夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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時なき断面
   2009/10/11 (日) 07:51 by Sakana No.20091011075111

10月11日

「文学者は無限無窮の発展に支配される人事
自然の局部を随意に切り放って、<時>に関
係なき断面を描き出すことができます」
「画家や彫刻家ならそういえるが、(F+f)
という文学的内容の形式は時なき断面の描写
を許さないだろう」
「和歌、俳句、漢詩なら時なき断面の描写も
可能です」
「和歌、俳句の類は第二芸術と見下す評論家
もいる。文学の最高傑作はすべてHowをめぐり
て其の作に対する興味の大部分を構成するに
はあらずや?」
「しかし、含まれた時間の長さは決してその
作品の価値を決定するものではありません」
「時は金なり」
「松も時なり、竹も時なり。時は飛去すると
のみ解會すべからず。要するに、文学の価値
は時(や金)とはかかわりなく、鑑賞者の態
度如何によってきまるのです」


一時的な感情の流露
   2009/10/14 (水) 07:35 by Sakana No.20091014073553

10月14日

「英文学で<時なき断面>文の例としてバー
ンズとへリックの詩をあげておきます」
「"How"も"Why"もない。まるで演歌の歌詞み
たいだ」
「珠玉の英詩をカラオケの歌詞と一緒にしな
いでください」
「一時的な感情の流露という点では同じだ」
「哲学的にいうと、永遠の今、でしょうか」
「しかし、そのうちオシッコがしたくなり、
F(意識の波の頂点)が移動する」
「Don't piss on me! 念のため、付け加えて
おきますが、バーンズの詩は主観的断面、へ
リックの詩は客観的断面です」

"Tho' cruel Fate should bid us apart,
  As far 's the Pole and Line;
Her dear idea round my heart
  Should tenderly entwine.

Tho' mountains frown and deserts howl,
  And oceans roar between;
Yet, dearer than my deathless soul,
  I still would love my Jean." 
---Burns, Tho' Crouel Fate

「たとえ残酷な運命がぼくたちを引き裂いて、/
北極と赤道ほど離れ離れになったとしても、/
愛しい彼女はやさしく/
ぼくの心に纏わって離れないだろう。/
たとえ山が顔を顰(しか)め、砂漠が哮(たけ)り、/
大洋が吠えて、二人を遮ろうが、/
ぼくは永遠にジーンを愛する、/
ぼくの不滅の魂よりももっと大切に。
(バーンズ「たとえ残酷な運命が」)

"Dew sate on Julia's haire,
  And spangled too.
Like leaves that laden are
  With trembling Dew;
Or glitter'd to my sight, 
  As when the Beames
Have their reflected light,
  Daunc'd by the Streames."
---Herrick, Upon Julia's Haire Fill'd with Dew

「露がジュリアの髪に降りて/
きらきらと輝いている。/
ゆらめく露をじっと湛(たた)えた/
葉叢(はむら)のように。/
ぼくの目にそれは輝いて、/
まるで陽の光が/
水に影を投げかけ、/
流れにのって踊っているよう」。
(へリック「露もしとどなジュリアの髪に」)


解剖と綜合
   2009/10/17 (土) 08:26 by Sakana No.20091017082625

10月17日

「科学者と文学者とでは事物に対する態度に
差異がある──この点についても漱石先生の
指摘がありました」
「態度が悪いのはどちらだ?」
「どちらの態度も悪くはありません。科学者
は解剖的、文学者は総合的です」
「天下の事物はすべて全形において存在する。
人は人なり、水は水なり」
「科学者はそれでは満足しません。その成分
を分解し、その性質をきわめようとします。
科学者にとっては水素原子2個と酸素原子1
個からできている分子が水です」
「水素2個酸素1個の水の音」
「それでは文学になりません。古池や蛙飛び
こむ水の音、が文学です」
「よくわからんが、文学者もイブセンの劇の
ように、明晰な解剖力によって作中の人物の
性格を書き分けている例もあるではないか」
「文学者の解剖は解剖を方便として綜合を目
的としているのです。綜合の目的を達するこ
とができなければ、細功なる解剖もほとんど
無効の水の泡になってしまいます」
「水素2個酸素1個の水の泡」


