夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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人格論
   2011/12/6 (火) 08:22 by Sakana No.20111206082237

12月06日

「『野分』の白井道也は田舎の中学をやめて
から貧乏な文学者の暮らしをしています。月
収は『坊っちゃん』より少ないのに、妻帯し
ていますから、生活費が足りません」
「斎藤緑雨曰く、按(あん)ずるに筆は一本也、
箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし。妻君が
いれば、箸は四本也だ」
「しかし、白井道也は金を目安にして人物の
価値をきめる訳にはいかないという信念の持
主です。<学問は金に遠ざかる器械である。
学問をして金をとる工夫をするのは北極へ行
って虎狩りをするようなものだ>といってい
ます」
「腹がへっては北極にも行けない」
「借金取りに催促されて、黙然としている白
井道也に福の神があらわれます。道也を尊敬
する高柳周作が道也の著書『人格論』を譲っ
てくださいと申し出てくれたので、道也は窮
地を脱することができました」
「『人格論』ではなくて、『吾輩は猫である』
だろう。高柳周作というのは高浜虚子のこと
だ」
「漱石先生に原稿料収入が入りだしたのは猫
のおかげとはいえますね」
「『こころ』は大正三年に岩波書店から出版
されているが、岩波茂雄には資金がなかった
ので、漱石が出版費用を出してやっている。
岩波書店が今日あるは漱石が文学で稼いだ金
のおかげだ」
「文学は金に遠ざかる器械どころか、金を引
き寄せる機械になったという皮肉ですが、本
来は『人格論』だったことを忘れてはいけま
せん」



抗夫
   2011/12/9 (金) 07:58 by Sakana No.20111209075825

12月09日

「『坑夫』は漱石先生が『虞美人草』の次に、
朝日新聞に連載した小説です」
「あまり面白くないと読者から不評をかった
のではないか?」
「『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』のよう
な面白さを期待しても裏切られるでしょう。し
かし、これも『野分』と同じように『坊っちゃ
ん』の続篇と考えれば、十分に面白いと思いま
す」
「どうして抗夫が坊っちゃんなのだ?」
「主人公は<中以上の家庭で育った十九歳の坊
っちゃん>と、ちゃんと書いてあります。恋の
もつれから家出したところ、ポン引きに誘われ
て、足尾銅山の抗夫になろうとしたが、抗内で
労働するようなことはなく、半年後には東京に
戻っています」
「すると、教員の資格をとる前に家出してしま
った坊っちゃんが抗夫というわけか」
「実際には抗夫になりそこねた坊っちゃんです」
「すると、『坊っちゃん』『野分』『抗夫』は
三部作ということになる」
「前期三部作ですね。中期三部作が『三四郎』
『それから』『門』、後期三部作が『彼岸過迄』
『行人』『こころ』です」
「そんな説は聞いたことがない」
「私が言っているのですから、間違いありませ
ん」
「?」


坊っちゃん三部作
   2011/12/12 (月) 07:56 by Sakana No.20111212075659

12月12日

「坊っちゃんを主人公とする三部作が『坊っ
ちゃん』『野分』『抗夫』です」
「はたしてそういいきれるだろうか?」
「中学教師の資格をとる以前に家出してしま
ったのが『抗夫』の坊っちゃん、家出せずに
資格をとって松山の中学に赴任したのが『坊
っちゃん』、辞表をたたきつけた八年後の坊
っちゃんが『野分』の白井道也──年齢的に
は、抗夫坊っちゃんは十九歳、松山坊っちゃ
は二十三歳、野分坊っちゃんは三十歳といっ
た見当でしょうか」
「歳月人を待たず」
「三人の坊っちゃんは性格が違います。松山
坊っちゃんは<真っ直ぐでよい御気性>、野
分坊っちゃんは<学問(文学)をする者の理
想は金ではなく人格である>という信念の持
主、抗夫坊っちゃんは<性格なんてものはな
い><本当の人間は妙に纏めにくいものだ>
と考えています」
「三通りのバージョンのうちほんものの坊っ
ちゃんはどれだ?」
「どれもほんもの──集合的Fが推移してい
るだけです」


