夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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記号Fの消息
   2011/1/6 (木) 16:59 by Sakana No.20110106165957

1月04日

「漱石先生の『文学論』では私たちの意識の
中より文学的材料になり得るものに限り、幾
多の例証をあげて説明してあります」
「つまり、文学的材料になり得ないものは排
除した」
「次にこれらの文学的材料を彼此比較考量し
て、これを四種に分類しました」
「どんな四種だっけ?」
「感覚的材料、人事的材料、知的材料、超自
然的材料──これらの材料中に起こる相互の
関係を論述し、かねて表現の方法として彼此
代用し、甲乙相合(あいがつ)するの道を講
じ、遂に表現より逆行して取材の領域に入り
ます」
「文学的材料を取材する方法というと、ジャ
ーナリストに要求されるセンスのようだ」
「私たちはその中間において文学的材料の意
識に上ることが多い文学者のFを論じて、科
学者のそれと対置します」
「むしろ文学者の方法とジャーナリストの方
法とを対置してほしいと思うが」
「第五編で詳論するのは記号Fの消息ですよ。
文学者と科学者を比較する大きな捉え方を通
じて集合的Fの謎に迫りましょう」


Fの差異
   2011/1/7 (金) 08:25 by Sakana No.20110107082501

1月07日

「Fとは何でしょうか」
「焦点的観念または印象」
「観念も印象も一様ではありません。まずF
の差異に着目しましょう」
「Fは無常だ。祇園精舎の鐘の声、諸行無常
の響きあり」
「Fの差異とは時間の差異を含み、空間の差
異を含み、個人と個人との間に起こる差異を
含み、一国民と他国民との間に起こる差異を
含み、また、古代と今代と、もしくは今代と
予想される後代との差異を含みます」
「文学者と科学者との差異もある」
「それはほんのささやかな一部分にすぎませ
んが、文学論においてはとくに必要な論点で
す」
「漱石は文学者だが、科学者の方法を用いて
文学論を書いた」


(F+f)の公式
   2011/1/10 (月) 08:25 by Sakana No.20110110082505

1月10日

「ここであらためて(F+f)の公式のおさ
らいをしておきたいと思います」
「(F+f)は文学的内容の形式とノートに
は一応、記してあるが、今ひとつよくわから
ない」
「一分時における意識の内容は一曲の波を描
いて高くなったり、低くなったりします。そ
の頂点は意識のもっとも明かなる所、つまり
意識の焦点です」
「人間の意識は波を描いて流れていく。時々
刻々の意識の焦点がFと考えていいのだな」
「ええ。ただし、そのFは認識的性質をのび
帯びているものと仮定しています。したがっ
て、Fが単独で起こらず、ある情緒を伴いき
たる時はこれにfを添えて、(F+f)とい
う公式になるのです」
「それはわかったが、集合的Fというのは何
だ?」
「われわれは一分時において得たFを拡大し、
一日、一夜、半歳、五十歳にわたってわれわ
れの意識を構成する大波動に応用して、個人
における一期一代の傾向を便宜的に一字のF
であらわすことができます」
「そのFは単に一つの傾向にすぎないが、ま
あいいだろう」
「また、一代を横に貫いて個人と個人との共
有にかかる思潮を総合してそのもっとも強烈
なる焦点を捕らえて、これを一字のFに縮写
することもできます」
「たとえていえば、幕末の志士のFは尊皇攘
夷」
「本編で論じるのはこの集合的Fの類別、推
移、変遷に関してです」


一代における三種の集合的F
   2011/1/14 (金) 07:53 by Sakana No.20110114075333

1月13日

「人間の一代における集合的Fは三種類に大
別できます」
「松竹梅?」
「模擬的意識、能才的意識、天才的意識の三
種です」
「意識というのは意識の焦点、即ちFのこと
か」
「もちろんです。なお、断っておきますが、
この区別は内容の形質についてこの三種の間
に存する関係より生じるものです。その内容
の実質を列挙して得た結果ではありません」
「なぜだ?」
「実質は時代によって推移するからです」
「蓋棺事定 (がいかんじてい)。人間の評価は
一生が終わり、棺のふたをして初めて定まる
というが、それも実質で評価するのではなく、
形質で評価するべきかもしれないな」


