夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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グリセルダ物語
   2009/1/14 (水) 09:25 by Sakana No.20090114092530


1月14日

「もう一つ、三大文豪の手になる有名な忍耐
の物語をご紹介します」
「三大文豪とは?」
「ボッカチオ、ペトラルカ、チョーサーです」
「物語のヒロインの名前は?」
「グリセルダ──妻が夫に対して従順の徳を
守るというお話です。チョーサーの例文は、
近世英文学においてはかくのものを求むるも
到底得難かるべしという代物です」
「戦前の日本文学ではちっとも珍しくもない」
「でも、夫の侯爵が妻のグリセルダを離別し
た上で、新しい花嫁を迎えるとき、邸内の様
子をよく知っているグリセルダに当夜の係り
を命じたのですよ」
「それで?」
「夫はさらに、花嫁の美しさをたたえるよう
グリセルダにもとめました」
「それはむごい」
「されど、彼女は怒れる色もなしでした」

"And she, the moste servisable of alle,
Hath every chambre arrayed and his halle.
---Chaucer, The Clerkes, Tale, II. 29-33
「そして彼女は誰よりもよく仕えて、/
全部の部屋、彼の広間を整えた」。
──チョーサー『カンタベリー物語』「学生の物語」
              九七九ー九八○行
"How lyketh thee my wyf and hir beaute?"
"Right wel, quod she, my lord; in good fey.
A fairer say I never noon than she."
---Chaucer, The Clerkes, Tale, II. 1032-3
「私の妻とこの美しさは気に入ったかね?」
「まったく素晴らしい方ですわ、殿様。
ほんとうに/こんな美しい方ははじめてです」
──チョーサー『カンタベリー物語』「学生の物語」
              一○三一ー一○三三行




   2009/1/17 (土) 09:00 by Sakana No.20090117090044

1月17日

「人間の心理作用のうち、両性的本能、即ち、
恋は文学的内容として最重要の素材です」
「最重要の素材にしては両性的本能とは下品
だね」
「古今の文学、ことに西洋の文学の90パーセ
ントは恋の情緒をふくんでいます。特に小説、
戯曲の類は恋の分子なしに存在することはほ
とんど不可能です」
「けしからん」
「凡そ小説家の作品の大部分は必ず年若き男
女の関係に何れかに於て触るゝものにして恋
愛の分子を去りては小説に興味を附し其成功
を期すること甚だ難きを認めざるべからずと
英国の小説家Anthony Trollopeは自伝で述べ
ています」
「そんなはずはない」
「もちろん、世に無恋愛の作、稀れに行わる
ゝことなきにあらざれども、これらと云へど
も尚所々に其の禁を弛め、全篇を統(す)ぶ
る為常に此柔らかき恋情の加味を必要とする
が如し」
「なるほど、漱石がやたらに恋愛小説を書い
たのはそんな考えに洗脳されていたのだとい
うことがよくわかった」


エンディミオン
   2009/1/20 (火) 10:07 by Sakana No.20090120100711

1月20日
 
「恋を素材とした文学は星の数ほどあります
が、ここではキーツの物語詩『エンディミオ
ン』(Endymion, 1817年)からの引用文を紹
介しておきます」
「ギリシア神話で美少年の羊飼いだ」
「帝国の滅亡よりも恋のほうが大事というの
はロマンチックですね」
「亡国の危険思想──こんな詩が流行ると文
学亡国論につながる」

"What care, though owl did fly
About  the great Athenian admiral's mast?
What care, though striding Alexander past
The Indus with his Macedonian numbers?
Though old Ulysses tortured from his slumbers
The glutted Cyclops, what care?---Juliet leaning
Amid window-flowers,---sighing,---weaning
Tenderly her fancy from its maiden snow,
Doth more avail than these: the silver flow
of Hero's tears, the swoon of Imogen,
Fair Pastorella in the bandit's den,
Are things to brood on with more ardency
Than the death day of empires."
---Keats, Endymion, Bk. II. ll. 22-34

