夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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結末のつけ方
   2008/10/16 (木) 10:51 by Sakana No.20081016105104

10月16日

「小説の興味の統一という観点から特に重
要なポイントは結末のつけ方です」
「結末のない小説も考えられるのではない
か」
「永劫の発展が宇宙の大法ではありますが、
段階を画して発展の一時期を終えるのも自
然の原則です。小説はこのような自然の原
則にしたがうべきでしょう」
「とすると、小説の作者は結末のつけ方の
巧拙が問われることになる」
「その通りです。自然のある部分をひきち
ぎってきて、これがありのままの自然であ
り、この小説はこれで終わりでございます
といっても人には読まれません」
「デフォーの小説はどうだろう」
「ほとんどの小説が主人公の生涯のはじめ
から終わりまでを描いています」
「それならちゃんと結末がついているでは
ないか」
「それは外形だけをまとめて、結末と称し
ているだけで、内容をまとめて結末とした
ものではないと漱石先生は不満を抱いてお
られるようです」
「いいがかりをつけているだけだろう」
「すみません。私の説明が不十分で、漱石
先生の真意が伝わっていないようです」



車夫が車を引くような文章
   2008/10/19 (日) 08:48 by Sakana No.20081019084801

10月19日

「デフォーは日常の事実以外に何事をも書か
ぬ人であると漱石先生は言っておられます」
「『ロビンソン・クルーソー』は非日常的な
漂流譚ではないか」
「その漂流譚でさえ車夫が車を引くような具
合に書いてあるそうです」
「古めかしいたとえだ。風情がある」
「ほめているのではなく、けなしているので
すよ」
「そうかな。カミユ『ペスト』の冒頭には次
の引用がある。<ある種の監禁状態を他のあ
る種のそれによって表現することは、何であ
れ実際に存在するあるものを、存在しないあ
るものによって表現することと同じくらいに、
理にかなったことである。 ダニエル・デフ
ォー>」
「それは『ロビンソン・クルーソー』ではな
く、おそらく『倫敦疫病日誌』からの引用で
しょう」
「宮崎嶺雄訳だから翻訳調なのは仕方がない
が、車夫が車を引くような具合に書いてある
とは思えない」
「見解の相違ですね」


文学評論のまとめ
   2008/10/23 (木) 09:51 by Sakana No.20081023095124

10月22日

「そろそろまとめに入りましょう」
「よきにはからえ」
「漱石先生の文学評論は十八世紀英文学を四
つの切り口からさばいたものです。
 1)常識文学(アディソン&スティール)
 2)厭世文学(スウィフト)
 3)人工派の詩(ポープ)
 4)小説の組立(デフォー)」
「そんなことは目次をみればわかる」
「内容と形式にわけて論じていますね。1)
と2)が内容、3)と4)が形式」
「内容は常識と厭世(非常識または超常識)
の比較か」
「その両者の比較では厭世(超常識)文学に軍
配があがっています」
「その判定にはものいいがつけられるだろう。
人間の社会を動かすのは世論であり、常識だ。
厭世(超常識)主義ではない」
「一方、形式は詩と小説にわけ、詩はポープ、
小説はデフォーが俎板にのせられています」
「どちらもそれほど高い評価は与えられてい
ないのでは?」
「いちゃもんをつけやすい作家をやり玉にあ
げたほうが文学評論には迫力が出てくるよう
です」


最後の講義
   2008/10/25 (土) 08:25 by Sakana No.20081025082510

10月25日

「漱石先生が東大で文学評論の講義をされた
のは明治三十八年(1905)九月から明治四十年
(1907)三月までです」
「四月には教職を辞して、朝日新聞社に入社
しているから文学評論が最後の講義になる」
「初期の小説『坊ちゃん』『吾輩は猫である』
『草枕』の三篇が完成したのは明治三十九年
──ということは、この三篇の小説は『文学
形式論』『文学論』『文学評論』の三部作と
ほぼ平行して執筆されているのです」
「それがどうした」
「三篇の小説はたとえば、内容としては諷刺、
形式としては小説の組立についての講義を応
用した実験的作品だと思います」
「たしかに、『坊ちゃん』『吾輩は猫である』
『草枕』の三篇は諷刺がよくきいている」
「スウィフトの影響でしょうか」
「スウィフトだけではない。スターンやシェ
レーの影響もある」
「スターンやシェレーは『文学評論』ではと
りあげられていません」
「スターンの『トリストラム・シャンディイ』
は脱線が多いところがスウィフトの小説に似
ているし、シェレーの雲雀の詩は『草枕』で引
用されている」

 We look before and after
   And pine for what is not:
  Our sincerest laughter
   With some pain is fraught:
  Out sweetest songs are those that tell of saddest thought.

