夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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悲劇に伴うf
   2013/6/29 (土) 08:11 by Sakana No.20130629081158

06月29日

「第二編 文学的内容の数量的変化の英訳は
第三章 fの幻惑 に続いて、第四章 悲劇
に伴うfも省略されています」
「手抜きや休講があるとたすかる」
「原文はあるのですから、気をぬかずに、し
っかり復習してください」
「fも幻惑され続けると、疲れる。たまには
ぼんやり夏の雲を眺めていたい」
「それはストア派の哲学者がすすめるアパテ
ィア(無感動)です」
「漱石のすすめる非人情に通じる」
「道徳ぬきの文学ですね。それも第三章 f
の幻惑で論じてありますが、残念ながら英訳
では省略です」
「たまには省略もよい」


文学的内容の特質
   2013/7/2 (火) 06:12 by Sakana No.20130702061248

07月02日

「それでは第三編 文学的内容の特質 (The
Particular Character of Literary Substance)
にジャンプします」
「第一編 文学的内容の分類、第二編文学的
内容の数量的変化 に続く」
「第三編は第一章 文学的Fと科学的Fとの
比較一汎(Comparative Survey of Literary 
F and Scientific F)、第二章 文芸上の真と
科学上の真(Truth in Literature and Truth
in Science) となっています」
「眞は眞だ。文学の真も科学の眞も同じだろう」
「同じではない。文芸上の真と科学上の真とは
違うと漱石先生は説いておられます。<凡そ文
学者の重(おもん)ずべきは文芸上の真にして
科学上の真にあらず。かるが故に必要の場合に
臨みて文学者が科学上の眞に背馳(はいち)す
るは毫も怪しむに足らざるなり>」
「怪しむに足るよ」


文学者対科学者
   2013/7/5 (金) 09:37 by Sakana No.20130705093752

07月05日

「第三編 文学的内容の特質 の英訳は第一
章、第二章とも最初のほうを訳しているだけ
です」
「原作の説明がくどすぎるからだろう」
「枝葉末節はどうでもいい。要するに文学論
の重要なポイントがわかればいいのです」
「なんど、その重要なポイントとは?」
「凡そ、吾人の意識内容たるFは人により、
時により、性質において数量において異なる
ものにしてその源因は遺伝、正確、社会、習
慣等に基づくこと勿論なれば、吾人は左の如
く断言することを得べし。即ち同一の境遇、
歴史、職業に従事するものには同種のFが主
宰すること最も普通の現象なりとすと」
「類は類を呼ぶ(Birds of a feather flock 
togethe)」
「文学者なる者にも一定のFが主宰しつつあ
ります。それは如何なるものかを知るために
は他の階級、たとえば科学者と比較してその
類似差異を見るのが便利です。暫く文学者対
科学者(哲学者を含む)につき論ずることあ
るべし」 


日本開国五十年史
   2013/7/8 (月) 08:16 by Sakana No.20130708081652

07月08日

「第三篇 文学的内容の特質 の英訳者ジョ
セフ A マーフィは大隈重信撰『日本開国五
十年史』から三宅雪嶺の"The Introduction
of Western Philosophy" to Japanをとりあ
げています」
「その『日本開国五十年史』を図書館から借
りてきてくれ」
「近くの図書館にもないので、今すぐ確認で
きませんが、 三宅雪嶺はフェノロサの講義を
受講して影響を受けたけれども、フェノロサ
によるドイツロマン主義の講義が精妙さと正確
さにおいて欠けるところがあり、隔靴掻痒とい
う意味の批判をしているそうです。(Miyake 
describes lectures by Harvard's Ernest Fenollosa 
in the 1880s, intorducing German Romanticism 
in an amusing way, as "lacking in subtlety
and exactness," producing an impression 
"akin to that produced by scratching one's
feet outside one's shoes)」
「三宅雪嶺は国粋主義者だ。『真善美日本人』
『偽醜悪日本人』などの著書がある」
「西洋の哲学と東洋の哲学との優劣の比較にな
ります。雪嶺は東洋哲学の優位性を主張しますが、
両者を区別する大きな要素が科学的実験の量とい
う指摘はしています(the element essentially
distinguishes the two is the amount of scientific
experiments)」
「漱石の講演『現代日本の開化』とも関係があり
そうだ」


