夏目漱石の『文学論』を読みとく

長谷部さかな 著
 
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諷刺文学
   2008/8/17 (日) 10:20 by Sakana No.20080817102007

8月17日

「漱石先生が『文学評論』で、スウィフトの
次にポープをとりあげて批評された理由は何
でしょう」
「デフォーとポープはコーヒーハウスの常連
で、お互いに親しい間柄だったのはないか」
「実は『ダンシアッド』を書かせたのはスウ
ィフトです」
「『ダンシアッドは』(The Dunciad)は、諷
刺の多いポープの作品の中で、最も苦心の余
に成った諷刺で、ある点から見ればポープの
傑作というのが漱石の評価らしいが、もとも
とは諷刺の大家スウィフトのお墨付きだった
のか」
「しかし、『ダンシアッド』と『ガリヴァー
旅行記』では諷刺の質に格段の差があります。
『ダンシアッド』の興味は徳川時代の落首と
同じくその場かぎりのものであるのに対して、
『ガリヴァー旅行記』の諷刺は二百年後、三
百年後も光彩を失わず、英国だけでなく、ど
この国でも通用しています」
「ということは、漱石はスウィフトの諷刺を
引き立てるためにポープの詩を『英国評論』
でとりあげたのかもしれない」
「そういえば、アヂソンとスチールのエッセ
ィも、次にとりあげるダニエル・デフォーの
小説も引き立て役の観があります」
「漱石が『文学評論』を執筆した背景にはス
ウィフトの諷刺文学を持ちあげるという動機
があったのかな」


時が滲む朝
   2008/8/20 (水) 09:19 by Sakana No.20080820091924

8月20日

「十八世紀の英文学評論ばかりでは脳みそに
カビがはえてしまいそうです。たまには気分
転換に新しい小説をということで、揚逸『時
が滲む朝』を読みました」
「小説は英語でNovelというだけであって、
どこかに新しさがもとめられていることはた
しかだ」
「中国人初の芥川賞受賞作品です。たまたま
北京オリンピック開催中でもあり、純文学の
世界でも中国人の揚逸さんが金メダルをとっ
たということそれ自体が新しいと思います」
「小説の内容にも新しいところがないと困る」
「内容はどちらかというと古風な描写ですが、
逆にそれが新鮮な感じがしました」
「たとえば?」
「秦漢大学に合格した主人公が湖畔で、『お
ーい、梁浩遠だぞ、やったよぉ。国に役立つ
人材になるぞ』と素直に喜びを表現するとこ
ろがいいですね」
「平凡、陳腐としかいいようがない」
「しかし、私は日本の小説で、大学への入学
がきまったとき、『国に役立つ人材になるぞ』
と叫ぶ学生の描写にお目にかかったことがあ
りません」
「そうかな、最近はともかく、一昔前なら
『末は博士か大臣か』を目指したり、『天皇
陛下のために役立つ人材になるぞ』と叫ぶ学
生がいたはずだが」
「そんなのは、『国に役立つ人材になるぞ』
とは意味がちがいます」




時が滲む時
   2008/8/23 (土) 08:38 by Sakana No.20080823083834

8月23日

「『時が滲む朝』の時とはどういう時だろう
?」
「小説で描かれている時は天安門広場の事件
が起こった1989年6月4日頃から北京オリンピ
ックが開催されている2008年8月頃までの約20
年間です」
「天安門広場事件もはや20年前の歴史の彼方
か」
「その時の流れを回顧して、涙が滲む朝とい
うのが小説の題名の意味ではないでしょうか」
「なぜ涙が滲むのか」
「テレサ・テンや尾崎豊の歌が聞こえてくる
からです」
「そんな歌手には何の思い入れもない」
「20年前、すでに涙も滲まない化石だったの
ですか」
「東海林太郎『国境の町』のメロディーを聞
くと、今でも滲んでくるよ──国境の長いト
ンネルを抜けると雪国であった」
「川端康成『雪国』はサイデンステッカーの
英訳でノーベル文学賞を受賞していますね」
「The train came out of the long tunnel 
into the snow country.──肝心の国境がぬ
けているからこの翻訳を読んでも時が滲まな
い」


