『文学論』──自己本位の読み方のまとめ

長谷部さかな 著
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情緒fの数量的変化
   2015/8/26 (水) 05:01 by Sakana No.20150826050121

8月26日

「焦点的印象または観念の二方面のうち認識
的要素(F)だけでなく、情緒的要素(f)
も増減──増えたり、減ったりします」
「Fが増加すれば、これに伴うfも増加する
というリクツならわかる」
「感覚的材料で、子どもの頃は、夏草の緑も
常磐木の緑も同じに見え、緑に二種あるいは
それ以上あるとは思わないかもしれませんが、
注意力が鋭くなれば、夏草の緑と常磐木の緑
は違うことがわかるようになり、それにとも
なう情緒も違ってきます。若者の感性は短期
間に鋭くなります」
「老人に禄なものが居ない、と猫は云ってい
るが、感動する心を失った老人は表情がとぼ
しい。どうすればよいのか」
「則天去私の境地に向かっていると思えば何
の心配もありません。日向ぼこをしていれば
よいでしょう」
「近頃は猫でさえ日向ぼこもせず、忙しそう
に出歩いている」
「猫は金田邸へ二度、三度忍び込み、三度以
上繰り返すと習慣になると云っています」
「習慣の動物だ。人間も猫も」
「『虞美人草』では京都へ遊びに行った甲野
と宗近が、宿屋の隣家で琴を弾く小夜子とい
う美人を見かけ、二度目は嵐山で再会し、三
度目は東海道線の車中で逢い、さらに東京の
博覧会で四度目に逢います。いくら小説の都
合とはいえ、四度も偶然の出会いをするのは
話の作り過ぎではないでしょうか」
「偶然の出会いは何かの因縁というものだよ」
「作者の都合としか思えませんが、このよう
な偶然の出会いの繰り返しで、因縁がからま
ってくると、読者のfが増加することは認め
ざるをえません」
「fの増加ないし減少に法則のようなものが
あるのだろうか」
「余案ずるにfの増加は三つの法則に支配せ
らるるものの如し。即ち(一)感情転置法、
(二)感情の拡大、(三)感情の固執これな
り」

  例によって金田邸へ忍び込む。
 例によってとは今更(いまさら)解釈する
必要もない。しばしばを自乗(じじょう)し
たほどの度合を示す語(ことば)である。一
度やった事は二度やりたいもので、二度試み
た事は三度試みたいのは人間にのみ限らるる
好奇心ではない、猫といえどもこの心理的特
権を有してこの世界に生れ出でたものと認定
していただかねばならぬ。三度以上繰返す時
始めて習慣なる語を冠せられて、この行為が
生活上の必要と進化するのもまた人間と相違
はない。(『猫』四)

「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせ
ようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に琴をひく別嬪が居てね」
「端書に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ。世の中には不思議な事があるも
んだね。兄さんと甲野さんと嵐山へ御花見に
行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばか
りならいいが、甲野さんがその女に見惚れて
茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰
る時に、又その女と乗り合わせてね」
「嘘よ」
「ハハハハとうとう東京まで一所に来た」
「だって京都の人がそう無暗に東京へ来る訳
がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁だよ」
「人を・・・・・・」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は
嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、頻
(しき)りに心配して・・・・・・」
「もう沢山」
「沢山なら廃(よ)そう」
             (『虞美人草』)


感情転置法
   2015/8/29 (土) 06:57 by Sakana No.20150829065721

8月29日

「情緒的要素fが転置する例ですが、行水の
女に惚れる烏かな、という俳句をとりあげて
みましょう」
「これは理学士寒月さんの云う通りだ。烏が
人間の女に惚れるはずがない」
「すると、俳人虚子が美しい女の行水をして
いるところを見て、はっと思う途端に惚れ込
んだ。つまり作者が自分の感情を烏に転置し
たという解釈になりますね」
「俳人虚子は久米仙人の子孫にちがいない」
「『草枕』では画工が温泉の風呂場につかっ
ているときに出戻り娘の那美さんが裸で入っ
てきます。その輪郭が次第に白く浮きあがり、
俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、
波を切る霊亀の尾の如くに風を起こして、ホ
ホホホと鋭く笑いながら、白い姿が階段を飛
び上がって消えたとか」
「ところが、別れた夫の汽車が日露戦争に出
征するのを茫然として見送る那美さんに<憐
れ>が一面に浮いているのを見て、それだ! 
それが出ると画になりますよと画工は云った」
「湯の中に浮かぶ美しい裸体ではなく、茫然
として汽車を見送る那美さんの表情に浮かぶ
<憐れ>が画になると云った──そうして、
『草枕』がエロ小説に堕することなく、芸術
に昇華したのも感情の転置といえるでしょう」
「俳句も小説も芸術だと思い込むのも一種の
感情の転置かもしれない」

