『文学論』──自己本位の読み方のまとめ

長谷部さかな 著
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読者の幻惑
   2015/9/25 (金) 08:33 by Sakana No.20150925083338

9月25日

「直接経験によって生ずる情緒fと間接経験
によって生ずる情緒fのずれは、作者から見
れば、作者の表出法が原因ですが、読者の立
場から見れば、読者の反応によってきまりま
す。漱石先生は後者を読者の幻惑と名付けま
した」
「読者の反応もしくは取捨選択と名付けたほ
うがよいのではないか。読者の幻惑では誤解
を招きやすい」
「そんなことを云っても今さらどうにもなり
ません」
「漱石はたしか、文学の第二の目的が幻惑だ
と云っているはずだ」
「それは、『文学論』第四編第八章 間隔論
の冒頭に掲げられています」
「その第二の目的という幻惑は、作者の表出
(創作)による幻惑という意味だろう」
「そうだと思います」
「ところが、ここでは読者の幻惑だという。
まぎらわしいではないか」
「私の頭も少し混乱気味ですが、作者の幻惑
と読者の幻惑はちがうので、区別して考える
必要があります。作者の幻惑は作者の表出法
をすでにいくつかご紹介済ですから、ここで
は読者の幻惑を考えましょう」
「読者の頭を混乱させないようきちんと交通
整理をしておいてくれ」

  文学の大目的の奈辺に存するかは暫く措く。
その大目的を生ずるに必要なる第二の目的は
幻惑の二字に帰着す。
   (『文学論』第四編第八章 間隔論)

 同じく物の全局を写さんとする場合におい
ても、科学者は概念を伝へんとし、文学者は
画を描かんとす。換言すれば前者は物の形と
機械的概念を捉へ、後者は物の生命と心持ち
を本領とす。尚科学者の定義は分類の具に供
せらるれど、文学者の叙述は物を活さんがた
めの用に過ぎず。科学者は類似をたどりて系
統を立てんと欲し、個々の物体にさしたる興
味を有するにあらず。文学者に至りては其目
指すところの物の秩序的配置にあらずして其
本質にあり、されば物の本性が遺憾なく発揮
せられて一種の情緒を含むに至る時は即ち文
学者の成功せる時なりとす。従って文学者が
あらはさんと力(つと)むる所は物の幻惑に
して、躍如として生あるが如く之を写し出す
を以て手腕とす。
       (『文学論』第三編第一章)


批評家の幻惑
   2015/9/28 (月) 07:02 by Sakana No.20150928070208

9月28日

「『文学論』では言及されていませんが、
批評家の幻惑も無視できません。読者の幻惑
の前に批評家の幻惑についてもコメントして
おきたいと思います」
「素人の読者は批評家の影響を受けやすい」
「主体を基準にして幻惑を分類すると、
 1)作者の幻惑(表出)
 2)批評家の幻惑(解説)
 3)読者の幻惑(受容)
という順番になるかと思います」
「批評家の解説や書評は、一般読者にとって
は文学作品案内ガイドとして役立つ」
「たとえば、新潮文庫版『三四郎』の解説者
柄谷行人の解説の引用箇所をどう思いますか」
「『それから』や『門』は、"小説"らしい現
代小説だが、『三四郎』はそうではないとい
うのは玄人の読者によるもっともらしい評と
して初心の読者に受けとめられる」
「私は初期三部作の中では『三四郎』がいち
ばん面白いと思ったのですが」
「そんなことをいうと、現代小説の読み手と
してはシロートだと軽蔑されかねない」
「漱石といえば、『猫』や『坊っちゃん』や
『草枕』の著者としてしか知らない読者が多
いと思いますが、これらの初期作品は、内的
要求に根しているとはいえ、未熟なものでし
かないのでしょうか」
「それは柄谷行人の見解にすぎないが、新潮
文庫版『三四郎』の解説をするだけあって、
彼のような批評家の影響力(=幻惑力)は大
きい」
「たしかに『三四郎』までは余裕派の作品と
して楽しみながら読めますが、『それから』
の後半からそれ以後の『門』、後期三部作、
『道草』、『明暗』は主人公の心理が重苦し
く、深刻すぎて読み続けるのがつらい。余裕
派の作品とはとてもいえないですね」
「余裕の有無は、現代小説鑑賞の評価基準で
はない」
「私は読書から気晴らしと慰謝を得ながら余
裕をもって余生を送りたいのですが」
「咄(とつ)この乾屎※ (かんしけつ)。さ
っさと死んでしまえ」