雪国と万延元年のフットボール
   2008/8/26 (火) 08:46 by Sakana No.20080826084629

8月26日

「雪国は "a snow country"ですから"The train 
came out of the long tunnel into the snow 
country."で、国境を越えたというニュアンスが
伝わります。サイデンステッカーの訳は間違い
ではありません」
「肝心なのは<国境>ということば──涙がジ
ンと滲むのは国境ということばの語感だ」
「そんなことばに反応する日本人は絶滅危ぐ種
ですよ。ところで、もう一人のノーベル文学賞
作家大江健三郎『万延元年のフットボール』の
英訳をご存じですか」
「知らないね」
「ジョン・ベスター訳によれば"A Silent Cry"
です」
「原作は歴史小説ではないのか」
「<詩的想像力により、現実と神話が密接に凝
縮された想像の世界をつくりだし、現代におけ
る人間の諸相を衝撃的に描いた>としてノーベ
ル文学賞を受賞していますから歴史小説とはい
えません」
「しかし、原作の題名に万延元年という年号が
入っている以上、歴史小説の要素はあるはずだ。
日本人なら桜田門外の変とか史上初の遣米使節
団を連想するだろう」
「そんなことを連想するの日本人は絶滅危ぐ種
だけですよ」
「せめて西暦で1860年としてもらいたい」
「作品を読んでいただければおわかりのことと
思いますが、『万延元年のフットボール』はむ
しろ心理小説です。その点を考慮して、訳者の
ベスターは"A Silent Cry"という題名にしたの
です」
「"Football in 1860"とするべきだ」
「それではノーベル文学賞は受賞できません」


デフォーと小説の組立
   2008/8/29 (金) 09:11 by Sakana No.20080829091121

8月29日

「それでは、漱石先生の文学評論で最後にと
りあげられているダニエル・デフォー(1661-
1731)と小説の組立をご紹介します」
「デフォーといえば、『ロビンソン・クルー
ソー漂流記』は、スウィフトの『ガリヴァー
旅行記』とならんで、少年少女向けの名作と
して有名だ」
「ところが、『ガリヴァー旅行記』を古今の
傑作と評価しておられる漱石先生が、『ロビ
ンソン・クルーソー漂流記』はあまり高く評
価しておられません」
「蓼食う虫も好きずき(There's no accounting 
for taste.)」
「知的に狭く、道徳的に低く、詩的に下等─
─しかも、精力が充満して活動の表現が欲し
いような場合には、そこに現れる小説がいか
なる形式を取るかといえば、デフォーの書い
たようなものになるに相違ないそうです」
「そこまで言えば酷評だね。そういえば、
<スウィフトの筆には詩的な所がない>と漱
石は言っている。その点では、スウィフトも
デフォーも似たようなものではないのか」
「以前に申し上げましたが、スウィフトは
<筆を殺している所が妙だ>と漱石先生は言
っておられます。おそらく、筆を殺して<詩>
を表現しているのでしょう。一方、デフォー
にはそんなところはまったくありません」


崇高の反対極にあり
   2008/9/1 (月) 07:47 by Sakana No.20080901074724

9月01日

「デフォーは崇高荘厳の反対極にあるものだ
と漱石先生は喝破しておられます」
「崇高荘厳とは何だ」
「奈良の大仏みたいなものではないでしょう
か」
「大仏と比べれば人間は誰だって崇高荘厳と
いう点では劣るにきまっている」
「でも、ホメロスやウェルギリウスの文章に
は崇高荘厳なところがあります」
「読んでもいないのにそんなことがわかるの
か」
「アディソン、スティール、ポープに崇高荘
厳なところがないのはご承知の通りです。ス
ウィフトはもう少し大きくて凄いところがあ
るけれども荘厳とはいえません」
「ギリシアやローマの詩人に比べれば、十八
世紀英国の作家の作品に崇高荘厳のないのは
当然だ」
「なにしろ詩よりも散文が発達した時代です
からね。そのなかでもデフォーが崇高荘厳の
反対極にあるチャンピオンなのです」
「チャンピオンならたいしたものだ」


労働小説
   2008/9/4 (木) 08:05 by Sakana No.20080904080558

9月04日

「デフォーの小説は気韻(気品の高い)小説
でもなければ、空想小説でもない、撥情小説
でもなければ、滑稽小説でもないそうです」
「いったい何小説だ」
「労働小説です」
「プロレタリア文学か」
「産業革命以前にはプロレタリア文学は生ま
れていません」
「プロレタリア文学ではない労働小説とはい
かなるものか」
「汗の臭いがする小説です」
「汗の臭いならスポーツ小説もあるぞ」
「あまりこまかなところで揚げ足をとらない
でください。要するに漱石先生がデフォーの
作品を労働小説と称しておられるのです。
「そういえば、漱石の小説には汗の臭いがし
ない」
「しかも、デフォーの小説は紋切り型に道徳
的である。ある意味において無理想現実主義
の十八世紀を最下等の側面より代表するもの
である。彼は身分の高い生まれではなかった
とも評しておられます」
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人を
つくらず」