「虚子がですね。虚子先生が(行水の)女に
惚れる烏かなと烏を捕えて女に惚れさしたと
ころが大に積極的だろうと思います」「こり
ゃ新説だね。是非御講釈を伺いましょう」
「理学士として考えてみると烏が女に惚れる
などと云うのは不合理でしょう」「御尤も」
「その不合理な事を無雑作に言い放って少し
も無理に聞こえません」「そうかしら」と主
人が疑った調子で割り込んだが寒月は一向頓
着しない。「何故無理に聞こえないかと云う
と、これは心理的に説明するとよく分ります。
実を云うと惚れるとか惚れないとか云うのは
俳人その人に存する感情で烏とは没交渉の沙
汰であります。然るところあの烏は惚れてる
なと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと
云う訳じゃない、必竟(ひっきょう)自分が
惚れているんでさあ。虚子自身が美しい女の
行水しているところを見てはっと思う途端に
ずっと惚れ込んだに相違ないです」
              (『猫』六)

 輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏
み出せば、せっかくの嫦娥(じょうが)が、
あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑
の髪は、波を切る霊亀(れいき)の尾のごと
くに風を起して、莽(ぼう)と靡(なび)い
た。渦捲く煙りを劈(つんざ)いて、白い姿
は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う
女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を
次第に向(むこう)へ遠退(とおの)く。余
はがぶりと湯を呑んだまま槽(ふね)の中に
突立(つった)つ。驚いた波が、胸へあたる。
縁(ふち)を越す湯泉(ゆ)の音がさあさあ
と鳴る。               (『草枕』)

  茶色のはげた中折帽の下から、髭だらけの
野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、
那美さんと野武士は思わず顔を見合わせた。
鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔
はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く
汽車を見送る。その茫然のうちには不思議に
も今までかつて見た事のない「憐れ」が一面
に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画にな
りますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら
小声に云った。余が胸中の画面は、この瞬間
に成就したのである。    (『草枕』)


感情の拡大
   2015/9/1 (火) 05:48 by Sakana No.20150901054812

9月01日

「感情の転置の次に、感情の拡大という心理
作用について考えてみたいと思います」
「よかろう」
「『猫』で中学二年生の古井武右衛門君が、
退校になるおそれがので、なんとか退校にな
らないようにしてくださいと苦沙弥先生に相
談にやってきました」
「いったい何をやらかしたんだ」
「金田家令嬢をからかってやろうという悪友
の誘いに乗って、悪友が艶書を書き、武右衛
門君の名前で投函してしまったのです」
「今どきそんなことで退校になる心配はない」
「明治三十九年の頃は、それだけで退校にな
るおそれがあったのです」
「だからといって、苦沙弥のような先生に相
談したってどうにもならない」
「そうですね。武右衛門君は悄然として薩摩
下駄を引きずって門を出た。打ちゃって置く
と巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むか
も知れない──と、これは武右衛門君の感情
の拡大を察しているが、だからといって、先
生の知ったことではないというのが、その時
の苦沙弥の心理作用でしょう」
「苦沙弥=漱石=金之助には苦い思い出があ
る。巌頭の吟を書き遺して、華厳滝から飛び
込んだ藤村操は漱石の教え子で、不勉強を叱
責した直後に自殺されてしまった。その教訓
が武右衛門君に生かされていない」        
「漱石の文学論竟に何等のオーソリチィーを
價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして
悉す、曰く、「不可解」」

 この様子ではいつまで嘆願をしていても、
到底見込がないと思い切った武右衛門君は突
然彼(か)の偉大なる頭蓋骨を畳の上に圧
(お)しつけて、無言の裡(うち)に暗に訣
別の意を表した。主人は「帰るかい」と云っ
た。武右衛門君は悄然として薩摩下駄を引き
ずって門を出た。可哀想に。打ちゃって置く
と巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むか
も知れない。        (『猫』十)

  悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の
小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショ
の哲學竟に何等のオーソリチィーを價するも
のぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰
く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終
に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及ん
で、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
              (藤村操『巌頭の感』)


感情の固執
   2015/9/4 (金) 07:06 by Sakana No.20150904070645

9月04日

「親兄弟に見離され、あかの他人の傾城に、
可愛がらりょう筈がない、という苦沙弥先生
の感情の固執について考えてみましょう。傾
城(けいせい)とは、美人、遊女という意味
です」
「非論理的な文章だ。親兄弟に見離されるこ
ととあかの他人の傾城に可愛がられることと
の間には論理的な関連がない」
「これは俗に角兵衛と呼ばれる常磐津・長唄
掛合いの曲中で歌われる投節の文句──江戸
っ子の情緒に訴える文句ですよ」
「そうか、なるほど。いずれにしても、苦沙
弥は不惑の年になってもなお、親兄弟に見離
されたという感情に固執している。また、女
にもてたいという願望はあるものの、もてる
はずがないという諦念に固執しているのか」
「金まわりのいい実業家を嫌うという感情、
それに、教師を続けても月給がたいしてあが
らないという不満にも固執しています」
「苦沙弥はそのまま不遇をかこちそうだが、
漱石は苦沙弥ではない。朝日新聞からの誘い
を受け、月給二百円プラス盆暮の賞与という
好条件で入社した後は、そんな感情に固執し
なくなった」
「もう一つ感情の固執の例をあげると、『そ
れから』の長井得は、廃藩置県で藩がなくな
った後も、藩主から貰った誠者天道也(まこ
とはてんのみちなり)という額を麗々と掛け、
封建的な忠君思想に固執しています」
「息子の代助はそのような感情の固執に反発
し、人の道にあらず、と云った。固執するの
がよいか、しないのがよいか──これは現代
の家族のトラブルにも通じる問題だ」

 人間も返事がうるさくなる位無精になると、
どことなく趨があるが、こんな人に限って女
に好かれた試しがない。現在連れ添う細君です
ら、あまり珍重しておらん様だから、その他は
推して知るべしと云っても大した間違はなかろ
う。親兄弟に見離され、あかの他人の傾城に、
可愛がらりょう筈がない、とある以上は、細君
にさえ持てない主人が、世間一般の淑女に気に
入る筈がない。(『猫』十)

「先生教師などしておったちゃ到底あかんで
すばい。ちょっと泥棒に逢っても、すぐ困る
──一丁今から考えを換えて実業家にでもな
んなさらんか」
「先生は実業家は嫌だから、そんな事を言っ
たって駄目よ」
「と細君が傍から多々良君に返事をする。細
君は無論実業家になって貰いたいのである。
「先生学校を卒業して何年になんなさるか」
「今年で九年目でしょう」と細君は主人を顧
みる。主人はそうだとも、そうで無いとも云
わない。
「九年立っても月給は上がらず、いくら勉強
しても人は褒めちゃくれず、郎君独寂寞です
たい」と中学時代で覚えた詩の句を細君のた
めに朗吟すると、細君は一寸分りかねたもの
だから返事をしない。(『猫』五)

  その昔し藩の財政が疲弊して、始末が付か
なくなった際、整理の任に当つた長井は、藩
侯に縁のある町人を二三人呼び集めて、刀を
抜いてその前に頭を下げ、彼等に一時の融通
を頼んだ事がある。固(もと)より返せるか、
返せないか、分らなかったんだから、分らな
いと真直に自白して、それがためにその時成
功した。その因縁でこの額を藩主に書いて貰
ったんである。爾来長井は何時でも、これを
自分の居間に掛けて朝夕眺めている。代助は
この額の由来を何遍聞かされたか知れない。
            (『それから』)