「何の関わりあろう、大いなるアテナイ提督
の旗艦の帆柱を/梟が飛び交おうとも?/
何の関わりあろう、大王アレクサンドロスが
マケドニアの軍勢を引き具して/
インダス河を大股で通りすぎようとも?/
老ウリクセスが満腹のキュクロープスを/
虐め起こしたからとて、何の関わりあろう?
ジュリェットが窓辺の花に/
身を乗り出して、──溜息をついて──
処女雪のような/
胸のうちから優しく愛の思いをひきはなしたのは/
こんなことよりずっとましなこと。/
銀の涙を流すヒアロウ、気を失うイモジェン/
賊の巣窟に囚われた美女パストレラ、/
これは帝国の滅亡よりも熱心に考えなければならないこと」。
──キーツ『エンディミオン』第二巻、二二ー三四行

"Ye deaf and senseless minutes of the day,
And thou, old forest, hold ye this for true,
There is no lighting, no authentic dew
But in the eye of love: there's not a sound.
melodious howsoever, can confound
The heavens and earth in one to such a death
As doth the voice of love: there's not a breath
Will mingle kindly with the meadow air,
Till it has panted, round, and stolen a share
Of passion from the heart!"
---Keats, Endymion, Bk. II. ll. 76-85

「汝ら耳しいた、感覚なき時の断片よ、/
そして、汝、古い森よ、これを真理とせよ。/
稲妻も、本当の露も愛の眼以外には/
存在しないということを。いかなる音も、/
いかに快い調べも、愛の声音ほどには/
天と地とをひとつに混ぜ合わせ、/
死へと導くものはない。いかなる息吹も、/
喘ぎ、ささやき、心から情熱を/
奪いとるほどには/
牧場の微風と優しく混じりあうことはあるまい」。
──キーツ『エンディミオン』第二巻、七六ー八五行


文学亡国論
   2009/1/23 (金) 08:26 by Sakana No.20090123082616

1月23日

「西洋の文学の90パーセントが恋の情緒をふ
くんでおり、特に小説、戯曲の類は恋の分子な
しに存在することはほとんど不可能だとすれ
ば、文学亡国論をとなえられてもしかたがな
い」
「恋は神聖なものです」
「意馬心猿の欲するままに従えば、必ず罪悪
の感随伴し来たるべし」
「しかし、若い男女がお互いに慕い合うのは
遺伝子にインプットされている本能によるも
のです。これを否定したら人類が亡んでしま
うでしょう」
「Bainによれば、触は恋の始にして終なり」
「プラトニックラブだってあります」
「Delboeufによれば、凡そ年若き男女が、慕
ひ合ふは、彼等が自覚せずして、精子の意志
に従ふものなり」
「いずれにせよ、種の保存のためにも少子化
対策のためにも恋の文学は奨励するべきだと
思います」


複雑情緒
   2009/1/26 (月) 10:13 by Sakana No.20090126101319

1月26日

「文学的内容の基本的成分となる人類の内部
心理作用として、恐怖、怒、同感、自己の情、
積極的感情(意気、慢心、高ぶり、押しの強
さ等)、消極的な感情(謙譲、小心、控え目
等)、恋(両性的本能)についてざっとみて
きましたが、これらは心理作用としては比較
的単純な情緒です」
「複雑な情緒もあるのか」
「たとえば、嫉妬は複雑情緒です」
「恋だって複雑情緒だろう」
「恋だけなら単純情緒ですが、嫉妬をともな
って複雑情緒になります。代表的な例はシェ
クスピアの『オセロー』です」
「嫉妬に狂って最愛の妻デスデモナを殺して
しまった馬鹿な男だ」
「オセローの心理は第一期から第三期にわた
っています。まず第一期では美しいデスデモ
ナを独占し、彼女を失う恐れはないという自
覚から一種の快感を抱いていました。次に彼
女の愛を疑うのやむをえざるに至り、不快に
して失意、煩悶に苦しむのが第二期。そして、
このような成行きになった原因を求め、これ
を推定し、これを発見し得たと信じて、憤怒
の情が濤の如く湧き来たり、その情が烈しき
破壊力となったのが第三期。以上三期のf(情
緒的要素)を混ぜ合わせた複成情緒が嫉妬で
す」
「なるほど、凡そ文学的内容の形式は(F+f)
なることを要すか。すると、『オセロー』の
場合、F(焦点的印象または観念)は何だ?」
「ちょっと待ってください。その点に関して
は、漱石先生が説明しておられません」
「ノートを写すだけで自分では何も考える力
がないとは情けない奴だ」


