夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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文学賞翫の際の事実除去法
   2009/7/13 (月) 08:34 by Sakana No.20090713083421

7月13日

「文学を賞翫する際には、事実の一部、とい
うより事実の大部分が除去されていることを
認識しておくべきです」
「知らぬが花。余計なことは考えず、作者に
幻惑されて、泣いたり笑ったりすればそれで
よいのではないか」
「しかし、作者の手口は知っておいたよいで
しょう」
「漱石は文学論を執筆しながら、その手口を
研究したとみえる」
「そうかもしれません。
「具体的にはどんな事実を除去すれば、文学
の表現では効果的なのだろう」
「漱石先生は、

 1)自己関係の抽出
 2)善悪の抽出
 3)知的分子の抽出

の3点にしぼり、論じておられます」 


自己関係の抽出
   2009/7/16 (木) 11:19 by Sakana No.20090716111920

7月16日

「文学の読書という間接経験においては自己
関係の抽出(ないし除去)という現象がよく
みられます」
「読書に熱中して、手に汗を握り、思わず我
を忘れるという現象のことかな」
「自己の利害得失の念がまったく心から消え
てしまって、自己観念より起こるf(情緒的
要素)をすべて除去抽出して、作品中の事物
に対し得るのです」
「現実に人生における直接経験では自己観念
より起こるfは非常に強いが、文芸に没自己
の性あり、ということか」
「ここで、漱石先生が特に注意を促しておら
れるのは、この自己観念の部分的あるいは全
部的抽出により読者は事実とまったく反対の
fを生じ得るという現象です」
「具体的な例で示してくれ」
「梅雨も明けて、今日は無茶苦茶暑いですか
らそれは次回にしましょう」


リチャード三世
   2009/7/19 (日) 10:14 by Sakana No.20090719101428

7月19日

「自己関係の抽出の例をシェイクスピア『リ
チャード三世』から引用します」
「ヨーク朝最後のイングランド王(在位、14
83年-1485年)だ。シェイクスピアは後継王朝
であるテューダー朝時代の劇作家だから、リチ
ャード三世(1452-1485年)は敵役として描いて
いる」
「そうですね。引用の個所は後にリチャード三
世を名乗るグロスター公爵の独白です。容貌魁
偉、人並みはずれた背徳漢ということになって
います」
「現実にこんな男を敵にしたらこわい。なるべ
くならかかわりを持ちたくないものだ」
「ところが、読書や観劇は間接経験ですから、
現実にリチャード三世を敵にする必要はありま
せん。つまり、わたしたちの自己観念にまった
く関係のない人物です。現実の利害問題から打
算する必要がない」
「なるほど。読者や観劇という間接経験では、
シェイクスピア描くリチャード三世の毅然たる
不屈の姿勢を賞嘆する情緒がわき起こってくる。
それが、自己関係の抽出によるfの幻惑という
わけか」

Now is the winter of our discontent
Made glorious summer by this sun of York,
And all the clouds that lour'd upon our house
In the deep bosom of the ocean buried.
----------------------------------------
But I, that am not shaped for sportive tricks,
Nor made to court an amorous looking-glass;
I, that am rudely stamp'd and want love's majesty
To strut before a wanton ambling nymph;
I, that am curtail'd of this fair proportion,
Cheated of feature by dissembling nature,
Deform'd, unfinish'd, sent before my time
Into this breathing world, scarce half made up,
And that so lamely and unfashionable
That dogs bark at me as I bait for them; 
Why, I, in this weak piping time of peace,
Have no delight to pass away the time,
Unless to spy my shadow in the sun
And therefore, since I cannot prove a lover,
To entertain these fair well-spoken days,
I am determined to prove a villain
And hate the idle pleasures of these days."
---Shakespeare, Richard III, Act. I. sc.i. II. 1-31

「今こそ、われらの不満の冬は/
ヨーク家の太陽で晴れやかな夏に変った。/
わが家に垂れ籠めていた雲は/
ことごとく海の底に埋められた。/
----------------------------------------
「だが、俺は、浮かれ戯れむきにつくられてもいないし、/
鏡を覗いて自惚れ心にうっとりという出来でもない。/
粗製濫造の貨幣さながら、俺には愛されるにふさわしい威厳もなく、/
気紛れに浮き歩みする別嬪の前で気取って歩くこともできぬ。/
俺はこの体の釣り合いを寸詰まりにさせられ、/
二枚舌の自然の神にいい器量を騙し取られ、/
不具で、未熟で、半製品のままで/
時満ちる間もなくこの世に送り出されて、産声を上げさせられたんだ。/
足萎えで不格好な俺が/
足を引き摺って通ると、犬どもが吠えかかる。/
こんな柔(やわ)な、笛をピーヒャララの太平の世では、/
俺のようなものには時間潰しの楽しみがない、/
日向(ひなた)で自分の影を見て、/
己が姿の醜さを口ずさむのでなければな。/
そんなわけで、口先上手のご一党さまの時めきなさる世では/
もてはやされる色男になれそうにもない。/
だから、ここは一番、悪党となって、/
今日この頃の阿呆らしい歓楽を呪ってやろうと心に決めたのだ」。
(シェイクスピア『リチャード三世』第一幕第一場、一ー三一行)