模擬的意識
   2011/1/18 (火) 18:09 by Sakana No.20110118180947

1月16日

「人間の一代における集合的F三種類のうち
まず模擬的意識について考えてみたいと思い
ます」
「模擬的意識とは何ぞや?」
「要するに、模倣です。意識は模倣する」
「芸術は模倣するというが、模倣なら猿でも
できる」
「模倣を馬鹿にしてはいけません。赤ん坊が
模倣しながら成長するように、人間が模倣の
性質を有するのは生存競争の大理法に基づく
ものです」
「猿真似、付和雷同のすすめか?」
「すすめているのではありません。生存のた
めに必要なのです。大人の社会に生存して、
不測の変を常時に招かないのは、その思想、
行為、言語がその社会に適合していることを
示しています。子供が大人を模倣するのはそ
の社会に生存して適意なる資格を身につける
のと同じことです。従って、人間は他を模倣
すべく自然の命を受けてこの世に出現すると
いうことができます」
「しかし、集合的Fの焦点が常に他者に支配
されるのかと思うと、自分が情けなくなる」
「そのように考える人は第二義の模擬的意識
を抱きますが、それはまだ模擬的意識の範囲
内であって、能才的意識や天才的意識ではあ
りません」


第二義の模擬的意識
   2011/1/19 (水) 08:01 by Sakana No.20110119080100

1月19日

「模擬的意識には第一義のものと第二義のも
のがあります」
「第一義と第二義はどう違うのだ?」
「第一義の模擬的意識は人類が生存するため
に必要な模倣。それに対して第二義の模擬的
意識は必ずしも生存するために必要ではない
が、好奇心から他人の真似をする模倣です」
「第二義の模擬的意識の例は?」
「十九世紀の当初に勢いがあった厭世的文学
の潮流の如きものです」
「人間が厭世的になるのは人生が厭になった
からに過ぎない。好奇心から他人のマネをし
ているのではないだろう」
「厭世的な模擬的意識は人間が生存するため
には必要ではありません。逆に生存の邪魔に
なる意識です。一種の病患の性質を帯びてい
ます」
「誰だって人生が厭になることがある。ハシ
カや風邪のようなものだ」
「この病患は一国民中の一個人だけがかかる
性質のものではなく、中世のヨーロッパに伝
播した宗教狂の如き流行病です」
「信仰が単なる模倣だとか、宗教狂だなどと
口走るのは言い過ぎではないか」
「人もしこれを以て模倣にあらずといはば余
は答へていはん。普通の模倣は故意の模倣な
り。この際における模倣は自然より命じられ
たる模倣なり。自己の意志以上のあるものに
余儀なくせられたる模倣なりと」


可もなく不可もなし
   2011/1/22 (土) 08:03 by Sakana No.20110122080358

1月22日

「模倣は社会の凸凹(とつおう)を払って、
平等の状態に各員を揃へんと欲するもの、錯
雑なる表面に一様の観を添へて、彼是(かれ
これ)相通じ、甲乙択(えら)ぶ所なきの結
果を生じて已(や)む」
「それでは世の中は面白くない」
「しかし、平和で安全な世の中です。模倣の
意識に富む者は個人として他の目標を形づく
ることがないので、生存上危険のおそれをお
かす場合が少なく、比較的安全な境にいます」
「人間は安全な境にいれば、それでいいのか
?」
「この意識に富むものの多き社会は現状を維
持する上においてもっとも便宜を有するもの
です」
「現状維持のままでは社会の進歩は期待でき
ない。文学の上に限っていえば、。模倣者は
可もなく不可もなき詩人となり、小説家とな
る。だが、そもそも文学では模倣よりも創造
力(originality)が重んじられるのではない
か?」
「人の歌う所を歌い、人の美とする所を美と
し、人の詩といい小説という所のものを詩と
し、小説とする──模擬的集合Fの意、かく
の如し、です」


