夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
 ID


全969件 <更新> ページ移動 ⇒ [ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 終了]

PAGE 50 (491〜500)


文学の定義と文学の目的
   2011/5/10 (火) 07:51 by Sakana No.20110510075128

5月10日

「文学論で何よりもまず押さえておかなけれ
ばならない肝心な問題は、文学とは何か、そ
して、文学の目的は何か、だと思います」
「肝心な問題を漱石は避けているのではない
か?」
「そんなことはありません。文学の定義につ
いては、<私は文学なるものは科学の如く定
義をすべき性質のものでなく、下し得るもの
とも考えへて居らない>という見解を述べて
おられますので、それでいいのではないでし
ょうか」
「科学は定義できるが、文学は定義できない
などというと文学は信用されなくなる。きち
んと定義するべきだ」
「次に文学の目的ですが、<文学の大目的の
那辺に存するかは暫く措く。その大目的を生
ずるに必要なる第二の目的は幻惑の二字に帰
着す>と言っておられます」
「幻惑というのは魔法使いの方法論だ。文学
者のすることではない」
「ですから、第二の目的なのです」
「大目的、即ち第一の目的の那辺に存するか
は暫く措くといっているが、漱石は肝心なこ
とをあいまいにしたままで死んでしまった。
無責任だ」
「眼光紙背に徹す。文学論の行間を読めば大
目的の那辺に存するかはあきらかになると私
は思います」


文学の大目的
   2011/5/13 (金) 07:07 by Sakana No.20110513070716

5月13日

「漱石先生が意識しておられた文学の大目的
は何かをあらためて考えますと、ロンドンの
下宿で誓ったことと関連すると私は思います」
「何を誓ったんだっけ?」
「<余は心理的に文学は如何なる必要があっ
て、この世に生れ、発達し、頽廃するかを極
めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる
必要があって、存在し、隆興し、衰滅するか
を究めんと誓へり>」
「なるほど、それが文学論執筆の動機か。そ
れで、究めんとして誓った結論はなんだ?」
「集合的Fです」
「漱石がそうだと明言しているのか?」
「明言はしておられませんが、そうとしか考
えられません」
「『文学論』は<立派に建設されないうちに
地震で倒された未成市街の廃墟>だと言って
いることと矛盾する」
「それは『私の個人主義』の立場からの発言
です。集合的Fの観点からすれば、文学論は
廃墟とはいえません」
「漱石は近代的自我を追求したはずだ」
「でも、最後は則天去私の境地です」


百年の集合的F
   2011/5/16 (月) 07:05 by Sakana No.20110516070519

5月16日

「漱石先生がお亡くなりになったのは大正五
年(1916)ですから、もうすぐ百年祭ですね」
「それがどうした?」
「この百年間のうちに漱石先生の著作を読み、
考え、感想を書いた人たちの集合的Fの合計
を数字であらわせばどれほどになるでしょう」
「0.001マイクロシーベルト程度──そんな数
字には何の意味もない」
「そうでしょうか。この集合的Fの社会心理
的影響は無視できないと私は思います」
「すると、きみもその集合的Fの運動にボラ
ンティアで参加しているつもりか」
「ええ、永劫の因果を究明するのが私の天命
でもあるという気がしてきました」
「それより、神経衰弱に感染しないよう気を
つけたまえ」


非学理的閑文字
   2011/5/19 (木) 05:44 by Sakana No.20110519054421

5月19日

「文学論については映画をてがかりに自己本
位の感想を非学理的閑文字で書き散らすこと
にしました」
「わざわざ非学理的閑文字とことわった理由
は?」
「自己本位をつらぬきたいと思ったからです」
「映画をてがかりにするというのは漱石作品
のうち映画化されたものを考えているのか?」
「映画化されていない作品もふくめます。そ
れから、漱石先生だけではなく、他の作家の
作品もふくめて百年の集合的Fにチャレンジ
する予定です」
「気宇壮大だな。そのためには漱石について
書かれた厖大な資料を読破し、過去百年の名
作映画を鑑賞しなければならない」
「かくの如くせば白頭に至るも遂に全般に通
ずるの期はあるべからず、ですが、私はすで
に白頭に至っておりますから、縁あってこれ
までに書籍と映画だけを対象にします」
「それでは永劫の因果をきわめるのは難しい
だろう」
「まあ、そうですが、結論は則天去私とわか
っているので、気は楽です」