 漱石が、いわば"小説"らしい小説を書きは
じめるのは、『三四郎』の次の作品、『それ
から』や『門』からだといってよい。この時
期から、漱石の作品は重苦しく且つ深刻なテ
ーマを追求しはじめた。それとともに、それ
まで自然主義系の文壇主流から"余裕派"とし
て軽視されてきた漱石は、現代小説の書き手
として急速に重要な位置を占めはじめた。こ
の経緯は、今日でも評価の奇妙な分裂として
あとをとどめている。
 たとえば、多くの読者にとって、漱石は、
『猫』や『坊っちゃん』や『草枕』の著者と
してのみ知られている。他方、そのような素
朴な読者を軽蔑する者は、後期の小説を重視
し、初期作品に、のちに本格的に展開される
べき主題やモチーフの象徴的な提示をみよう
とする。このような視点は、明らかに"近代小
説"を前提しているのであって、ここから
みれば、漱石の初期作品は、内的要求に根ざ
しているとはいえ、未熟なものでしかないこ
とになる。  (柄谷行人『三四郎』解説)


モダニズム文学
   2015/10/1 (木) 11:22 by Sakana No.20151001112237

10月01日

「柄谷行人に対抗して、漱石の後期作品より
も『猫』『坊っちゃん』『三四郎』などを高
く評価する有力な批評家はいないのか」
「います。たとえば、丸谷才一は、『猫』が
スターンの『トリストラム・シャンディー』
の影響を受けていることに注目し、『坊っち
ゃん』『三四郎』とともにモダニズムの小説
として高く評価しています」
「日本のモダニズム文学のはしりは横光利一、
川端康成らの新感覚派や龍胆寺雄や吉行エイ
スケらの新興文学ということになっている」
「『猫』『坊っちゃん』『三四郎』は彼らに
先行するモダンな都市感覚の小説です」
「丸谷才一は素人読者にとっては心強い助っ
人だね」
「でも、『トリストラム・シャンディー』や
ホフマンの『牡猫ムルの人生観ならびに楽長
クライスラーの断片的伝記』だけならともか
く、フランシス・コヴントリ『チビ犬ポンペ
イ物語』、セルバンテス『犬の生活』、ウォ
ルター・ローリー『イギリス小説』(『猫の
生活と冒険』など)、ルキアノス『空を飛ぶ
メニッポス』、ジェローム・K・ジェローム
『ボートの三人男』なども『猫』に影響を与
えている可能性があるなどと丸谷才一は博学
ぶりを発揮しています。とてもついていけま
せん」
「なにしろ二十世紀モダニズム文学の傑作と
されるジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』
を翻訳するほどの英文学のディレッタント
(衒学者)だ。素人読者の強い味方とはいえ
ない」
「素人読者としてはどうすればよいでしょう」
「一応、参考意見として聞き流し、あとは自
己本位の読み方をするしかない」

「その後鼻に就て又研究をしたが、この頃ト
リストラム・シャンディーの中に鼻論がある
のを発見した。金田の鼻などもスターンに見
せたら善い材料になっただろうに残念な事だ。
鼻名を千載に垂れる資格は充分ありながら、
あのままで朽ち果つる不愍千万だ。今度ここ
へ来たら美学上の参考の為に写生してやろう」
と相変わらず口から出任せに喋舌り立てる。
             (『猫』四)

