夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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『文学論』の英訳
   2012/7/3 (火) 08:14 by Sakana No.20120703081406

07月03日

「『文学』5,6月号の「特集=漱石『文学論』
をひらく」を読んでわかったことですが、
2009年に『文学論』の英訳が出版されています」
"Theory of Literature and Other Critical 
Writings (Weatherhead Books on Asia)"Natsume 
Soseki; ペーパーバック; ¥ 2,290」
「飜訳したのは誰だ?」
「マイケル・ボーダッシュ(シカゴ大学)、
上田敏子(プリンストン大学)、ジョセフ・マ
ーフィ(フロリダ大学)──『文学論』シンポジ
ウム総合討論の出席者六人のうちの三人です」
「なるほど、集合的Fを醸成するための一連の動
きのようだ」
「でも、作者自身が<未成市街の廃墟のようなも
の>と言っている『文学論』が百年後に英訳され
るとはすごいことですね」
「それだけの価値があるのだろう」
「マイケル・ボーダッシュによれば、<夏目漱石
の『文学論』は正に「世界文学」の作品である>
<有名な(F+f)はあらゆる時代とあらゆる文
明に通じるような文学的内容を表す公式である。
古典漢文から近代イギリスの小説まで等しく当て
はめられるこの公式は、間違いなく「世界文学」
を理論化するもの>だそうです」
「たいへんな評価だ」
「ところが、大正五年に漱石は自分の作品が英語
圏に紹介される可能性について、<私の書物なん
か亜米利加人に読んでもらふようなものは一つも
ありません>と断言しています」
「ボーダッシュとマーフィは亜米利加人だろう」
「ボーダッシュは自らを<漱石の裏切り者の一人>
と言っています」
「"Traduttore, tradittore" or “Translator, 
traitor”」
 


ポストコロニアリズム
   2012/7/6 (金) 07:53 by Sakana No.20120706075325

07月06日

「マイケル・ボーダッシュの論文『夏目漱石
の『世界文学』──英語圏から「文学論」を
読み直す』を読みました」
「<夏目漱石の『文学論』は正に「世界文学」
の作品である>という断定の根拠は?」
「二通りの説がありますが。いずれの説によ
っても漱石の『文学論』は世界文学の作品で
す。
1)ある文学作品が飜訳され、故国を去って
遠く外国へと旅する。その結果、以前とまっ
たく違う歴史的また文化的な文脈の中で読ま
れるようになる。その場合、作品は「国文学」
の領域を超えて、「世界文学」に属する。
2)ある作品が「世界」そのものをテーマに
する場合、例えば「世界文学」の理論を提供
する場合に、はじめて「世界文学」という範
疇に含まれるべきなのである」
「最初の説はわかるが、二番目の説がわかり
にくい。漱石の『文学論』はほんとうに「世
界文学」の理論を提供しているのか?」
「ボーダッシュによれば、<有名な(F+f)
はあらゆる時代とあらゆる文明に通じるよう
な文学的内容を表す公式である。古典漢文か
ら近代イギリスの小説まで等しく当てはめら
れるこの公式は、間違いなく「世界文学」を
理論化するもの>です」
「そのような断定を聞いても、にわかには信
じがたい」
「(F+f)についてはジョセフ・マーフィ、
上田敦子、斉藤希史、小森陽一、佐藤裕子な
どの論文が参考になります」
「(F+f)の解説を読むと、頭が痛くなる。
『文学論』のどこが「世界文学」なのか、も
っと具体的にわかりやすい説明をしてくれ」
「ポストコロニアリズムの理論にあてはまる
からといえばおわかりいただけるでしょうか」
「なんだ、それは?」
「西欧中心の史観への疑問を投げかける脱植
民地化時代の理論です。もちろん、従来の文
学史観も問い直されますが、とすると、<漢
学にいわゆる文学と英語にいわゆる文学とは
到底同定義の下に一括し得べからざる異種類
のものたらざるべからず>と考えた漱石の
『文学論』が注目されるようになったのはポ
ストコロニアルの時代の流れでは当然のこと
といえるでしょう」