情緒fそのものの性質
   2015/9/7 (月) 05:58 by Sakana No.20150907055836

9月07日

「これまでのところは、情緒fについて漠然
と論じただけで、情緒fそのものの性質の細
目にわたっては論及していません」
「遠慮せず、論及してくれ」
「たとえば、私たちが人事界または天然界に
あって直接経験をする時の情緒fは、読書で
間接経験をする時の情緒fとは性質が違いま
す」
「どこがどう違うんだ」
「直接経験の情緒fは忘れてしまえば、それ
っきりですが、記憶に残っていれば、何かの
きっかけでよみがえります。間接経験により
記憶想像のFに伴ってfが生ずることもあれ
ば、記憶叙景の詩文に対してfを起すことも
ある──これは興味深い問題ですので、数言
をついやしてみなさまの参考に資すよう弁じ
たいとと思います」
「みなさまの参考になるかどうかはわからな
いが、数言でも数百言でもついやしてくれ」
「直接経験より生ずるfと間接経験より生ず
るfとはその強弱及び性質において異なるこ
とはもちろんですが、このような差異がある
ために、普通の人事界や天然界では不快に感
じるようなことが間接経験になると一回転し
て快感を生ずることがあります。黒が白にな
り、円が三角になってしまうのです」
「そんなことがあるものか」
「よくありがちなことです」
「もしそうだとすれば、文学亡国論や文学無
用論につながりかねない」
「これほどの相違をもたらす原因はどこにあ
ると思いますか」
「知らん」
「作者の表出法と読者の幻惑──原因はこの
二通りです。実は私もこの問題についてこれ
まではきちんと理解していなかったのですが」
「表出とか幻惑とか、まぎらわしい用語だ。
作者の幻惑と読者の幻惑のように並べて比較
すれば、もっとわかりやすい。きみがきちん
と理解できなかったのは、漱石がまぎらわし
い用語を使ったからだろう」
「漱石先生が悪いのではありません。私が馬
鹿だったからです。次回からは頭をすっきり
させて、この二通りについて論じることにし
ましょう」

 さて邸(やしき)へは忍び込んだもののこ
れから先どうして善(い)いか分らない。そ
のうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、
雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予
(ゆうよ)が出来なくなった。仕方がないか
らとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあ
るいて行く。今から考えるとその時はすでに
家の内に這入っておったのだ。ここで吾輩は
彼(か)の書生以外の人間を再び見るべき機
会に遭遇(そうぐう)したのである。第一に
逢ったのがおさんである。これは前の書生よ
り一層乱暴な方で吾輩を見るや否やいきなり
頸筋(くびすじ)をつかんで表へ抛(ほう)
り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼
をねぶって運を天に任せていた。しかしひも
じいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。
吾輩は再びおさんの隙(すき)を見て台所へ
這(は)い上(あが)った。すると間もなく
また投げ出された。吾輩は投げ出されては這
い上り、這い上っては投げ出され、何でも同
じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。
その時におさんと云う者はつくづくいやにな
った。この間おさんの三馬(さんま)を偸
(ぬす)んでこの返報をしてやってから、や
っと胸の痞(つかえ)が下りた。(『猫』一)


表出の方法
   2015/9/10 (木) 09:14 by Sakana No.20150910091436

9月10日

「人生は文学にあらず。人生における直接経
験のfと読書による間接経験のfとの間には
ずれがあります」
「それはもう何度も聞いて耳にタコができた」
「実生活の直接経験で誰かに嘘をついている
ことがわかれば腹が立ちますが、間接経験の
読書で迷亭のような大平の逸民が法螺(ほら)
ばかりふいていても腹が立たない。またかと、
笑って読み流せます。ところが、実業家の細
君である鼻子がやってきて、偉そうな態度で
ものを言うと、腹が立つ。これは作者による
表出の方法に読者が幻惑されているからです」
「作者が罪のない読者を幻惑するとはけしか
らん」
「元来吾人が文学を賞翫するとはそれ作者の
表出法に対する同意を意味するものとす。け
しからんと思えば、読まなければよい──そ
れだけのことです」
「現実には利害関係がない読者にとっては迷
亭の法螺も鼻子の鼻もお笑いネタにすぎない」
「それは第三者の地位に立っているからです。
見たり読んだりする間だけは詩人です」
「迷亭や鼻子を相手にしていたのでは詩人に
はなれない」

「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」
と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人
が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻
子は「実は私はつい御近所で──あの向う横
町の角屋敷なんですが」「あの大きな西洋館
の倉のあるうちですか、道理であすこには金
田と云う御札が出ていますな」と主人は漸く
金田の西洋館と、金田の身を認識した様だが
金田夫人に対する尊敬の気持は前と同様であ
る。「実は宿(やど)が出まして、御話を伺
うんですが会社の方が大変忙しいもんですか
ら」と今度は少し利いたろうという眼付きを
する。主人は一向動じない。鼻子の先刻から
の言葉遣いが初対面の女にしては余り存在
(ぞんざい)過ぎるので既に不平なのである。
「会社でも一つじゃ無いんです。二つも三つ
も兼ねているんです。それにどの会社でも重
役なんで──多分御存知でしょうが」これで
も恐れ入らぬかという眼付きをする。
              (『猫』三)