 トリストラム・シャンディーと云う書物の
なかに、この書物はほど神の思召(おぼしめ
し)に叶った書き方はないとある。最初の一
句はともかくも自力で綴る。あとは只管(ひ
たすら)に神を念じて、筆の動くに任せる。
何をかくか自分には無論見当が付かぬ。かく
者は自己であるが、かく事は神の事である。
従って責任は著者にはないそうだ。余が散歩
も亦この流儀を汲んだ。無責任の散歩である。
只神を頼まぬだけが一層の無責任である。ス
ターンは自分の責任を免れると同時にこれを
在天の神に嫁(か)した。引き受けてくれる
神を持たぬ余は遂にこれを泥溝(どぶ)の中
に棄てた。         (『草枕』)

  漱石のモダニズムはイギリス小説史の展開
を復習するところから生れたもので、それは
十八世紀小説の流れを汲む『吾輩は猫である』
『坊っちゃん』からはじまり、ジェイン・オ
ースティンの新版と見立ててもよい『三四郎』
へと至ったものだからである。(中略)
 東京をあつかって『三四郎』ほど粋な小説
はわたしたちの文学に珍しい。大学の構内も、
学生の下宿も、団子坂も、上野の美術館も、
この小説の中ではロンドンの匂ひがする。そ
れはつまり本当の都市的なものがここにある
ということで、さういふ感じに近いものとし
てはさしあたり吉田健一の『東京の昔』を思
ひ出す。不思議なことに漱石のこの長編小説
は前まへから玄人筋に評判が悪く、そのくせ
素人にはひどく好まれてゐると聞いたが、も
しさうだとすればこの妙な感じが素人の心を
魅惑し、玄人には嫌がられるのだろう、何と
なくわかる気がする。それこそはモダニズム
小説といふもので、さう言へば『三四郎』に
は油絵の画家たちのいはゆる滞欧作を思はせ
るものがある。黒田清輝も東郷青児も、ヨー
ロッパにゐた頃は粋な絵を描いた。
   (丸谷才一『三四郎と東京と富士山』

 「(ジェローム・K・ジェローム)の
『ボートの三人男』はじめは旅行案内めいた
地誌を頼まれて、夫れが小説になったといふ。
『猫』は一回きりのつもりが好評のせいで長
くなった。どちらもかういふ成立ちのためか
構成が散漫で、ゆきつ戻りつしたり、詰め物
が多かったりする。もちろんどちらもスター
ンの『トリストラム・シャンディーの生活と
意見』の影響下にあるだろうし、そんなあれ
これのせいで、よく言へば反小説的になって
ゐる。それがかへって興を盛りあげるふしも
ある。両方ともかなり雑学的だが、『猫』の
ほうがずっと衒学的である。これは大学の先
生と軽演劇の作者の肌合ひの差といふことも
あるが、人間が学識をひけらかすのは厭味だ
けれど、猫なら読者がかへって愉快になる、
という仕組みのせいも大きいだろう。
  (丸谷才一『あの有名な名前のない猫』)


情緒の再発
   2015/10/4 (日) 07:59 by Sakana No.20151004075921

10月04日

「それでは読者の幻惑に進みましょう。読書
という間接経験で、読者の幻惑が生じるのは
情緒のせいです。由来この情緒の復起なき人
は文学にも縁なき人々にして、世の中には如
斯(かくのごと)き人頗る多し」
「復起とは耳慣れない言葉だ」
「情緒の再発ともいいます。要するに、文学
作品を読むことによって、自分の記憶の中で
眠っていた何らかの情緒がよみがえるという
心的作用でしょう」
「復起にせよ、再発にせよ、原体験の情緒そ
のままというわけにはいかない」
「そもそも情緒の完全な記憶はほとんど不可
能です。この道の専門家Ribotによれば、情緒
の記憶は大部分の人々にありては虚無なりと
か」
「情緒の記憶がない者は文学とは無縁の衆生
ということだろう」
「一方には華厳の滝に飛び込んだ藤村操のよ
うな情緒過剰の人もいます。彼らには感情の
記憶がそのまま復起してくるので、文学作品
を読ませることはきわめて危険です」
「『猫』と『坊っちゃん』の引用箇所で何が
しかの情緒を再発させる読者は身におぼえが
あるからだろう。こんなことを書く漱石も情
緒過剰のタイプにちがいない」
「情緒過剰でも、漱石先生は『文学論』を研
究し、創作に専念することによって狂気を克
服することができました」
「しかし、胃潰瘍は克服できなかった」

 吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以
外のものには甚だ不人望であった。どこへ行
っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がな
かった。如何に珍重されなかったかは、今日
に至るまで名前さえつけてくれないのでもわ
かる。           (『猫』一)

 おやじはちっともおれを可愛がってくれな
かった。母は兄ばかり贔屓(ひいき)にして
いた。この兄はやに色が白くって、芝居の真
似をして女形(おんながた)になるのが好き
だった。おれを見る度にこいつはどうせ碌な
ものにはならないと、おやじが云った。乱暴
で乱暴で行く先が案じられると母が云った。
なるほど碌なものにはならない。ご覧の通り
の始末である。行く先が案じられたのも無理
はない。ただ懲役に行かないで生きているば
かりである。       (『坊っちゃん』)





情緒的要素の除去
   2015/10/7 (水) 07:53 by Sakana No.20151007075327

10月07日

「人は誰もが文学作品を楽しむ資格を有する
のではありません。情緒の復起なき人や情緒
過剰の人はダメです。作品中にある認識的要
素Fから自分の情緒的要素fを部分的に復起
できる人だけにかぎられます」
「それは漱石の卓見だ。はじめて聞く説のよ
うな気がする」
「2009年7月にここで学んだという記録が残っ
ていますよ」
「文学作品を楽しむ資格を有する者は作品中
にある認識的要素Fから自分の情緒的要素f
を部分的に復起できる人だけにかぎられると
いうことはきみからも聞いていない」
「原文にはちゃんと記載があります。しっか
り読んで下さい」
「すっかり忘れていた。情緒fを復起したく
てもまったく復起できない」
「いいかげんな読み方ですね。でも、ご安心
ください。実はそんないいかげんな読者こそ
文学作品を楽しむ資格があるのです。この部
分的に情緒fを復起することが、適度に文学
を味わい得るといわれています」
「部分的にというと?」
「直接経験と間接経験の差異は、その情緒f
の強弱に存します。そして、この間接経験が
その強さにおいて直接経験に劣る──その事
実こそが文学がいつまでも滅びることなく、
存続している原因なのです」
「間接経験はなぜ直接経験に劣るのだろう」
「間接経験においては一部の情緒的要素が抽
出、除去されるからです。読者が文学賞翫と
いう間接経験に際して行う際に除去されるも
のを次の通りざっとまとめておきます。
 1)自己関係の除去
 2)善悪の抽出
   A)非人情
   B)不道徳文学
     崇高
    、滑稽
     純美感
     君主の道徳と奴隷の道徳
     芸術のための芸術
 3)知的分子の除去

 なぜというと、現代人は事実を好むが、事
実に伴う情操は切棄てる習慣である。切棄て
なければならない程世間が切迫しているのだ
から仕方がない。その証拠には新聞を見ると
分る。新聞の社会記事は十の九まで悲劇であ
る。けれども我々はこの悲劇を悲劇として味
わう余裕がない。ただ事実の報道として読む
だけである。       (『三四郎』)


