夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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表出の方法と読者の幻惑
   2009/5/14 (木) 10:46 by Sakana No.20090514104635

5月14日

「病的な人物や病的な社会の描写が文学にお
いては必ずしも病的に見なされない傾向があ
ります」
「それもf(情緒的要素)に伴ふ幻惑か」
「その原因は二つあります。つまり、作者の
幻惑と読者の幻惑です」
「作者の幻惑とは?」
「与えられた材料に対する作者の態度、愉快
よりも不愉快を与えるF(焦点的印象または
観念)を如何に観じ、如何に取り扱い、如何
に表現するかという作者の手腕によってきま
るもので、漱石先生はこれを<表出の方法>
と名づけておられます」
「要するに、言葉のマジシャン(魔術師)と
しての作者の手腕だ」
「次に読者の幻惑というのは、文学作品を読
んだ批評家や一般読者が作者によって与えら
れた材料に対する態度。現実の直接経験では
関心がなく、仮に遭遇しても避けたいと思う
ような内容でも読書による間接経験では非常
な興味を持って前後を忘却して賞美する態度
です」
「人間のfには表と裏があるということかな」
「直接経験が間接経験に一変する瞬間におい
て、黒がたちまち白と見え、表が裏になる─
─これが漱石先生のいう<読者の幻惑>です」


表出の方法
   2009/5/17 (日) 09:47 by Sakana No.20090517094711

5月17日

「それでは、まず作者の幻惑として<表出の
方法>を検討しましょう」
「要するに小説の方法とか詩のつくりかたの
ようなものか」
「大にしては作家の文学的内容に対する態度、
あるいは世界観、人生観が問題になりますが、
混乱を避けるため、この種の大げさなものは
省略します」
「肝心なことを省略するんだな」
「その代わり、作家が醜劣、不快な材料を如
何に取扱い、一種の幻惑を読者に与えるかを
材料別にみていきたいと思います」
「材料別とは?」
「以前に示したF(焦点的印象または観念)
の分類にしたがうことにします。
 (一)感覚的材料・・・自然界
 (二)人事的材料・・・人間の芝居
 (三)超自然的材料・・・宗教
 (四)知的材料・・・人生問題に対する観念」


fの幻惑─感覚的材料
   2009/5/20 (水) 07:41 by Sakana No.20090520074102

5月20日

「情緒的要素fの幻惑をもたらす表出の方法
ですが、まず自然界の感覚的材料を用いる方
法があります」
「具体的にいうと?」
「自然界の醜を描いた文学作品を読んで、
逆に美を感じたり、面白いと思ったりする
ことがあるでしょう。それがfの幻惑です」
「読者は作者の表出によって幻惑されるべ
きか、幻惑されないように警戒するべきか。
それが問題だ」
「読者の問題はさておき、fの幻惑をもたら
す表出の方法を次の3点から考えましょう。

 1)連想の作用にて醜を化して美となすの
   表出法。
 2)事物其物は醜なれども、其描き方如何
   にも巧妙にして思はず其躍如たる様子
   にうたるゝ場合。
 3)描かれたるF其物は醜なる故に実際こ
   れを見れば直ちに嫌悪の念を生ずるに
   もせよ、其Fの奇警にして非凡なるに
   感心して、間接にこれを経験する時、
   吾人がこれを面白しと興がる場合。」


連想の作用
   2009/5/23 (土) 08:22 by Sakana No.20090523082206

5月23日

「<連想の作用にて醜を化して美となすの表
出法>の例としてポープの詩を読んでくださ
い」
「三人の妻女が次々と樹上で縊死したという
不愉快極まる事件の描写だ」
「ところが、それほど不快な印象を受けない
でしょう」
「そうかな」
「<首縊る>などという露骨な表現を避けて、
<輪綱をからませ>と比較的滑らかな感じを
連想させる字句や、<風にゆらゆら揺れてい
た>と藤の花、かずらなどの風裏に揺曳する
様を連想させる字句を使用することによって
醜悪なる光景が読者の眼前に浮かんでこない
ように表出の工夫をしている──これぞまさ
しくf(情緒的要素)の幻惑に成功した作者
のお手柄の例です」

"He read, how Arius to his friend complain'd,
A fatal Tree was growing in the land,
On which three wives successively had twin'd
A sliding noose, and waver'd in the wind.
---Pope, The Wife of Bath, II. 393-6