冷たい学問
   2009/10/20 (火) 10:50 by Sakana No.20091020105041

10月20日

「科学者の解剖的態度に反発する詩人の代表
としてキーツとテニソンの詩を紹介しておき
ます」
「福沢諭吉『学問のすすめ』に反している」
「真善美は一致するはずですが」
「学問をおろそかにするへっぽこ詩人は追放
せよ」
「文学的形式の内容は(F+f)です。f
(情緒的要素)を無視してはいけません」
「漱石がそう言っているのか」
「そんな言い方はされていませんが、漱石先
生は漢詩や俳諧をたしなまれました。英詩に
も通暁しておられます」
「しかし、『文学論』は冷たい学問(cold
philosophy)だ。最後まで読み通す読者はほと
んどいない」
「私は読み通すつもりです」
「やってみなはれ」
「漱石先生はもともと建築士志望で、科学者
の資質をそなえておられました。科学者且つ
文学者、理系且つ文系です。私もそれをめざ
します」
「?」

 "Do not all charms fly
At the mere touch of cold philosophy?
There was an awful rainbow once in heaven;
We know her woof, her texture; she is given
In the dull catalogue of common things.
Philosophy will clip an Angel's wings.
Conquer all mysteries by rule and line,
Empty the haunted air, and gnomed mine---
Unweave a rainbow, as it erewhile made
The tender-person'd Lamia melt into a shade."
---Keats, Lamia, Pt.II. ll. 229-38.

「冷たい学問に一触れしただけで/
魅力が逃げ去ってしまわないか?/
かつて天には壮麗な虹があった。/
いま、その横糸も織り目もわかり、/
ありふれた物のつまらないカタログに組み入れられる。/
学問は天使の翼を鋏み切り、/
定規で線を引いてあらゆる神秘を征服し、/
精霊が屯した空、妖精の棲まいした土地を空(から)にするだろう。/
──虹を解きほぐしてしまうだろう。かつて、/
たおやかな姿のレイミアを影と溶かしてしまったように」。
(キーツ『レイミア』第二部、二二九ー三八行)

           I.
"She what a lovely shell,
Small and pure as a pearl,
Lying close to my foot,
Frail, but a work divine,
made so fairily well
With delicate spire and whorl,
How exquisitely minute,
A miracle of design!
           II.
What is it? a learned man
Could give it a clumsy name.
Let him name it who can,
The beauty would be the same
---Tennyson, Moud, Pt. II. ii.

      I.
「見たまえ、何と美しい貝か。/
真珠のように小さく、清らかで、/
わたしの足許に転がっている。/
繊弱(かよわ)いけれど、神の作品だ。/
繊細な螺旋と渦巻とで/
巧みにしつられられ、/
何と精妙に細密なことか、/
まさに意匠の奇蹟だ!」
     II.
「これを何と呼ぼう?
学ある人は/
ぎこちない名をつけるだろう。/
名付けられる人には名付けさせておけ。/
美しさには変わりない」。
(テニソン『モード』第二部第二連)


容貌についての叙述
   2009/10/23 (金) 09:34 by Sakana No.20091023093404

10月23日

「シェイクスピア『テンペスト』とメレディ
ス『リチャード・フェヴァレルの試練』から
の引用文を比較しながら読んでみてください。
どちらも容貌についての叙述です」
「シェイクスピア文は短く、メレディス文は
長い」
「長短はともかくとして、問題は読者に与え
る効果です。登場人物の容貌で印象が強いの
はどちらですか」
「メレディスの描写は一読しただけでは女性
の顔の造作が一時に電光の如く明らかに脳裏
に映ってこない。その点、シェイクスピアの
描写は簡単で、漠然としてはいるが、フェル
ディナンドという人物の風姿らしきものがく
っきり浮かんでくる」
「あまりにも詳細にすぎる描写は簡潔な描写
に及ばないというのは文学ではよくあること
です」

       "What is it ? a spirit ?
Lord, how it looks about ! Believe me, sir.
It carries a brave form. But 'tis a spirit."
---Shakespeare, Tempest, Act I. sc.ii. II.409-11.