自己関係の除去
   2015/10/10 (土) 11:15 by Sakana No.20151010111533

10月10日

「自己関係の除去とはどういうことだ」
「私たちが文学作品を愛読するという場合、
その作者の表出の方法に同意しているはずで
す。ところが、その作者の表出法は故意にあ
るいは無意識のうちに多くの事実的分子を除
去しています」
「けしからん」
「作者の表出法に同意している以上、文句は
いえません。そのような事実的分子を除去し
た文学作品を読んだ結果、私たちに生じる情
緒fは、その実物に対して感じる情緒fと質
において異なります」
「自分の情緒fを作者の掌中にゆだねた結果、
洗脳されてしまう危険もある」
「文芸に没自己の性ありと言われるように、
自己関係の除去は、読書という間接経験の特
徴の一つです」
「たしかに、読者の自己は作中人物との利害
関係を持たない」
「自己が現実に猫を飼っていれば、その猫が
車屋の黒のようなガラの悪い猫と交際しては
いけないと思うでしょうが、小説なら猫が誰
と交際しようと何とも思いません」
「『虞美人草』のヒロインの藤尾が虚栄の毒
を仰いで死ぬと、読者からの抗議が殺到した
そうだが、そんな読者は自己関係を除去して、
藤尾のような虚栄の女に魅せられたにちがい
ない。作者の表出法がすぐれていたというべ
きか、それとも読者が幻惑されやすいという
べきか」

 吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざ
るを得なかった。「己(お)れあ車屋の黒(く
ろ)よ」昂然(こうぜん)たるものだ。車屋
の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。
しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育
がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠
主義の的(まと)になっている奴だ。
              (『猫』一)

 凝る雲の底を抜いて、小一日空を傾けた雨
は、大地の髄に浸み込むまで降って歌んだ。
春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、李に、
且つ散り、且つ散って、残る紅も亦夢のよう
に散ってしまった。春に誇るものは悉く亡ぶ。
我の女は虚栄の毒を仰いで斃れた。花に相手
を失った風は、徒に亡き人の部屋に薫り初め
る。          (『虞美人草』)


善悪の抽出
   2015/10/13 (火) 08:33 by Sakana No.20151013083349

10月13日

「次に読書が文学を賞翫する際における善悪
の抽出という問題を考えたいと思います」
「善悪を抽出してしまうと、この世は闇だ。
世の中の秩序と安全はどうなる?」
「然るに、文学は少なくとも道徳的問題に対
し其の道徳的分子を忘れ得るものにして、此
の性質なき人は完全に文学を理解する能はざ
る奇怪な地位にあるものとす」
「それは具体的にはどういうことか」
「華厳の滝に飛び込んで死んだ藤村操の巌頭
の詩は読者に壮烈な感動を与えますが、それ
は読書という間接経験の場合にかぎられます。
もし私たちが現実に目の前で身投げをしよう
とする青年を見かけたら、背後から抱きとめ
て、<死んで花見が咲くものか>と、命を救
おうとするでしょう」
「つまり直接経験においては壮烈美の満足よ
りは徳義の情に駆られて人命救助を優先する
ということか」
「このような人生と文学の違い、直接経験の
情緒fと間接経験の情緒fとのずれという現
象は注目に値します。『猫』では迷亭が、五
歳か六歳の頃、つまり明治維新直後の混乱期
には、女の子を唐茄子の様に籠へ入れて天秤
棒で担いで売ってあるいたと言っていますが、
そんな人身売買が赦されると思いますか」
「いくら明治初年の混乱期でも、白昼堂々、
そんな人身売買があったとは思えない。迷亭
の法螺だろうが、笑い話としては面白い」
「坊っちゃんが宿直をしている夜に外出して
温泉に入るのは規則違反で悪いことですが、
坊っちゃんが屁理屈をこねて正しいことにし
てしまいます。読者はその屁理屈を受け入れ
て、悪いことだとは思わないような心理にさ
せられます」
「この善悪観念の抽出が文学の或る部分の賞
翫に欠くべからざる条件というのか」
「ええ、二種類に分けられます。一つは非人
情と名づくべきもの、もう一つは不道徳文学
と名づくべきものです」