抑圧された<文学>
   2012/7/9 (月) 06:26 by Sakana No.20120709062627

07月09日

「上田敦子の論文『抑圧された<文学>──
『文学論』における「文学史」と「修辞学」
をめぐって』を読み、『抑圧された文学』と
いう視点については、私自身のささやかな読
書体験を顧みると、そうか、私は<文学史>
から抑圧されていたのかと、納得しました」
「妙な納得の仕方をするね。そもそもきみと
<文学史>とは何のかかわりもない」
「そういう言い方がまさに抑圧ですよ。漱石
先生の文学的内容の形式(F+f)を応用す
れば、私の読書体験といえども<文学史>と
かかわりがあることになります」
「なだぜ?」
「(F+f)という等式のFの時間軸を見て
ください。
 (一)一刻の意識に於けるF。
 (二)個人的一世の一時期に於けるF。
 (三)社会進化の一時期に於けるF。
 これについて、「抑圧された<文学>の論
者は次のように述べています。

 第三の「社会進化の一時期に於けるF」に
ついて漱石はさらに一世一代のFは通語の所
謂時代思潮(Zeitgeist)と称するものであると
述べており、文学史における時間軸は、第三に
あると思われる。漱石は、この三つの時間軸が
互いにどのように関連するかについては一切触
れていない」
 
 つまり、漱石先生の(F+f)は、決定的な
ところで、文学史と一線を画す文学的内容を示
しているといえるでしょう」
「すると、(F+f)はきみのような読者を
抑圧から救うというのか?」
「そう思いたいですね」




『文学論』の方法
   2012/7/12 (木) 05:11 by Sakana No.20120712051104

07月12日

 「ジョセフ・マーシュの論文『「文学論」
の方法』には『F+fの可能性について』と
いう副題がついています」
「(F+f)は思いもよらぬ豊かな可能性を
ひめているのかな?」
「シカゴ大学とプリンストン大学では、ワー
クショップの計画を立て、それぞれ社会学、
自然科学、文学理論という三つの側面にわけ
て一年半に亘って『文学論』に関する議論を
行いました。そのうち自然科学の面を担当し
たのがマーシュです」
「自然科学の面で(F+f)にどんな可能性
があるというのだろう?」
「一つは論理的な可能性で、あと一つは科学
に関する可能性です」
「では、まず論理的な可能性について、ご高
説を拝聴しよう」
「漱石先生が(F+f)という定式の組み合
わせとして次の三つの可能性を挙げておられ
ます。
 (一)Fありてfなき場合
 (二)Fに伴うてfを生ずる場合
 (三)fのみ存在して、それに相応すべき
    Fを認め得ざる場合」
「そのうち、文学的内容の形式は(二)だけ
というのが漱石の説だ」
「ところが、マーシュは論理的にはもう一つ
の可能性があるとしています。
 (四)〜F+〜f」
「Fなし、fもないという可能性?」
「マーシュは次のように述べています。
 <この第四の可能性については『文学論』で
はいっさいふれていない。それはなぜかという
と自然科学的な設定で展開している第一章の論
理でいえば、(〜F+〜f)というのは経験的
に確認できないから、『文学論』の自然科学的
な設定の枠組みに入らない。しかし、だからと
いって、漱石がこの可能性に気がついていない
わけではない。この第四の可能性がむしろ漱石
の文学によって模索されいる。例えば、柄谷行
人が指摘しているように漱石の初期作品に頻繁
に現れる「一○○年」という表現は時間的な概
念ではなくて、人間の寿命を越えるということ
を意味していて、生前または死後という、経験
的に絶対認識できないという領域に言及してい
るともいえる>」
「なるほど、それが(F+f)の隠された論理
的な可能性というわけか」
「マーシュはさらに、科学に関する可能性につ
いても言及しています。『文学論』には当時の
最先端の科学である実験心理学の理論をとりい
れていますが、今日その当時の実験心理学に相
当するのはおそらく神経科学にあたると」
「まさか。漱石が今日のような神経科学の発達
を予見していたとは思えない」
「しかし、(F+f)という定式は、実際神経
系の最低限の根本的な構造に相当するそうです」
「?」


