夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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文学的内容の四種
   2013/3/1 (金) 12:09 by Sakana No.20130301120924

03月1日

「文学的内容になり得るものはすべて
(F+f)の形式であらわすことができます」
「要するにf(情緒)が文学の試金石にして、
始にして終。"emotion constitute the single 
test case for literature, the beginning and 
end of the question"とはおおげさすぎる」
「しかし、情緒が文学の始にして終という見方
を提出したのは漱石先生の倫敦留学のお土産だ
と思います」
「情緒はパーソナルなものだ」
「文学はパーソナルなものです」
「文学的内容を(一)感覚F、(二)人事F、
(三)超自然F、(四)知識F、の四種に分類
するとパーソナルなものではないような錯覚を
覚える」
「超自然的Fの訳語は"supernatural F"だと思
っていたら、"metaphysical F"とは意外でした」
「だいたい、"metaphysical"の意味を<形而上
的」という妙な漢字で棒暗記しているのがいけ
ない」 
「そうですね。"metaphysical"は<超自然的>
で、その標本は<宗教的F>だと理解しておき
ましょう」
「結局のところ、宗教はパーソナルな情緒にす
ぎない」

「先にも述べし如く、情緒は文学の試金石に
して、始にして終なりとす。故に社会百態の
Fにおいて、いやしくも吾人がfを附着し得
る限りは文学的内容として採用すべく、然ら
ざる時は用捨なくこれを文学の境土の外に駆
り出さざるべからず。而して今文学的内容た
りうべき一切のもの、換言すれば(F+f)
の形式に改めうべきものを分類すれば、
(一)感覚F、(二)人事F、(三)超自然F、
(四)知識F、
の四種となるべく、自然界は(一)の標本に
して、(二)の標本は人間の芝居、即ち善悪
喜怒哀楽を鏡に写したるもの、(三)の標本
は宗教的F、(四)は人生問題に関する観念
を標本とするものなり」
"As I've argued above, emotion constitutes
the single test case for literature, the
beginning and end of the question. Consequently,
for all the F in the myriad social objects,
insofaras we can attach an f this must be
treated as literary substance, and when that
is not the case it must resolutely be excluded
from the domain. Given this, all objects that
can be treated as literary substance, that is,
that can be restated in the (F+f) form, can be
grouped into four categories, as follows;

  1. sensation F
  2. personification F
  3. metaphysical F
  4. intellectual F

with the natural world providing the basis for (1),
the human drama (i.e. matters that reflect the
varaiety of emotions) providing the basis for (2),
religion providing the basis for (3), and concepts 
pertaining to the question of human existence for (4).
   (translated by JAM)


審美的F
   2013/3/4 (月) 08:41 by Sakana No.20130304084143

03月4日

「文学的内容の基本成分としてのF(焦点的
意識、印象または観念)には感覚、人事、超
自然、知識の4種がありますが、その他に審
美的Fもあるのではないかという説をとなえ
る人がいますが、どう思われますか
「4種でも5種でもよい。よきにはからえ」
「審美的Fは感覚F、人事F、超自然F、知
識FのどれかのFに附随して起こり来れるも
のであって、独立した審美的情緒はないとい
うのが漱石先生のお考えです」
「そういえば、<美しい花がある。「花」の
美しさといふ様なものはない>と小林秀雄が
言っている」
「それは、審美的Fといふ様なものはないと
いう意味になるのでしょうか」
「だろうね。審美的Fは感覚Fに含まれてい
る」

「人或はいはん。この他に心理学者の所謂審
美Fなるものあり。文学は一種の芸術なり、
されば吾人がこれにたいする感情は即ち審美
感情にあらずや。これを算入せざる理由如何
と。されども余は答へていはん。吾人が文学
に対して生ずる情緒が概して審美的なること
は明白なる事実なれども、こは、ただ前に挙
げたるFに附随して起こり来るものにして、
単純にかくの如き一種の情緒あるにあらず。
故に強(しい)て審美的情緒なる語を用ゐん
とせば、以上のうちに或ものを引き抜きて、
しか名(なづ)くれば足る。これ余が特別に
この項目を置かざりし所以(ゆえん)なり。
さればその審美情緒の起源に関する諸説、例
へばSchillerの「遊戯説」(Spietheorie)或
はGroosの本能説等につきて、余は何事もいは
んとするものにあらず。ただ一言すべきは、
所謂審美情緒とは美に対する一種の主観的感
情に過ぎざれば、これまた余が上来述べ来り
しfのうちに含まるべきものなること勿論に
して、審美情緒は常に快感なりといふ点より
して、この情緒は時にfと符合し時に全然符
合する能(あた)はざることありと知るべし」