「実にお気の毒さ。しかもその時分の女が必
ずしも今の女より品行がいいと限らんからね。
奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのとや
かましく云いますがね。なに昔はこれより烈
(はげ)しかったったんですよ」「そうでし
ょうか」と細君は真面目である。「そうです
とも。出鱈目じゃやない。ちゃんと証拠があ
るから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も
覚えているかもしれんが僕等の五六歳の時ま
では女の子を唐茄子の様に籠へ入れて天秤棒
で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」
「僕はそんな事は覚えておらん」「君の国じ
ゃどうだか知らないがが、静岡じゃ慥かにそ
うだった」「まさか」と細君が小さい声を出
すと、「本当ですか」と寒月君が本当らしか
らぬ様子で聞く。
「本当さ。現に僕のおやじが値を付けた事が
ある。その時僕は何でも六つ位だったろう。
おやじと一緒に油町から通町へ散歩に出ると、
向こうから大きな声をして女の子はよしかな、
女の子はよしかなと怒鳴ってくる。僕等が丁
度二丁目の角へ来ると、伊勢源と云う呉服屋
の前でその男と出っ食わした。(『猫』六)

 飯は食ったが、まだ日が暮(く)れないか
ら寝る訳に行かない。ちょっと温泉に行きた
くなった。宿直をして、外へ出るのはいい事
だか、悪るい事だかしらないが、こうつくね
んとして重禁錮(じゅうきんこ)同様な憂目
に逢うのは我慢の出来るもんじゃない。始め
て学校へ来た時当直の人はと聞いたら、ちょ
っと用達(ようたし)に出たと小使が答えた
のを妙だと思ったが、自分に番が廻ってみる
と思い当る。出る方が正しいのだ。おれは小
使にちょっと出てくると云ったら、何かご用
ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはい
るんだと答えて、さっさと出掛けた。
           (『坊っちゃん』)




非人情
   2015/10/16 (金) 07:48 by Sakana No.20151016074804

10月16日

「猫が観察する主人の苦沙弥先生と『道草』
の健三はどちらも『文学論』を執筆中の作者
自身をモデルにしています。比較してみてく
ださい」
「苦沙弥は余裕派だが、健三には殆んど余裕
がない」
「どちらが、作者のほんとうの実像だと思い
ますか」
「どちらも実像だろうが、同一人物とはとて
も思えない」
「表を写せば、書きたいことを書いて、よく
昼寝をする余裕派だが、裏を写せば書きたい
ことを書く余裕もなく、始終机の前にこびり
ついている男──どちらも写実的な描写のよ
うですが、事実の半面しか写していないこと
がおわかりでしょう。これが作者の表出法で
あり、作者の幻惑です」
「それに対して読者が幻惑されたくないと思
えば、非人情の立場をとるしかない」
「つまり、読者は作者の表出法に幻惑されな
いように第三者の立場をとり、茶店の婆さん
を高砂の媼にしてしまうように心がけたほう
がよいということのようですね」
「能や漢詩など東洋の文学にはこの非人情趣
味深きが如く、吾が俳文学にありて殊に然り。
次に文学の不道徳分子は道化趣味と相結ばれ
て存することありと、漱石は云っているが、
いささか我田引水の気味があるのではないか」

 吾輩の主人は滅多(めった)に吾輩と顔を
合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校
から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど
出て来る事がない。家のものは大変な勉強家
だと思っている。当人も勉強家であるかのご
とく見せている。しかし実際はうちのものが
いうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び
足に彼の書斎を覗(のぞ)いて見るが、彼は
よく昼寝をしている事がある。時々読みかけ
てある本の上に涎(よだれ)をたらしている。
               (『猫』一)

 健三は実際その日その日の仕事に追われて
いた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は
少しもなかった。その上彼は自分の読みたい
ものを読んだり、書きたい事を書いたり、考
えたい事を考えたりしたかった。それで彼の
心は殆んど余裕というものを知らなかった。
彼は始終机の前にこびりついていた。
              (『道草』)