意識の写生文
   2011/12/15 (木) 07:48 by Sakana No.20111215074812

12月15日

「『抗夫』の文体は語り手の坊っちゃんの意
識の流れをそのまま、だらだらと書いたもの
です。ホトトギス一派で奨励されていた写生
文を応用した意識の写生文と呼んでもよいで
しょう」
「しかし、作者の漱石の意識が入り込んでい
るような箇所がある。たとえば、<この一篇
の『抗夫』そのものが、小説になりそうで、
まるで小説にならないところが、世間臭くな
くって好い心持ちだ><『抗夫』は纏まりの
つかない事実を事実のままに記すだけである。
小説のように拵(こしら)えたものじゃない
から、小説のように面白くはない。その代わ
り小説より神秘的である>」
「十九歳の坊っちゃんでも文学青年ならこれ
位のことは言うでしょう」
「そうかな。文学のルール違反としか思えな
い」
「文学は(F + f)の形式さえみたしてい
れば、何でもありというのが『文学論』です」
「<事実を事実のままに記すだけ>といって
も、読者に断りもなく、複数の人間の意識が
とらえた事実を事実のままに記したと主張す
るのはフェアではない」
「しかし、『抗夫』が意識の流れという文学
の方法を世界ではじめて採用した画期的作品
という評価は覆りません」
「意識の流れの文学としてはプルースト『失
われた時をもとめて』、ジョイス『ユリシー
ズ』、ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫
人』などが有名だ。世界文学の標準では『抗
夫』は問題にもされていない」
「それは『抗夫』が日本語で書かれ、英語や
フランス語に翻訳されていないからでしょう。
世界標準の評価を得るためには日本語は不利
ですね」
「それなら、プルーストやジョイスが漱石を
模倣したという説をおまえさんが英語で書い
たらどうだ」

 『抗夫』          1908年
 『失われた時をもとめて』  1913-1927年
 『ユリシーズ』       1922年
 『ダロウェイ夫人』     1925年



   2011/12/18 (日) 08:48 by Sakana No.20111218084821

12月18日

 「『三四郎』『それから』『門』の三部作
の主人公は三四郎が大学生、代助がニートの
高等遊民、宗助が公務員で、一週間のうち六
日半は働いています」
「ありきたりの平凡な人生のコース。おまえ
さんだって似たようなコースをたどり、今や
棺桶に片足を突っ込んで、お迎えがくるのを
待っている」
「彼は門を通る人ではなかった。また門を通
らないで済む人でもなかった。要するに、彼
は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つ
べき不幸な人であった──他人事ではありま
せん。身につまされました」
「でも、仕方がないわ、と細君が云っててく
れるよ、きっと」
「そう云ってくれれば、<まあ、我慢するさ>
と宗助のように応じるつもりでいるのですが、
あいにく、うちの細君は、御米ではなく、
『道草』のお住です。<貴夫(あなた)に気
に入る人は何(ど)うせ何処にもゐないでせ
うよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから>
なとと憎まれ口をたたきます」
「御前は役に立ちさへすれば、人間はそれで
好(い)と思ってゐるんだろう」
「だって役に立たなくっちや何にもならない
ぢゃありませんか」


非精神的
   2011/12/21 (水) 07:22 by Sakana No.20111221072231

12月21日

「『門』の宗助は一週間のうち六日半は役所
勤めをしていますが、それは非精神的な行動
で、いかにもつまらなく感じられたと非人情
の作家が書いています」
「<食うための職業は誠実にはできにくい>
と考えていた高等遊民が食うために働かねば
ならなった」
「宗助は精神的な救いを求め、円覚寺で参禅
します」
「よい心がけだ」
「ところが、彼が碧巌録のような書物を読も
うとすると、<書物を読むのは極(ごく)悪
う御座います。有体(ありてい)に云うと、
読書程修業の妨(さまたげ)になるものは無
い>と禅僧に言われます」
「道元が<文学詩歌は詮なきなり>と言って
いるように、禅宗では悟りをひらくのに読書
は有害とみなしている」
「それでは、いくら非人情の立場をとってい
るとはいえ、『文学論』の作者は困ります」
「何も困ることはない。<文学論は失敗の亡
骸(なきがら)、しかも奇形児の亡骸だ、あ
るいは立派に建設されないうちに地震で倒さ
れた未成市街の廃墟のようなものだと作者自
身が『私の個人主義』で認めているのだから」
「しかし、漱石先生は宗助ではありません。
先生の人生が非精神的だったとは誰も思わな
いでしょう」


彼岸過迄
   2011/12/26 (月) 08:44 by Sakana No.20111226084449

12月24日

「『彼岸過迄』は修善寺の大患で九死に一生
を得た漱石先生が、久し振りに朝日新聞へ連
載した小説です」
「久し振りといっても、『門』を書いてから
一年半しか経っていない」
「人生八十年時代の呑気なご隠居と一緒にし
てはいけません。一年半は久し振りなのです」
「光陰矢の如しか」
「久し振りだから成るべく面白いものを書か
なければ済まないという気がいくらかあると
いう抱負を漱石先生は述べておられます」
「『文学論』の読者には面白いかもしれない
が、朝日新聞の一般読者にとってはあまり面
白いものだったとは思えない」
「明治時代の新聞読者は教養があったのかも
しれませんよ。GHQの愚民政策が成功して、
戦後の日本人の教養レベルは大幅に低下した
という説もありますから」
「そんなことはどうでもよいが、『彼岸過迄』
は語り手の敬太郎の話かと思っていると、友
人の須永の話になり、最後は松本(須永の叔
父)の話になる。しかも、どの話も尻切れと
んぼで、筋らしい筋がないし、ドラマの盛り
上がりがない」
「そういう文学的スタイルが面白いのです。
それに敬太郎も須永も松本もみんな余裕のあ
る高等遊民で、好感が持てます」
「千代子を愛しているのか愛していないのか
はっきりしない須永のような優柔不断な男の
どこが魅力があるのか。阿呆らしい」