"The objection might be raised that in addition to this
there is also what psychologists would call the aesthetic F.
Literature is a type of art; hence the emotions one feels in
relation to literature must be aesthetic in nature. If so, 
what is the reason for not including this in your calculations?
Here is how I would answer. It is an obvious fact that the emotions
that arise in response to literature are aethetic. However, this
is simply something that always occurs in conjunction with a given F
and not a feeling that arises in isolation. Hence, if one feels compelled
to use a term like "aesthetic feeling," it would suffice to take up
any of the examples given above. This is why I do not construct a special
category for this. As for the various theories about the origin of this
aesthetic feeling, such as Schiller's "Spietheorite" or Groo's theory of
instinct, I do not intend to address them. But it should be pointed out
that insofar as the so-called aesthetic sense or feeling is a subjective
feeling, it is clearly subsumed within the f described above. If, however,
we accept that aesthetic feeling is generally thought to be a pleaurable
sensation, one has to realize that at times it will correspond to f and
at other times it will not." (translated by JAM)


四種の何れが最も強大なfを起し得るか
   2013/3/7 (木) 08:47 by Sakana No.20130307084737

03月7日

「感覚F、人事F、超自然F、知識Fの四種
は何れも情緒を伴いますが、そのうち何れが
最も強大なf(情緒)を起し得るでしょうか」
「それは感覚Fだろう」
「日銀副総裁は誰がふさわしいでしょう」
「党利党略の醜い争いはやめてくれ」
「神は存在しますか」
「わからない」
「学びて時に之を習う 、亦た説ばしからず乎」
「論語読みの論語知らず」

「さて以上四種の文学的内容は何れも情緒を
伴ふこと勿論なれども、そのうち何(いず)
れが最も強大なfを起し得るか、換言すれば
何れが最も文学的内容として適当なるかは余
が論ぜざりしところなり」
"Now, while it is clear enough that the
four types of literary substance are in 
all cases accompanied by feeling, I have
not yet argued as to which brings about
the most intense experience of f, that is
to say, which is the most appropriate as
literary substance." (translated by JAM)



感覚的F
   2013/3/10 (日) 09:03 by Sakana No.20130310090303

03月10日

「感覚F、人事F、超自然F、知識Fの四種
のうち最も強大なf(情緒)を起し得るのは
やはり感覚Fのようです」
「いうまでもない」
「新式の用語を以てすると、感覚的要素は具
体的要素ともいえます」
「英訳ではthe "concrete element" of sense 
perceptionとなっている。厳密にいえば<感
覚の知覚のうちの具体的要素>」
「感覚は知覚と同じではないのですね」
「感覚は"sense"、知覚は"perception"。知覚
は外界からの刺激を感じとり、意味づけするこ
とだ」
「知覚は認知(recognition)とは違いますね」
「認知は知覚をもとにして、<わたしはボケ
ているかもしれない>などと解釈する処理を
いう」
「ほんとうにボケてしまったら」
「認知障害または認知症という」

