『文学論』──自己本位の読み方のまとめ

長谷部さかな 著
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不道徳文学──純美感
   2015/10/25 (日) 05:04 by Sakana No.20151025050407

10月25日

「猫が風呂(公衆浴場)にまぎれこみ、人間
の裸と衣服について意見を述べる面白い場面
があります」
「デカルトの法則の発見を車夫による猿股の
発明と比較するとはひどい」
「公衆浴場で裸になるのはよいが、裸で町を
歩くとわいせつ物陳列罪になると皮肉りもし
ています」
「そもそも美術館には裸体画が陳列されてい
るのに、わいせつ物とはみなされないのがお
かしい。矛盾している」
「論理より来る矛盾ではありません。同一の
裸体画Fに対して起る情緒fの質的差異によ
る矛盾です」
「現実社会においては裸体を一個の道徳的F
として観察し、これを醜なるものとみなして
いる」
「ところが、いったん美術館に足を入れると、
単に感覚的Fとしてこれを遇し、心おきなく
芸術的鑑賞にふけることができます」
「道徳的Fはどこに行ってしまったのだ」
「識末で小さくなっています」
「そのせいか、この種の不道徳文学は最近は
話題にもならなくなったようだ」
「今となってはチャタレー裁判がなつかしい
ですね」
「昭和二十五年、D.Hローレンス作伊藤整訳
『チャタレー夫人の恋人』の大胆な性描写が
問題となり、猥褻文書販売罪で起訴され、二
年後、最高裁で発行者・訳者ともに有罪とさ
れた」

 近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体
を主張する先生もあるがあれはあやまってい
る。生れてから今日(こんにち)に至るまで
一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、
どうしても間違っている。裸体は希臘(ギリ
シャ)、羅馬(ローマ)の遺風が文芸復興時
代の淫靡(いんび)の風に誘われてから流行
りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常か
ら裸体を見做(みな)れていたのだから、こ
れをもって風教上の利害の関係があるなどと
は毫(ごう)も思い及ばなかったのだろうが
北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなる
ものかと云うくらいだから独逸(ドイツ)や
英吉利(イギリス)で裸になっておれば死ん
でしまう。死んでしまってはつまらないから
着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服
装の動物になる。一たび服装の動物となった
後に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認め
ない、獣(けだもの)と思う。それだから欧
洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像を
もって獣として取り扱っていいのである。猫
に劣る獣と認定していいのである。美しい? 
美しくても構わんから、美しい獣と見做(み
な)せばいいのである。(『猫』七)

  その昔(むか)し自然は人間を平等なるもの
に製造して世の中に抛(ほう)り出した。だか
らどんな人間でも生れるときは必ず赤裸である。
もし人間の本性が平等に安んずるものならば、
よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべき
だろう。しかるに赤裸の一人が云うにはこう誰
も彼も同じでは勉強する甲斐がない。骨を折っ
た結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰
が見てもおれだと云うところが目につくように
したい。それについては何か人が見てあっと魂
消る物をからだにつけて見たい。何か工夫はあ
るまいかと十年間考えてようやく猿股(さるま
た)を発明してすぐさまこれを穿(は)いて、
どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩
いた。これが今日(こんにち)の車夫の先祖で
ある。単簡なる猿股を発明するのに十年の長日
月を費(つい)やしたのはいささか異(い)な
感もあるが、それは今日から古代に溯(さかの
ぼ)って身を蒙昧(もうまい)の世界に置いて
断定した結論と云うもので、その当時にこれく
らいな大発明はなかったのである。デカルトは
「余は思考す、故に余は存在す」という三つ子
にでも分るような真理を考え出すのに十何年か
懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れ
るものであるから猿股の発明に十年を費やした
って車夫の智慧には出来過ぎると云わねばなる
まい。            (『猫』七)