「彼はこんな話を読んだことがある。──
アリアスが友に嘆くには、/
彼の庭に不吉な木が一本生えていて、/
その上で妻が三人つぎつぎに/
輪綱をからませ、風にゆらゆらと揺れていた」
(ポープ「バースの女房』三九三ー三九六)


妖精の女王 
   2009/5/26 (火) 08:01 by Sakana No.20090526080146

5月26日

「やや長めの引用になりますが、スペンサー
の『妖精の女王』の描写を読んでください」
「これはひどい。<すべての魔女の恥部であ
る下半身は/わが純潔なる詩神の恥じて描くの
を避けるところだが、/臀には狐の尻尾が生え、/
糞がこびりついていた>──よくもこんな醜
い描写ができたものだ」
「<事物其物は醜なれども、其描き方如何に
も巧妙にして思はず其躍如たる様子にうたる
ゝ場合>という表出の方法の例です」
「そうだろうか」
「私たちがこれを読んで感じるf(情緒的要
素)は内容それ自体ではなく、<いかにも旨
く言ひつくせり、流石は名筆なり>と三嘆す
る辺に感興を生じるのです」

"Then, when they had despoil'd her tire and caul, 
Such as she was, their eyes might her behold,
That her misshaped parts did them appal;
A loathy, wrinkled hag, ill favour'd, old,
Whose secret filth good manners biddeth not be told.

Her crafty head was altogether bald,
And, as in hate of honourable eld,
Was overgrown with scurf and filthy scald;
Her teeth out of her rotten gums were fell'd,
And her sour breath abominably smell'd;
Her dried dugs, like bladders lacking wind,
Hung down, and filthy matter from them well'd;
Her wrizzled skin, as rough as maple rind,
So scabby was, that would have loath'd all woman kind.

Her nether parts, the shame of all her kind,
My chaster Muse for shame doth blush to write;
But at her rump she growing had behind
A fox's tail, with dung all foullly dight;
And eke her feet most monstrous were in sight;
For one of them was like an eagle's claw,
With gripping talons arm'd to greedy fight;
The other like a bear's uneven paw;
More ugly shape yet never living creature saw."
---Spencer, The Faerie Queene, Bk. I. can. vii. st. 46-8

「それから、彼らが彼女の頸飾りや被りものを取り去ったとき、/
彼らの目に映ったありのままの姿は/
その醜さで彼らを愕然とさせるような/
忌わしく、皺だらけの老婆で、醜怪で年老いて、/
その秘めた部分の不潔さは、良き嗜みが口にするさえ禁ずるほどだった。/
狡猾さにみちた顔は丸禿げで、/
名誉ある老齢を憎むように、/
鱗や汚らわしい瘡(かさぶた)で覆われ、/
歯は腐った歯茎から抜け落ちて、/
すえた息が堪え難い悪臭を放ち、/
干涸らびた乳房は、気のぬけた浮袋さながら/
垂れ下がって、穢らしいものがそこから涌いていた。/
皺のよった膚は、楓(かえで)の皮のように荒れ果て/
瘡がひろがり、あらゆる女たちに忌わしさに目を背けさせた。/
すべての魔女の恥部である下半身は/
わが純潔なる詩神の恥じて描くのを避けるところだが、/
臀には狐の尻尾が生え、/
糞がこびりついていた。/
そして、奇怪極まりない脚も見えた。/
その一方は鷲の蹴爪(けづめ)にも似て、/
貪欲な闘いにそなえて強靱な爪によそわれていて、/
他方は熊の足のようにでこぼこだった。/
これほどまでに醜い姿はいまだ誰も見たことがなかった」。
(スペンサー「妖精の女王」第一巻第八章第四十六ー四十八連)



マクベスの妖婆
   2009/5/29 (金) 08:44 by Sakana No.20090529084439

5月29日

「次にこれこそ作者の卓抜なる文章表現力に
よるfの幻惑の例としてシェクスピア『マク
ベス』の妖婆が鍋に煮るご馳走の描写をおさ
らいします」
「おさらいというと?」
「有名な場面ですからご存じでしょう」
「そういえば、翻訳で読んだことがあるよう
な気がする」
「描かれたるF其物は醜なる故に実際これを
見れば直ちに嫌悪の念を生ずるにもせよ、其
Fの奇警にして非凡なるに感心して、間接に
これを経験する時、吾人がこれを面白しと興
がる場合と漱石先生が言っておられる例です。