「Miltonは詩を以て単純にして感覚的、しか
も情趣に富むべしと論じたるが、他は暫く措
き、この感覚的なる要素は実に注目すべきも
のにして、この要素、更に新式の語を以てす
れば具体的要素は詩においては固(もと)よ
りその他一般美文学に最も必要なる條件の一
つなること今更いふをまたず。今第一種の感
覚的材料をとりこれを検するに、それに具体
的特長あるの故を以てこの種のものが吾人の
情緒を呼び起こすこと特に強大なるを認むべ
し。凡(およ)そ同一の物体を純客観、及び
内顧的主観の両方面より描出する時、その何
れが情緒の度合において勝れるかは明かなる
事実なるべく、かのBurnsの詩歌を誦するもの
はその詩句の焼くが如き鋭さを感ずべきも、
翻(ひるがえ)ってWordsworthがこの自然界
に一種の抽象的霊体を捕へんとするを見ては、
如何にその言語の情的なるにもせよその感興
頗(すこぶ)る鈍なるを免れざるべし。一つ
は直接にして、その読者の情緒を喚起するは
あたかも電光石火の如く、或は響の声に応ず
るに似たり。而して他を味ふには、先ず読者
が詩人と共に思索の状態に入り、而して瞑想
の結果始めて趣味を感ずるものなりとす。故
に手ぬるくして直下(じきげ)ならず」
"Milton has argued that poetry should be
simple, sensual, and filled with passion.
So let us set aside the others for a while
and concentrate on senseation F, or what
we may call (using some up-to-date terminology)
the "concrete element" of sense perception,
which since time immemorial, has always been
considered the most essential condition not
only for poetry but for all literary expression.
If you will take up the first type---the material
of sense perception---and examine it, you will
see that it is due to this advantage of concreteness
that the feelings it evokes in us have a characteristic
intensity. When an identical physical object is 
described both from a purely objective and an internal
subjective standpoint, it is quite clear which produces
the higher degree of emotional intensity. In reading
the poetry of Burns, one feels the hot intensity of
the passages, whereas it is difficult to escape the
dullness of excitation in the work of Wordsworth, 
where, despite employing the language of emotion,
he tries to grasp a kind of abstract spirit in the
natural world. One is direct and arouses the reader's
emotions as if it were an electrical flash or an echo
of a voice. In the other the reader must first enter
a state of contemplation with the poet. Only as a result
of meditation is the reader able to feel the lure of the
poem, with the result that it is somewhat lukewarm and
indirect in effect." (translated by JAM)


人事的F
   2013/3/13 (水) 08:07 by Sakana No.20130313080723

03月13日

「人事的Fも感覚的Fとならんで強大なf
(情緒的要素)を引き起こしますが、それは
人事的材料が具体的である場合にかぎります」
「たとえば?」
「親のために川竹に身を沈めるとか、君侯の
馬前に命をすつるとかの場合です。親も君侯
も抽象的な存在ではなく、耳や目をそなえた
具体的な動物ですから」
「動物とは失礼な」
「植物や鉱物ではないでしょう」
「<親のために川竹に身を沈め、君侯の馬前
に命をすつるはさまで難きことにあらず>の
英訳が"It is not difficult to contemplate 
casting oneself into the stream for one's 
parents, or throwing oneself under the horse 
of one's lord,"となっている」
「それがなにか?」
「<身を沈め>や<馬前に命をすつる>の前
"contemplate"(熟考する)という動詞があると
ころが英語的表現なんだろうね」
「日本語だと、<たとえ火の中、水の中>と
いうだけでわかりますね。<たとえ火の中、
水の中へ飛び込むことを考えるはさまで難し
いことにあらずといえばヤボになります」