善悪の抽出
   2009/7/22 (水) 08:16 by Sakana No.20090722081625

7月22日

「次は善悪の抽出という大きな問題です。日常
生活の直接経験においては善悪の判断を基本に
行動している人が文学の賞翫という間接経験で
は善悪を抽出することが往々にしてあります」
「人間にはホンネとタテマエで善悪を使い分け
る性癖もある」
「問題をひろげないでください。文学賞翫にお
ける善悪の抽出にしぼりましょう」
「了解」
「漱石先生によれば情緒は文学の骨子ですが、
道徳も一種の情緒です」
「道徳は文学に不用なりという見方もあるぞ」
「その見方は浅すぎる。当然広かるべき地面に
強いて不自然の垣をめぐらして、好んで拳大の
天地に跼蹐(きょくせき)するようなもと云ふ
べし──です」
「わかったよ」
「この善悪観念の抽出をもって、文学の或る部
分の賞翫に欠くべからざる条件なりと先生は断
言しておられます」
「ほう?」
「善悪観念の抽出は二種類に分けられます。一
つは非人情と名づくべきもの、もう一つは不道
徳文学と名づくべきものです」


非人情
   2009/7/25 (土) 10:21 by Sakana No.20090725102144

7月25日

「善悪観念の抽出は文学の或る部分の賞翫に
欠くべからざる条件──ということで、まず、
非人情の文学をとりあげたいと思います」
「非人情の文学とは?」
「道徳ぬきの文学です。たとえば、<李白一
斗詩百篇、長安市上酒家に眠る>(杜甫『飲
中八仙家』のような」
「酔っぱらいがカラオケのマイクを離さない
のは非人情の音楽か」
「俗世の人情・不人情を超越した自由の境地
──これは漱石先生の名作『草枕』のテーマ
です」
「なるほど、『草枕』には主人公が非人情に
ついてゴタクを並べているところがある。漱
石は英文学を研究しているうちに欲求不満が
こうじ、『文学論』でたまったストレス解消
に『草枕』を執筆する気になったにちがいな
い」
 
  うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱し
 たのがある。彩菊東籬下、悠然見南山。只
 それぎりの裏(うち)に暑苦しい世の中を
 まるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに
 隣の娘が覗いている訳でもなければ、南山
 に親友が奉職している次第でもない。超然
 と出世間的に利害損得の汗を流し去った心
 持になれる。独座幽篁裏、弾琴復長嘯、森
 林人不知、名月来相照。只二十字のうちに
 優に別乾坤を建立している。この建立の功
 徳は「不如帰」や「金色夜叉」の功徳では
 ない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼
 儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっす
 りと寝込む様な功徳である。
  二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀
 にこの出世間的の詩味は大切である。惜し
 い事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみ
 んな、西洋人にかぶれているから、わざわ
 ざ呑気な扁舟をうかべてこの桃源に遡るも
 のはない様だ。予は固より詩人を職業とし
 ておらんから、王維や淵明の境界を今の世
 に布教して広げようと云う心掛けも何もな
 い。只自分にはこう云う感興が演芸会より
 も舞踏会よりも薬になる様に思われる。フ
 ァウストよりも、ハムレットよりも難有く
 考えられる。こうやって、只一人絵の具箱
 と三脚几を担いで春の山路をのそのそある
 くのも全くこれが為めである。淵明、王維
 の詩境を直接に自然から吸収して、すこし
 の間でも非人情の天地に逍遙したいからの
 願、一つの酔狂だ。
  勿論人間の一分子だから、いくら好きで
 も、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。
 淵明だって年が年中南山を見詰めていたの
 でもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に
 蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。・・・





不道徳文学
   2009/7/28 (火) 10:04 by Sakana No.20090728100429

7月28日

「善悪観念の抽出文学には非人情の文学の
ほかに不道徳の文学があります」
「漱石のいう非人情の文学とは漢詩や俳諧
だ。小説は不道徳の文学のほうがはるかに
多い」
「世界の現代小説は不道徳の文学が主流と
いえるかもしれませんね」
「実務を優先する道学者たちが文学不要論
や文学否定論をとなえるのはそのためだ」
「しかし、人間は現実の人生においては道
徳的でも、文学を味わうときだけ不道徳の
気分になることがあります。それは許され
るのではないでしょうか」
「厳密にいえば、許せない」
「不道徳文学はそもそも世界に文学あって
より以来存在し来り、又文学が存在する限
り滅亡するものにあらず、ですよ」
「古代ギリシアの昔、プラトンによって追
放されるべきだった」
「文学は少なくとも道徳的問題に対し其の
道徳的分子を忘れ得るものにして、此の性
質なき人は完全に文学を理解する能はざる
奇怪な地位にあるものとす」