文学と科学
   2013/7/11 (木) 08:03 by Sakana No.20130711080310

07月11日

「漱石が第三章で明確に主張しているが、昨
今の文学と科学の議論では無視されがちなポ
イントがあるとマーフィが解説の最後のほう
で指摘していますが、どんなポイントでしょ
う」
「科学では解明できない真がある。その眞を
つきとめることができるのは文学──それに
はFよりもfに注目すべしという主張だろう」
「しかし、ラフカディオ・ハーンの印象主義
的ヒューマニズム(the impressionistic humanism 
of Lafcadio Hearn)の講義に馴れ親しんでい
た学生たちは漱石先生の講義に抵抗を感じま
した」
「鈴木三重吉や森田草平の如き輩に理解でき
るはずがない」
「あの二人は神経衰弱で先生につながってい
たのです。講義なんかロクに聴いてもいませ
ん」
「小宮豊隆、安倍能成、阿部次郎は?」
「科学がどんなものか理解していたのは寒月
と野々宮のモデルの寺田寅彦だけでしょう」

The question, however, is organized in an
interesting way over the division of science
and literature via the question of time. Here
one of the central difficulties in interpreting
Soseki's text is brought into focus. Soseki moves
through a standard set of considerations in claiming
that truth that obtains in literature is different
from the truth that obtains in science, Though he
does not really specify what that literary truth is,
by following his argument it is clear that it must
lie in true affective experience f; hence it is a
matter of indifference if F is scientifially true
or not. The difficulty is that, while Soseki is
claiming that literary practice should be exempt
from the criteria and impulse of scintific thought,
he does not say whether they should obtain in literary
criticism and theory. This significance for practice 
becomes clear in the section where Soseki argues against
the tendency of science to analyze in a way that kills 
literary truth. One can feel the tension of Soseki in the 
classroom in 1904-5 vis-a-vis his students, who are
accustomed to the impressionistic humanism of Lafcadio 
Hearn and resist Soseki's effort to "kill" the object, 
and who is himself resisting slipping into either position. 
Hence, whether or not one judges Soseki's effort to secure
for literature a realm outside science as successful,
ir says nothing about how to evaluate his theoretical
work. This is a point maintained with clarity by
Soseki but often elided today in discussions of
"literature and science."  (Joseph A. Murphy)


「時」なる観念
   2013/7/14 (日) 18:06 by Sakana No.20130714180617

07月14日

「凡そ科学の目的とするところは叙述にして
説明にあらずとは科学者の自白により明なり」
「マーフィの英訳ではどうなっている?」
「That the goal of science is an account of
facts and not explanation is clear from 
the reports of scientists themselves.」
「つまり、科学の目的は説明だが、事実の説明
でなければならない」
「科学は"How"の疑問を説けども、"Why"に応ずる
能はず、否これに応ずる権利なしと自認するもの
なり」
「そこのところは英訳を参考にしなくても理解で
きる」
「さてこの"How"なる質問に応ぜんとすれば、必ず
この与へられたる現象の拠って生じたる経路をた
どらざるべからず。故に科学者の研究には勢ひ
「時」なる観念を脱却する能わず」
「ふーん。科学者は「時」なる観念を脱却できな
いのか。その点、文学者は「時」を無視すること
ができる。気楽なものだ」

 凡そ科学の目的とするところは叙述にして
説明にあらずとは科学者の自白により明なり。
語を換へていへば、科学は"How"の疑問を説け
ども、"Why"に応ずる能はず、否これに応ずる
権利なしと自認するものなり。即ち一つの与
へられたる現象は如何にして生じたるものな
るかを説き得れば科学者の権能ここに一段落
を告ぐるものなり。さてこの"How"なる質問に
応ぜんとすれば、必ずこの与へられたる現象
の拠って生じたる経路をたどらざるべからず。
故に科学者の研究には勢ひ「時」なる観念を
脱却する能わず。



