『映画文学人生論』 長谷部 さかな 著

おれの小説は映画に向かない
──山本周五郎

 文学作品は映画や芝居やドラマの原作として使われることがありま す。映画や芝居やドラマが興行的にヒットすれば、原作の売れ行きも 伸び、相乗効果が期待できます。  一方では、映画、芝居、ドラマにはなりにくいけれども、文学とし てはすぐれている作品もあります。  映画との親和性の高い作品を書いた文学者の代表をあげるとすれば、 私が原作を読み、映画を観たかぎりでは、谷崎潤一郎と山本周五郎で す。この二人を原作者とした映画は、比較的評判がよく、興行的にも 成功をおさめているようです。 谷崎潤一郎は、自ら映画の製作にかかわり、映画の脚本を書いたこ ともあります。耽美的な作風が映画に向いているのか、『卍』『痴人 の愛』『春琴抄』『細雪』『鍵』『瘋癲老人日記』など興行的に成功 した映画が多く、映画と原作との親和性が高い文学者といえるでしょ う。  山本周五郎も映画との親和性の高い文学者とみなされ、多くの作品 が映画化されていますが、皮肉なことに、作者の自己評価は違います。 木村久爾典『人間山本周五郎』によれば、「おれの小説は芝居にもな らないし、映画にも向かない。ましてテレビ、ラジオなどになるわけ がない」とよく言っていたそうです。  なぜでしょうか。山本周五郎は次のように理由を説明しています。 「おれのやっているのはあくまで散文だ。それが時間や視覚や聴覚だ けで表現する芝居や映画になると、心理のヒダまで追求する散文に比 べてどうしてもストーリーを追うほうに重点がいってしまう。おれは、 散文でなければ表現できないものをやっているつもりなんで、評判が 良いという理由で、映画演劇屋さんがとびついてくるのは筋違いだと 思うな」。  映画との親和性が高いとされる山本周五郎でさえこのように考えて いたとは意外です。  一方、映画との親和性が低いとみられる文学者を二人だけあげると すれば、夏目漱石と太宰治ですが、この二人の文体は映画で表現する ことは難しい──映画の『坊っちゃん』や『人間失格』を観て、私はそ う思いました。映画の出来映えは原作に遠く及びません。  夏目漱石は『中味と形式』という講演で、「元来私は活動写真を好 みません」と云って、活動写真(映画)への拒否反応を示しました。  太宰治は、「映画を好む人には弱虫が多い。私にしても、心の弱っ ている時には、ふらっと映画館に吸い込まれる。心の猛っている時に は映画なぞ見向きもしない。時間がおしい」(『もの思う葦』)と述 べています。  死後も読まれ続けている文学者の作品が映画との親和性が低いとい うのは社会心理学的に興味深い現象だと思います。                         (2015/01/20)

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