「次に第二種の人事的材料をみるに、先ず人
に伴ふて活動する実劇と、活人より切り離さ
れたる人事上の議論と、何れが吾人の心に触
るること強大なるかは論ずるを待たず。千百
の恋愛論は遂に若き男女の交(かわ)す一瞥
の一刹那を叙したる小説の一頁に及ばざるこ
と明かなり。世に一美婦に悩殺せられ、苦悶
の儘、自殺を計るは珍しからねど、<愛>な
る抽象的性質を熟考して狂へるものは古往今
来未だ聞かざるところなり。親のために川竹
に身を沈め、君侯の馬前に命をすつるはさま
で難きことにあらず。親は具体的動物にして、
君侯は耳目を具有し活動する一個人なるを以
てなり。されど身を以て国に殉ずといふに至
りてはその真意甚だ疑はし。国はその具体の
度において個人に劣ること遠し。これに一身
を献ずるは余りに漠然たり。抽象の性質に一
命を賭するは容易のことにあらず。もしあり
とせば独相撲に打殺さるると一般なり。故に
所謂かく称する人々はその実この抽象的情緒
に死するにあらず。その裏面に必ず躍如たる
具体的目的物を樹立しこれに向かって進み居
るものとす」
"To look at the second type, the material
of human or personal affairs, there is no
need for lengthy disputation about whether
our hearts are touched more intensely by living
drama accompanied by people's actions than
by systematic theories of personal affairs cut
off from living actors, for it is clear that
in the end a dozen treaties on romantic love
can't match a single page of a novel describing
the instantaneous glance that passes between
a man and a woman. It is not all that rare for
a person captivated by a beautiful woman to attempt
suicide in the throes of agony, whereas I have yet
to hear of a person losing his mind as a result of
mature reflection on the abstact essence of "love."
It is not difficult to contemplate casting oneself
into the stream for one's parents, or throwing oneself
under the horse of one's lord, precisely because the
parents are present as concrete animals and the lord
as a living, functioning human being with eyes and
ears. However, when it comes to sacrificing one's life
for one's country, that is more difficult to conceive of.
The nation is vastly inferior to the individual in terms
of concreteness. It is too vague a thing to offer up
one's life for. It's not easy to offer up one's life
for an abstraction. If it were, we would spend a great 
deal more time tilting at windmills. Consequently, people
said to be engaged in this are, as a matter of fact, not
dying for an abstract emotion but are always seeking behind
it some kind of vivid, concrete object toward which they
can direct their attention as they move forward."
(translated by JAM)


天命を楽しむ君子
   2013/3/16 (土) 08:04 by Sakana No.20130316080429

03月16日

「ふつうの人は具体的な人事Fには情緒を抱
きますが、抽象的な人事Fに情緒を抱くこと
はまずありません」
「抽象的へんてこ物に情緒を抱くへんな人も
まれにはいるというわけだな」
「たとえば、天命を楽しむ君子です」
「五十にして天命を知る、と言ったのは孔子
だが、則天去私と言った漱石もそんなへんな
人に近い」
「道のために倒るとは、道の何者たるを意識
することなくして、これに情緒を附加する大
丈夫なり」
「漱石が<道>というへんてこ物に情緒を抱
いていたという証拠の手紙が残っているはず
だが」
「ええ、<私は今道に入ろうと心掛けてゐ
ます」(大正二年十月五日付和辻哲郎宛)、
<私は禅学者ではありませんが法語類(こと
に仮名法語類)は少し読みました。然し道に
入る事は出来ません。(大正四年四月十九日
付け詳福寺鬼村元成宛)、<私は五十になっ
て始めて道に志す事に気がついた愚物です>
(大正五年十一月十五日付詳福寺宮沢敬道宛)」

「されどもこの殺人的独相撲の連中全く無し
とはいひ難し。所謂天命を楽しむ君子はこの
抽象的変梃子(へんてこ)物に情緒を有する
人々なり。道のために倒るとは、道の何者た
るを意識することなくして、これに情緒を附
加する大丈夫なり。かの禅門の豪傑知識、諸
縁を放下し専一に己事(こじ)を究明し、一
向専念、勇猛精進、行往座臥、何をか求むる
といへば彼ら未だかつて見聞せざる底(てい)
の法を求め、しかも遂に捕へ能はざる的の道
なり。覚らざるに先(さきだ)ち彼らに法の
あるべき理(ことわり)なくまた道の行はる
べき理なし。然るにこの不可思議の法と道と
のため、その一生を抛(なげう)って顧(か
えりみ)ず、眞個(しんこ)、これ龍顔虎頭
(りゅうがんことう)の怪物にして尋常一般
の人間にあらず。既に一般人間に非ざる以上
は彼等はよろしく除外例として遇すべきなり」
"However, that is not to say that such suicidal
idealists don't exist. These would be the
people who hold in their hearts feelings
for that ridiculous abstract objects, the
"ruler who enjoys the mandate of heaven."
To die for principles [michi no tame] is to
attach an emotion to them without really being
concious of what they are. It is like the
knowledge of the Zen devotee, where one discards
all ties and devotes oneself fully to an investigation
of the nature of self, "earnestly devoted, advancing
with fierce spirit, in the myriad positions of
daily life." What he seeks is some heretofore undisclosed
law at the bottom of things, a way to an object that
ultimately cannot be grasped or realized. Prior to
enlightenment there is for him neither a guarantee
that such a law exists nor any reason why he should seek
it. Nevertheless, for the sake of this incognizable way,
he stakes his life without looking back. In this he becomes
the true thing, a monster raging against an incomprehensibility,
far from the ordinary person. So let's accept that this is an
exceptional case, something not found in the average person."
(translated by JAM)