デフォーの経歴
   2008/9/7 (日) 17:10 by Sakana No.20080907171058

9月07日

「デフォーは生まれながらの記者で、二十一
歳にもならない若さで、すでに一巻の書を著
していました。一生のあいだに書いた書巻は
実に三百部近くにのぼります」
「なかなか筆達者の男だ」
「二十五歳のとき、モンマス公(Duke of Monmouth)
のために剣をとって軍にしたがいました」
「絶滅したマンモスなら知っているが、モン
マスは知らない」
「モンマス公(1649-1685)は叔父ヨーク公ジェ
ームズ、後のジェームズ二世と王位を争って
敗れ、斬首の刑に処せられた人物です」
「敗軍の将に加担したって浮かばれない」
「ジェームズ二世(在位:1685年 - 1688年)
の御代(になると、デフォーは宗教上の論争に
加わりました」
「ジェームズ二世か。イギリスの王の名前は
平凡な名前が多いために覚えにくい」
「ジェームズ二世はイギリスでカトリック信
仰を有する最後の国王でしたが、1688年の名
誉革命によって王位を逐われました」
「デフォーはどうした?」
「反ジェームズ二世派だと思うのですが、漱
石先生の『文学評論』には<革命の際にはみ
ずから義勇兵の一人として、王と王妃とにし
たがって、白宮(Whitehall当時のロンドンの
宮殿)から市伊(しいんーロンドン市長)の邸
(Mansion House)へ移ったこともある>という
記述もあります」
「デフォーの宗教的立場?」
「彼は非国教徒(dissenter)です」
「なぜ、ジェームズ二世と王妃にしたがった
のだろう」
「漱石先生の『文学評論』だけではよくわか
りません。その後、小冊子『非国教徒撲滅策』
The shortest way with the Dissenters, 1702
で、非国教派に対する圧迫を風刺して,1703
年に罰金、入獄の刑に処せられました」
「それでもくたばらなかったのか」
「『ロビンソン・クルーソー漂流記』を発表た
のは1719年です。そう簡単にくたばるような人
間ではありません」


ペンは剣よりも強し
   2008/9/10 (水) 10:47 by Sakana No.20080910104740

9月10日

「デフォーの経歴をみると、ペンは剣よりも
強しを実感します」
「負け組に加担して、叩きつけられてもその
都度ペンの力で有力者の誰かに認められ、失
地挽回しているところをみると、彼が剣より
もペンで成功したことはたしかだ」
「メリヤス屋を商売にしていたのに、一九六
二年には借金に責められて逃亡しましたが、
一九六五年にはウイリアム王によって硝子税
取扱掛りに属する会計官(accountant to the
commissioners for managing the duties on
glass)という税吏に任命されています」
「1702年に庇護者のウイリアム王が逝去して
から罰金、入獄の刑に処せられ、破産したと
いうではないか」
「獄中にあってもデフォーの意気盛んに詩を
つくっています。そして、文才が政治的に使
い道があると時の衆議院議長のサー・ロバー
ト・ハーレーに認められ、アン女皇に謁見の
栄を得ました。それ以来、デフォーは女皇を
徳とし、ハーレーを恩人としています」
「ペンの力で、その都度、時の権力者に取り
入るとは見上げたものだ」
「でも・・・」
「悔しかったら同じようにやってみなさい」


詩と散文
   2008/9/13 (土) 08:35 by Sakana No.20080913083506

9月13日

「もし文章の一極端に詩と名づけるものがあ
って、反対の極端に散文というものが控えて
いるならば、もし詩が道楽で散文が用事とす
れば、もし詩が面白い座談で散文がさっさと
片付けべき懸合事(かけあいごと)とすれば、
デフォーは決して詩に触れない男だと漱石先
生は言っておられます」
「しかし、ニューゲートの獄中にあったとき、
意気盛んに詩をつくっていたというではない
か」
「その詩は用事、ビジネス、懸合事だったの
です。道楽でつくっていたのではありません」
「そうかな」
「デフォーは頭から詩を軽蔑していた男だっ
たのです」
「漱石は詩が好きだったらしいな」
「漢詩や俳句をたくさんつくっていますね」
「デフォーのようにペンを実利的にしか使お
うとしない男は軽蔑していたにちがいない」
「<兎角に人の世は住みにくい。住みにくさ
が高じると、安い所へ引き越したくなる。ど
こへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生
れて、画(え)ができる>などと『草枕』に
書いておられます」


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