 どうせ誰か出るだろうとは思っていた。竈
(へつい)に火は燃えている。菓子箱の上に
銭が散らばっている。線香は呑気(のんき)
に燻っている。どうせ出るにはきまっている。
しかし自分の見世(みせ)を明(あ)け放し
ても苦にならないと見えるところが、少し都
とは違っている。返事がないのに床几に腰を
かけて、いつまでも待ってるのも少し二十世
紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白
い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
 二三年前宝生(ほうしょう)の舞台で高砂
を見た事がある。その時これはうつくしい活
人画だと思った。箒を担(かつ)いだ爺さん
が橋懸(はしがか)りを五六歩来て、そろり
と後向(うしろむき)になって、婆さんと向
い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につ
く。余の席からは婆さんの顔がほとんど真
(ま)むきに見えたから、ああうつくしいと
思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメ
ラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔
はこの写真に血を通わしたほど似ている。
              (『草枕』) 




不道徳文学──滑稽
   2015/10/19 (月) 05:23 by Sakana No.20151019052347

10月19日

「善悪観念を抽出した文学には非人情の文学
とは別に不道徳文学があります。この種の文
学では道徳の除去が行われ、特に落語の如き
は全くこの除去を行い得ることにより始めて
価値を有するものです」」
「落語は文学ではない。それに、非人情は許
せるが、不道徳は許せない」
「そんな発言をすると、江戸っ子から野暮と
言われますよ。実際においては道徳的に行動
している野暮な人も文学上または文学を味わ
う時にかぎって不道徳な行動をよしとする場
合があります」
「それなら漱石の作品から事例を示してもら
おう」
「実業家の細君の鼻が大きいので、鼻子と呼
ぶのは婦人に対して失礼であり、不道徳だと
思います」
「金の力で偉そうな態度をとる実業家の鼻を
からかって滑稽の効果をねらった作者の表出
法だ。明治時代は男尊女卑の時代であり、そ
んなことは不道徳にはならん」
「女性に対する嫌がらせ、つまりセクハラの
一種です」
「それなら、<クレオパトラの鼻が少し短か
ったならば世界の表面に大変化を来しただろ
う」と云った哲学者パスカルもセクハラ疑惑
で告発したらよかろう」

 主人のうちへ女客は希有だなと見ていると、
かの鋭い声の所有主は縮緬の二枚重ねを畳に
擦り付けながら這入って来る。年は四十の上
を少し超した位だろう。抜け上がった生え際
から前髪が堤防工事の様に高く聳えて、少な
くとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせ
り出している。眼が切り通しの坂位な勾配で、
直線に釣るし上げられて左右に対立する。直
線とは鯨より細いという形容である。鼻だけ
は無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真
中へ据え付けた様に見える。三坪程の小庭へ
招魂社の石灯籠を移した時の如く、独りで幅
を利かしているが、何となく落ち付かない。
その鼻は所謂鍵鼻で、ひと度は精一杯高くな
ってみたが、これでは余りだと中途から謙遜
して、先の方へ行くと初めの勢に似ず垂れか
かって、下にある唇を覗き込んでいる。かく
著しい鼻だから、この女が物を言うと云わん
より、鼻が口をきいているとしか思われない。
吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表する為め、
以来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶ積りで
ある。           (『猫』三)

「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」
と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人
が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻
子は「実は私はつい御近所で──あの向う横
町の角屋敷なんですが」「あの大きな西洋館
の倉のあるうちですか、道理であすこには金
田と云う御札が出ていますな」と主人は漸く
金田の西洋館と、金田の身を認識した様だが
金田夫人に対する尊敬の気持は前と同様であ
る。「実は宿(やど)が出まして、御話を伺
うんですが会社の方が大変忙しいもんですか
ら」と今度は少し利いたろうという眼付きを
する。主人は一向動じない。鼻子の先刻から
の言葉遣いが初対面の女にしては余り存在
(ぞんざい)過ぎるので既に不平なのである。
「会社でも一つじゃ無いんです。二つも三つ
も兼ねているんです。それにどの会社でも重
役なんで──多分御存知でしょうが」これで
も恐れ入らぬかという眼付きをする。
              (『猫』三)

