夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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文学的内容の基本成分
   2008/11/15 (土) 09:42 by Sakana No.20081115094224

11月15日

「文学的内容の形式は(F+f)なることを要す
る──これはもうご理解いただけたと思いま
すので、次に文学的内容の分析を試みます」
「文学的内容の範囲は?」
「文学は高尚なる知的娯楽の具と考える論者
や文学に道徳の分子なしと主張する論者もい
ますが、文学の範囲はそんなに偏狭ではない
というのが漱石先生のお考えです」
「拝聴しよう」
「まず、感覚的要素は次のように分類できま
す。
 (一)触覚
 (二)温度
 (三)味覚
 (四)嗅覚
 (五)聴覚
 (六)視覚」
「五感は触覚、味覚、視覚、嗅覚、聴覚だが、
その他に温度が入っているのは何故だ」
「寒いとか暑いとかいう温度覚だって感覚です
よ」
「痛覚、圧覚、位置覚、振動覚などもある」
「漱石先生はCroosの『人の戯』中に配列され
ている小児娯楽の類目にしたがって文学的内容
の基本成分のサンプルを収集しておられます」
「では、大風呂敷のサンプルを見せてもらおう
か」


触覚
   2008/11/18 (火) 08:38 by Sakana No.20081118083836

11月18日

「文学的内容の基本成分としてまず感覚的要
素をとりあげましょう」
「感覚とは何ぞや?」
「特定の物理的エネルギーに応答し脳内にお
けるシグナルが受容・解釈される決められた
部分に一致する、感覚細胞の型(またはそのグ
ループ)を含む一つのシステムです」
「そんな説明ではFがあってfがない」
「何ごとも要素に分解してしまえば知的要素
だけになりますが、作者はそれに情的要素を
加えて文学的内容の形式、つまり(F+f)
にしあげるのです」
「ふむ」
「触覚のサンプルとしてシェクスピアの『オ
セロー』とテニソンの詩を引用します」
 
"Yet I"ll not shed her blood
Nor scar that whiter skin of hers than snow
And smooth as monumental alabaster."
     ---Othello, Act V. sc.ii. ll 3-5
(だが、彼女(あれ)の血は流すまい/また
あの雪よりも白い肌を傷つけはしまい/記念
碑の雪花石膏(アラバスター)のように滑ら
かなあの肌をも。
 ──『オセロー』第五幕第二場、三─五行

"But O for the touch of a vanish'd hand
And the sound of a voice that is still."
     ---Tennyyson, Break, break, break
(ああ、消え去った手のぬくもり/沈黙してし
まった声の響きさえ戻ってくるなら。
──テニソン「砕けよ、砕けよ、砕けよ」

「漱石の講義ノートを丸写しするだけでは芸
がない。日本人が理解しやすいように俳句の
サンプルも紹介してくれ」
「行く春や重たき琵琶の抱きごころ 蕪村」


温度
   2008/11/21 (金) 08:00 by Sakana No.20081121080058

11月21日

「温度も文学的内容の基本成分をなす感覚的要
素です」
「暑さ寒さも彼岸まで」
「それは諺です」
「諺も文学的内容の成分になりうる」
「・・・」
「彼岸過迄」
「それは漱石先生の小説の題名です。温度が文
学的内容の基本成分となっている例をあげてく
ださい」
「梅一輪一輪ほどの暖かさ 嵐雪」
「いいですね。キーツの詩を紹介しておきます」

"St. Agnes' Eve---Ah, bitter chill it was!
The owl for all his feathers was a-cold;
The hare limp'd trembling through the frozen grass.
And silent was the flock in wooly fold?
---Keats, The Eve of St. Agnes

(聖アグネスの宵祭──ああ、肌刺す寒さ!/
梟(ふくろう)は羽毛(はね)にくるまれて
いても凍え/野兎は凍(い)てついた草原をふ
るえながらとぼとぼ歩み、/そして羊の群は暖
い毛だらけの囲いの中で静まり返る。
  ──キーツ「聖アグネスの宵祭)


味覚
   2008/11/24 (月) 11:12 by Sakana No.20081124111207

11月24日

「文学的内容の基本成分として次に味覚を俎
上にのせましょう」
「すぐれた作家の条件の一つは美味しそうな
料理の描写ができることだ」
「イアン・フレミングや池波庄太郎の料理の
描写は美味しそうです」
「しかし、食い気の如き下等感覚が高尚な文
学に混入するのは如何なものか」
「次のような例はどうでしょう」
「お茶漬の味のほうがよい」
「それなら小説を読むより小津安二郎の映画
を観てください」