君主の道徳と奴隷の道徳
   2015/10/28 (水) 06:21 by Sakana No.20151028062106

10月28日

「そもそも普遍的な道徳というものはありま
せん。君主の道徳と奴隷の道徳はちがいます」
「そんな区別をつけて世間を騒がせたのは哲
学者ニーチェだ。彼はキリスト教徒の道徳は
奴隷の道徳だから、これを捨て、別に君主の
道徳を樹立すべしと主張したらしい」
「苦沙弥先生へ華族様から郵便が届いたこと
があります。日露戦役から凱旋した将校下士
卒に対する凱旋祝賀会への義捐金の要請です」
「華族様が君主の道徳により、軍人遺族を慰
謝するためにも凱旋祝賀会を挙行することに
したのに、大平の逸民である苦沙弥は知らん
顔をして義捐金を出そうともしないのはけし
からん。非国民だ」
「でも、東北の凶作には二円か三円かの義捐
金を出しておられます」
「漱石は明治二十五年に、北海道岩内町吹上
町十七番地浅岡仁三郎方に本籍を移した。人
口の少ない北海道に本籍を移せば日清戦争へ
の徴兵逃れができるという判断からだろうと
いわれている」
「『一夜』の作者として送籍という詩人が大
平の逸民の間で噂になっていますね」
「朦朧体で徴兵忌避の事実をごまかしている」
「すると、漱石先生は君主の道徳よりも奴隷
の道徳を奉じておられたのでしょうか」
「ニーチェによれば、奴隷の道徳を奉じたの
はキリスト教徒だ。右の頬を打たれたら左の
頬を差し出せとキリストはいう。しかし、漱
石はキリスト教を信じなかった」
「でも、ストア派の哲学者エピクテタスを読
んでいます。ローマ帝国の時代、エピクテタ
スは奴隷でした。侮辱されたら、仕返しをせ
ず、ユーモアで応えることをすすめています。
特に自己卑下のユーモアが有効だと。『猫』
の苦沙弥に影響しているのではないでしょう
か」
「苦沙弥はエピクテタスの本を叩きつける様
に机の上に抛り出しているぞ」
「それはジェスチャーだけでしょう。金田に
そそのかされた落雲館の生徒たちとの<戦争>
から手をひいたのは、禅僧八木独仙のいう消
極的修養にしたがったかたちにはなっていま
すが、私は苦沙弥先生の行動にはエピクテタ
スの奴隷の哲学が反映されているような気が
しています」

 拝啓愈(いよいよ)御多祥奉賀候回顧すれ
ば日露の戦役は連戦連勝の勢に乗じて平和克
復を告げ吾忠勇義烈なる将士は今や過半万歳
声裡に凱歌を奏し国民の歓喜何ものか之に若
(し)かん曩(さき)に宣戦の大詔煥発せら
るゝや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の
異境に在りて克(よ)く寒暑の苦難を忍び一
意戦闘に従事し命を国家に捧げたるの至誠は
永く銘して忘るべからざる所なり而して軍隊
の凱旋は本月を以て殆んど終了を告げんとす
依って本会は来る二十五日を期し本区内一千
有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代
表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺
族を慰藉せんが為め熱誠之を迎え聊(いささ
か)感謝の微衷を表し度就ては各位の御協賛
を仰ぎ此盛典を挙行するの幸を得ば本会の面
目不過之(これにすぎず)と存候間何卒御賛
成奮って義捐(ぎえん)あらんことを只管
(ひたすら)希望の至に堪えず候  敬具
              (『猫』九)

、「先達(せんだっ)ても私の友人で送籍と
いう男が一夜という短編をかきましたが、誰
が読んでも朦朧としてとりとめがつかないの
で、当人に逢って、とくと主意のあるところ
を糺してみたのですが、当人もそんなことは
知らないよと云ってとりあわないのです。全
くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人
かもしれないが随分妙な男ですね」と主人が
云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君
を打ち留めた。       (『猫』六)