「パスカルがこんな事を云っている」
「どんな事を」
「若(も)しクレオパトラの鼻が少し短かっ
たならば世界の表面に大変化を来しただろう
と」
「成程」
「それだから君の様にそう無雑作に鼻を馬鹿
にしてはいかん」      (『猫』四)


不道徳文学──崇高
   2015/10/22 (木) 07:15 by Sakana No.20151022071502

10月22日

「およそ自己以上の勢力──精神的あるいは
肉体的──に対して生じる感情は崇高という
名称の下に総括できます。この崇高という感
情にひたると、私たちは崇高に圧倒されて、
道徳的情緒を忘れてしまいがちになります」
「たとえば?」
「漱石先生があげておられるのは、三陸の海
嘯(津波)、安政の地震、天明の大火です」
「関東大震災、東京大空襲、広島と長崎への
原爆投下、阪神淡路大震災、東日本大震災─
─漱石は経験していないが、いずれもはるか
に大きな破壊をもたらした」
「『猫』で破壊的崇高の例を探してみると、
鼠捕り大作戦でバルチック艦隊を迎え撃つ東
郷大将をほうふつとさせるような悲壮と云う
崇高な美感を抱いたのにもかかわらず、猫が
眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり
動かなくなった場面の描写があります」
「崇高が滑稽に堕した事例だ」
「寒月さんが山の上でヴァイオリンを弾くと
いう崇高な行為を思いついたのに、突然後ろ
の古沼の奥でギャーと云う声がしたので、驚
いて逃げ帰ったという滑稽な事例もあります」

 吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から駈け
出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上がり、
台所の真ん中に頑張っていると三方面共少々
ずつ騒ぎ立てる。小癪なと云おうか、卑怯と
云おうか到底彼等は君子の敵ではない。吾輩
は十五六はあちら、こちらと気を疲らし心を
労(つか)らして奔走努力してみたが遂に一
度も成功しない。残念ではあるがかかる小人
を敵にしては如何なる東郷大将も施こす術が
ない。始めは勇気もあり敵愾心もあり悲壮と
云う崇高な美感さえあったが遂には面倒と馬
鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真
中へ坐ったなり動かない事になった。然し動
かんでも八方睨みを極め込んでいれば敵は小
人だから大した事は出来んのである。
              (『猫』六)

「ハハハハハこれは上出来。そこまで持って
行くには大分苦心惨憺たるものがあったのだ
ろう。僕は男子のサンドラ・ペロニが東方君
子の邦(くに)に出現するところかと思って、
今が今まで真面目に拝聴していたんだよ」と
云った迷亭君は誰かサンドラ・ペロニの講釈
でも聞くのかと思(おもい)の外、何にも質
問が出ないので「サンドラ・ベロ二が月下に
竪琴を弾いて、伊太利亜風の歌を森の中でう
たっているところは、君の庚申山へヴァイオ
リンをかかえて上るところと同曲にして異巧
なるものだね。惜い事に向うは月中の嫦娥
(じょうが)を驚ろかし、君は古沼の怪狸に
おどろかされたので、際(きわ)どいところ
で滑稽と崇高の大差を来たした。さぞ遺憾だ
ろう」と一人で説明すると、
「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は
存外平気である。
「全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、
ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と
今度は主人が酷評を加えると、
「好漢鬼窟裏に向って生計を営む。惜しい事
だ」と独仙君は嘆息した。凡そ独仙君の云う
事は決して寒月君にわかったためしがない。
恐らく誰にもでもわからないだろう。
             (『猫』十一)



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「『文学論』──自己本位の読み方のまとめ」 長谷部さかな 著
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