興味と情緒
   2013/3/19 (火) 07:46 by Sakana No.20130319074659

03月19日

「くどいようですが、おさらいをしておきま
すと、感覚F、人事F、超自然F、知識Fの
四種のうち最も強大なf(情緒)を起し得る
のは感覚F、続いて人事Fですが、人事Fに
は人事的材料が具体的なものと抽象的なもの
があり、抽象的なものに強大なfを起こし得
る人はごくまれです」
「漱石はそのような例外的な変人だった」
「超自然Fと知識Fは比較的Fの明瞭を欠き
ますが、知識Fの内容とても、もと具体的な
ものより漸次抽象的に変化したるものなれば、
如何なる場合にありても全然fを欠く事はあ
らざれども、興味と情緒はその具体の度に相
伴ふこと疑ひあらざるところなりとす」
「興味と情緒? 英訳では"such investment 
and emotion"となっている。投資と情緒、で
はないか」
「さあ、どうして、そうなっているのか私に
はわかりませんが、そんな細部にはかかわら
ず、ここは情緒fはその具体の度に相伴ふと
いう肝心なことだけを抑えておけばよいでし
ょう」

「故にfはFの具体の度に正比例するなる事
実は依然として事実なりとす。如此(かくの
ごとく)論じ来れば、以上四種の内容のうち、
比較的Fの明瞭を欠き、抽象の度多きは第三、
及び第四なるべし。勿論概念を標本とする第
四種の内容とても、もと具体的なものより漸
次抽象的に変化したるものなれば、如何なる
場合にありても全然fを欠く事はあらざれど
も、興味と情緒はその具体の度に相伴ふこと
疑ひあらざるところなりとす」
"Therefore, following our reasoning, we 
have to accept as a fact that f continues
to vary in direct proportion to the degree
of concreteness of F. And of the four types
of content listed above, the ones relatively
abstract and lacking in clarity would obviously
be the third and fourth types. Of course, the
substance that defines the fourth type may be
concepts, but concepts are abstractions of
what was originally concrete, so irrespective
of the case it will not completely lack f, but
it is without doubt that such investment and emotion
attach according to the degree of concreteness.



概括的傾向強き文
   2013/3/22 (金) 09:18 by Sakana No.20130322091834

03月22日

「人事的材料が抽象的、あるいは概括的なもの
である場合、読者が強大なfを起こし得ること
はあまり期待できません」
「わかりやすくいえば、抽象的な材料の詩や
小説は売れない」
「一例として、PopeのSappho to Phaonから、
"Cupid for thee shall spread the swelling 
sails." (キューピッドはあなたのために帆を
はらませ、押し広げてくれるでしょう)という
詩句がとりあげられています」
「それほど抽象的な文とはいえないが」
「しかし、Popeはこの詩句をローマの詩人オヴ
ィディウスの原文からとっています。その原文
では、 "Cupid directs the ship as the pilot, 
and with his soft hands spreads the sail."
(Cupidが水先者として船をあやつり、その軟き
手をもて帆をはる辺(あたり))となっている
のです。抽象的ではなく、具体的でしょう」
「一々明瞭なる印象をを読者に与ふるにあらず
やという評家Bowlesの説、妥当なりといふの外
なし、というわけか。なるほど」