 そっと庭から廻って書斎の縁側へ上って障
子の隙間から覗いて見ると、主人はエピクテ
タスとか云う人の本を披いて見ておった。も
しそれが平常の通りわかるなら一寸えらいと
ころがある。五六分するとその本を叩き付け
る様に机の上へ抛り出す。大方そんな事だろ
うと思いながら猶注意していると、今度は日
記を出して下の様な事を書きつけた。
  寒月と、根津、上野、池之端、神田辺を
  散歩。池之端の待合の前で芸者が裾模様の
  春着をきて羽根をついていた。衣装は美し
  いが顔は頗るまずい。何となくうちの猫に
  似ていた。              (『猫』(二)

 吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで
机の上に叩きつける位な学者の家に寄寓する
猫で、世間一般の痴猫、愚猫とは少しく撰を
異にしている。      (『猫』三)


芸術のための芸術
   2015/10/31 (土) 07:01 by Sakana No.20151031070151

10月31日

「文学鑑賞において善悪の分子を除去してし
まうと、いわゆる<Art for art──芸術のた
めの芸術>(純芸術派)の説に帰することに
なります」
「芸術至上主義者だ。苦沙弥の細君のように
掃除のための掃除をする主婦もその仲間に入
るかもしれない」
「当然、読者は少ないですね」
「ヘンリー・ジェームズやジョージ・メレジ
スのような個性的作家や葛西善蔵、嘉村磯多
のような私小説作家の読者はきわめて少ない」
「道徳家(モラリスト)が、芸術至上主義者
を批判するからでしょうか」
「善悪に敏感な道徳家が善悪の分子を除去す
る芸術至上主義者を承認するはずがない」
「でも、道徳は感情にすぎません。文学の内
容は情緒を主とするものですから、読者の道
徳観を刺激して情緒再発を促すような作品を
つくったほうがよいのではないでしょうか」
「それは読者の道徳観におもねる大衆文学作
家のやることだ」
「ものはいいようですが、消費者の欲求に応
えるサービスとは考えられませんか」
「芸術家は読者に迎合してはいけない」
「それにしても、芸術至上主義の道は孤独で、
さびしいですね」
「掃除のための掃除する苦沙弥の細君もさび
しからずや」

 一体掃除の目的は運動の為か、遊戯の為か。
掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところで
ないから、知らん顔をしていれば差し支えな
い様なものの、ここの細君の掃除法の如きに
至っては頗る無意義のものと云わざるを得な
い。何が無意義であるかと云うと、この細君
は単に掃除の為の掃除をしているからである。
はたきを一通り障子へかけて、箒を一応畳の
上へ滑らせる。それで掃除は完成した者と解
釈している。掃除の源因及び結果に至っては
微塵の責任だに背負っておらん。かるが故に
綺麗所は毎日綺麗だが、ごみのある所、ほこ
りの積っている所はいつでもごみが溜ってほ
こりが積っている。     (『猫』十)

「いや君のだから読まないのじゃない。人々
個々各(おのおの)特別の個性もってるから、
人の作った詩文なぞは一向面白くないのさ。
現に今でも英国などではこの傾向がちゃんと
あらわれている。現今英国の小説家中で尤も
個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレ
ジスを見給え、ジェームズを見給え。読み手
が究めて少ないじゃないか。少ない訳さ。あ
んな作品はあんな個性のある人でなければ読
んで面白くないんだから仕方がない。この傾
向が段々発達して婚姻が不道徳になる時分に
は芸術も全く滅亡さ。そうだろう君のかいた
ものは僕にわからなくなる。僕のかいたもの
は君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間
には芸術も糞もないじゃないか」