忠誠心
   2009/1/29 (木) 12:59 by Sakana No.20090129125936

1月29日

「複雑情緒の例をもう一つご紹介します」
「なんだ?」
「忠義(loyalty)です」
「それは封建時代の用語だ。今や死語だよ。
せめて忠誠心といってほしい」
「わかりました。古来我が国において独特の
強度を有したこの情緒はけっして単純なもの
ではありません」
「そうだろうか?」
「漱石先生によれば、忠誠心とは次の五種の
f(情緒的要素)の合成物に与えた名です。
 (1)義務の念+f
 (2)尊敬の念+f
 (3)忠実の念+f
 (4)犠牲の念+f
 (5)面目の念+f」
「無心の念+忠誠心もあるのではないのか」
「それは、もしあるとすれば達人の境地です」
「則天去私というからには、漱石は無心の念
+忠誠心をもっていたはずだ」
「さあ、それはどうでしょうか」


リチャード2世
   2009/2/1 (日) 08:48 by Sakana No.20090201084846

2月1日

「忠誠心(=忠義)にもいろいろありますが、
その代表的な例を『リチャード二世』からと
りましょう」
「また、シェクスピアか」
「York侯が息子Aumerleの謀反の証拠となる密
書を国王に提出したとき、国王は極めて寛大に、
"And thy abundant goodness shall excuse
This deadly blot in thy digressing son."
---Richard II. Act V. sec.iii.ll 65-6
(そなたの溢れんばかりの善良さのゆえに/
道を踏みあやまったそのたの息子の大罪も許さ
れよう)
──『リチャード二世』第五幕第三場、六五ー六六行
と云います」
「息子への愛よりも国王への忠誠心を重んじる
とは英国にも乃木希典大将のような人物がいた
んだな」
「ところが、侯爵夫人は息子への忠誠心を優先
させ、国王に嘆願します。
"O King, believe not this hard-hearted man!
Love loving not itself none other can."
---ll 87-8
(ああ、王さま、この無慈悲な男を信じないで
くださいませ!/自分自身ともいうべき者を愛さ
ないで、他の人々を愛せるものですか)
ーー八七ー八八行)」
「なるほど、息子は母親にとっては自分自身と
もいうべき者だが、父親にとっては必ずしもそ
うではないということか」
「古往今来女性とは此如(かくのごと)く正義
の念に乏しきものにして、通常識者が見て笑ふ
べき言語動作を敢てして毫も恥とせざることあ
り。これこの女性がその夫とよく対照して裏面
より忠義(=忠誠心)の真面目を発揮するなり」
「明治天皇崩御のとき、乃木大将夫人は夫とと
もに殉死しているぞ」