私の映画文学人生論
   2011/5/22 (日) 07:02 by Sakana No.20110522070204

5月22日

「非学理的閑文字の連載は<私の映画文学人
生論>と命名しました。すでに<青べか村か
ら>というサイトではじまっています」
「<青べか村>なら夏目漱石ではなく、山本
周五郎ゆかりの地だが」
「私の集合的Fの意識では苦沙弥先生と蒸気
河岸の先生がつながっております」
「自己本位のつながりかただな。それで、漱
石作でとりあげる作品は?」
「とりあえずは映画化されたことのある作品
で、『坊っちゃん』『吾輩は猫である』『虞
美人草』『三四郎』『それから』『こころ』。
まず最初に『坊っちゃん』をとりあげました」
「『夢十夜』も映画化されている」
「それは、後まわしです。『草枕』『門』
『彼岸過迄』『行人』『道草』『明暗』は映
画化されていないと思いますが、いずれ、ど
こかから関連のありそうな映画を見つけてき
て感想を述べることにします」
「他の作者が原作の映画をもってきて漱石を
論じるとはずいぶん乱暴なやりかただね」
「百年の集合的Fについて考えるのですから、
それ位のことは許されるでしょう」


坊っちゃん
   2011/5/25 (水) 08:21 by Sakana No.20110525082146

5月25日

「『坊っちゃん』は、これまでに五回、映画
化されています。
 1935年 監督:山本嘉治郎 主演:宇留木浩
 1953年 監督:丸山誠治  主演:池部良
  1958年 監督:番匠義彰  主演:南原伸二
 1966年 監督:市村泰一  主演:坂本九
 1977年 監督:前田陽一  主演:中村雅俊」
「名作と評価されている映画はない」
「私が観たのは前田陽一監督のものだけです
が、原作はかなり改変されております」
「原作と映画は別物か」
「まったく別物というわけではありません。坊
っちゃんが清と別れて、伊予松山の中学の先生
になり、喧嘩をして、辞表を出すという大筋は
原作も映画も同じです。狸、赤シャツ、山嵐、
うらなり、野だいこ、マドンナなど主な登場人
物の顔ぶれも同じ」
「どこが違うんだ?」
「映画は原作の毒を薄めて、結末の後味をほど
よくしています」
「原作だって後味は悪くない」
「それは山嵐が赤シャツを撲(なぐ)り、坊っ
ちゃんが野だいこに卵をたたきつけ、狸には辞
表をたたきつけておいて、清のいる東京に戻っ
て、街鉄の技手になり、<清の墓は小日向の養
源寺にある>と結んだからです。これでは松山
中学の生徒やマドンナなど地元民にとっては後
味がよくないと思います」
「ははあ、それで映画は松山の地元民に配慮し
たというわけか」
「ええ、マドンナはうらなりとの婚約を破棄し
ただけでなく、赤シャツにも肘鉄を食らわせ、
新しい女として東京へ行き、また、生徒たちは
船で出発する坊っちゃんに手を振って見送って
います」
「それなら少なくともマドンナと生徒は悪玉と
いう印象は残らない」
「今や坊っちゃん電車が走り、坊っちゃん文学
賞がもうけられている時代。地元民の感情を配
慮するのは当然でしょう」
「そんな配慮をするのは坊っちゃんではない。
狸のやりそうなことだ」