"The board was spread with fruits and wine;
With grapes of gold like those that shine
On Casbin's hills---pomegranates full
 of melting sweetness, and the pears,
And sunniest apples that Caubul
 In all its thousand gardens bears;---
Plantains, the golden and the green,
Malaya's nectard mangosteen;
Prunes of Bokara, and sweet nuts
 From the far groves of Samarcand,
And Basra dates, and apricots,
 Seed of the Sun, from Iran's land:---
With rich conserve of Visna cherries,
Of orange flowers, and of those berries
That, wild and fresh, the young gazelles
Feed on in Erac's rocky dells."
  ---Moore, Lalla Rookh, The Light of the Heaven

(食卓せましとひろげられた果実と葡萄酒/
カスビンの丘に輝く房にも似た/黄金(こがね)
の葡萄──とろける甘さの石榴(ざくろ)、
そして梨/コーブルの幾多の園が生む/
陽の光の充ちあふれた林檎/金色にまた緑にか
がやくバナナ/マラヤの神酒なるマンゴスティ
ン/ボカラの李(すもも)、はるかサマルカン
ドの森から届いた/甘い木の実/そしてバスラの
棗椰子(なつめやし)、イランの地から運ばれ
た/太陽の種子を思わせる杏(あんず)の実─
─/ヴィスナ育ちの桜桃(さくらんぼ)や/オレ
ンジの花や、エラクのごつごつした岩の谷間で/
若い羚羊(かもしか)が野生のままに食べる苺
の実の/味わい豊かな砂糖漬。
 ──ムアー『ララ・ルーク』『ハレムの光』


嗅覚
   2008/11/27 (木) 09:37 by Sakana No.20081127093749

11月27日

「洋の東西を問わず、嗅覚は文学的成分になっ
ている感覚的要素です」
「魚くふて口なまぐさし昼の雪 夏目成美」
「なまぐさいのはちょっと・・・。本邦におい
ては<花の香>なる一定の語法あるを以てもそ
の一端を推知し得べし」
「菊の香や 奈良には古き 仏達 芭蕉」
「それならゆかしい香です。漢詩と英詩(スペ
ンサーの叙事詩)からの例も紹介しておきまし
ょう」

日静重簾透 風清一縷長
 <日静かにして重簾(ちょうれん)に透り
  風清くして一縷(る)長し>
  ──吉川幸次郎訳 出典不明

"It was a chosen plott of fertile land,
Emongst wide waves sett, like a little nest,
As if it had by Natures cunning hand
Bene choycely picked out from all the rest,
And laid forth for ensamble of the best;
No daintie flowre or herbe that growes on growned,
No arborett with painted blossomes drest
And smelling sweet, but there it might be fownd
To bud out faire and throwe her sweete smels al arownd."
---Spenser, The Farie Queene, Bk. II. can. vi. st. 12

(それは、広い荒海のなかに設けられた小さな
休息所のような/特別の豊かな土地で/さながら
自然の巧みな手によって/他のすべての土地から
選ばれ/この上のないものの見本として差し出さ
れているかのようだった。/地上に生(お)い立
ついかなる優雅な花も草も、/また色鮮やかな花
に装われ/甘く香る灌木も、ここで美しく莟(つ
ぼみ)を開き、/あたり一面に心地よい香りを放
っていないものはなかった。
──エドマンド・スペンサー「妖精の女王」第二
巻第六章十二節


聴覚
   2008/11/30 (日) 07:48 by Sakana No.20081130074818

11月30日

「聴覚が美的快感を与える文学的成分だとい
うことは、音楽という芸術が独立して存在す
ることからもわかります」
「さらさらとなる衣(きぬ)の音、がさがさ
と吹き寄る庭の落葉、さては風の音、雨の音、
雷の音、濤(なみ)の音、鳥の音、天下の音
はもとより限りなし。時には音の感覚のみで
立派な文学を構成することがある」
「閑さや岩にしみ入蝉の声 芭蕉」
「聴覚の力を象徴する名句だ」
「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音
にぞおどろかれぬる 藤原敏行(古今169)」
「聴覚は視覚に先行する」
「シェクスピアからも引用しておきます」

"Duke. If music be the food of love, play on;
 Give me excess of it, that, surfeiting.
 The appetite may sicken, and so die.
 That strain again! it had a dying fall;
 O, it came o'er my ear like the sweet sound
 That breathes upon a bank of violets,
 Stealing and giving odour!"
  ---Twelfth Night. Act I. sc. i ll. 1-7

(音楽が恋の糧ならば、奏でつづけてくれ。/
たっぷりと奏でて私が聞き飽き、/もういいよ
といういう気持になってしまうまで。/あの調
べをもう一度! 消えいりそうな終わり方だっ
た。/ああ、菫咲く堤に吹きわたり、/芳しい香
りをかすめ取って撒き散らす/甘い響きのように
わが耳には聞こえた。
──「十二夜」第一幕第一場、一ー七行)


