「文学者の解剖はガン細胞を顕微鏡で見るよ
うなやり方ではありません」
「虫眼鏡で見るのか」
「色眼鏡かもしれません」
「変な色眼鏡で解剖しないでほしい」
「それから、科学者は観察、実験しますが、
文学者は観察はしても実験はしません」
「実験しないと、正しいかどうか確認できな
い」
「物体の概念的中断性や黄金律の実験結果な
どは文学者の与(あず)かり知るところにあ
らず」
「そんな態度では色眼鏡で物を見るようにな
るおそれがあります」

 しからば文学者が用ゐる解剖は如何。小説
家は性格を解剖し、物象を描くものはその特
徴を列挙す。もし文学者にこの態度なければ、
物の選択的取捨を要するにあたり、文学的に
必要なる部分を引き立たしめ、必要ならざる
部分を後景に引き込ましむること能はざるべ
し。即ち物を叙して、これを活動せしむるこ
と能はざるべし。されども文学者の解剖と科
学者のそれと異るところは、前者の態度は常
に肉眼にして顕微鏡的ならざるにあり。また
観察に拠りて実験を用ゐざるにあり。例へば、
かの物理学者の所謂"conceptual discontinuity
of bodies(物体の概念的中断性)の議論を見
よ。その理由に曰く、凡ての物体には弾力あ
り、空気の如きも、これを円とうに入れて圧
搾するを得べし。これ凡て物体の質は精密の
意味において不断的にあらざるを証するもの
なりと仮定し得る所以なりと。此の如きは文
学者の与(あず)かり知らざる所とす。或は
Fechnerの"golden cut"(黄金律)と称する
一種の審美的切断法の価値を実験の結果とし
て発見せるが如き、また科学者の業(わざ)
として文学者は敢て顧みざるを常とす。


感覚印象
   2013/8/3 (土) 06:49 by Sakana No.20130803064947

08月04日

「真偽は感覚印象により決まると文学者は主
張します」
「感覚印象はあてにならない。地球は太陽の
周囲を廻転しているのに、感覚印象はその真
実を受け入れないではないか」
「ゲーテ曰く、感覚は欺かない、判断が欺く
のだ」
「60歳も若い少女に恋をしたのは感覚に欺か
れたとしか思えない」
「その恋のおかげで、『マリーエンバート悲
歌』が生まれたのです」 

  一物を組織する直線、円形のけん別は固よ
り文学者の本領にあらずとはいはず。されど
も更に一段を遡りて自然界の線が幾何学上有
効なりや否やは決してその問ふところにあら
ず。彼らはただ感覚印象より真偽を決するが
故に、これ以上に分け入れる科学上的真は却
って偽となることあり。彼らにとりては日は
東より出でて西に没するなり。地球が太陽の
周囲を廻転するに非ざるなり。珊瑚は赤色と
堅緻の質とを備へたる美しき枝にしてpolypus
より成立する虫巣にあらざるなり。詩人Rossetti
はかつていふ、太陽が地球を廻るも、地球が
太陽を廻るも吾関するところにあらず。


キーツとテニソンの詩
   2013/8/7 (水) 05:12 by Sakana No.20130807051250

08月07日

「文学者の感覚印象で把握した眞をキーツの
詩『レイミア』とテニソンの詩『モード』で
味わってください」
「キーツは科学者が虹の構造を解剖するのに
抵抗し、感性でとらえた神秘的魅力をうたっ
ている。テニソンは貝の美しさに目をとめ、
貝の名前を生物学者がどう名付けようと、美
しさには変わりはないという」
「詩人は虹や貝を解剖しません」
「しかし、科学者を意識し、差別化をはかろ
うとする態度が見え透いている」
「それでいいじゃないですか」
「科学上の真など気にせず、もっとおおらか
に文芸上の真を追及してほしい」


 Keatsまたいふ。
 "Do not all charms fly
At the mere touch of cold philosophy?
There was an awful rainbow once in heaven;
We know her woof, her texture; she is given
In the dull catalogue of common things.
Philosophy will clip an Angel's wings.
Conquer all mysteries by rule and line,
Empty the haunted air, and gnomed mine---
Unweave a rainbow, as it erewhile made
The tender-person'd Lamia melt into a shade."
---Keats, Lamia, Pt.II. ll. 229-38.
「冷たい学問に一触れしただけで/
魅力が逃げ去ってしまわないか?/
かつて天には壮麗な虹があった。/
いま、その横糸も織り目もわかり、/
ありふれた物のつまらないカタログに組み入れられる。/
学問は天使の翼を鋏み切り、/
定規で線を引いてあらゆる神秘を征服し、/
精霊が屯した空、妖精の棲まいした土地を空(から)にするだろう。/
──虹を解きほぐしてしまうだろう。かつて、/
たおやかな姿のレイミアを影と溶かしてしまったように」。
(キーツ『レイミア』第二部、二二九ー三八行)