「あれは何? 精霊かしら?/
あら、あんなにあちこち見まわして!
ねえ。お父様、/
立派な姿だこと!
でも、あれは精霊だわ」。
(シェイクスピア『テンペスト』第一幕第二場、四○九ー四一一行)

       "I might call him
A thing divine, for nothing natural
I ever saw so noble."
---Shakespeare, Tempest, Act I. sc.ii. II.417-9.

「神々しい姿と呼べばいいのかしら。/
自然の生んだもので/
あんなに高貴な姿は見たことがないんですもの」。
(シェイクスピア『テンペスト』第一幕第二場、四一四ー四一九行)

"She was indeed sweetly fair, and would have been held fair among rival
damsels. On a magic shore, and to a youth educated by a System, strung
like an arrow drawn to the head, he, it might be guessed, could fly fast
and far with her. The soft rose in her cheeks, the clearness of her eyes,
bore witness to the body's virtue; and health and happy blood were in her
bearing. Had she stood before Sir Austin among rival damsels, that Scientific
Humanist, for the consummation of his System, would have thrown her the
handkerchief for his son. The wide summer-hat, nodding over her forehead
to her brows, seemed to flow with the flowing heavy curls, and those fire-
threaded mellow curls, only half-curls, waves of hair call them, rippling
at the ends, went like a sunny red-veined torrent down her back almost to
her waist; a glorious vision to to the youth, who embraced it as a flower
of beauty, and read not a feature. There were curious features of colour
in her face for him to have read. Her brows, thick and brownish against a
soft skin showing the action of the blood, met in the bend of a bow,
extending to the temples long and level: you saw that she was fashioned
to persue the sights of earth, and by the pliability of her brows that
the wonderful creature used her faculty, and was not going to a statue to
the gazer. Under the dark thick brows an arch of lashes shot out, giving 
a wealth of darkness to the full frank blue eyes, a mystery of meaning
---more than brain was ever meant to fathom; richer, henceforth, than all
mortal wisdom to Prince Ferdinand. For when nature turns artist, and
produces contrasts of colour on a fair face, where is the Sage, or what
the Oracle, shall match the depth of its lightest look.?"
---Meredith, The Ordeal of Richard Feverel (Chap. xv)

「彼女は実に愛らしく、美しかったので、ほかの娘たちの間でも美しいと思われ
ただろう。彼女が魔法の岸辺に立つと、「体系」によって教育され、引き絞られ
た弓さながら、頭の天辺まで緊張した若者には、彼女とならばどこへでも飛んで
行けそうに思われたとしても不思議ではない。両頬の優しい薔薇色と澄みきった
目とは肉体の貞潔を証言している。健康となごやかな気質が立居振舞に顕れてい
る。並み居る娘たちに伍して彼女がサー・オースティンの前に立ったなら、あの
科学者にして人文主義者たる人物は、自らの「体系」を成就させるべく、わが息
子のために彼女に白羽の矢を立てたことだろう。額から眉まで垂れた縁の広い夏
帽子は豊かに流れる巻き毛とともに流れるようにみえた。そして、柔らかな炎の
糸でできている巻き毛は、じつは半巻き毛で、髪の波とでもいうべきものだった
が、端のほうは漣のように波打ち、陽の光を浴びて赤い筋の入って見える奔流の
ように背中から腰まで流れていた。青年にとっては輝かしい幻であり、彼はそれ
を美の精華として抱き締め、一つ一つの目鼻立ちとして感じていなかった。彼女
の顔には彼が感じ取ってもいい珍しい色の特徴があった。両の眉は濃く茶色がか
って血液を示す柔らかな肌にくっきりと浮き立って、弓なりの湾曲のところで出
会い、こめかみまで長く平らに伸びていた。彼女を見れば、地上のさまざまな光
景を見通すように創られていることがわかるし、眉のしなやかさからは、この素
晴らしい娘が自分の能力を充分に用いており、鑑賞者のための動かぬ彫像になる
つもりでないことがわかった。くっきりと濃い眉の下に弧を描いた睫毛が反り返
り、つぶらな素直な碧い眼に豊かな翳、神秘な意味を与えていた。それは、頭で
推測しようもないものだったし、それゆえ、王子ファーディナンドにとってあら
ゆる人智を超えた豊かなものだった。というのは、自然が芸術家になって、美し
い顔に色の対照を作り出すとき、この上ない明るい眼差しのうちにある深さに拮
抗できる賢者や神託がどこにあるだろうか」。
(メレディス『リチャード・フェヴァレルの試練』)