彼岸花
   2011/12/26 (月) 08:46 by Sakana No.20111226084623

12月27日

「『彼岸過迄』は映画化されていないので、
参考として小津安二郎監督の映画『彼岸花』
を観ました」
「題名が類似しているだけで、内容的には共
通するものがなく、参考にはならない」
「適齢期の娘三人をもつ親の心理が複数の視
点、つまり、それぞれの親の視点からとりあ
げられています」
「適齢期の娘といったって、有馬稲子、山本
富士子、久我美子はもう、みんなおばあちゃ
んだろう」
「私のこころの中では永遠の美女たちです」
「親は誰だ?」
「有馬稲子の父親が佐分利信、山本富士子の
母親が浪花千栄子、久我美子の父親が笠智衆
──みんな、娘が親の思う通りの結婚をして
くれないので悩んでいます」
「見合結婚がふつうだった頃の話だが、複数
の視点といっても、映画ではお互いの会話の
やりとりで表現するしかない」
「そうですね。会話のやりとりが中心で筋が
展開するのは映画の特徴です」
「『彼岸過迄』は筋があるようなないような
小説だ。心理描写は掘り下げられているが、
ドラマの盛り上がりがない」
「映画は結末に向けてドラマを盛り上げなけ
れば観客が納得しません。『彼岸花』では勝
手に恋愛結婚をしようとする娘の結婚式に出
席しないとごねていた父親の佐分利信が最後
に折れて、出席すると言い、有馬稲子がめで
たく花嫁姿になるフィナーレです」
「その有馬稲子は彼岸花のイメージではない」
「私もその疑問を抱いて里見クの原作を読み
ました。すると、父親の周吉(笠智衆)が彼
岸花を見て<涙が零れた>と嘆いています。
娘の久我美子が尼寺に入ってしまったからで
す」
「なるほど、彼岸花は久我美子だったのか」
「視点によって主役が代わり、意味合いが違っ
てくるという点で『彼岸過迄』と共通する点が
あると思いませんか」
「さあ、どうだか、そのこじつけはすこし強引
すぎるようだな」


行人とお茶漬の味
   2011/12/30 (金) 09:03 by Sakana No.20111230090329

12月30日

「『行人』を読んで、頭がおかしくなりかけ
たので、これはアブナイと思って、口直しに
小津安二郎監督の映画『お茶漬の味』を観ま
した」
「関連性があるのか」
「『行人』の一郎は神経が鋭敏で、<死ぬか、
気が違うか、それでなければ宗教に入るか>
とつきつめて考える学者であるのに対して、
『お茶漬の味』の周吉は妻から<鈍感さん>
とバカにされるような野暮なサラリーマン─
─対照的な人物という点で関連性があります」
「所詮、文学と映画は別物だよ」
「ジャンルは別物でも、人情は共通していま
す。映画の観客は最後に救いがあるものをも
とめており、喧嘩をして口もきかなくなった
夫婦が最後に台所でお茶漬を食べて仲直りを
するという結末でホッとします。『行人』の
一郎も妻のお直の心理などにやきもちを焼い
たりせず、過去のわだかまりを捨てて、一緒
に台所でお茶漬を食べればよいのです」
「映画と違って文学はそうはいかない。後世
に残るような文学は、<死ぬか、気が違うか、
それでなければ宗教に入るか>という問題に
真剣に取り組んでいる。映画のように安易な
妥協はできない」
「安易な妥協と簡単に言って欲しくありませ
ん。『行人』の一郎は『お茶漬の味』の周吉
の度量の広さを見習うべきだと思います」


修善寺の大患
   2012/1/2 (月) 08:58 by Sakana No.20120102085801

01月02日

「『行人』の一郎は<死ぬか、気が違うか、
それでなければ宗教に入るか>と思いつめま
すが、これはやはり作者の漱石先生が修善寺
の大患であわや死にかけるという経験をした
ためだと思います」
「その点、小津安二郎は呑気なものだ」
「漱石先生のF(焦点的印象または観念)に
は具体的にどんな宗教があったのでしょうか」
「『門』の宗助は円覚寺で参禅している」
「でも、公案の答を出していません」
「そんな心がけでは仏教の門には入れない」
「『道草』の健三は、神という言葉が嫌い
ですが、<御前は必竟何をしに世の中に生れ
て来たのだ>という自己の内部の声を聞いて、」
<若しその神が神の眼で自分の一生を通して
見たならば、この強慾な老人の一生と大した
変りはないかも知れないという気が強くした>
そうです。この神はキリスト教の神ではない
かと思います」
「神という言葉が嫌いならキリスト教には入
れない」
「最後にたどり着いたのが、則天去私の境地
──則天は儒教の思想、去私は自分本位の個
人主義の否定で、仏教やキリスト教に通じる
と思います」
「講演で自分本位の個人主義を説いておきな
がら、前言を覆すとはけしからん」


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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