夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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ジェーン・オースティン
   2011/9/7 (水) 08:06 by Sakana No.20110907080601

9月07日

「漱石先生によれば、ジェーン・オースティ
ンは写実の泰斗であり、今代の認めて第一流
の作家となして疑はざるものですが、驚いた
ことに現代の英国でも『プライドと偏見』は
もっとも人気のある小説だそうです」
「ジェーン・オースティン(1775年-1817年)
は樋口一葉(1872-1896)よりもほぼ百年も前の
女流だが、一葉が死んでからでもすでに百年
は経っているなあ」
「『プライドと偏見』は十八世紀末にはすで
に脱稿していました。その価値を最初に認め
たのはジェーンの父親で、出版業者のキャデ
ルにすすめたところ、キャデルは原稿を一読
もせず、ただちに出版を拒絶したそうです」
「出版業者にとっては無名の作家の出版はリ
スクが大きい」
「数世紀にわたって愛読される一代の傑作も
こうして埋もれたままでしたが、ようやく
1813年になって出版の運びとなりました」
「他の作品でジェーンの文名があがってきた
から出版できたのだろう」
「処女作は『分別と多感』("Sense and 
Sensibility")、続いて『エマ』が評判にな
りました。これに由ってこれを見れば一八一
五年に至って、オースティンは既に文壇の意
識を動かして、これを吾が方向に推移せしめ
たりといふも不可なきが如し」
「せっかく文名があがったのに、その二年後
には死んでしまった」


可憐なる天才キーツ
   2011/9/10 (土) 08:33 by Sakana No.20110910083330

9月10日

「詩人にしてもっとも悪辣な批評の毒蜂にか
かったものは可憐なる天才ジョン・キーツで
す」
「26歳で夭折した天才詩人(1795-1821)。
一八一八年に出版された4巻4千行にも及ぶ寓
意叙事詩『エンディミオン』(Endymion)は、
評論誌、雑誌から激しく批判された」
「キーツに加えられた暴語は、その没鑑識な
ると、その驕慢なると、その残酷なるとに因
って長く病詩人のために幾代の同情を惹くも
のなりと漱石先生は書いておられます」
「どんな暴語だろう?」
「著者(キーツ)はハント(Hunt)の模倣者な
り、然れども解すべからざるは却ってこれに
過ぎ、突こつなるのはこれと相若(し)き、
散漫なるはこれに倍し、冗長にして不合理な
るに至ってはこれに十倍す・・・・・・とい
うような調子です」
「ハントなどという詩人は聞いたことがない。
模倣された者よりも模倣者のキーツのほうが
死後に有名になったとは皮肉な運命だ」
「ついでに酷評の最後の箇所を引用しておき
ます」
「<吾人より大いに忍耐強く、その第一巻よ
り先を読み進み、さらに吾人より幸運にも何
らかの意味を見出した場合は、その結果を吾
人にご通知くださるよう乞い願うものである>
という評はこの『文学論』にもあてはまるか
もしれないね」
「『文学論』を読了するには忍耐強さが必要
だということは私も骨身にしみてわかりまし
た。しかし、漱石先生の場合は『吾輩は猫で
ある』で既に文壇の集合的意識Fを動かして、
これを吾が方向に推移せしめたので、誰も先
生に対してそのような失礼な暴言を加えるこ
とができなくなりました」

"But enough of Mr. Leigh Hunt and his simple neophyte. If any one should be
bold enough to purchase this 'Poetic Romance,' and so much more patient than
oursselves as to get beyond the first book, and so much more fortunate as to
find a meaning, we entreat him to make us acquainted with his success. We shall
then return to the task which we now abandon in despair, and endeavour to make
all due amends to Mr. Keats and to our readers."
---The Quarterly Review

(しかし、リー・ハント氏とその無知な新参の弟子(キーツ)については、これだけに
しておこう。もし誰か勇敢な人がいて、この「詩的ロマンス」なるものを購入し、吾人
より大いに忍耐強く、その第一巻より先を読み進み、さらに吾人より幸運にも何らかの
意味を見出した場合は、その結果を吾人にご通知くださるよう乞い願うものである。そ
の際には、いま絶望のあげく破棄した課題に立ち戻り、キーツ氏と吾が読者諸賢にしか
るべき償いを余すことなくするよう努力する所存である。)
──「ザ・クォータリー・レビュー」