「時」に関係なき断面
   2013/7/17 (水) 12:09 by Sakana No.20130717120938

07月17日
 
「文芸家は無限無窮の発展に支配せらるる人
事自然の局部を随意に切り切り放ちて「時」に
関係なき断面を描き出すの特許を有す」
「そんな特許出願を特許庁が認めるはずがない」
「日本文藝家協会が認めればよいのです」
「その協会は公益社団法人?」
「世に存する物象の相は動にして静止するものあ
ることなし。さりながら、文芸家はこの終局なき
連鎖を随意に切りとり、これを永久的なるかの如
くに表出する権利を有するものなり」
「その権利を有する公益社団法人だとすれば、特
許庁の縄張り荒らすことにはならないだろう。よ
きにはからえ」

  文学もまたこの"How"の分子なきにはあらず。
ただその科学と異なるところは文学にありては
そのあらゆる方面に"How"なる文字を提起するの
必要あらざることなり。前述の如く"How"なる文
字は時間を離るる能はず。而して文学の一分は確
かに時を離れ能はざること勿論なり。文学のこの
一部はその"How"に答ふる点において科学と毫も
異なることなし。すべての小説、稗史、叙事詩、
戯曲等は皆時間を含有するものにして、一つの事
件が他の事件を生み、波瀾また波瀾を生じ、或は
主人公の運命が幾多の境遇によりて種々の性格に
発展し来るが如き、すべてこれ"How"の問題に帰着
するものとす。然れども文学にありては科学にお
けるが如くこの"How"を絶えず念頭におくの必要な
し。世に存する物象の相は動にして静止するもの
あることなし。絵具箱を携へて郊外に出づるもの
は同じ木、同じ野、同じ空が如何に日光の作用に
より千変万化するかを知るべし。かくの如く常に
変化し動揺するものを"How"の眼のみにて観察する
は、無限の糸を巻く如く終に尽くる時あらざるべ
し。さりながら文芸家はこの終局なき連鎖を随意
に切りとり、これを永久的なるかの如くに表出す
る権利を有するものなり。即ち無限無窮の発展に
支配せらるる人事自然の局部を随意に切り切り放
ちて「時」に関係なき断面を描き出すの特許を有
す。


画、彫刻における「時」
   2013/7/20 (土) 07:09 by Sakana No.20130720070955

07月20日

「文学と科学の違いはその外側に絵画彫刻を
置いて考えるとよくわかります」
「絵画彫刻においては「時」が動かない。
「時」なき断面を捕らえたものだ」
「常に"How"の疑問を抱き、「時」の観念に
付き纏われる科学とはまったく違いますが、
文学は「時」を含有することもあり、閑却す
ることもあります」
「自由自在、融通無碍、いいかげん」
「文学が絵画彫刻と類を同じくするところが
あるのは、「時」を閑却する一時的叙述、或
は即座の叙情詩的発動等においてです」
「採菊東籬下 悠然見南山」

 かの画家、彫刻家の捕ふる問題の如きは常
にこの「時」なき断面にして、これより以外
に出づること能はざること明かなり。而して
文学は「時」を含有し得るの点において画、
彫刻よりも範囲広きものなれども、一方にお
いて「時」を閑却する一時的叙述、或は即座
の抒情詩的発動等において画、彫刻と類を同
じくするところあれば、文学者のFは科学者
のFの如く、常に"How"なる好奇心のため、付
き纏はるるものにあらず。


時なき断面の詩
   2013/7/23 (火) 09:13 by Sakana No.20130723091356

07月23日

「時なき断面の詩の例としてバーンズとヘリ
ックの詩が引用されています」
「バーンズの『たとえ残酷な運命が』には
<永遠に>という時の観念がある」
「それは漱石先生の和訳にあるだけで、原
詩には<永遠に>に相当する単語はありま
せん。主観的な時なき断面の詩といってよ
いと思います。一方、へリック『露もしと
どなジュリアの髪に』は客観的な時なき断
面の詩です」
「なぜだ?、
「この露は何処より来りしものか、Juliaは
何処にありや、また自己との関係如何等に
ついては何も言っていないからです」
「科学者は露が何処より来りしものかが気
になる」
「因果関係が気になる人のことを因果な奴
といいますが、科学者は因果な奴ですね」