知的分子の除去
   2015/11/3 (火) 09:19 by Sakana No.20151103091904

11月03日

「読者が文学賞翫に際して行う除去法には、
 1)自己関係の除去
 2)善悪の除去
 3)知的分子の除去
があることがわかりました。このうち1)と
2)についてはすでにとりあげたので、最後
に3)知的分子の除去を一瞥しておきたいと
思います」
「そもそも知的分子が欠如している人間が世
の中にはうようよいる。そんな奴はそもそも
除去するものが何もない」
「ここでは仮に人間には知的分子があるとい
うことにしておきましょう」
「それで知的分子の除去とはどういうことだ」
「むっとして弁じましたる柳かな、という俳
句を鑑賞してください」
「それだけなら意味不明の句だが、『猫』を
読んでいると。寒月が思わず吹き出した位だ
から読者も笑を誘われる」
「意味がわからない句は面白くないと思うの
ですが」
「わからぬが故に文学的価値ありだ。しかし、
『猫』では前後関係から楽屋裏がわかってし
まう。一句として独立していないから駄句と
見なされてもしかたがない」
「駄句でも小説のの中で、知的分子を除去し
使用すれば滑稽句として面白いという例のよ
うですね」

 かの俳文学の如きは誠に個中の消息を伝へ
て遺憾なきものといふべし。俗人は知的に意
味が解し難きが故に面白からずといふ。され
どある俳句に至ってはわからぬが故に文学的
価値ありとさへいひ得べし。
                (『文学論』第二編)

 「さて愈(いよいよ)本題に入りまして弁
じます」「弁じますなんか講釈師の云い草だ。
演舌家はもっと上品な詞(ことば)を使って
貰いたいね」と迷亭先生又交ぜ返す。「弁じ
ますが下品なら何と云ったらいいでしょう」
と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。
「迷亭のは聴いているのか、交ぜ返している
のか判然としない。寒月君そんな野次馬に構
わず、さっさと遣るが好い」と主人はなるべ
く早く難関を切り抜けようとする。「むっと
して弁じましたる柳かな、かね」と迷亭は不
相変(あいかわらず)飄然たる事を云う。寒
月は思わず吹き出す。    (『猫』三)



悲劇に伴う情緒f
   2015/11/6 (金) 06:14 by Sakana No.20151106061407

11月06日

「第二編 文学的内容の数量的変化 で最後
に、悲劇に伴う情緒fにふれておきたいと思
います」
「『虞美人草』の甲野君曰く、悲劇は喜劇よ
り偉大である。猫はどう云っているのか」
「我等猫族が親子の愛を全くして美しい家族
的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅せ
ねばならぬという白君の過激な意見を一々尤
もな議論と思うとは云っていますが、鼠を捕
るにも苦労していますから、どう見ても悲劇
的な猫とはいえません。革命家の素質はなさ
そうです」
「最後はビールを飲みすぎて水桶に落ち、溺
死したそうだが」
「悲劇というよりも喜劇ですね」
「悲劇に伴う情緒という点ではものたりない
が、偉大なる喜劇として終わりよければすべ
てよしというエンディングになっている」
「それでは喜劇は悲劇より偉大であるとなっ
てしまいます。読者はなぜ悲劇を好むのでし
ょうか」
「苦痛は私たちがもっとも忌むところである
が故にもっとも存在の自覚をうながす。憂き
ことのなおこの上に積もれかし、限りある身
の力試さん」
「戦国時代に滅んだ尼子氏の武将山中鹿之助
ですね。私のご先祖は尼子の落人という言い
伝えがあり、この歌は私の魂を奮い立たせる
ところがあります」
「とすると、悲劇には魂を奮い立たせ、弱い
性格をきたえるという効用があるかもしれな
い」

 吾輩の尊敬する筋向の白君などは逢う度毎
に人間程不人情なものはないと言っておられ
る。白君は先日玉の様な子供を四匹産まれた
のである。ところがそこの家の書生が三日目
にそいつを裏の池へ持って行って四匹ながら
棄てて来たそうだ。白君は涙を流してその一
部始終を話した上、どうしても我等猫族が親
子の愛を全くして美しい家族的生活をするに
は人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬとい
われた。一々尤もな議論と思う。
              (『猫』一)

  悲劇は喜劇より偉大である。
            (『虞美人草』)