能才的意識
   2011/1/25 (火) 08:13 by Sakana No.20110125081317

1月25日

「人間の一代における集合的F三種類のうち
の二番目は能才的意識です」
「能才的意識とは聞きなれない言葉だが」
「要するに頭がいい人の意識です。平凡な人
は模擬的意識で世の中を渡っていけますが、
頭のいい人は模倣だけでは満足しません」
「頭がいいか、悪いかは自分ではわからない」
「品川まで行かなければならないとして、電
車に乗るか、徒歩にするかを考えてください。
能才的意識の持主は電車に乗ります」
「そいつの後から切符を買って、電車に乗れ
ばよい」
「そのように模倣すれば、頭が悪くても、品
川へ行くという目的は達成されます。ところ
が、徒歩を選んでために、品川まで行けなか
ったと主張すれば、目的は達成されません」
「要するに誰もが能才的意識を持ってよいと
はかぎらない。バカはバカなりに、己を知る
ということが大事だな」


驕るFは久しからず
   2011/1/28 (金) 10:43 by Sakana No.20110128104300

1月28日

「ここでもう一度、集合的Fのおさらいをし
ておきたいと思います」
「それはありがたい」
「吾人の意識の特色は一分と、一時と、一年
とに論なく朦朧(もうろう)たる識末に始ま
って明晰なる頂点に達し、漸次にまた茫漠の
度を増して識末より識域に降下す」
「以前にその図を見せてもらったことがある
な」
「かくして一波動の曲線を全ふせる時、また
以上の過程を繰り返して再度の一波動を描く」
「意識の波が曲線を描き、一つの頂点のある
図だった」
「波動は生命の続く限り、社会の存する限り
曲線を描いて停止する所なし。この故にFは
必ず推移を意味す」
「了解」
「吾人は少なくとも連続せる三個のFの状態
としてaとbとcとを想像せざるを得ず。今一
時代の集合意識(模擬的)を持ってbにありと
せば、これに先だてるaは識域の近傍にほのか
に幽(かす)かな影を存するに過ぎざるべし。
同時に来たるべきcの状態は識域下より起って
漸次にこの頂点を奪ふべく、冥々のうちに準
備を整へつつあると仮定するを得べし。換言
すればbは今意識の焦点を専領すれども、驕る
平家の久しからざるに似て、早晩cに天位を譲
るべき運命を有して焦点を下るべからざるが
如し」
「驕るFは久しからずか、なるほど」


機を見るに敏
   2011/2/3 (木) 05:47 by Sakana No.20110203054720

1月31日

機を見るに敏

「能才的意識の持主とは要するに機を見るに
敏なるの士です」
「あわてる乞食は貰いが少ない」
「あるいは、時勢を達観するの才ともいえま
す」
「たとえば?」
「日露戦争のとき、戦後工業の勃興を予知し
て多大の株を買収して千万円の富を致せる者
です。一般大衆の模擬的意識Fがbにあるとき
いち早くcに到着して、一歩先んじるからです」
「なるほど、『吾輩は猫である』に登場する
成金の金田のような輩か。悪銭身につかず」
「商売上のことは周到に知を用い、綿密に計
画をめぐらせてもリスクをともなうので、失
敗することがあります」
「その点、詩人が詩をつくり、文人が文を草
するのとは大いに趣を異にする」
「創作の士は趣味の上に立つ。趣味は思索に
あらず。時好と流行と自己と相接触して、一
尊の芳醇自(おのず)から胸裏に熟するとき、
機に応じて馥郁(ふくいく)を吐くのみ」
「わかりやすくいえば、文人の能才は金儲け
の能才とは違う」
「かの有名なるマレー・コレリ(Marie Corelli)
は文壇に一大勢力があったが、その勢力ある
は一般の集合的F、即ち模擬的意識を有する
ものを読者として多数の歓迎を受けたにすぎ
ません」
「機を見るに敏なるものは久しからず」


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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