「一例あり。PopeのSappho to PhaonはOvid
より脱化し来りたるものなるが、Sapphoが
Phaonに海を越えて帰り来れと歌ふ末段に、
 "O launch thy bark, secure of prosp'prous gales;
   Cupid for thee shall spread the swelling sails."
    ---II. 252-3
  (さあ、船出したまえ、順風を頼みとして。/
    キューピッドはあなたのために帆をはらませ、
  押し広げてくれるでしょう。
  ──二五二ー二五三行)
とあり、この第二句はさのみ抽象的なりとも
思はれざれども、Bowlesはこれを評して<か
りにPopeに違算ありとせば、そは余りにその
概括的傾向強き点にあり。ことに原文に整然
たる具体的印象そなはれる場合に在っては猶
更に見逃し難き癖なり。今
 "Cupid for thee shall spread the swelling sails."
の一行に相当する原文を検するにCupidが水先
者として船をあやつり、その軟き手をもて帆
をはる辺(あたり)、一々明瞭なる印象をを
読者に与ふるにあらずや。>と評家の説、
妥当なりといふの外なし」

"I have an example. Pope's Sappho alludes to the same work by
Ovid, and in the final stanza, where Sappho urges Phaon to return
home across the sea;
 
   "O launch thy bark, secure of prosp'prous gales;
   Cupid for thee shall spread the swelling sails."
    ---II. 252-33)

It would really be hard to interpret the second line as abstract, but
Bowles criticizes as follows; "If we suppose Pope has miscalculted
here, it would have to be in the excessively comprehensive tendency.
Given the well-ordered impression of concreteness one finds in the
original, this is all the more difficult to overlook. If one checks
the original for the lines: 'Cupid for thee shall spread the swelling 
sails,' one finds Cupid directs the ship as the pilot, and with his
soft hands spreads the sail. There is absolutely no mistaking the
impression given to the reader." One has to grant the persuaveness of
the interpretation. (translated by JAM)


義務に与うる頌
   2013/3/25 (月) 08:48 by Sakana No.20130325084818

03月25日

「人事的材料が抽象的な詩の例として、ワー
ズワースのOde to Duty(義務に与うる頌)の
一節が引用されています」
「義務という抽象名詞に与うる頌とは驚いた」
「日本人にとって義務は詩的言語ではないで
すね。しかも、義務を擬人化するような発想
は日本人にはないと思います」
「英文学を勉強しにロンドンに留学した漱石
でさえ擬人化できたのは猫や菫どまりだ。彼
にとっては義務や責任は詩的言語ではなかっ
た」
「如何にその乾燥無味なるかを見よ(西洋人
は知らず。余はただ如此(かくのごとく)感
ずるなり」
「まてよ。義務は昔の日本人が心の支えにし
ていた忠孝に相当するものだ。しかも、忠孝
より義務のほうが普遍的だ」
「普遍的とか、抽象的とか、イギリス人は好
きですが」
「イギリス人でもBowlesやM.Arnoldは、ワー
ズワースのこの詩を批判している」
「評価しているイギリス人もいます」
「所謂崇拝家(Wordworthians)はワーズワース
神話を信奉しているよ。漱石神話を信奉して
いる日本人が彼等をあなどるのは、漱石の尻馬
に乗って、目くそが鼻くそを笑うようなものだ」

「またWordworthのOde to Dutyの第一節に曰く、
"Stern Daughter of the Voice of God!
O Duty! if that name thou love
Who art a light to guide a rod
To check the erring, and reprove;
Thou, who art victory and law
When empty terrors overawe;
From vain temptations dost set free.
And calm'st the weary strife of frail humanity!"
(II. 1-8)
(神の声より生まれた厳しい娘、/
  おお、義務よ! 導きの光であり、誤れる者をおし止め/
  叱責する鞭であるお前が/
  もしこの義務の名を愛するなら、/
  実体のない恐怖がただ威圧するのと違い、/
  お前は勝利であり、法則であって、/
  空しい誘惑から解き放ち、/
  弱い人間が疲れ果てる闘いを和らげてくれよう。
 ──一ー八行)
 如何にその乾燥無味なるかを見よ(西洋人
は知らず余はただ如此(かくのごとく)感ず
るなり)。これを検するに、(I)全体にお
いて抽象的文字非常に多し、(2)<ごう>
も絵画の文子なく、色彩を欠く(彼はこれを
避けんため、またこれにodeの体裁を存せしめ
んがためか、一種の擬人法を適用したけれど
この擬人は何らの響きをも発するなし)。"A 
light to guide a rod to check"の一行僅か
に具体的なりといひ得べきのみ。M. Arnoldは
この詩人つねに理<とう>に陥る弊あるを咎
め、かつ曰く「Excursionは哲理に富むの故を
以て、公平の評価が許容し能はざる名声を所謂
崇拝家(Wordworthians)の間に博するものなり。
この大作中、彼は"Duty exist"(義務は厳存す)
と歌ひ、更に
   "---immutably survive,
For our support, the measures and the forms
Which an abstract intelligence supplies;
Whose kingdom is, where time and space are not."
---Bk. IV. II. 73-6.
(私たちを支えるために/
 尺度と法則が変わることなく生きつづける、/
  抽象的知性がそれを供給し/
  その王国は時空を超えたところにある)
といへり。崇拝するものはこれを激賞して、哲
学と詩の融合ここに実現せられたりと説けども、
公平なる批評を以てすれば、この数句はその説
かんとしたる命題以上に一歩たりとも、ふみ出
し得ざる失敗の作といふの外なり。即ち詩の本
質より隔離したる、高尚なる抽象文字の集合た
るに過ぎず>。