吾輩は猫である
   2011/5/28 (土) 09:00 by Sakana No.20110528090056

5月28日

「『吾輩は猫である』は昭和十一年(1936)と
昭和五十年(1975)に映画化され、テレビドラ
マでも何度か放映されています」
「猫が文学論や文明批評をする話を映画化、
ドラマ化するのは難しい」
「私が観たのは昭和十一年公開の山本嘉次郎
監督の映画です。意外にも反戦映画あるいは
戦争諷刺映画になっていると思いました」
「昭和十一年といえば、二・二六事件の年。
日本人が好戦的になっているとき、よく反戦
映画が上演できたものだ」
「表面的には苦沙弥先生や迷亭、寒月、東風
など太平の逸民がムダ口をたたく人畜無害映
画に見えるので、見逃されたのでしょう」
「原作では猫が文学論や文明批評をしている
が、映画ではどうなんだ」
「猫はチョロチョロ走ってニャアとなくだけ
の脇役です。でも、昭和三十八年(1963)のNHK
テレビドラマでは森繁久弥が苦沙弥先生、渥
美清が猫の声を演じ、高視聴率をあげたそう
です」
「寅さんが猫の声では、文学論は期待できな
い」

『吾輩は猫である』PCL 1936年 監督:山本
嘉次郎 脚本:小林勝 出演:苦沙弥:丸山定夫、
迷亭:徳川夢声、水島寒月:北沢彪、細君:英百
合子、雪江:千葉早智子、鼻子:清川玉枝、東風:
藤原釜足、三平:宇留木浩、車夫の女房:清川虹

『吾輩は猫である』 芸苑社 1975年 監督:市
川崑 脚本:八住利雄 出演:苦沙弥:仲代達矢、
迷亭:伊丹十三、水島寒月:岡本信人、越智東風:
篠田三郎、吾輩の声:小倉一郎、細君:波乃久里
子、雪江:島田陽子、鼻子:岡田茉莉子、富子:篠
ヒロコ、鈴木藤十郎:神山繁
 テレビドラマ [編集]山一名作劇場『吾輩は猫
である』 日本テレビ 1958年5月27日 - 6月24日 
30分×5回 演出:安藤勇二 脚本:田村幸二 
出演:斎藤達雄、三宅邦子、稲葉義男、舟橋元、
山田美奈子、藤村有弘、ナレーション:徳川夢

『吾輩は猫である』 NHK 1963年1月1日 60分×1
回 脚本:キノトール 出演:苦沙弥:森繁久彌、
細君:淡路恵子、迷亭:三木のり平、寒月:有島一
郎、鼻子:沢村貞子、富子:横山道代、泥棒:八波
むと志、籐十郎:多々良純、女中:久里千春、猫の
声:渥美清 (ビデオリサーチ調べ・関東地区に
おける視聴率は40.2%を記録[5])
『ふたりは夫婦』 第19回「わたくしは細君」〜
「吾輩は猫である」より〜 フジテレビ 1975年2
月17日 55分1回 脚本:田中澄江 出演:八千草
薫、長門裕之、篠田三郎、三谷昇


省略と幻惑
   2011/5/31 (火) 07:37 by Sakana No.20110531073739

5月31日

「<文学の大目的の那辺に存するかは暫く措
く。その大目的を生ずるに必要なる第二の目
的は幻惑の二字に帰着す>という漱石先生の
教えですが、同じことは映画にもいえると思
います」
「文学も映画も幻惑が目的というとシラけて
くるが、第二の目的ということならまあいい
だろう」
「何故、幻惑なのかを考えていると、『吾輩
は猫である』にヒントがころがっていること
に気がつきました」
「そのヒントとは?」
「<二十四時間の出来事を洩れなく書いて洩
れなく読むには少なくとも二十四時間かヽる
だろう。いくら写生文を鼓吹(こすい)する
吾輩でも是は到底猫の企て及ぶべからざる芸
当と自白せざるを得ない>という猫のセリフ
です」
「正岡子規や高浜虚子が何と言おうと、写生
文を書きつづることは実際には不可能だと猫
が認めている」
「不可能だとすれば、次はいかに省略するか
が問題となってきます」
「何を省略して、何を残すかだ」
「最大限に省略すれば、五七五の俳句になり
ますが、小説だって、映画だって、省略の芸
だともいえます」
「なるほど、いかに省略するか、いかに幻惑
するか」