  前を見ては、後(しり)えを見ては
 物欲しと、あこがるるかなわれ。
 腹からの、笑いといえど、
 苦しみの、そこにあるべし。
 うつくしき、極みの歌に、
 悲しさの、極みの想(おもい)、
 籠(こも)るとぞ知れ


漱石の小説の組立
   2008/10/28 (火) 08:20 by Sakana No.20081028082040

10月28日

「ずいぶん遠まわりになりましたが、あらた
めて漱石先生の三部作のうちの『文学論』を
受講したいと思います」
「いよいよ横綱の土俵入りか。『文学形式論』
と『文学評論』は露払いと太刀持ちのようも
のだ」
「その前に漱石先生が執筆された十四篇の中
・長編小説のリストをあげておきましょう」
「何のために?」
「理論篇と応用篇を照合し、創作の手口をチ
ェックするためです」
「初期の三篇『坊ちゃん』『吾輩は猫である』
『草枕』は三部作の理論を応用した実験的作
品だときみはいっていたが、その他の十一篇
も同様なのかな」
「そうだと思います。すべて作風が違います
から」
「意図的に作風を変え、しかも作品の品質を
ハイレベルに維持るためには理論がよほどし
っかりしていなければならない」
「ですから、その辺を研究したいと思いまし
て・・・」
「きみの頭で『文学論』が理解できるのか」
「それはなんともいえませんが、もう一度チ
ャレンジしてみます」

吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』) 
坊つちやん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年) 
草枕(1906年9月、『新小説』) 
野分(1907年1月、『ホトトギス』) 
虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』) 
坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』) 
三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』) 
それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』) 
門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』) 
彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』) 
行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』) 
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』) 
道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』) 
明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』) 


文学論の目次
   2008/10/31 (金) 08:29 by Sakana No.20081031082951

10月31日

「まず、『文学論』の目次を書きぬいておき
ます(講義は明治三十六年九月〜三十八年六
月、毎週三時間)」
「この目次を見れば、ほとんどの学生はおそ
れをなして、ドロップアウトするだろう」
「私もドロップアウト組ですが、もう一度挑
戦してみます」
「目次を見直した感想は?」
「要するに文学論のうちの内容論なんですね」
「形式論はすでに『文学形式論』で講義され
ている」
「それでまず、文学的内容の分類をしておい
て、文学的内容の数量変化と特質と相互関係
を論じ、最後に集合的Fです」
「Fはなんだっけ?」
「Focus(焦点)の頭文字です。Fact(事実)
を意味することもあります」
「わからんな」
「わからない人は集合的F(Fool)に分類され
るのかもしれません」


第一編 文学的内容の分類
 第一章 文学的内容の形式
     (F + f)心理的説明
 第二章 文学的内容の基本成分
 第三章 文学的内容の分類及びその価値的等級
第二編 文学的内容の数量変化
 第一章 Fの変化
 第二章  fの変化
 第三章 fに伴ふ幻惑
 第四章 悲劇に対する場合
第三編 文学的内容の特質
 第一章 文学的Fと科学的Fの比較との比較一汎
 第二章 文芸上の真と科学上の真
第四編 文学的内容の相互関係
 第一章 投出語法
 第二章 投入語法
 第三章 自己と隔離せる聯想
 第四章 滑稽的聯想
  第一節 口合
  第二節 頓才
 第五章 調和法
 第六章 対置法
  第一節 緩勢法
  第二節 強勢法
   [附]仮対法
  第三節 不対法
 第七章 写実法
 第八章 間隔論
第五章 集合的F
 第一章 一代における三種の集合的F
 第二章 意識推移の原則
 第三章 原則の応用(一)
 第四章 原則の応用(二)
 第五章 原則の応用(三)
 第六章 原則の応用(四)
 第七章 補遺
  (一)文界に及ぼす暗示の種類
    (い)物質的状況と文学/Elizabethan Age
        (ろ)政治と文学/仏国革命
    (は)道徳と文学
  (二)新旧精粗に関して暗示の種類
  (三)暗示の方向とその生命