視覚─耀き
   2008/12/3 (水) 09:09 by Sakana No.20081203090905

12月03日

「視覚の文例は多いですね。耀き、色、形、
運動とわかれています」
「視覚は他の感覚より優れている」
「なぜですか」
「視覚は対象から離れても成立する」
「聴覚もそうでしょう」
「西洋では伝統的に視覚及び聴覚に関わるも
ののみが芸術とみなされてきた」
「まず、視覚のうち耀きの文例をご紹介しま
す」

苔むした石のかたわらの菫
人目から半ば隠れて!
──ただ一つ空に輝く
星のように美しく
  ワーズワス「彼女は人知れぬ里に住んでいた」

A violet by a mossy stone
 Half-hidden from the eye!
---Fair as a star, when only one
  Is shining in the sky.
  ---Wordsworth. She dwelt among the untrodden ways.

あらたふと青葉若葉の日の光  芭蕉


視覚─色
   2008/12/6 (土) 11:29 by Sakana No.20081206112941

12月06日

「仮に色の観念を詩より除き去らば、詩の
過半は自滅を免れず、其詩は空にして味な
かるべし、だそうです」
「こんどは、視覚のうち色の文例か」
「紅燈緑酒」
「緑酒に月の影宿し」
「白雲青山」
「白雲尽くる処是れ青山」
「赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐」                      

船影のなかに
俺は彼ら(海蛇)の豊かな装いを見た。
青の、輝く緑の、そしてビロードの黒の、
彼らはトグロを巻き、泳ぎ、
その跡は黄金(きん)色の煌めきだった。
  コールリッジ「老水夫の歌」

Within the shadow of the ship
I watched their rich attire;
Blue, glossy green, and velvet black,
They coiled and swam, and every track
Was a flash of golden fire.
---Coleridge, Ancient Mariner, II. 277-8      


視覚─形
   2008/12/9 (火) 08:50 by Sakana No.20081209085001

12月09日

「天地間一切の物体、抽象的にあらざる以上
は必ず形を具する。されば此形なる観念が文
学的内容に密接の関係を有するは誠に当然の
ことゝ云ふべし」
「はぁ、さようか」
「ことに人体の形状は泰西文芸にありて特種
の注意をひくものなれば、彼の小説家、詩人
の作中常に此方面に極めて精力を用ゐたる跡
あるは無理ならぬことなるべし」

この世界を飾る神の御業のなかで、
力と形で人間(男)の体ほど
美しくみごとなものはない。
ただし、それは醒めた理性に統治されている場合のこと。
一旦放埒と下賤な情念によって乱されれば、
けがらわしく、下劣なものこれに過ぐるはない。
──エドマンド・スペンサー「妖精の女王」第二巻第九章
第一節(ただし、ラスキン『近代画家論』第二巻第三部
第一節第十四章からの引用)

Of all God's works which does this world adorn,
There is no one more faire, and excellent,
Than is man's body both for power and forme
Whiles it is kept in sober government.
But none than it more foul and indecent
Distempered through misrule and passion brace.
---Spencer (quoted by Ruskin: Modern Pointers,
 Vol. II. pt. III. sec. I. chap. xiv.)

「泰西の詩人の感覚はわからないが、東洋の風雅の
感覚では人体よりも景色のほうが美しい」

五月雨や大河を前に家二軒 蕪村


視覚─運動
   2008/12/12 (金) 11:02 by Sakana No.20081212110202

12月12日

「舞踏や演劇を観ればおわかりのように、視
覚に訴える運動も文学的成分です」
「たとえば?」
「波のうねり、白雲の蓬勃(ほうぼつ)たる、
落葉、霏霏(ひひ)たる雪──すべてこれ運
動の美を生命とするもので、文学にこの種の
分子がおびただしいことはいうまでもありま
せん」
「俳諧のひねりの例は?」
「落花枝にかへると見れば胡蝶かな 荒木田守
武」
「なるほど、錯覚を詠んだものか」
「英詩の例も紹介しておきます」

その荒野の沼沢地のほとりに、
身じろぎもせず、老人は立っていた。
風が大声で呼んでも聞くでもなく、
動くとなると、一緒に動く雲のように。
──ワーズワス「蛭取りの老人」74-77行

Upon the margin of that moorish flood
Motionless as a cloud the old Man stood,
That heareth not the loud winds when they call;
And moveth all together, if it moves at all.
---Wordsworth, The Leech-Gatherer, II. 74-7


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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