夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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結構論
   2010/11/5 (金) 08:08 by Sakana No.20101105080842

11月05日

「形式論は遂に変じて結構論となります」
「何故?」
「結構論となるとき問題は単に幻惑の上に落
ちず、結構は結構としてわれわれの形式美感
の要求を充たすべく存在し得るからです」
「そうかな?」
「首尾相応じて常山の蛇の如きその一なり」
「註によれば、常山の蛇は『孫子』の兵法の
一つ。頭を打たれると尾で立ち向かい、尾を
打たれると頭で襲いかかり、中ほどを打たれ
ると、首尾ともに立ち向かうというところか
ら、前後左右相呼応して隙のない陣形、転じ
て文章の首尾がうまく相呼応していることら
しい」
「前段を末一章に収集し得て些(いささ)か
の浸漏(しんろう)なきもその一なり」
「それよりも、些(いささ)か心労なきを望
む」
「明暗互いに用ゐ人をしてその変化を楽しま
しめ、しかもその錯雑を感ぜざらしむるもそ
の一なり」
「『明暗』は漱石晩年の作品」
「層々として筍の子の皮を剥(は)ぐが如く
なるもその一なり」
「はあ?」
「一離一合して最後を縹渺(ひょうびょう)
の裏に抹し去るもその一なり」
「筍の子を剥いでも、縹渺たる気分になんか
ならないよ」
「余の浅学なる内容を説いて、形式に及び能
わず。形式の局部に触れて結構の大本を評価
せざる能わざるは遺憾なり」
「結構毛だらけ、猫灰だらけ」
「故にこの点より見たる結構は吾人の美感を
満足するを以て目的とするが故に──事物に
即し、人物に即して美感を満足せしむるにあ
らずして、形式においての美感を満足するを
目的とするが故に、事物と人物とのみに即し
ていひ得べき幻惑に直接の関係を有せざるも
のとす」


間隔の幻惑
   2010/11/8 (月) 07:13 by Sakana No.20101108071332

11月08日

「内容の幻惑法については不十分ながら前数
章にわたって述べました」
「不十分ながらとは御謙遜だね」
「余はとくに不十分といふ。敢えて謙遜の意
にあらず。余の説ける幻惑法は一時の幻惑法
にして、ある一定時をつらぬいて起こる幻惑
法にあらざればなり」
「形式の幻惑法についての説明も不十分なが
らか?」
「形式の幻惑法は結構に至りて直接の影響を
失ふを発見せり。ここにおいてか不完全なが
ら余のいひ得べき幻惑んの処方は略(ほぼ)
悉(つ)くせるに近し。ただ一事のこれに附
加していふべきことあり」
「なんだ、それは?」
「間隔論これなり。間隔論はその器械的なる
の点においてむしろ形式の方面に属すると雖
(いえd)も純然たる結構上の議論にあらず。
章と章、節と節の関係より起る効果を考慮す
るにあらずして、むしろ篇中の人物の読者に
対する位地の遠近を論ずるものとす。但し篇
中の人物は読者に対してある位地を保たざる
べからざるのみならず、また篇中の事件や他
の人物に対してもある位地を保たざるべから
ざるが故に、単に読者のみを眼中に置いて、
これを適当の位地に立たしむるときは、たと
ひ読者の歓を買ふ事この点において顕著なる
にせよ、他の方面において作家は、より大な
る犠牲を敢えてせざるを得ざるに至る。従て
その応用は前段の諸法の如く普遍ならずと知
るべし」


歴史的現在
   2010/11/11 (木) 09:35 by Sakana No.20101111093511

11月11日

「間隔の幻惑は距離そのものによって支配さ
れます」
「時間的距離、空間的距離、心理的距離・・
・」
「たとえば、古代ギリシアのトロイア戦争は
二十一世紀の日本人にとっては距離が遠い。
したがって、そのままでは幻惑されません」
「別にそんなことで幻惑されたくもないが、
参考のため、間隔の幻惑を経験するにはどう
すればよいか教えてくれ」
「ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、
『オデュッセイア』を読めば、距離が一気に
縮まったような気分になるでしょう。それが
間隔の幻惑です」
「?」
「時間において距離を短縮する方法の一つは
歴史的現在の叙述です」
「歴史的現在の叙述とは?」
「坊間行はるる所の修辞学を読んで知るべし。
この他に時間を短縮し得るの良策あるや否や
は今だ考へず。さりとてこの陳腐なる技巧を
今更の如く論議するは徒(いたずら)に紙筆
に災いするの挙なるを以て措(お)く」