テニソンの台頭
   2011/9/13 (火) 08:06 by Sakana No.20110913080633

9月13日

「テニソン(1809-1892)は少し遅れてヴィク
トリア朝時代に活躍した詩人です」
「『Poems by Alfred Tennyson』(1842)、『The 
Princess』(1847)、『In Memoriam A.H.H.』(1849)
などの作品があり、1850年にワーズワースの後
継者として桂冠詩人になった」
「彼も新人のうちは、雑誌で評論家からたた
かれています。<不幸にして彼は音律の何た
るかを解せずして詩をつくれるが如し>など
と酷評されました」
「きみは音律の何たるかがわかっているのか?」
「桂冠詩人が解していないものを私ごときが
解しているわけがありません」
「評論家は自分がわかっていなくても、相手
をけなすことによって自己の優越をひけらか
したがるものだ」
「しかし、テニソンの実力は漸次、集合的F
を自分の有利な方向に動かしていきます。1831
年1月、The Westminster Review所載のテニソ
ンの処女詩集"Poems,Chiefly Lyrical"(『詩
集──主として叙情的な』)についての批評は
次の通りです。<過去四十年間の詩は眞の科学
的精神(real science of mind)を含むの多少に
よってその生命の長短を計るべし。この精神を
欠くものの存在し易からざるを例証するに、コ
ールリッジとワーズワースの作詞の大部分は既
に死せり。また死なんとしつつあり。然れども
茲(ここ)にその精神において全然哲学的にし
てかつ詩的なる小冊子あり。云々>」
「その小冊子とは何だ?」
「むろん、テニソンの詩集です。この1931年の
時点において集合的意識Fの競争でテニソンが
勝利を制しつつあることを示しています」


ラファエル前派
   2011/9/16 (金) 08:06 by Sakana No.20110916080629

9月16日

「芸術の領域に目を転じると、また同じよう
な傾向がみられます」
「文学は芸術ではないのか」
「その議論はさておき、ここでいう芸術は美
術、絵画です。ラファエル前派が初めて展覧
会を開いたとき、展覧に供せる絵画の一面だ
に売り能はざりしは世人の知る所なり」
「おれも世人だが、知らないね」
「漱石先生の時代の世人ではないでしょう。
ラファエル前派は、1848年、ロイヤル・アカ
デミー付属美術学校の学生であったダンテ・
ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホ
ルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミ
レイの3人の画家によって結成されました」
「ロセッティという名前は聞いたことがある
が、ハントとミレイという名前は聞いたこと
もない」
「無知は罪ですよ。ラスキンは三たび書をThe 
Timesに寄せて、評家の無知と、不正と、嫉妬
とを暴露して、公衆の同情を彼らの上に転じ
ました」
「ラスキンの名前なら聞いたことがある」
「ロセッティは平素世評に耳を借さざるもの、
この時よりしてますます高踏して俗に近づか
ず、ミレイは平然として例によって四面楚歌
の裏に立ち、ハントは周囲の喧噪なるに応じ
て毫(ごう)も狼狽せる景色なし──ラファ
エル前派の始めて独立の旗幟(きし)を翻す
やその危うき事、実にかくの如きありしなり


ミレーの落魄の一生
   2011/9/19 (月) 09:15 by Sakana No.20110919091501

9月19日

「フランスの有名な画家ミレーもまた、一生
を落魄のうちに送りました」
「『晩鐘』や『種まく人』が有名だが」
「『晩鐘』はアンジュラス(The Angelus)で、
1859年の作。こころなき身にもあはれを知られ
けり、という名作です」
「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
「鐘の音が聞こえてくると、農夫と農婦が野良
仕事をやめて、死者たちのために祈る──その
姿のほうに私はあはれを感じます」
「鴫立つ沢の秋の夕暮れもあはれだ」
「『晩鐘』では鴫よりも人間の存在があはれな
のです。この名作がミレーの生前は売れなかっ
たのに、彼の死して屍(しかばね)の未だ土中
に安置せられざるに、運命は不遇の画家を玩弄
して、順逆の境を一夜に変じ、有名なるThe Angelus
に二十四万円の価格を附するに至れり」
「二十四万円というと大金なのか」
「1859年のフランスの物価はわかりませんが、
1890年頃の坊っちゃんの月給は四十円でしたか
ら、その比較からも、おそらく一生、暮らして
いける金額でしょう」


風景画家コンスタブル
   2011/9/22 (木) 07:11 by Sakana No.20110922071138

9月22日

「ターナーと並び称されて、山水画に一機軸
を出したりと称せらるるコンスタブル(1776
-1837)もまた生前に意の如き成功を収むる能
はざりしは人の記憶する所なり」
「吾輩の記憶する所ではない」
「『秣車(The Hay Wain)や『白馬』(The White
Horse)は知る人ぞ知る名画ですが、イギリス
の公衆や評家からは冷然として無視されまし
た」
「無名の画家の作品は無視されるのがあたり
まえだ」
「ところが、コンスタブルの友人フィッシャ
ーが忠告をしてくれました。<多少の価を減
ずるもこれをパリに売るにしかず。これ君が
名声を博する所以(ゆえん)なればなり。何
らの批判力なき愚昧なる英国公衆は、仏人が
君の画を以て国有となすを聞かば、少しく警
醒する所あるべけれなれ>」
「イギリスの公衆がフランスの公衆と比べて
それほど愚妹とは思えないが」
「<君の誤解するや久し。人は絵画を見て善
しと思ふが故に購(あがな)ふものにあらず。
他人がこれを得んと冀(こいねが)ふが故に
購ふに過ぎず」
「なるほど」
「果たせるかな、秣車(The Hay Wain)のフラ
ンスにあらはるるや瞬刻にして天下の耳目を
蠢動して、一八二四年の金牌を受くるに至れ
り」