容貌についての叙述(2)
   2009/10/26 (月) 07:45 by Sakana No.20091026074540

10月26日

「容貌の描写で長いのがよいか、短いのがよ
いかを比較検討するためのサンプルを追加し
ます」
「しつこいな。もうたくさんだ」
「漱石先生がわざわざロンドンに留学して、
せっせとノートに書き写した文章です。おろ
そかには扱えません」
「アリオストの文は長すぎて読む気がしない」
「レッシングが其の著『ラオコーン(Laokoon)』
のなかで、此の節を失敗の一例としてあげて
いるそうです」
「ホメロスの文のほうが簡潔でよい」
「<美しい><美しかった><神のような美
しさ>と単純にいうだけで、細かな科学的分
解はふくんでいません」
「俳句のよさもその点にあるということか」

"Nereus was beautiful;
Achilles still more so;
Helen possessed godlike beauty."
---Homer

「ネレウスは美しかった。アキレウスはもっ
と美しかった。へレネーは神のような美しさ
の持ち主だった」。
(ホメロス『イリアッド』)

"O, she doth teach the torches to burn bright!
It seems she hangs upon the cheek of night
Like a rich jewel in an Ethiope's ear!
Beauty too rich for use, for earth too dear!
So shows a snowy dove drooping with crows.
As yonder lady o'er her fellows shows."
---Shakespeare, Romeo and Juliet, Act I. sc. v. II. 46-51

「ああ、あのひとは篝火にもっと明るく燃える術を教える!/
あのひとが夜の頬を飾るさまは、/
まるでエチオピア人の耳に下がった豪華な宝石のようだ。/
その美しさは、使うのには贅沢すぎ、地上には効果すぎる!/
あのひとがほかの友だちに立ち交じるのは/
雪のような白鳩が烏の群れに降り立つのに似ている」。
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第一幕第五場、四六ー五一行)

"Her shape is of such perfect symmetry,
As best to feign the industrious painter knows,
With long and knotted tresses; to the eye
Not yellow gold with brighter lustre glows.
Upon her tender cheek the mingled dye
Is scattered, of the lily and the rose
Like ivory smooth, the forehead gay and round
Fills up the space, and forms a fitting bound.

 Two black and slender arches rise above
Two clear black eyes, say suns of radiant light;
Which ever softly beam and slowly move;
Round those appears to sport in frolic flight,
Hence scattering all his shafts, the little Love,
And seems to plunder hearts in open sight.
Thence, through mid visage, does the nose descend,
Where Envy finds not blemish to amend.

 As if between two vales, which softly curl,
The mouth with vermeil tint is seen to glow;
Within are strung two rows of orient pearl,
Which her delicious lips shut up or show.
Of force to melt the heart of my churl,
However rude, hence courteous accents flow;
And here that gentle smile receives its birth,
Which opes at will a paradise on earth.

 Like milk the bosom, and the neck of snow;
Round is the neck, and full and large the breast;
Where, fresh and firm, two ivory apples grow,
Which rise and fall, as, to the margin preseed
By pleasant breeze, the billows come and go.
Not prying Argus could deiscern the rest.
Yet might the observing eye of things concealed
Conjecture safely, from the charms revealed.