空間短縮法
   2010/11/14 (日) 09:36 by Sakana No.20101114093603

11月14日

「空間短縮法は、時間短縮法である歴史的現
在の叙述とならんで、間隔の幻惑を引き起こ
す有力な方法です」
「車、汽車、飛行機、ロケットなどの輸送機
器、ラジオ、テレビ、電話、パソコンなどの
通信機器はは空間を短縮する。いわば、間隔
の幻惑を引き起こす便利な文明の利器だ」
「ここで漱石先生が講義なさっておられるの
は文明の利器についてではありません。文学
の方法としての空間短縮法です」
「文学作品にあっては、著者の紹介を持って
はじめて、篇中の事物、人物を知ることがで
きる」
「その通りです。著者が彼と呼び、彼女と称
するものは必ず著者に対して一定の間隔を保
つものです。また、その著者とわれわれ読者
との間には一定の間隔があります」
「つまり、われわれ読者と篇中の人物との間
には二重の距離がある」
「私たちの耳目は自ら聴き、自ら見て、その
聡明に誇らんとしますが、著者の指摘を待っ
てはじめて、彼を知り、彼女を知るのは、わ
が耳目の聡明を奪われたも同然です」
「わが耳目の自由なる活動を阻害されて、わ
が能力の非凡なるを誇らんとするすべての機
会を失うのは情けない」
「その情けない状態におかれるのが読者です。
著者のかなたにまた篇中の人物を控えて遙か
にこれを望まざるを得ないのですから、著者
が彼を指し、彼女をさし、此(これ)と教え
るものを疎外するのは勢いの免れ難き所です」
「そのような読者の弱い立場を利用して著者
はどのような間隔の幻惑を企むのだ?」
「長くなりますので、それについては次回と
いうことにしましょう」




著者の影を隠す
   2010/11/17 (水) 08:57 by Sakana No.20101117085714

11月17日

「空間短縮法の一つは中間に介在する著者の
影を隠して、読者と篇中の人物とを当面に対
座せしめることです」
「具体的にはどうするんだ?」
「これを成就させるためには二つの方法があ
ります。読者を著者の側に引きつけて、両者
を同一立脚地に置くのがその一法です」
「そんなことができるものか」
「できますよ。この時に当たって、読者の目
は著者の目と合し、その耳は著者の耳と合す
るが故に、かれの存在はわが聡明を妨げるに
足らずして、二重の間隔は短縮してその半ば
を減ずるに至る」
「そうだろうか?」
「或いは読者を著者の傍らに引くに代ふるに、
著者自から動いて篇中の人物と融化し、毫も
それ介在して独存するの痕跡を留めざるが如
き手段を用ふ。この時に当ってその著者は篇
中の主人公たり、もしくは副主人公なり、も
しくは篇中の空気を呼吸して生息する一員た
り。従って読者は第三者なる作家の指揮干渉
を受けずして、作物と直接に感触するの便宜
を有す」


批評的作物と同情的作物
   2010/11/20 (土) 08:53 by Sakana No.20101120085341

11月20日

「読者を著者の側に引きつけて、両者を同一
立脚地に置くか、それとも、著者自ら動いて
篇中の人物と融化し、著者の影を消してしま
うか──この二法が間隔論のうちの空間短縮
法です」
「要するに、作家の作物に対する二大態度を
示すものだな」
「第一法を用いた作物を批評的作物、第二法
にしたがうものが同情的作物と名付けること
ができます」
「人間の他者に対する態度も批評的と同情的
に大別できる」
「つまり、間隔論は哲学的人生論にも通じま
すが、この問題を哲学的に解釈しようとする
と、範囲が深く広くなりすぎて、ここで論じ
ようとする形式間隔論の領域を遙かに超越し
てしまいます」