"Again we find the following in the first verse
of Wordsworth's "Ode to Duty".

"Stern Daughter of the Voice of God!
O Duty! if that name thou love
Who art a light to guide a rod
To check the erring, and reprove;
Thou, who art victory and law
When empty terrors overawe;
From vain temptations dost set free.
And calm'st the weary strife of frail humanity!"

Look at this! This is flavorless. (At least that's
my opinion. I don't know what a Westerner would say.)
Now let's think about the reason. If we examine this,
we find (1) overall there is a preponderance of abstact,
conceptual words, and (2) the elements of a picture are
almost completely lacking; there is no color. (To avoid
this---or perhaps to give it the form of an ode---he has
deployed a kind of personification here, but to little
effect.) All one can allow is that there is a faint
concreteness to the line "a light to guide, a rod / 
To check..." Matthew Arnold reproves Wordsworth for this
tendency to lapse into the trap of reason. i quote;

 The Excursion abounds with philosophy and therefore the
Excursion is to the Wordsworthian what it never can be to
the disinterested lover of poetry, ---a satisfactory work.
"Duty exists," says Wordworth, in the Excursion; and then he
proceeds thus---

   "---immutably survive,
For our support, the measures and the forms
Which an abstract intelligence supplies;
Whose kingdom is, where time and space are not."
---bk. IV. II. 73-6.

And the Wordsworthian is delighted, and thinks that 
here is a sweet union of philosophy and poetry. But the
disinterested lover of poetry will feel that the proposition
which they would interpret; that they are a tissue of elevated
but abstract verbage, alien to the very nature of poetry.
     (translated by JAM)


義務がすたればこの世は闇だ
   2013/3/28 (木) 08:06 by Sakana No.20130328080601

03月28日

「義理がすたればこの世は闇だ、という歌が
ありますね」
「人生劇場──作詞はたしか佐藤惣之助だが、
それがどうした?」
「義務がすたればこの世は闇だ、とはいえま
せんか。義理と義務、英語にすればdutyのニ
ュアンスをふくみ、同じように意味になると
思うのですが」
「義務がすたればこの世は闇だ、では日本人
の情緒(f)に訴えない」
「しかし、ワーズワースのOde to Duty(義務
に与うる頌)はイギリス人の情緒(f)に訴
えています」
「BowlesやM.Arnoldには通じていないようだ
が」
「それは蓼食う虫も好き好きというものでしょ
う。日本人でも演歌を嫌う人はいます」
「ふむ。BowlesやM.Arnoldを引用したのは、ワ
ーズワースのOde to Duty(義務に与える頌)が
抽象的だと批判する自説を援用するために漱石
が使ったにすぎないが、たしかに、そもそもDuty
を義務と訳したことに問題があるのかもしれない」
「義理は儒教の義に由来していますが、義務と
いう日本語は明治維新以前にはなかったと思い
ます」
「義務は西周がつくった翻訳語で、お上(明治
維新政府)に従うべきというニュアンスが強い。
佐幕派の漱石がワーズワースの詩を抽象的だと
批判した情緒(f)にはそのことへの反発もふ
くまれているのかな?」


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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