  例へば、Burnsの
"Tho' cruel Fate should bid us apart,
  As far 's the Pole and Line;
Her dear idea round my heart
  Should tenderly entwine.
Tho' mountains frown and deserts howl,
  And oceans roar between;
Yet, dearer than my deathless soul,
  I still would love my Jean." 
---Burns, Tho' Crouel Fate
「たとえ残酷な運命がぼくたちを引き裂いて、/
北極と赤道ほど離れ離れになったとしても、/
愛しい彼女はやさしく/
ぼくの心に纏わって離れないだろう。/
たとえ山が顔を顰(しか)め、砂漠が哮(たけ)り、/
大洋が吠えて、二人を遮ろうが、/
ぼくは永遠にジーンを愛する、/
ぼくの不滅の魂よりももっと大切に。
(バーンズ「たとえ残酷な運命が」)
の如き全く一時の感情の流露せるものなるが
故に首尾あり時間ある事件の断面と見るの外
なし。またHerrickの
"Dew sate on Julia's haire,
  And spangled too.
Like leaves that laden are
  With trembling Dew;
Or glitter'd to my sight, 
  As when the Beames
Have their reflected light,
  Daunc'd by the Streames."
---Herrick, Upon Julia's Haire Fill'd with Dew
「露がジュリアの髪に降りて/
きらきらと輝いている。/
ゆらめく露をじっと湛(たた)えた/
葉叢(はむら)のように。/
ぼくの目にそれは輝いて、/
まるで陽の光が/
水に影を投げかけ、/
流れにのって踊っているよう」。
(へリック「露もしとどなジュリアの髪に」)
の如きまことに単簡にして真率なる詩なり。
ただJuliaの頭に露の宿りしを詠ぜしまでの
ことにて、この露は何処より来りしものか、
Juliaは何処にありや、また自己との関係如
何等については一向にいふところなし。即ち
前のBurnsのが主観的なるが如くこの詩は客観
的断面なり。


和歌、俳句、漢詩
   2013/7/26 (金) 09:22 by Sakana No.20130726092215

07月26日

「バーンズやヘリックの詩のようなものもあ
るが、文学の最高傑作と称すべきものは、皆、
科学と同様、時間につき纏われているのでは
ないか。"How"の問題に触れているのではない
か」
「そのような見方にも一面の理はありますが、
元来、含まれた時間の長さは決してその作品
の価値を定めるものではありません。わかり
きったことです。芭蕉の<古池>句を思いだ
してください」
「古池に蛙が飛び込む一時的の消えやすき現
象を捉えて快味を感じる人も世の中にはいる
ようだが」
「和歌、俳句、或いは漢詩の大部分は皆、こ
の断面的文学に外なりません」
「第二芸術だという説もある」
「そんな説をとなえる人は時間の長さにとら
われているのです。人生八十年、地球六十億
年──時間の長さがなんぼのものでしょう」

 或人曰はん。文学に時間を含まざる種類あ
ることは勿論のことなるべきも、凡そ文学の
最高傑作とも称すべきものは、皆この"How"の
問題に触れざるものなきにあらずや。叙事詩
を見よ、戯曲を見よ、或は小説を見よ、何れ
もこの"How"を繞りてその作に対する興味の大
部分を構成するにあらずやと。一面の理はあ
れども、元来、含まれたる時間の長さは決し
てその作品の価値を定むるものにあらざるこ
と明にして、要は賞翫者の態度如何によるの
み。一時的の消えやすき現象を捉へて快味を
感ずる人は文学者にありとも彫刻家、画家に
近きものなり。吾が邦の和歌、俳句、もしく
は漢詩の大部分の如きは皆この断面的文学に
外ならず。故にその簡単にして、実質少なき
を以てその文学的価値を云々するは早計なり
といふべし。


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2014 Sakana Hasebe