『映画文学人生論』 長谷部 さかな 著

映画と原作のずれ
──山本周五郎の場合

 『映画文学人生論』のきっかけになったのは山本周五郎『青べか 物語』を原作とする川島雄三監督の映画への疑問──この映画は原 作を忠実に反映していないのではないかという疑問を私が抱いたか らです。 文学と映画はどちらも芸術の一ジャンルとはいえ、まったくの別 物で、映画は原作を忠実に反映しているとはかぎりません。しかし、 一方で、文学と映画との間には一種の親和性がみとめられます。映 画を観れば、作者や監督の思想や世間の評判を知りたくなり、原作 への理解が深まります。  そうなると、いわゆる相乗効果が生まれる──私にとって『青べ か物語』はそんな作品です。  主人公の蒸気河岸の先生は売れない作家で、三文文士のイメージ を漂わせています。浦粕という陸の孤島のような漁師町で暮らして いますが、よそものですので、傍観者のようなところがあり、地元 民の間では影の薄い存在です。  川島雄三監督は、この原作をみた時、作者不在ということを考え ました。この中に作者がいることは可能だろうか、と思ったそうで す。  脚本は新藤兼人が書き、主演の森繁久弥がそれを読んで、感動し、 乗り気を示したが、川島監督は、作者不在ではいけないのではない か、作者がその中にいなければ、自分が監督をやる必要はないので はないか、という感じがした。そこで、フランスの作家サルトルの 『嘔吐』の主人公、アントワール・ロカンタンをこの「青べか物語」 の主人公にすることで、かろうじて何かを支えられるのではないか と、思ったそうです。(「川島雄三自作を語る」)。 そうなると、蒸気河岸の先生はロカンタンになり、映画は山本周 五郎ではなく、サルトルに影響された川島雄三作品になってしまい ます。また俳優の演技については、「映画の森繁やフランキー堺も いかにもうまい、いかにもうまいが結局学生芝居じゃないか」とい うのが山本周五郎の評価ですから、そもそも映画『青べか物語』に 森繁やフランキー堺を使うのもミスキャストだったかもしれません。  同じことは、黒澤明監督の映画『椿三十郎』についてもいえます。 原作は山本周五郎の『日日平安』ですが、大幅に改変され、主人公 のみすぼらしい、腹をすかせた侍を三船俊郎が演じる「ギラギラと して、まるで抜き身の刀のような」剣豪に変身させました。  すると、原作者の意識では、三船俊郎の椿三十郎もミスキャスト だったのかもしれません。映画が興行的にヒットしたのは黒澤明の 演出とミスキャストのおかげともいえるでしょう。一方、『季節の ない街』を原作とする黒澤映画『どですかでん』は興行的に失敗し ましたが、原作者はその失敗に対して責任はありません。ついでに、 もう一本の黒澤映画『赤ひげ』についていうと、「よく出来ている。 原作よりいいじゃないか」と山本周五郎はいったそうですから比較 的原作と映画のズレが少ないといえます。  木村久邇典『人間山本周五郎』によれば、「小説の原稿料につい てはウルサ型だった山本さんだが、小説以外の映画、芝居、テレビ などの原作料については無関心と思えるほど鷹揚であった」。  太平洋戦争中、山本周五郎が自身の原作による映画を大映本社の 試写室で観たとき、隣の席にすわっている社長の菊池寛に向かって、 「あくびの出るような退屈な活動でしたなあ。原作料とはこれ要す るに原作ぶちこわし料の謂いですか。失礼」と言って、帰ってしま ったそうです。                (2015/01/20)

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