善悪の標準の倒錯
   2009/7/31 (金) 11:31 by Sakana No.20090731113133

7月31日

「不道徳文学を読むと、私たちは作者の表出
法に幻惑されて、善悪の標準をひっくり返し、
同情してはいけない人物に同情してしまうよ
うな場合があります」
「実例をあげて説明してもらおう」
「たとえば、シャーロット・ブロンテ『ジェ
ーン・エア』です」
「家庭教師のジェーンが、身分違いのロチェ
スター伯爵に求婚され、めでたく結婚すると
いうハーレクィン小説だ」
「世界文学の名作ですよ。ロチェスターには
既婚者で妻がいました。重婚は法律で禁止さ
れているので、ジェーンに求婚する資格はあ
りません。とんでもない男ですが、作者の描
写では立派な貴族ということになっています」
「ジェーンは絶世の美人か」
「それほどの美人ではありませんが、確固た
る意思を持つ、しっかりした女性です」
「伯爵と結婚したいという確固たる意思を持
っていたのだろう」
「作者はそんな風には描いていません。ジェ
ーンの人柄は読者が感情移入してしまうほど
巧妙に描かれているので、読者はいつのまに
かつり込まれてジェーンに同情し、伯爵との
結婚を願うようになります」
「最後には都合よく妻が死んでしまい、結婚
への障害が取り除かれる・・・」
「妻は狂人で、屋根の上から火に身を投げま
すが、そこで読者のfは<よかった。これで、
ジェーンは結婚できる>と思ってしまうので
す。死んだ妻には誰も同情しません」
「おそるべきfの幻惑だ」

"he (Rochester) went up the attics when all was burning above and below,
and got the servants out of their beds and helped them down himself---
and went back to get his mad wife out of her cell. And they called out to
him that she was on the roof; where she was standing, waving her arms
above the battlements, and shouting out till they could hear her a mile off.
I saw her and heard her with my own eyes. She was a big woman, and had long,
black hair; we could see it streaming against the flames as she stood. I
witnessed, and several more witnessed. Mr. Rochester ascend through the
skylight on to the roof; we heard him call 'Bertha !' We saw him approach
her; and then, ma'am, she yelled, and gave a spring, and the next moment
she lay smashed on the pavement."
---Ch. Bronte, ane Eyre, Chap. xxxvi.

「上も下も家中が火に包まれているとき、旦那(ロチェスター)様は屋根裏部屋に
上がって、召使いたちを起こし、手伝って階下に下ろしておやりになりました。──
そして、また、取ってかえし、狂った奥さんを部屋から連れ出そうとなさったので
す。その時、奥さんは屋根の上ですよ、と人々が叫びました。私はこの目で見、声
を聞きました。大きな女で長い、黒い髪をしていました。立っていると髪が炎に向
って煽られなびくのが見えました。ロチェスター様が明かり取り窓をくぐって屋上
に上って行かれるのを私も他の人たちも見ました。旦那様が『バーサ!』とお呼び
になるのが聞こえ、近づいて行く姿が見えたかと思うと、奥さんは叫び声を上げ、
身を翻して、次の瞬間には敷石の上に叩きつけられていました」。
(シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』第三十六章)


崇高
   2009/8/3 (月) 12:16 by Sakana No.20090803121631

8月3日

「『ジェーン・エア』は読者が作者の表出法に幻
惑されて、善悪の標準をひっくり返し、同情して
はいけない人物に同情してしまいやすい例ですが、
それとは趣を異にする不道徳文学もあります」
「人生いろいろ、不道徳文学もいろいろ」
「読者がある文学的作品に対してその道徳的情緒
の全部を脱却することにして、批評家がふつう崇
高、滑稽、純美感と称するものです」
「道徳fの当然占めるべき位置が崇高、純美感の
ような審美的fや滑稽fに乗っ取られてしまうと
いうことかな」
「まず、崇高の例として、英国の文士ド・クィン
シーが遺した詩人コールリッジの火事見物の逸話
をご紹介します」
「コールリッジは思った通り火勢が蔓延しなかっ
ことを嘆いている。徳義心を欠いた無頼漢のよう
だ」
「この場合、野次馬には徳義は必要とされません。
消化器の到着とともに、道徳は保険会社に移行し
ているのです」