批評的作物
   2010/11/23 (火) 08:36 by Sakana No.20101123083601

11月23日

「批評的作物とは作家が篇中の人物と一定の
間隔を保ち、批判的眼光を以て彼らの行動を
叙述して成るものです」
「批評的眼光だと?三文文士のくせに、偉そ
うにするな」
「もちろん、この方法によって成功するため
には作家自らが偉大なる強烈なる人格の持ち
主でなければなりません。その見識と判断と
観察とを読者の上に放射し、彼らをして一言
の不平もなく作家の前に叩頭せしめざるべか
らず。わが千里眼を以て、彼らの明を奪ひ、
わが順風耳を以て彼らの聡を殺し、わが金剛
力を以て彼らの平凡なる人格をさい粉しして、
一字一句の末に至るまで悉くわが意に賛同せ
しめて始めて能くすることを得べし」
「世の中にそんな偉大なる強烈なる人格の持
ち主がいるのか」
「釈迦、孔子、ソクラテス、キリスト、マホ
メット、トルストイ、夏目漱石、森鴎外・・
・」
「五大聖人や二大文豪の人格を三文文士の人
格とを同列に論じるわけにはいかない」


同情的作物
   2010/11/26 (金) 08:44 by Sakana No.20101126084426

11月26日

「同情的作物とは作者の自我を主張しない作
物をいいます。たとえ自我を主張することが
あっても、篇中の人物を離れて、主張すべき
自我はありません」
「それなら作者は偉大なる人格を持ち合わせ
なくてもよい」
「その通りです。この方法で成功するために
は作者は必ずしも篇中人物の行為動作を批判
し、好悪する見識や趣味を示する必要はあり
ません」
「篇中の人物が如何に愚妹(ぐまい)だろう
と、如何に浅薄であろうと、如何に狭隘であ
ろうと作者の問うところではないのか」
「作者はただ篇中の人物と盲動すれば足る。
愚妹なるものは愚昧なる所に向かつて徹底に
同情し、浅薄なるものは浅薄なる所に向かつ
て専念に同情し、狭隘なるものは狭隘なる所
に向かつて満腔に同情し得て、その同情の真
面目なる事吾に同情するが如く甚だしきに至
つて始めて著者の自我を没し得て読者の心を
動かす」
「つまり、惻隠の情を発することもない低劣
なる人格の持ち主でも同情的作物の方法を習
得すれば読者の心を動かす作者になれるとい
うことになる」


形式的間隔論と哲理的間隔論
   2010/11/29 (月) 13:28 by Sakana No.20101129132829

11月29日

「批評的と同情的とは形式的間隔論をなさん
がためにあげた二つの方法ですが、心すべき
ことは、ここにおいてか逆行して作者の態度
となり、心的状況となり、主義となり、人生
観となり、発して小説の二大区別となること
です」
「凡人は同情的態度をとるべきだ。背伸びし
て批評的な態度をとるのは見苦しい」
「深くこの裏の消息に通じて、相応の哲理的
論弁をなさんとすれば、幾多の材料と思索と
解剖総合の過程が必要となってきます」
「お手並み拝見。やってくれ」
「しかし、漱石先生の当時の知識と見解とは
この点に向かって一箸(いっちゃく)をだに
下し能はず(手をつけることができない)だ
そうです」
「そんなところで儒学の君子のように謙遜ぶ
ってみせないでほしい」
「いたずらにこの大問題を提供して研究の余
地を青年の学徒に向かつて指示するに過ぎざ
るは遺憾なり」


読者、作者、篇中人物
   2010/12/2 (木) 07:41 by Sakana No.20101202074152

12月02日

「哲理的間隔論についての論弁はさしひかえ、
形式的間隔論にしぼりましょう」
「降り出しに戻る、また楽しからずや」
「形式の方面より批評的方法と同情的方法が
如何なる様姿を以て作物の上に現れるかをみ
ると、批評的方法の目的は読者と作者(篇中
の人物とは独立した存在)との間隔を打破す
ることにあります」
「読者が作者の批評を全面的に受け入れれば
間隔はゼロになる。一方、読者が著書を投げ
捨てれば間隔は無限大になる。つまり、形式
の上からみて、作者と読者との間隔を短縮す
るのは難しい」
「それに対して、同情的方法を採用すれば、
篇中人物の位地を変更して、篇中人物と作者
との間隔を短縮することができます」
「篇中人物と作者との間隔がゼロになればど
うなる?」
「作者は変じて篇中の人物と化するが故に読
者と篇中人物とは作者を離れて対座するに至
る」
「ということは、要するに?」
「読者、作者、篇中人物の三者のうち、形式
にあらわれるのは篇中人物だけ。もし動かし
得るものがあるとすれば篇中人物を措いて他
にはりません」
「要するに、わかりきったことだ」



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