文学的内容の特質
   2015/11/9 (月) 07:29 by Sakana No.20151109072958

11月09日

「第二編 文学的内容の数量的変化 では今
まで気がつかなかった目新しい発見をいくつ
か学びました。十分に消化吸収できたという
気もしませんが、とりあえず、この辺で第三
編 文学的内容の特質(The Particular 
Character of Literary Substance)にすすむ
ことにします」
「そもそも文学的内容とは何ぞや」
「科学的内容と比較して考えるのです。文学
者対科学者、文学的F対科学的Fのように」
「単純な二項対立にしてしまっているが、そ
れでいいのか?哲学者はどこにいる?」
「哲学者は科学者にふくまれます」
「それはおかしい。哲学者は文系、科学者は
理系ということになっている。哲学的Fと科
学的F、哲学的Fと文学的Fとの違いも考え
るべきだ」
「漱石先生は、哲学については講演『文芸の
哲学的基礎』(Philosophical Foundations of 
the Literary Arts)で論及しておられますが、
それによれば、物に向って知を働かす人が哲
学者、科学者であり、物に向って情を働かす
人が文学者、芸術家、そして、物に向って意
を働かす人が軍人、政治家、豆腐屋、大工で
す。また、文学者対科学者の問題は『文学評
論』の「序言」においても考察されています」
「他の論文を読んで補わなければならないよ
うでは失敗作と云わざるをえない。『文学論』
が地震で倒れた未成市街の廃墟で終わった原
因の一つは、ここで哲学的F対科学的F、哲
学的F対文学的Fの比較を読者が納得するよ
うな説明を怠ったことにあるのではないか」
「そんなことは、後世の学者が補えばよいこ
とです」
「誰もやっていないだろう。それとも、おま
えさんが引き受けるつもりかね」
「私には哲学の素養が不足しているから無理
です。これを読んだ誰かが発奮し、研究して
くれることを期待します」

 さて文学者もしくは文学的傾向を有する人
は社会の一階級を形成するものなれば、それ
らの人々の心行きもしくは観察法を論ずるに
当たりては勢ひこの階級と他の階級とを比較
してその類似差異を見ること最も便宜なるべ
し。而して普通は文学に対するに科学を以て
すれば、暫く文学者対科学者(哲学者をも含
む)につき論ずるところあるべし。
           (『文学論』第三編)


言語の能力(狭くいえば、文章の力)
   2015/11/12 (木) 06:54 by Sakana No.20151112065404

11月12日

「文学的内容は言語によって表現されるもの
ですが、それは焦点的意識Fの流れをそのま
まコピーしたものではありません」
「意識の大半は漫然たる印象か自覚にとどま
ったままで消えていく。かげろうのようには
かないものだ」
「そうですね、印象や観念が、言語化されて
文章として示されるのは量的には極めて僅少
であり、しかも、文学的内容のある文章は文
字化された文章の中でも極めて僅少です」
「その文章が読者の目にとまる確率は、砂浜
の砂の一粒に視線が向く確率に等しい」
「言語の能力(狭くいえば、文章の力)はこ
の無限の意識連鎖のうちを此処彼処(ここか
しこ)と、意識的にあるいは無意識的にたど
り歩いて、私たちの思想の伝導器になること
にあります。即ち私たちの心の曲線の絶えざ
る流波をこれに相当する記号で書きあらため
るのではなく、この長い波のほんの一部分を
断片的に縫い拾うものといえるでしょう」
「わかったようなわからないような説明だが、
要するに、文学的内容の特質として言語の能
力(狭くいえば、文章の力)をまわりくどい
言い方で説明すれば、そういうことになるか
な」