「蟾蜍(せんじょ=ヒキガエル)の汗よりと
りし毒、沼に住む蛇の肉、蛙の肢(あし)、
蝙蝠の毛、犬の舌、毒蛇の舌、梟の翼、龍の
鱗、狼の歯、妖婆の木乃伊(みいら)、鱶の
胃、暗夜に掘りし矢きゅう(火+鳥)答の根、
猶太(ユダヤ)人の肝、山羊の胆液、月蝕に
割(さ)きわりし水松、土耳古(トルコ)人
の鼻、韃靼(ダッタン)人の唇、売婦が溝に
産み落して縊り殺せし赤児の指、虎の腸、猩
々の血、九匹の子豚を共食ひしたる雌豚の血、
殺人犯の縊られし絞台の膏」

「なるほどね。気味の悪いものを並べ立てた
趣向だということはわかる。原文はないのか」
「漱石先生の『文学論』では省略されていま
す。有名な場面だから省略してもかまわない
と判断されたのでしょう」
「原文も紹介してくれ」
「困りましたね。私の持っているテキストで
は訳文とピッタリとはあいませんが、該当個
所らしきところをうつしておきますので、こ
れで勘弁してください」

FIRST WITCH: 
Round about the caldron go;
In the poisoned entrails throw.
Toad, that has spent
Thirty one days and nights under cold stone,
From whose sweat a sleeping venom was gotten,
Boil you first in the charmed pot!

SECOND WITCH: 
Fillet of a snake that lived in a bog,
In the caldron boil and bake;
Eye of newt, and toe of frog,
Wool of bat, and tongue of dog,
A black snake’s forked tongue, and its cousin’s sting,
Lizard's leg, and owlet's wing,
For a charm of powerful trouble,
Like a hell-broth, boil and bubble.  

THIRD WITCH: 
Scale of dragon, tooth of wolf, 
Witch's mummy, maw and gulf 
Of the ravin'd salt-sea shark, 
Root of hemlock digg'd i’ the dark,(25) 
Liver of blaspheming Jew, 
Gall of goat and slips of yew 
Sliver'd in the moon's eclipse, 
Nose of Turk and Tartar's lips, 
Finger of birth-strangled babe(30) 
Ditch-deliver'd by a drab, 
Make the gruel thick and slab. 
Add thereto a tiger's chaudron, 
For the ingredients of our cauldron. 

SECOND WITCH: 
Cool it with a baboon's blood, 
Then the charm is firm and good. 
--Shakespeare, Macbeth, Act IV, Scene I




美しい蛇
   2009/6/1 (月) 08:17 by Sakana No.20090601081733

6月1日

「fの幻惑をもたらす表出の方法を3通りご
紹介しました」
「fの幻惑─感覚的材料はそれで終わりか」
「すみません。実はうっかりして、もう一つ
漱石先生のご指摘があるのが抜けていました」
「それはなんだ?」
「 4)醜怪なる物を写すにあたりその醜悪
 なる諸特質に介在せる或る一部分(即ち美
 なる部分)のみを拾い集めて描出し、その
 他を知らぬ顔をして除きさる方法。
この場合は読者に一種の興味を与えることに
なります」
「たとえば?」
「シェリーの蛇の叙述を読んでください。読
者は蛇が醜悪な動物であることを忘れてしま
います」

"The pale snake, that with eager breath
Creeps here his noontide thirst to slake,
Is beaming with many a mingled hue,
Shed from yon dome's eternal blue,
When he floats on that dark and lucid flood
In the light of his own loveliness."
---Shelly, Rosalind and Helen, II. 113-19