虞美人草
   2011/6/3 (金) 06:28 by Sakana No.20110603062856

6月03日

「『虞美人草』は明治四十年(1907)、漱石先
生が東京帝大講師をやめ、朝日新聞に入社して
連載をはじめた第一作です」
「三越から虞美人草浴衣、玉宝堂から虞美人草
指輪が売り出されるなどの評判を呼んだという」
「そんなことより、『文学論』を実作に応用し
た最初の作品であるという点に注目するべきだ
と思います」
「いかにして読者を幻惑するかを研究した成果
が成功しているかどうか」
「失敗作という人もいますが、百年後も読者が
いるところをみると、幻惑に成功したともいえ
ると思います」
「きみも喜んで幻惑された一人かい?」
「幻惑されないようにと力んだせいか、藤尾が
自殺しても、兄の甲野欽吾が可哀想だと涙を流
したりせず、平然として<悲劇は喜劇より偉大
である>と日記に書き記したところに、ウム?
ハテ?と、ひっかかりました」
「哲学者なんてそんなものだろう」
「私も若い頃、読んだときはそんなものかなと
甲野さんに感情移入したのですが、今回は映画
を二本(昭和十年の溝口健二監督と昭和十六年
の中川信夫監督の映画)を観てから原作を読み
直したせいか、ちょっとおかしいと思いました」
「なにがおかしい?」
「甲野欣吾にとって藤尾は腹違いとはいえ、た
った一人の妹ではないですか」
「そんな反応をするのは寅さん映画を観すぎた
からだろう。もっと<真面目>に考えなさい」
「<真面目>とはどういうことですか?ほんと
うに悲劇は喜劇より偉大なのでしょうか?」


文学の幻惑、映画の幻惑
   2011/6/6 (月) 07:25 by Sakana No.20110606072524

6月06日

「映画と原作を比較すると、映画のほうがf
(感情)に訴える力が強いようですが、原作
を読めば、想像力によってf(感情)がかき
たてられます」
「映画は直接的、文学は活字を媒介とする、
かな」
「ヒロインの藤尾は映画では女優(三宅邦子、
あるいは霧立のぼる)が演じています。観客
は美しい容姿の女優を藤尾だと思いこみ、魅
惑(幻惑)されます」
「三宅邦子はどちらかといえば古風な日本的
美人だ。霧立のぼるのほうが藤尾のイメージ
に近い」
「原作の描写は、<紅を弥生に包む昼酣(た
けなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の
濃き一点を、天地(あまつち)の眠れるなか
に、あざやかに滴たらしむるが如き女である。
夢の世を夢よりも艶(あでやか)に眺めしむ
る黒髪を、乱るるなと畳める鬢(びん)の上
には、玉虫貝を冴々(さえざえ)と菫(すみ
れ)に刻んで、細き金脚(きんあし)にはっ
しと打ち込んでいる。・・・・・・・以下長
々と続いています>」
「今どき、そんな古めかしい美文で読者がつ
いてくるかどうか。いくら名文でも読者は本
を手にして読み、内容を理解しない限り、幻
惑されることはない」
「その点、映画はスクリーンを眺めているだ
けで幻惑されるから楽です」
「幻惑は文学の第二の目的ということを忘れ
てはいけない。第一の目的を追求したければ、
原作を読む必要がある」


ページ移動 ⇒ [ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 終了] <照会>
 
「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2014 Sakana Hasebe