 To all her arms a just proportion bear,
And a white hand is oftentimes descried,
Which narrow is, and sometimes long; and where
No knot appears, nor vein is signified.
For finish of that stately shape and rare,
A foot, neat, short and round, beneath is spied
Angelic visions, creatures of the sky,
Concealed beneath no covering veil can lie."
---Ariesto, Orland Froioso Canto VII. st. xi-xv)

「彼女の姿は完璧な均斉を備え、/
制作怠らぬ画家が描く最上の製品に劣らず、/
長く束ねた巻き毛は、黄金さえ、/
こんな眩い光沢で輝いたことはないように見えた。/
優しい頬には百合と薔薇が/
混じり合って、刷きちらされ、/
なめらかな象牙さながら、晴れやかな丸い額は/
空間をみたして、きちんと相応しい境界を作る。/
両の黒い、すんなりした弓なりの聳え立つ下に/
澄んだ一対の黒い眼が、眩い星のように/
つねに優しく輝き、緩やかに動く。/
その囲りに小さな愛の神が/
浮かれ戯れて飛翔しつつ、/
矢をことごとく射散らして、人前で心を奪おうとしているらしい。/
顔の中心を通って鼻梁が下がり、/
そこには「羨望」といえども、正すべきいかなる瑕瑾も見つけられない。/
柔らかにうねる二つの谷間のように/
朱色をおびた唇が輝くさまが見える。/
その中には東洋の真珠が二列に並び、/
甘い唇が隠しては、見せる。/
どんな粗野な不作法者の心溶かす効力ある/
優雅な声音がここから流れ、/
心のままに地上に楽園を開く/
優しい微笑みもここに生を受けたのだ。/
胸はミルクのよう、頬は雪のよう/
顎は丸みを帯び、胸は張って豊か。/
そこに爽やかな固い象牙の林檎が二個生(な)って、/
心地よい微風に吹かれて、/
大地が岸によせては返すように、起伏しつづける/
物見高いアルプスもそのほかのことは見極められぬ。/
とはいえ、鋭い観察眼は、顕れている魅力から/
隠れたものを楽々推測する。/
両方の腕には正しい均斉があり、/
白い手がしばしば見えるが、/
それは細く、幾分長く、/
瘤もなく、血管も浮き上がっていない。/
その威厳あり、類い希な姿かたちの仕上げとして、/
綺麗な、小さい、円い足が下から覗いている。/
天の被造者である天使の幻は/
どんなにヴェールで覆っても隠しきれない」。
(アリオスト『狂乱のオルランド』第七章第十一ー十五節)


古今作家の差
   2009/10/29 (木) 08:47 by Sakana No.20091029084754

10月29日

「古人の著作は概して描写が単純です」
「たとえば?」
「ホメロスとかチョーサーとか井原西鶴とか」
「なんでそんなところへ西鶴が出てくるのだ
ろう」
「人は云ふ西鶴は文章家なりと、一筆にして
情景を活躍せしむと。成程貴意の如くなるべ
し。然れども西鶴は一筆にて全部を描く以上
に緻密なる観察力なかりし男なるを忘るべか
らず──だそうです」
「西鶴は俳諧で観察力を鍛えた。元禄時代の
風俗の観察力にはすぐれているはずだが」
「俳諧師あがりですから、緻密さに欠けるの
でしょう」
「漱石だって俳諧師あがりだ」
「漱石先生は洋行帰りの文学士です。西鶴な
ど眼中にありません。先生曰く、是固より時
勢の科にして西鶴の罪にあらず。西鶴をして
今の世にあらしめば、今の世相応の解剖的筆
致を弄して同じく一物をより多く活動せしめ
たるやも知るべからず」
「眼中にあるからホメロスやチョーサーと並
べたのだろう」
「要するに、彼等古人は解剖的観察力に欠け
るが故に解剖せざる点で成功したが、現代作
家は解剖的観察力を有するが故に解剖せる点
で成功しなければならない。でき得るかぎり
全部を引きほごしたる上、ほごされたる各部
を綜合して読者の網膜に映じしめざるべから
ず。これを古今時勢の差といい、古今作家の
差というのが漱石先生のご見解です」
「西鶴をダシに使って偉そうなことをいう赤
シャツだ」