Fの趣を異にせるもの
   2009/2/7 (土) 09:33 by Sakana No.20090207093309

2月4日

「嫉妬や忠誠心のほかにも複雑情緒はいろい
ろありますが、類似の複雑情緒の例を一々あ
げるのは、いたずらに煩瑣にわたるおそれが
あります」
「煩瑣にわたりすぎの文学論について散々ゴ
タクを並べておいて、今さら何をいうか」
「情緒的要素のfはそれ位にしておき、認識
的要素(焦点的観念または印象)のFの少し
趣を異にせるものについて一言すべし」
「どうせ一言では終わらない」
「茶化さないでください。ここには<凡そ文
学的内容の形式は(F+f)なることを要す>
という漱石先生の定義を理解するカギがころ
がっていると思います」
「Fの少し趣を異にせるものとはどんなもの
だ」
「そもそも、Fは具体的なものです。月とい
えば月の観念も必要ですが、まず第一に欠く
べからざるものは月の光景──この画姿(え
すがた)さえあればfの情緒的要素を生じる
ことは容易です」
「つまり、抽象的観念のFからはfを生じる
ことが難しい・・・」
「基本的にはそうですが、なかにはFの趣を
異にせるものがある──それは例外的な抽象
的観念のFです」
「夏目漱石建築士がつくった文学論の迷路に
迷い込んだStray Sheepのような気分だ」



抽象的観念に伴うfの微弱なる例
   2009/2/7 (土) 09:35 by Sakana No.20090207093502

2月7日

「認識的要素(焦点的観念または印象)のF
具体的なものであるべきです。抽象的な観念
がFだとそれに伴う情緒的要素のfが微弱にな
ります」
「例を示してくれ」
「メーテルリンク『ベアトリース尼』で、ベ
アトリスが恋に迷って寺を逃れ、幾年の流浪
に艱難辛苦をなめつくし、再び寺に帰って、
尼たちの前にその漂泊を物語るくだりを聞い
てください」
「正義は眠り、最も邪悪なものだけが幸せで、
と嘆いている」
「そこが問題なのです。具体的光景にみちて
読者の情緒を動かすところ大の文章ですが、
"Justice slept"及び"the most evil"の二句
が抽象的なため、印象がいちじるしく減少し
ています」

  "Ah! Heaven's angels! Ah!
Where are they, tell me, and what do they do?
Have I not told you? Why, I have not now
My children, for the three most lovely died
When I no more was lovely, and the last,
Lest it should suffer, being one night mad,
I killed. And there were others never born,
Although they cried for birth. And still the sun
Shone, and the stars returned, and Justice slept,
And only the most evil were happy and proud."
---Maeterlinck, Sister Beatrice     

(ああ、天使さま! ああ/
天使さまはどこにいらっしゃるのですか、
教えてください、
そして、何をしていらっしゃるのです?/
お話したしましたでしょう? ねえ、今は/
私に子どもはおりません。
一番可愛い三人は死んでしまいました。/
私がもう美しくなくなってからです。末の子は/
苦しむことがないように、ある夜私は思いつめて、/
殺してしまいました。
それ以後はもう生みませんでした、/
生まれたい、生まれたい、と叫ぶ声は聞こえたのですが。
それでも陽は照り、/星はまた輝きました。
そして正義は眠り、/
最も邪悪なものだけが幸せで、
おごり昂ぶっていました。
──メーテルリンク『ベアトリース尼』



Fは誰の焦点的観念か
   2009/2/10 (火) 09:26 by Sakana No.20090210092631

2月10日

「認識的要素(焦点的観念または印象)のF
について一つ質問があります」
「なんだ?」
「Fは誰の観念または印象でしょう?」
「メーテルリンク『ベアトリース尼』の引用
個所でいえば、"Justice slept"(正義は眠っ
た)とか"the most evil"(最も邪悪なもの)
というのは、ベアトリース尼の焦点的観念ま
たは印象だろう」
「作者メーテルリンクの視点ということも考
えられます。もしかしたら作者の観念や印象
がベアトリース尼に感情移入しているのでは
ないでしょうか」
「もし作者のメーテルリンクが感情移入して
書いたとすれば、"Justice slept"及び"the 
most evil"の二句が抽象的なため、印象がい
ちじるしく減少しているという批判の鉾先は
メーテルリンクに向けられることになる」
「すると、漱石先生はメーテルリンクがヘボ
作家だといっておられるのでしょうか」
「そんなことはあの世の漱石に聞け」


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2014 Sakana Hasebe