"To begin with S.T.C. One night, many years ago, I was drinking tea with
him in Berners Street...Others were there besides myself; and amidst some
carnal considerations of tea and toast, we were all imbibing a dissertation
on Plotinus from the Attic lips of S.T.C. Suddenly a cry arose of, 'Fire -
fire !' upon which all of us, master and disciples, Plato and <***>, rushed
out, eager fir the spectacle. The fire was in Oxford Street, at a pianoforte-
maker's; and, as it promised to be a conflagration of merit, I was sorry that
my engagements forced me away from Me. Coleridge's party, before matters had
come to a crisis. Some days, after meeting with my Platonic host, I reminded
him of the case, and begged to know how that promising exhibition had
terminated. 'Oh, sir.' said he, 'it turned out so ill that we damned it
unanimously.'"
---De Quincey, On Murder, Considered as one of the Fine Arts

「まず、話のはじめはS・T・C(コールリッジ)から。何年も前のある夜、
わたしは彼とバーナーズ街(・・・)でお茶を飲んでいました。わたし以外に
も幾人かがそこにいて、お茶やトーストを肉体で賞味しつつ、一方で、プロテ
ィノスについての学説がS・T・Cのアッティカ風の典雅な唇から洩れてくる
のを味わっていたのです。突然、<火事だ! 火事だ!>という叫び声が起こ
り、それを聞くや、われわれはこぞって、すなわち、師匠も弟子も、プラトン
も(ぷらとんヲトリマクヒトビト)もその光景を人目見んものと懸命に飛び出
しました。火元はオックスフォード通りのピアノ製造所で、堂々たる大火にな
る見込充分なので残念でしたが、わたしは約束があったため、事態が最高潮に
至るのを見届けぬうちに、やむなくコールリッジ氏一行と別れねばなりません
でした。数日後、プラトンめく主人役と出会ったので、例の事件を持ち出し、
あの期待にみちた見世物の結果如何を訊ねました。『いや、それがね』と彼は
言いました。『つまらない終わり方になったので、みんな口々に悪態を吐(つ)
いたってわけさ』」
 (ド・クインシー『芸術作品の一つとして見た殺人について』その二、講演)



滑稽
   2009/8/6 (木) 09:24 by Sakana No.20090806092407

8月6日

「読者がある文学的作品に対してその道徳的情緒
を脱却する例として、前回の崇高に続いて滑稽を
とりあげたいと思います」
「君子の道徳を茶化して、お笑いにしてしまうの
は悪い趣味だ」
「落語の如きは道徳的情緒を除去することによっ
てはじめて価値を有します。これを表出する方法
宜しきを得れば、これを用いてその目的とする道
化趣味を巧みに生ぜしむることを得ます」
「漱石がいくら弁じても落語は文学とは言わない」
「では、シェクスピアの『ヘンリー四世』に登場
する没義悖徳漢フォルスタッフをどう思いますか」
「ガラの悪い奴だ」
「でも、一種の面白みがあります。以下は天下の
大道で旅客を脅している場面ですが、五十の坂を
越えた老人が自ら若さをもって任じるのは珍です」
「漱石が猫を主人公にした小説を書いたのもその
手口のようだな」

"Strike; down with them; cut the villains'
throats; ah! whereson caterpillars! bacon-fed
knaves! they hate us youth; down with them."
---Shakespeare, Henry IV, Act II. sc. ii

「やっつけろ、ぶっ叩け。この悪党どもの喉をか
き切ってしまえ、ああ、父(てて)なし子の毛虫
野郎め! ベーコン喰いの禄でなしめ! 俺さま
たちの若さを憎みやがって、ぶっ叩け!」
(シェクスピア『ヘンリー四世』第一部、第二幕第二場)


純美感
   2009/8/9 (日) 11:45 by Sakana No.20090809114541

8月9日

「道徳的情緒除去の例として漱石先生がとりあ
げておられるのは裸体画です」
「裸体画は文学ではない」
「裸体画的な文学を連想してください」
「D.H.ローレンス『チャタレー夫人の恋人』」
「うーん、ちょっと違うかな。試みに思へ如何
に裸体画の美を信ずる人々と雖(いえど)もわ
が女児を赤裸にして舞踏会に伴ふことあるべき
か、またわが細君の如何に美(うる)はしけれ
ばとてこれが衣服を剥ぎ去ってこれを会衆に誇
らむとするものあるべきか」
「つまり、裸体画を美術として賞翫する場合は
現実の人生における道徳的価値観と矛盾するこ
とがある・・・」
「それは論理による来る矛盾ではなく、同一の
F(焦点的印象または観念)に対して起るf
(情緒的要素)の質的差異より起り来る矛盾で
す」
「そうかな」
「現実の人生では道徳的Fの観点から醜として
扱われるものが、芸術的鑑賞の場合は感覚的F
に移行して美になってしまうのです」
「なるほど、チャタレー裁判は野暮だね」
「それ、昭和二十年代のずいぶん古い話ですけ
ど」
「『文学論』の講義ほど古くはない」



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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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