ジェームズ兄弟
   2009/11/1 (日) 09:20 by Sakana No.20091101092022

11月01日

「ヘンリー・ジェームズはCharlotte Stant
の一瞬を写すに殆ど千余字を費やしたり、だ
そうです」
「小説の題名は?」
「『黄金の壺』(The Golden Bowl, 1904)です」
「ヘンリー・ジェームズは難解な小説を書い
て、一般読者を文学から遠ざけた作家だが、
漱石はそんな小説まで読んでいたのか」
「<意識の流れ>→<意識の波>でお世話にな
った哲学者ウィリアム・ジェームズの弟ですか
ら無視できなかったのでしょう」
「そういえば、漱石は『思い出す事など』(1910-
1911)で、ジェームズ兄弟に言及している」
「そうでしたね。<教授(ウィリアム)の兄弟
にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に
難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学の
ような小説を書き、ウィリアムは小説のような
哲学を書く、と世間で言われている位にヘンリ
ーは読みづらく、またその位教授は読みやすく
て明快なのである>」
「漱石はヘンリーのような難渋な文章を書くの
をすすめているのか」
「そのようすね。<吾人はある特殊の場合に於
てのみ吾人の祖先が撰ぶべく余儀なくせられた
る態度を取るに躊躇せず。同時に吾人の生存上
又鑑賞上に必要条件として養成し来たりたる細
微なる観察力に乖離せざる程度の記述を草し得
て始めて吾人の本領をあらはすを得べし>」
「漱石の晩年の小説が難渋になったのも無理は
ない」
「その代わり、ウィリアムの影響で哲学がわか
りやすくなっています」


モナ・リザ
   2009/11/4 (水) 17:21 by Sakana No.20091104172130

11月04日

「歴史上もっとも有名な肖像画はイタリアの
天才レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたモナ・
リザ(イタリア語でLa Giokonda)ですが、
御覧になりましたか」
「パリのルーヴル美術館で見たことはないが、
写真でいやというほどお目にかかっている」
「モナ・リザの魅力はどこにあるのでしょう」
「ただのイタリアのおばさんだよ」
「どこかが違うはずです。モナ・リザの微笑
について解説してください」
「あの微笑はキモイ」
「それで片づけられてはルネッサンスの芸術も
文学も立つ瀬がありません。漱石先生ご推奨の
ウォルター・ペーターの鑑賞を参考にしましょ
う」
「モナ・リザはトロイアの美女ヘレーネの母で、
しかも聖母マリアの母。永遠の生を生きる女性
だというのか。とんでもない空想だ」
「問題はペーターの精巧なる解剖的な記述です。
このように総合的に一種まとまった情緒を読者
に与える記述はめったにありません」
「西鶴のほうが面白い」
「千の西鶴ありといえども、遂に擬し難きを知
らざるべからず。現代の文学者は解剖を必要と
します」
「解剖は科学者にまかせておくべきだ」
「文学者は解剖を必要とす。但し単なる解剖に
とゞまるべからず。解剖せる諸項の下に掌(た
なごころ)を指すの徴を示して、其徴なるもの
が更に合して一団の全精神となって脳裏に闖入
(ちんにゅう)せざるべからず」

"The presence that thus rose so strangely beside the waters, 
is expressive of what in the ways of a thousand years men had
come to desire. Here is the head upon which all "the ends of
the world are come," and the eyelids are a little weary. It is
a beauty wrought out from within upon the flesh, the deposit,
little cell by cell, of strange thoughts and fantastic reveries
and exquisite passions. Set it for a moment beside one of those
white Greek goddesses or beauftiful women of antiquity, and how
would they be troubled by this beauty, into which the soul with
all its maladies has passed! All the thoughts and experience of
the worlds have etched and moulded there, in that which they have
of power to refine and make expressive the outward form, the
animation of Greece, the lust of Rome, the reverie of the middle
age with its spiritual ambition and imaginative loves, the return
of the Pagan world, the sins of the Borgias. She is older than the
rocks among which she sits; like the vampire, she has been dead 
many times, and learned the secrets the grave; and has been a diver
in deep seas, and keeps their fallen day about her; and traficked 
for strange weds with Eastern merchants; and, as Leda, was the 
mother of Helen of Troy, and, as Saint Anne, the mother of Mary;
and all this has been to her but as the sound of lyres and flutes,
and lives only in the delicacy with which it has moulded the 
changing lineaments, and tinged the eyelids and the hands. The
fancy of a personal life, sweeping together ten thousand experiences,
is an old one; and modern thought has conceived the idea of humanity
as wrought upon by, and summing up in itself, all modes of thought
and life. Certainly Lady Lisa might stand as the embodiment of the
old fancy, the symbol of the modern idea.
---Walter Pater, The Renaissance 