『文学論』の射程
   2012/7/15 (日) 06:04 by Sakana No.20120715060433

07月15日

「次に斎藤希史の論文『文学論の射程──デ
ィスクールとしての科学』を読みました」
「短時間に駆け足で読んでいるようにみえる
が、大丈夫か?」
「とりあえず大づかみでいこうという自己本
位の読み方ですから」
「それなら蟻地獄でもがくようなことにはな
らないだろう」
「射程というと弾丸が届く最大距離ですが、
『文学論』の射程は、東アジア(漢字圏)の
伝統的な文学批評とも同時代日本の文壇主流
の文学批評の射程とも違います」
「東アジア(漢字圏)の伝統的な文学批評と
いえば<漢字に所謂文学>、同時代日本の文
壇主流(坪内逍遙、島村抱月ら)の文学批評
といえば<英語に所謂文学>に近い。『文学
論』によれば、<漢学に所謂文学と英語に所
謂文学とは到底同定義の下に一括し得べから
ざる異種類のものたらざるべからず>
「東アジアにおける文学批評は、原理よりも
分類に主眼を置く傾向が強く、近世以降は宋
学による<文以載道>という文学観念がきわ
めて強い影響力を保持していたそうです」
「<文以載道>とはどういう意味だ?」
「<道>を伝えるものとしての<文>です」
「ははあ、朝に道を聞かば夕に死すとも可な
り」
「でも、<道>を伝えるものとしての<文>
という観念は、<道>とは何かという問いを
自明のもとにしてしまえば文章もまたたんな
る道具になってしまう粗雑さへの危険を常に
有しています。勧善懲悪の文学とか、啓蒙の
ための文学とか、国民精神発揚のための文学
とかになりやすい」
「漱石も<道>は好きだが、文学論としては
それでは説得力がないと考えた」
「そこで、『文学論』は(F+f)という科
学的定式で、<道>の旧套に陥る危険を回避
しています。道徳は文学の原理ではなく、情
緒(f)として処理されているのです」
「もう一方の<英語に所謂文学>によりかか
りすぎる危険は?」
「たとえば、島村抱月は英語のRhetoricを美
辞学と飜訳し、曽植の<美辞>との間に距離
を見出していない。東洋の文学に西洋の理論
を適用しているだけ──と私はとりあえず、
そのように理解しました」


「情緒」による文学生成
   2012/7/18 (水) 07:29 by Sakana No.20120718072905

07月18日

「野淵摩利子の論文『「情緒」による文学生
成──「彼岸過迄」の彼岸と此岸』からは、
私の読みの浅さを思い知らされました」
「きみは漱石の『彼岸過迄』の感想文に<新
聞の一般読者にとって面白い小説かどうかは
疑わしい>とコメントし、わざわざHPに掲
載して天下に恥をさらしている」
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る、といいますが、
新聞の一般読者を私のレベルにまで引き下げ
てしまって申し訳ありません」
「結局、『彼岸過迄』は面白い小説なのか?」
「<漱石の小説が『文学論』の「情緒」を、
『文学論』以上に展開しているとしたら、い
ま考えなければならないのは、近親者に先立
たれた者の、突き上げるような衝動こそ、最
も強い「情緒」の一つであるということだ>
と論者は指摘しています。その点に着眼して、
読むと、『彼岸過迄』は面白い小説です」
「高等遊民の須永市藏は従姉妹(母の妹の娘)
の千代子が他の男と親しそうに口をきくのに
嫉妬して、<あなたは卑怯です。徳義的に卑
怯です>と千代子に言われる。バカな奴だと
きみは思っただろう」
「ええ、たしかにそう思いました。ところが、
よく読むと、市藏の母は継母で、実母は須永
家の小間使いだったのですね。小間使いが父
の種を宿したとき、父の正妻である母が相当
の金を遣って、小間使いに因果をふくめ、暇
をとらせました。そして、男の子を生んだと
いう報せを待って、その子を引き取り、自分
の実子として養育したというのです。実母は
まもなく死にました」
「なるほど。実母がうらみを抱きながら他界
したとも考えられるとしたら、市藏は継母の
妹の娘である千代子と結婚するわけにはいか
ない」
「それなら、千代子が他の男と親しくしても
嫉妬しなければいいのですが、女としての千
代子には惹かれていた。そこで、市藏は悩ん
だ末に、京都から箕面、須磨明石を経て、広
島へ出かけます」
「何のために?」
「それが私にはよくわからなかったのですが、
死者と生者との交流に着目すれば、修験道と
かかわりのある土地ばかり──どうも実母の
菩提をとむらうための鎮魂が旅の目的だった
ようです。<小説にあらわに書かれないほど
の、重い情緒がある><この小説を理論的に
支えるのは『文学論』の「情緒」理論に他な
らない>という論者の読みの深さにはおそれ
いりました」
「すると、松本(市藏の叔父)の娘の宵子
(2歳)が雨の降る夜に突然、死んだ話もそれ
に関連して深い意味を帯びてくる」