文学的内容の形式
   2008/11/3 (月) 11:56 by Sakana No.20081103115641

11月03日

「凡(およ)そ文学的内容の形式は(F+f)なる
ことを要す──これが学生の度肝をぬいた講義
の第一声です」
「文学的形式とは違うのだな」
「もちろん、文学的形式と文学的内容の形式と
は違います」
「どう違うんだ?」
「その議論は煩雑になりますから、やめておき
ます。ここでは文学的内容の形式が(F+f)なるこ
とを要すという法則について考えましょう」
「大文字のFはFocus(焦点)の頭文字で、Fact
(事実)を意味することもあるというが、小文
字のfはなんだっけ?」
「Fが焦点的印象または観念を意味している
のに対し、fはこれに附着する情緒を意味しま
す」
「焦点的印象(または観念)+ 附着する情緒?」
「印象と観念の二方面は即ち認識ですから、
認識的要素(F)+ (情緒的要素)ともいえます」
「まてよ、認識の二方面は即ち印象と観念とい
えるのかな?」
「漱石先生がそう仰っているから間違いないで
しょう」
「情緒的認識だってあるだろう。どうしてくれ
る?」
「情緒的認識ということばはありません。感性
的認識ということばはありますが」
「感性と情緒は似たようなものだ」
「そんな議論をしていると煩雑になりますから、
やめておきましょう」





印象及び観念の分類
   2008/11/6 (木) 16:57 by Sakana No.20081106165740

11月06日

「われわれが日常経験する印象及び観念は三種
に大別できます」
「そんなものを分類してもあまり意味がないと
いう印象を受けるが」
「(一)Fがあってfがない場合
 (二)Fにともなってfを生じる場合
 (三)fのみ存在して、それに相応すべきFが
    認められない場合」
「何のことやら、さっぱり、わからん」
「次のようにいえば、おわかりいただけるでし
ょうか」
 (一)知的要素はあるが、情的要素のないも
    の。たとえば、三角形の観念。
 (二)知的要素にともなって、情的要素が生
    じるもの。たとえば、花、星のような
    観念
 (三)知的要素がなく、情的要素だけあがあ
    るもの。たとえば、何の理由もなく感
    じる恐怖」。
「それならわかる」
「これら三種のうち文学的内容となり得る形式
は(二)だけです」
「(一)は智に働けば角が立つ、(三)は情に
棹させば流される。したがって、(二)だけが
文学的内容となり得る形式と考えたほうがわか
りやすいかな」
「いずれにしても、文学論研究という意地を通
せば窮屈ですね」
「とかくに人の世は住みにくい──これが(F+f)
だ」


意識の波
   2008/11/9 (日) 08:27 by Sakana No.20081109082707

11月09日

「文学的内容の形式、つまり、(F+f)のFは焦点
的印象または観念です」
「わかったよ」
「わかっているとは思いますが、F(焦点)的と
いう語についてもう少し説明しておきましょう」
「Fがfocus(焦点)の頭文字ということはわかっ
ている」
「この説明はさかのぼって意識という語から出発
しなければなりません」
「焦点的意識?」
「<意識の波>を考えてください。ある意識状態
の連続内容をとり、その一刻をプツリと切って、
観察すると、その前端の意識はしだいに薄らぐが、
その後端はしだいに明瞭の度を加えることがわか
ります」
「<意識の流れ>ということばなら聞いたことが
あるが」
「意識の時々刻々は一個の波形です。これは図に
すればもっとわかりやすいのですが、波形の頂点、
即ち焦点は意識のもっとも明確なる部分で、その
前後がいわゆる識末ということになります」
「それがどうした?」
「私たちの意識的経験は常にこの心的波形の連続
なのです。即ち、Aという焦点的意識がBに移る
とき、A*は識末と変じて存在します。さらに焦
点的意識がBからCに移ると、A*とB*はともに
識末として残ります」


焦点的意識Fの分類
   2008/11/12 (水) 09:08 by Sakana No.20081112090833

11月12日

「焦点的意識Fは波ですから、時間の経過と
ともに移動します」
「波紋の中心、台風の眼」
「一瞬にFがあり、一時間にもFがあり、百
年にもFがあります」
「一瞬の人生、百年の孤独」
「次の三種に分類できます。
 (一)一刻の意識におけるF
 (二)個人的一世の一時期におけるF
 (三)社会進化の一時期におけるF」
「一刻の意識におけるFとは?」
「たとえば、今、焦点的意識とは何かを考え
ている意識です」
「個人的一世の一時期におけるFとは?」
「たとえば、幼いころの玩具人形、青年期の
恋愛、中年期の金銭権勢、老年の衆生済度そ
の他未来の世に関しての沈思など」
「社会的進化の一時期におけるFとは?」
「いわゆる時代思潮で、たとえば、幕末期の
尊皇攘夷、昭和二十年代の一億総懺悔です」
「平成の世界金融危機、六十億総懺悔」


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「夏目漱石の『文学論』を読みとく」 長谷部さかな 著
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