印象派の日没
   2011/9/25 (日) 08:06 by Sakana No.20110925080611

9月25日

「もっとも悲惨な例はフランスの印象派がは
じめて自己を天下に初期の歴史です」
「印象派は天下をとったのだから、もっとも
悲惨な例とはいえない」
「初期の頃は悲惨だったのです。彼らは美術
の法則を蔑視するものとして、保護を与えら
れるどころか、サロンに出品する特権すら与
えられません。アカデミー派のものは彼らを
狂人とみなしました」
「自分も狂人と呼ばれたことがあるだけに、
漱石は印象派にシンパシーを抱いているよう
だ」
「1863年に印象派の絵画がことごとく陳列の
栄を拒絶された際、時の主権者が彼らの窮状
を憐れんで、特別室を用意し、これを"Salon
des Refuses"(拒絶絵画サロン)と称しまし
た」
「落穂集みたいなものだな」
「このとき、モネが出品した絵は日没の景色
で、Impressionという題。印象派という名が
起ったのはその日没の景色の絵に由来するそ
うです」
「日はまた沈む」


成功と失敗
   2011/9/28 (水) 07:17 by Sakana No.20110928071744

9月28日

「暗示は常に戦です。戦なくして暗示を人に
及ぼすことはできません」
「戦はきらいだ」
「好きとか嫌いとかにかかわりなく、文学あ
るところに暗示の戦ありです。しかも、新し
き暗示の旧意識を去る遠ければ遠きに従って
戦は激烈なるべし」
「要するに、新暗示が旧意識を打破するか、
あるいは、旧意識が新暗示を蹂躙するか──
二つに一つなんだな」
「両者の間隔があまりに甚だしければ、新暗
示はたいてい通俗なる集合意識のために圧迫
せられ、追窮せられ、遂には剿絶せられるる
を常とします」
「要するに、出る釘は叩かれる」
「天才の意識は一般を去る事遠きを以て特色
となす事多きが故に、彼らは成功するよりも
むしろ失敗するのが当然です」
「天才が本物なら、世の中が放っておかない。
必ず成功するはずだ」
「後世に名前を残す天才よりも、禽獣のよう
に殲滅された天才の数のほうがはるかに多い
はずです」


如何なる意識が成功するか
   2011/10/1 (土) 08:02 by Sakana No.20111001080208

10月01日

「如何なる新意識が成功して、旧意識を打破
することができるのでしょうか」
「それがわかれば誰も苦労しない」
「そうですね。如何なる意識が成功するかは、
時に応じ、所に応じて異なるので、その内容
を指摘することはできません」
「内容がダメなら形式を指摘したらどうだ」
「もし内容を捨てて形式より論じるなら、先
に述べた推移の法則の通りです」
「吾人意識の推移は次第なるを便とす──
わかったようなわからないような法則だ」
「数種の推移中、特にわれわれの注意をひく
のは、現下意識の自然なる傾向にもっとも調
和した新暗示が勃興した場合です。換言すれ
ば、現下意識の辺末に潜伏して、今にも起ら
んとするの勢いをほのめかすに拘はらず、依
然として半明半晦のうちに、不説不語の不足
を感ぜしむる或者あるとき、──突然一人あ
りて、この不透明なる或者を掌中に攫(かく)
し来って、端的に道破せる場合をいふ。これ
あるものは既に集合意識の波動線中に伏在し
て向上的気勢を有するが故に、もしこれに明
確なる形体を与へ、判然たる秩序を劃して世
間に放出するものならんには、天下は翕然
(きゅうぜん)として起ってこれに応ずるの
の理なり」
「なるほど、その理を応用して、漱石は『吾
輩は猫である』を世間に放出し、猫の意識で
成功をおさめたというわけか」



成功は才能の尺度にあらず
   2011/10/4 (火) 07:26 by Sakana No.20111004072628

10月04日

「成功の程度をもって作者の才能をはかる
尺度とすることはできません」
「そういっておけば、不遇の天才にはせめ
てもの慰めになる」
「成功は、個人たるわが意識と社会の意識
とがたまたま一致した場合にすぎません。
成功せる意識は天才のそれとも、能才のそ
れとも、それとも凡才のそれとも断言しが
たき場合少なからず、です」
「凡才でも成功できると思うと、未来がす
こし明るくなったような気がする」
「余が先に述べたる理論によれば、天才の
意識は独創的内容に富むを常として、個性
的色彩を帯びる事多きが故に、必ずしも現
代意識の将来的傾向を暗知して、その傾向
の発展せんとする方面に耀揚するを期しが
たきのみならず、往々にしてこれと乖離し
て一般の嗤嗤(ししょう)を買ふは先の実
例にて既に明らかなり」
「くどいな、もうわかったよ」


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2014 Sakana Hasebe