「蛇、/
青白い蛇は息をはずませながら、/
真昼の渇きを癒そうと這いよってきて、/
彼方の空の円天井の永遠の蒼みから放たれた/
混じりあった色調に輝き、/
暗く、澄んだ流れに浮かび/
自らの美しさに照らし出されている」。
(シェリー『ロザリンドとヘレン』一一三ー一一九行)



fの幻惑─人事的材料
   2009/6/4 (木) 08:05 by Sakana No.20090604080506

6月4日

「次は人事的材料のfでは善と悪の幻惑がお
こりやすいようです」
「感覚的材料を扱った描写ではもっぱら美と
醜の幻惑だったが」
「悪を描いて善と思わせる作者の手際は賞賛
に値するでしょうか。それとも道徳倫理の混
乱をもたらす元凶として非難されるでしょう
か」
「芸術至上主義の観点からは賞賛されるが、
道徳宗教の観点からは非難される」
「しかし、そもそも善悪の判定は美醜の判定
よりも困難です。八十の老婆は十八の乙女と
比べると美しくないのは誰の眼にもあきらか
ですが、人間の善悪の判定はそう簡単にはい
きません」
「そうかな」
「では、質問します。徳川家康は善人ですか。
それとも悪人ですか」
「天下統一のしあげをして、戦国時代を終結
させ、日本に平和をもたらした善人だ。東照
大権現として日光で祀られている」
「でも狸オヤジの悪人という見方もあります」
「それは負け犬的判官贔屓の偏見だ」
「いずれにしても、家康が善人か悪人かは作
者の主観によってきまります。そして読者は
作者の描写によって幻惑されるのです」


君主の道徳と奴隷の道徳
   2009/6/6 (土) 17:13 by Sakana No.20090606171350

6月7日

「道徳で善とみなされる精神状態は一列では
なく二列に配されています」
「どういう意味だ?」
「精神作用の対偶です」
「対偶?わからん」
「つまり、正反対の性質が対をなして二列に
なっているのです。たとえば、次のように。
 <A列> <B列> 
  意気→←謙譲
  大胆→←内気
  独立→←服従
  勇気→←温厚
  主張→←恭順
ごらんの通り、A列、B列とも見方によって
はいずれも善ですが、対偶の一方は他方とま
ったく矛盾しています」
「なるほどね、主張を善とすると、恭順は悪、
恭順を善とすると、主張が悪となる」
「ニーチェは君主の道徳と奴隷の道徳を区別
しました。A列が君主の道徳、B列が奴隷の
道徳です」
「奴隷の道徳を捨てて、君主の道徳を樹立す
べしと主張したというわけか。しかし、みん
なが君主の道徳を振りかざしたら世の中はど
うなるだろう」
「読書がひとつの安全弁になると思います。
現実には奴隷の読者が小説を読むときはfの
幻惑によって君主の道徳に共鳴するのです」
「そうなると、文学には一種のガス抜きの効
用があり、文学者には幻惑の芸術が期待され
ることになる」


罪を憎みて人を憎まず
   2009/6/10 (水) 07:53 by Sakana No.20090610075310

6月10日

「それでは、fの幻惑─人事的材料の例をテ
ニソンの詩『ヴィニヴィア」からご紹介しま
す」
「王妃ヴィニヴィアはアーサー王の妻、ラン
スロットは円卓の騎士で、裏切りの騎士とも
呼ばれる」
「この場面は、アーサー王が尼寺に逃げ込ん
だ妻の不貞を許し、終生護衛の兵を与える約
束をしたときのセリフです」
「肉体は<お前を憎む>と叫ぶが、精神は寛
大に妻を許している。君子は其罪を憎みて其
人を憎まずというが、アーサー王は世界にお
ける最高級の君子だ」
「これを読むと、君子ならぬ読者もfを幻惑
されて、アーサー王にも王妃にも感情移入し、
善悪の観念が?倒してしまいます」
「それで、作者の幻惑の術は芸術の鑑という
ことになるのかな」

"I cannot touch thy lips, they are not mine.
But Lancelot's: nay, they never were the King's.
I canot take thy hand; that too is flesh.
And in the flesh thou hast sinn'd; and my own flesh.
Here looking down on thine polluted, cries
'I loathe thee:'
---Tennyson, Guinevere, II. 551-6

「わたしはお前の唇に触れることはできない、
それはわたしのものではない、/
ランスロットのものだ。いや、一度とて、
この王のものだったことはない。/
わたしはお前の手をとることができない。
これも肉体だ。/
そしてお前は肉体のうちで罪を犯した。
わたし自身の肉体は汚されたお前の肉体を見下しつつ、叫ぶ/
<お前を憎む>と」。
(テニソン「ヴィニヴィア」五五一ー五五六行)


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2014 Sakana Hasebe