文学と科学の間で
   2012/7/21 (土) 08:59 by Sakana No.20120721085930

07月21日

「次は小森陽一の論文『文学と科学の間で──
『文学論における言語観』』です」
「小森陽一というと、『こころ』論争の仕掛人
だ」
「というより、漱石読み直しブームの仕掛人で
しょう。私は特に『野分』と『坑夫』の読みに
ついて教えられ、私の読みは浅かったなあと反
省しています」
「『野分』『坑夫』『彼岸過迄』『明暗』など
はミステリー文学。素人探偵には簡単に謎解き
はできない」
「謎の源は『文学論』にあるのです」
「例の文学的内容の形式は(F+f)というミ
ステリアスな公式か?」
「論者の解説を読むと、少しわかりかけてきた
ような気がします」
「説明してくれ」
「私が説明しようとするとまたこんぐらかって
くるのですが・・・・・・。

 凡そ文学的内容の形式は(F+f)なること
を要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、f
はこれに附着する情緒を意味す。されば上述の
公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素(F)
と情緒的要素(f)との結合を示したるものと
云ひ得べし。

 ここで、それまでの知の枠組の中では、まっ
たく対極に位置づけられていたはずの「印象」
と「観念」という対立概念が「又は」という接
続詞によって並立させられていることに論者は
注意を促します」
「なるほど、「印象」と「観念」との間には時
間のズレがある」
「「印象」すなわちインプレッションは、人間
の身体的な知覚感覚が外界とふれ合うことで、
外界からの刺激を受け取り、その刺激が末梢神
経系を伝わって、中枢神経系としての脳で情報
処理されるまでの、外界に接している身体感覚
に最も近接したところで作動する体験的領域。
 それに対して「観念」すなわちイデアは、精
神的で言語を中心とした記号的領域で成立する
諸概念であり、現実としての外界や、身体的知
覚感覚からは切り離されている場合が多い」
「時間のズレはあるが、「印象」も「観念」も
同じ脳内現象だ」
「そこに附着するfも身体的反応としての脳内
現象です」
「『文学論』は脳科学なのか?」
「『文学論』の冒頭は、明確に「文学」をめぐ
る脳科学であること宣言していると言っても過
言ではないと、論者は書いています」
「神経衰弱の患者とはとても思えない」


「悲劇」をめぐって
   2012/7/24 (火) 06:09 by Sakana No.20120724060937

07月24日

「小倉脩三の論文『悲劇をめぐって』は『文
学論』第二編「文学的内容の数量的変化」第
四章「悲劇に対する場合」で、「悲劇に伴ふ
f」についての考察です」
「それは作者のfか、それとも読者のf?」
「<漱石の問題意識は、日常生活では出来る
だけ回避したいはずの「悲劇」を、書物や舞
台の上では何故人々が好むのか、という問い
である>とありますから、読者のfでしょう」
「きみは「悲劇」を好むようにはみえないが」
「私は『草枕』の画工のように非人情を志向
しております。「悲劇」は好みではありませ
んが、世の中の人々が「悲劇」を好んでいる
という現象には興味がないこともありません」
「それで、漱石はなんと言っているのだ?」
「主人公の「断末魔の悲惨」を観客は何故
「面白しと興ずる」のかについて漱石先生は
三つの理由を示しておられます。
(一)人は活動の動物なり。活動其物はある
意味に於て我人の生命の目的なり。
(二)人は冒険性の動物なり。
(三)上述の他尚一種の人間ありて苦痛を好
み困難を愛す。されど別に病的と名くる能は
ざれば余は暫くこれを苦痛の道楽者又は数寄
者と名くべし。」
「(一)で人間は動物、動物は動く物。活動
そのものが生命の目的とはわかりきったこと
だ」
「消極的な生き方をしていると、退屈します。
そこで、退屈な日常生活の代償として、安全
な場所にいながら、活動的な悲劇をもとめる
ことができます」
「(二)の冒険性の動物というが、石橋を叩
いても渡ろうとしない人もいる」
「思ふに、吾人は危険其物を好むにあらず。
危険其物を目的として活動するものにあらず。
此危険に打ち勝ちたる時、此困難を凌ぎ得た
る時、自己の力を自覚して、これに伴ひ生ず
る快感を大ならしむと冀(こいねが)ふなる
べし」
「(三)の苦痛の道楽者又は数寄者はマゾヒ
ストのことかな?」
「「劇場」という、現実とは時空を隔てられ
た空間の中で、普通の庶民である観客がひと
ときの「自己卓越」の「贅沢」を味わうとい
う解釈だそうです」