「このような奇しくも水辺に現れた姿は、千年が経つうちに人が求
めるようになったものを表現している。ここにあるのは、「世界の
終わりが到来した」というすべての重みがのしかかった頭部であり、
その瞼はやや物憂げである。この美しさは、内面から奇異な思想や
、妖しい幻想や、精妙な情熱が、小さな細胞を一つづつ積みかさね
るように、肉体の表面に堆積されてできたものである。この像を一
瞬これら白いギリシアの女神や古代の美女の傍らに立たせると、彼
女たちは、魂がその病のすべてを伴って入りこんだこの美にどんな
不安をかき立てられるだろうか。そこには世界のあらゆる思想と経
験とが、外形を洗練し、表現力を与える力をもつかぎり、刻みこま
れ、形を造りあげているのであって、ギリシアの動物崇拝も、ロー
マの色欲も、精神的な野心や想像力に覆われた愛を伴った中世の夢
想も、異教への復帰も、ボルジア家の罪悪もすべてその痕跡を残し
ている。彼女は自らの腰掛けている岩よりも古く、吸血鬼のように、
今まで幾度か死に、冥府の秘密を学び、深海で海士(あま)をして
いたこともあって、今も海底の明かりをその身に纏わせ、東方の商
人たちと珍奇な織物の交易もし、レダとしてトロイアのヘレーネの
母となり、聖アンナとしてマリアを生んだ。しかも、これらのこと
は、彼女にとって竪琴や笛の音に過ぎず、移ろい変転する容貌を形
づくり、瞼と手に色合を施す繊細さのもとになっただけである。永
遠の生を生き、一万もの経験を一身に負うというのは、古くからあ
る空想で、また、現代思想は、人間があらゆる思考や生活の様態に
よって働きかけられながら、しかもみずからのうちにこられを要約
するという考えを抱くようになった。たしかに、リサ夫人はこの古
くからの空想の体現であるとともに、現代の観念の象徴であるとも
言える」。
(ウォルター・ペイター『ルネッサンス』)


物の全局の描写
   2009/11/7 (土) 10:11 by Sakana No.20091107101119

11月07日

「事物に対する態度が科学者は解剖的、文学
者は総合的ですが、科学者も時に事物の全局
を描写しようとすることがあります」
「たとえば?」
「ある物体の定義を立てて、これを正確に述
べようとする場合です」
「文学とは何ぞや?と問い、まず文学の定義
から論じはじめるのは科学者の態度か」
「科学者は文学の定義には関心を持ちません。
字典に載っている菫草の定義をごらん下さい」
「どれどれ。これでは面白くない。明らかに
活動を欠損せる文字だ」
「ワーズワースの詩のほうが面白いですか?」
「うーん。たしかに菫の風貌が躍如として活
動している。どこかで見た記憶があるな」
「昨冬(2008年12月03日)、<視覚
─耀き>の項で紹介しています」
「二度も引用するとは漱石はこの詩がよほど
好きだったんだな」
「菫程な小さき人に生まれたし」

"Viola. A large genus of usually small plants of the violet family,
having alternate leaves and axillary peduncles bearing 1 or 2 irregular
flowers, the lower petal being prolonged into a spur or sac."

「<ヴィオラ>はスミレ科に属する通常は小さな草木からなる大きな属で、互生
葉と一、二の不整斉花をつけた*生の花柄をもち、下弁は伸びて距すなはち嚢状
となる」。(字典)

"A violet by a mossy stone
   Half-hidden from the eye!
  ---Fair as a star, when only one
   Is shining in the sky."
---Wordsworth, She dwell among the untrodden ways.

「苔むした石のかたわらの菫/
人目から半ば隠れて/
──ただ一つ空に輝く/
星のように美しく」。
(ワーズワース「彼女は人知れぬ里に住んでいた」五ー八行)



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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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