 而してこの一部分たる個人意識のうち、大
半は漫然たる自覚に止(とど)まるか、また
は新陳交謝の際主人公たる当人にすら看過さ
れてそのままに消え去ること多きが故に、言
語に化し相互の意志を通ずるの具に供せらる
る焦点的意識の量は比較的僅少なるものなり
(如何に多弁の人なりと雖も)。況(いわん)
や筆紙の上にその影を残すものにおいておや。
如此(かくのごとく)文章の上に示されたる
意識は極めて省略的なものなるを以て、仮令
(たとい)短時間の心的状態と雖もその一々
の推移を遺憾なく文字を以て聯続的に描し出
さんことは到底人力の企て及ぶところにあら
ざるべく、かの所謂写実主義なるものも厳正
なる意義においては全然無意味なるを知るべ
し。        (『文学論』第三編)


断面的文学
   2015/11/15 (日) 08:04 by Sakana No.20151115080417

11月15日

「文学作品の価値は読書の所要時間の長さに
よって決まるものではありません」
「言うまでもない」
「彫刻や絵画を観ると、一時的に消えやすい
美をとらえて快味を感じますが、それと同じ
ような快味を、和歌、俳句あるいは漢詩から
感じとることができます。このような断面的
文学の価値をどう思いますか?」
「たしかに文学は絵画や彫刻のように瞬間的
な美の断面をとらえて表現することができる
が、それだけではない。複数の断面が重層的
につなぎあわされた全体像の面白さもある」
「でも、長編小説を読んでも、筋はほとんど
が識末に消え、忘れてしまいます。記憶に残
っているのは、全体像よりもむしろ断面かも
しれません」
「彫刻や絵画とちがって、文学がとらえる断
面は美だけではない。真もあれば善もある」
「真善美というと哲学になりますね」
「その通り。文学は哲学をたっぷりふくんで
いるが、漱石は哲学者を科学者にふくめてし
まった。その上で文芸上の真を科学上の真と
対立させて論考している。しかも、ここでは
断面的文学の美だという。真善美を追求する
哲学の観点からみれば、支離滅裂だ」
「意識の波の頂点は容量がかぎられています。
一時的に断面しか受け容れることができない
という制約から、漱石先生はここで断面的文
学に注目されたのではないでしょうか」

  元来、含まれたる時間の長きは決してその
作品の価値を求むるものにあらざること明に
して、要は賞翫者の態度如何によるのみ。一
時的に消えやすき現象を捉へて快味を感ずる
人は文学者にありても彫刻家、画家に近きも
のなり。吾が邦(くに)の和歌、俳句もしく
は漢詩の大部分は皆この断面的文学に外なら
ず。故にその簡単にして、実質少なき故を以
てその文学的価値を云々するは早計なり。
       (『文学論』第三編)


文字の織物
   2015/11/18 (水) 06:54 by Sakana No.20151118065431

11月18日

「彫刻や絵画を観ると、一時的に消えやすい
美をとらえて快味を感じるように、和歌、俳
句、漢詩からも快味を感じとることができま
す」
「長編小説から得られる快味はは彫刻や絵画
とは比較にならない」
「『猫』を例にとると、長編小説とはいえ、
一章を独立した短編としても読めます。断面
のつづら織のようなものといってもよいでし
ょう」
「『猫』には寒月の恋愛や苦沙弥と落雲館の
生徒たちとの喧嘩のような事件はあるが、全
体としては小説らしいスジがない」
「名前のない猫の一生を綴った自伝文学ない
し教養文学です。猫の観察を通じて日本人の
集合的Fのさまざまな様相をを描いた社会心
理歴史文学の傑作ともいえるでしょう」
「たしかに、大平の逸民たちのムダ話もユニ
ークな文明批評として傾聴に値するところも
あるが」
「『猫』のような長編小説は文字の織物です。
文字のつづら織としてその断面と全体像の快
味をあじわってください」