テオーリアの始まりは終わり
   2012/7/27 (金) 05:32 by Sakana No.20120727053212

07月27日

「次は高山宏の論文『テオーリアの始まりは
終わり──漱石『文学論』管見です」
「テオーリアとはどういう意味だ?」
「三省堂『大辞林』によれば、 [(ギリシヤ) 
theoria]〔哲〕〔見ること、の意〕アリスト
テレスの用語で、実践(プラクシス)や制作
(ポイエーシス)と区別され、真理そのもの
の認識や直観をいう。観想。観照、となって
おります」
「英語のtheoryはそのテオーリアに由来して
いるのかな?」
「当然、そうでしょう。<『文学論』の隠れ
たキーワードは「理論」であり、あからさま
なキーワードは「解剖(する)」である。漱
石自身、理論という評言はそう頻繁には使っ
ていないが、『文学論』が話の原義において
歴たる理論であることはたしかである>と論
者は述べていますから」
「問題はその理論が現代も通用するかどうか
だ」
「その点については、遅きに失したが、夢の
英訳が見事になった。明治の終わりへの世界
的評価がやっとこれから始まるそうです。サ
イファーの『文学とテクノロジー』の復刊を
機に、『文学論』のテオーリアをイギリスや
アメリカのニュークリティシズムやロシアの
フォルマリズムと比較した議論が盛んになる
ことを期待しましょう」


「幻惑」される読者
   2012/7/30 (月) 06:35 by Sakana No.20120730063530

07月30日

「次は飯田祐子『「幻惑」される読者──
<『文学論』における漱石』。まず最初に、
「『文学論』における漱石は、作者ではなく
読者である>と断定しています」
「まだ職業的作家になっていない頃の漱石は
一人の読者だった」
「<『文学論』における文学とは何かという
問いは、読むということはどのような経験か
という問いと、ぴったり重なっている。英文
学との出合いは、漱石に文学と向かい合う読
者としての自己像を鮮明化する契機となった。
本稿では、その体感を「幻惑」という用語に
注目することで明らかにしていきたい>」
「幻惑は文学の第二の目的と漱石は言ってい
る。第一の目的ではない」
「幻惑といえば、<惑わす>というニュアン
スが強いですね。英語ではdazzlementとか、
bamboozlementとか、になりそうですが、漱石
先生は、illusionの訳語として「幻惑」を選ん
だと論者は指摘しています」
「証拠はあるのか」
「第二編第三章では、「表出の方法」と対を
なして「読者の幻惑」が論じられているが、
金子三郎の講義ノートでは、前者がrepresentation
of author、後者がillusion of readerと記さ
れている。また、「文学論ノート」では、
「幻惑」ではなく、illusionとしてメモがとら
れているそうです」
「illusionという英単語の訳語としては錯覚と
か、幻想とかを浮かべるが、『文学論』では
illusionがrepresentationと対になっているの
だな」
「第二編第三章「fに伴う幻惑」では、<普通
の人事若くは天然界にありては留意せざる若く
は留意するに堪へざる、聞きづらき、居づらき
境遇等も、これらを一廻転して間接経験に改む
る時は却って快感を生ずるに至るなり>とし、
<直接経験が間接経験に一変する瞬間>に<読
者の幻惑>が生じます」
「その場合、二通り考えられる。
A)作中人物の直接経験→読書→読者の間接経験
B)読者の直接経験→読書→読者の間接経験」
「『文学論』における作者と読者作品の配置は、
第四編第八章「間隔論」に明示されています」


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2014 Sakana Hasebe