 Tennysonもまた Maud中にかくいへり。
          I.
"She what a lovely shell,
Small and pure as a pearl,
Lying close to my foot,
Frail, but a work divine,
made so fairily well
With delicate spire and whorl,
How exquisitely minute,
A miracle of design!
           II.
What is it? a learned man
Could give it a clumsy name.
Let him name it who can,
The beauty would be the same
---Tennyson, Moud, Pt. II. ii.
      I.
「見たまえ、何と美しい貝か。/
真珠のように小さく、清らかで、/
わたしの足許に転がっている。/
繊弱(かよわ)いけれど、神の作品だ。/
繊細な螺旋と渦巻とで/
巧みにしつられられ、/
何と精妙に細密なことか、/
まさに意匠の奇蹟だ!」
     II.
「これを何と呼ぼう?
学ある人は/
ぎこちない名をつけるだろう。/
名付けられる人には名付けさせておけ。/
美しさには変わりない」。
(テニソン『モード』第二部第二連)


木を見て森を見ず
   2013/8/10 (土) 05:51 by Sakana No.20130810055132

08月10日

「キーツの詩『レイミア』とテニソンの詩
『モード』の例で見るように文学者の行う解
剖は常に全局の活動を目的とするものです」
「全局の活動?」
「英語のことわざに、"You cannot see the 
wood for the trees."(木を見て森を見ず)
というのがあります」
「一本一本の木に注意を奪われると、森全体
を見ない──つまり、科学者が専門バカにな
りやすいというのか」
「そんなことはいっていません。文学者は解
剖するにあたっても常に森を見るということ
を言っているのです」

 如此(かくのごと)く文学者の行ふ解剖は
常に全局の活動を目的とするものにして、各
部として各部を吟味するが如きは、全くこの
目的を助長するの効果あって始めて存在を許
すべきのみ。


お盆休み
   2013/8/13 (火) 08:39 by Sakana No.20130813083903

08月13日

「第一章 文学的Fと科学的Fとの比較一般
の英訳はここまでです」
「岩波文庫版『文学論』はまだ続いているの
か」
「ええ、302ページから339ページまで、約37
ページにわたり縷々解説してあります。文学
的Fと科学的Fとの比較に興味のある方は原
作を精読してください」
「きみは漱石につきあわないのか」
「私もさらっとおさらいをしておきますが、
とりあえずは、お盆休みということにさせて
いただきます」


文芸上の真と科学上の真
   2013/8/16 (金) 08:25 by Sakana No.20130816082554

8月16日

「それでは第三編第二章 文芸上の真と科学
の眞 にすすみたいと思います」
「よからう」
「凡そ文学者の重(おもん)ずべきは文芸上
の眞にして科学上の真にあらず。かるが故に
必要の場合に臨みて文学者が科学上の眞に背
馳(はいち)するは毫(ごう)も怪むに足ら
ざるなり」
「怪しむね。真実は一つだ」
「真実は藪の中。視点によって変わってきま
す」
「変わってたまるか」

 凡そ文学者の重(おもん)ずべきは文芸上
の眞にして科学上の真にあらず。かるが故に
必要の場合に臨みて文学者が科学上の眞に背
馳(はいち)するは毫(ごう)も怪むに足ら
ざるなり。而して文芸上の眞とは描写せられ
たる事物の感が眞ならざるを得ざるが如く直
接に喚起される場合をいふに過ぎず。一代の
天才Milletの作品中に農婦が草を刈るの図あ
り。ある農夫これを見てこの腰付にては草刈
る事覚束なしと評せると聞く。なるほど事実
よりいへば無理なる骨格なるやも知れず。さ
れども無理なる骨格を描きながら、毫も不自
然の痕跡なく草を刈りつつあるより外に感じ
得ぬ時に画家の技は芸術的眞を描きたるとい
ふべし。芸術的眞を描き得たるとせば科学上
の眞を発揮し得たりや否やの問題は遂に観者
を煩わすに足らざるべし。


微妙の関係
   2013/8/20 (火) 07:24 by Sakana No.20130820072451

08月19日

「文芸上の眞と科学上の真とその間に微妙の
関係あるは勿論なれど」
「微妙の関係とは?」
「suble relation──曰く言い難し」
「それでは文芸上の真は表現し難い」
「文芸の作家は文芸上の眞をその第一義とす
べく、場合によりてはこの文芸上の眞に達し
得んがために甘じて科学上の眞を犠牲とする
も不可なきにちかし」
「第一義とは?」
「最優先(the first priority)」