 如此(かくのごとく)文章の上において示
されたる意識は極めて省略的ものなるを以て、
仮令(たとい)短時間の心的状態と雖もその
一々の推移を遺憾なく文字を以て聯続的に出
さんことは到底人力の企て及ぶところにあら
ざるべく、かの写実主義なるものも厳正なる
意義においては全然無意義なるを知るべし。
素人の考を以てすれば、吾人の心に浮ぶ意識
をそのまま有体(ありてい)に紙上に写すこ
とはさほど困難ならざる様思はるべけれど、
試みに静座して吾が脳裏に出現し来るところ
のものを追求する時はその意外に煩雑なるに
驚くべし。かの宗教家が無念といひ無想と唱
ふるは皆この妄想雑念の世の中を知り尽して
始めて口にし得べき言語なり。走馬燈の如く
に廻転推移して、非常の速度中に吾人意識の
連鎖を構成する成分を一々遺漏なく書き出さ
んことは決して人間業にあらず。仮令数分間
たりとも汝が意識の内容に漠然と起り来るも
のを悉く記載せんと試みよ、汝は遂に筆を抛
(なげう)つに至るべし。
 この故に言語の能力(狭く言へば文章の力)
はこの無限の意識連鎖のうちを此処彼処と意
識的に、或は無意識的にたどり歩きて吾人思
想の伝導器となるにあり。即ち吾人の心の曲
線の絶えざる流波をこれに相当する記号にて
書き改むるにあらずして、この長き波の一部
分を断片的に縫ひ拾ふものといふが適当なる
べし。       (『文学論』第三編)



諺言
   2015/11/20 (金) 13:06 by Sakana No.20151120130621

11月21日

「断面的文学の一面として、日常生活でもよ
く使われるものに諺や格言があります」
「諺は断面的文学というより世俗的な哲学の
一種だろう」
「たとえば、正直は最良の策は、サンチョ・
パンサの世俗的な知恵と言われています」
「正直者は馬鹿を見る、という反対の意味の
諺もある」
「苦沙弥先生が細君から反発をかったmany a 
slip 'twixt the cup and the lipという英語
は直訳すれば、「杯と唇の間にも多くのしく
じり」で、<一寸先は闇>という意味に近く
なりますが、それに対して、<転ばぬ先の杖>
(Prevention is better than cure.)という
反対の意味の諺もありますね」
「応無所住而生其心(まさに住む所を無くし
て其心を生ぜよ)」
「難しい禅語です。何に執着もない状態で清
浄心を生ぜしめよ(『金剛般若経』)と読む
らしいですが、ホームレスになってはじめて
清浄心が生じるとはとても信じられません」
「そんなことでは禅の悟りは得られない」
「恒産なければ恒心なし(『孟子』「梁上編」
のほうが真理だと思います」
「きみは禅の悟りとはほど遠く、清浄心とは
縁なき衆生だ」
「それにしても概括的真理を伝えるはずの諺
に反対の意味のものがあると、実生活におい
てどちらを採用していいか、迷いますね」
「要するに、言葉を信じてはいけないのだ。
道元曰く、文学詩歌は詮無き也」

 僕は速(すみやか)に細君を書斎へ呼んだ
よ。読んで御前は女だけれどもmany a slip 
'twixt the cup and the lipと云う西洋の諺
位は心得ているだろうと聞くと、そんな横文
字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が
英語英語を知らないのを御存じの癖にわざと
英語を使って人にからかうのだから、宜しゅ
う御座います、どうせ英語なんかは出来ない
んですから。そんなに英語が御好きなら、何
故耶蘇学校の卒業生かなんかをお貰いになら
なかったんです。あなた位冷酷な人はありは
しないと非常に横暴なんで、僕も折角の計画
の腰を折られてしまった。(『猫』二)

 山高きが故に貴からず、樹あるを以て貴し
となす→鼻高きが故に貴からず、奇なるが為
に貴し           (『猫』三)
 女賢しうして牛売り損う→猫賢しうして鼠
捕り損う          (『猫』五)
 人を見たら泥棒と思え→人を見たら猫食い
と思え           (『猫』五)




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「『文学論』──自己本位の読み方のまとめ」 長谷部さかな 著
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