『高齢者文学人生論』 長谷部 さかな 著

夏目漱石「則天去私」神話の真実

 「如何に生くべきか」は人生の課題であり、文学の課題でもあ りますが、高齢化社会では「如何に死すべきか」も重要な課題で す。この二つの課題は表と裏のようにつながっています。  私は「映画文学人生論」にとりくんでいるうちにそのことに気 がつき、あらためて、文学者の死生観を参考にして、「如何に死 すべきか」を考えるようになりました。  文学者の大半は才能を使いはたし、燃え尽きて死ぬ運命にある ようです。それ以上生きながらえてもほとんど期待薄ですが、な かにはせめてもう一年は生きてほしかったと、早すぎる死が惜し まれる文学者もいます。   大正五年一二月九日に四十九歳十か月で他界した夏目漱石はそ の一人です。鏡子夫人の『漱石の思い出』には、寝間着の胸をは だけながら「ここへ水をかけてくれ。死ぬと困るから」と叫んだ とありますが、誰が何を困るのでしょう。  漱石自身は則天去私の心境を志していたと言われていますから 何も困ることはないと思います。作品は死後も売れ続け、著作権 による収入が見込まれていたので、妻子の生活は困りません。  困る者がいるとすれば、読者です。現実に読者の一人として私 が困っています。『明暗』が未完のまま絶筆になり、さらに、も う一度大学の講壇に立って新しい則天去私の文学論を講じてみた いという漱石の希望が実現しなかったため、則天去私を理解する 手がかりが失われてしまったからです。  私は文学者の死生観を調べているうちに、則天去私の心境こそ 臨終に際しての理想ではないかと思うようになりました。ところ が、漱石の早すぎる死によって、『明暗』の結末と則天去私の 『文学論』が後世に伝わっていないのです。  『明暗』の登場人物は、打算的で、見栄っぱりの、我欲の強い、 エゴイストばかりです。そんなエゴイストたちがどうすれば、私 を去り、折り合いをつけて、則天去私の悟達を得ることができる のでしょうか。私自身もエゴイストなので、是非知りたいのです が、残念ながら『明暗』は未完です。  実は則天去私という言葉は漱石自身が書き残した文章の中には 見あたりません。門弟の小宮豊隆や松岡譲が漱石の言葉として伝 えているだけです。  「漱石は死を生の中に織り込み、生を死の中に織り込み、こう して相互に反発し矛盾する二つのものを、一つのものに連接させ たいと希(こいねが)った。「則天去私」はそのことを可能にす る唯一の道であった」(小宮豊隆『夏目漱石』)。  「ようやく自分もこの頃一つのそういった境地に出た。『則天 去私』と自分ではよんでいるが、他の人がもっと他の言葉で言い 表してもいるだろう・・・・・・今度の『明暗』なんぞはそんな 態度で書いているが、自分は近いうちにこういう態度でもって新 しい本当の文学論を大学あたりで講じてみたい」(漱石の談話─ ─松岡譲『漱石先生』より)。  「則天去私」という言葉が漱石自身の文章の中にみあたらない ため、修善寺の大患以後、漱石の心境の一大転換が行われ、則天 去私の悟達を得たとするのは門弟たちによる漱石の神格化、神話 化だという江藤淳の批判があらわれました。伝統的な古い価値観 を否定する論調が盛んだった昭和三十一年のことです。  しかし、高齢化社会に突入した二十一世紀の日本では則天去私 を神話として軽視するのはもったいないと思います。むしろ高齢 者が則天去私の境地を志すのは望ましいことではないでしょうか。  漱石の『文学論』の主意は心理学社会学の方面より根本的に文 学の活動力を論じることでした。第五編では「集合的F」が論じ られていますが、「則天去私」神話をめぐる諸氏の見解を日本人 の集合的意識の推移という観点から見直してみることも有意義で はないかと私は思います。  参考 夏目漱石『文学論』 明治四十年 (1907)     夏目鏡子『漱石の思い出』昭和三年 (1928)     松岡譲『漱石先生』昭和九年(1934)     小宮豊隆『夏目漱石』昭和十三年(1938)     江藤淳『夏目漱石』昭和三十一年(1956)

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