  今世の画家頻(しき)りに人体の組織を研
究して日もまた及ばざるが如し。彼らの作物
をして一寸たりとも科学上の真に近づかしめ
んとするの点において誠に嘉(よみ)べき志
を抱けるを疑はず。しかも一意にこの方面に
馳(は)せて遂に芸術上の真を学ぶことなく
ば、その作品は終(つい)に失敗たるを免れ
能はざるべし。文芸上の眞と科学上の真とそ
の間に微妙の関係あるは勿論なれど、文芸の
作家は文芸上の眞をその第一義とすべく、場
合によりてはこの文芸上の眞に達し得んがた
めに甘じて科学上の眞を犠牲とするも不可な
きにちかし。


誇大法
   2013/8/22 (木) 07:54 by Sakana No.20130822075458

08月22日

「文芸上の真にして科学上の真にそむく例を
ここでは1)誇大法、2)省略、3)組み合
わせ、の3点から論じておられます。まず、
誇大法の例として、『ホメーロスのイーリア
ス』からの引用に目を通してください」。
「<青銅のアレースは九千人か一万人の戦士
が戦闘に入る折の雄叫びのような大音声を発
した>というのが誇大法。一人が一万人の戦
士の雄叫びのような大音声をあげられるはず
がない」
「ホメーロスは、想像を眞ならしめんがため
に事実を誇大にし、誇大にしたるがため描写
に生命を賦し得たのです。同じように、小説
的誇張、映画的誇張は許されます。むしろ、
奨励されます」
「しかし、リアリズムに反する。自然主義の
作家たちは認めないだろう」
「かかる場合に科学上の真に拘泥するものは
徒(いたずら)に文芸を科学的智識につなぎ
つけて活発々地の作用を妨ぐるものといふべ
し」

 文芸上の眞にして科学上の真に背(そむ)
くもの一にして足らず、左に一、二を挙げて
例証す。

(一)誇大法

 Next Diomedes of the loud war cry attacked 
with spear of bronze; and Pallas Athene drave 
it home against Ares' nethermost belly, where 
his taslets were girt about him. There smote he 
him, rending through his fair skin, and plucked 
forth the spear again. Then brazen Ares bellowed 
loud as nine thousand warriors or ten thousand
cry in battle as they join in strife and fray. 
Thereat trembling gat hold of Achalans and Trojans 
for fear, so mightily bellowed Ares insatiate of battle."
---A. Lang, W. Leaf & E. Myers, The Iliad of Homer, 
p108

「次にはディオメデスが大声で雄叫びを上げて、
青銅の槍で襲いかかった。すると、アテナ女神は、
その槍が、腹当てをしているアレースの下腹に深
く突き通るようにした。ディオメディスはこの部
分を強く打って、彼の美しい肌を裂いて傷つけ、
また槍を引き抜いた。すると青銅のアレースは九
千人か一万人の戦士が戦闘に入る折の雄叫びのよ
うな大音声を発した。これを聞くと、アカイア軍
(ギリシア軍)もトロイア軍を怖れおののいた。
戦闘に倦むことを知らぬアレースの叫び声はこと
ほどさように力強かったのだ。」
(A・ラング、W・リーフ、E・マイアーズ訳
「ホメーロスのイーリアス」)

 既に神の戦なり。神なれば九千人前の大音声を
一万人分の怒号もただ想像し得るの便宜多き叙方
は眞とする外はあるべからず。Homerがこの点にお
いて成功したりや否は問題外とするも、想像を眞
ならしめんがために事実を誇大にし、誇大にした
るがため描写に生命を賦し得たりとせば、かかる
場合に科学上の真に拘泥するものは徒(いたずら)
に文芸を科学的智識につなぎつけて活発々地の作
用を妨ぐるものといふべし。


省略法
   2013/8/25 (日) 08:46 by Sakana No.20130825084655

08月25日

「文芸上の眞にして科学上の真にそむく例の
第二は省略です」
「関係代名詞は省略できる」
「意識内容も省略できます。文学者は物の一
面一部を選んで("select a part or an aspect
of the object")、これによりその伝へんとす
るところを完全に発揮する("through this seek
perfectly to convey the gist of the matter."
ことしばしばあり」
「問題はどの一面一部を選び、何を省略するか
だ」
「わかっていただけたでしょうか」

(二)省略、選択法

 上来述べ来(きた)りし如く、凡そ吾人の
意識内容は厳正の意味において残りなく言葉、
文字に改め得るものはあらず。されば文学者
は物の一面一部を撰み、これによりその伝へ
んとするところを完全に発揮することしばし
ばあり。これ文学者が科学者の眞を等閑視す
る第二なり。所論は前篇を参照すれば自から
明瞭なるを以て深くいはず。例を挙ぐれば比
々皆是なるを以て略す。



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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2014 Sakana Hasebe