  恋はうつくしかろ。孝もうつくしかろ。忠
君愛国も結構だろう。然し自身がその局に当
れば利害の旋風(つむじ)に捲き込まれて、
うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩ん
でしまう。従ってどこに詩があるか自身には
解しかねる。
 これがわかる為めには、わかるだけの余裕
のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者
の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説
も見て面白い。芝居を観て面白い人も、小説
を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げ
ている。見たり読んだりする間だけは詩人で
ある。          (『草枕』)





感覚的材料の表出法
   2015/9/13 (日) 07:59 by Sakana No.20150913075922

9月13日

「作家はさまざまな材料を用いて独自の表出
法の工夫をこらしています。ここでは漱石流
の表出法を学びましょう」
「表出法とはなじみのない言葉だ。漱石の手
口を学ぶといったらどうだ」
「手口なんて下品な言葉は使いたくないです
ね。まず感覚的材料の表出法の文例として乾
尿※ (かんしけつ)という漢字変換も難しい
禅語をとりあげてみたいと思います。不浄物
がそのまま乾いたクソカキベラという意味だ
そうです。きたないですね」
「多々良三平君は猫のことをクソカキベラ同
等とみなし、しかも猫鍋にして食うという。
そんなきたないものがよく食えるものだ」
「三平はげてもの食いなんですよ。寒月さん
に代わって、鼻子の娘を嫁にするような男で
すから」
「しかし、この会話はクソカキベラを材料に
したわりにはきたないという感じがしない」
「それは乾尿※ (かんしけつ)が、禅の世界
では、連想の作用により、活眼を開いてみれ
ば不浄物も真理であることになっており、そ
の連想が読者の意識に働くからです」
「『猫』だけではなく、『草枕』でも使われ
ている」
「悪口として使われていますが、言ったのが
春風に青い頭をゆらす門前の小僧という点に
格別の興趣があります」

 然も彼の多々良三平君の如きは形を見て心
を見ざる第一流の人物であるから、この三平
君が吾輩を目して乾尿※ (かんしけつ=拭い
た不浄物がそのまま乾いたクソカキベラ)同
等に心得るのも尤もだが、恨むらくは古今の
書籍を読んで、稍事物の真相を解し得たる主
人までが、浅薄なる三平君に一も二もなく同
意して、猫鍋に故障を差挟(さしはさ)む景
色のない事である。(『猫』五)

「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒め
ておられる」
 「石段をあがると、何でも逆様だから叶わ
ねえ。和尚さんが、何て云つたって、気狂は
気狂だろう。──さあ、剃れたよ。早く行っ
て、和尚さんに叱られて来ねえ」
「いやもう少し遊んで行って誉められよう」
「勝手にしろ、口の減るらねえ餓鬼だ」
「咄(とつ)この乾屎※ (かんしけつ)」
「何だと?」
 青い頭は既に暖簾をくぐって、春風に吹か
れている。          (『草枕)



人事的材料の表出法
   2015/9/16 (水) 07:43 by Sakana No.20150916074351

9月16日

「猫の観察によれば、苦沙弥先生は痘痕面
(あばたづら)です」
「作者の漱石があばただった。天然痘の予防
のために種痘をして、痒い痒いとむやみに顔
中ひっかきまわしたらたらあばたになってし
まったらしい」
「猫は、細君の禿も観察しています。禿なん
ざどうだって宜いじゃありませんかと、細君
は開き直っていますが」
「細君には初々しさがないね。結婚後何年目
だろう」
「十年目位でしょう。御両人は結婚後一ヶ年
も立たぬ間に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱
却せられた超然的夫婦ということになってい
ます」
「いやだね。結婚なんかするものではない」
「読者にそう思わせることも、漱石先生の表
出法です」
「漱石には江戸っ子らしい露悪家のところが
ある」
「己を知ろうとする心のあらわれともみるべ
きでしょう」
「鏡を見て己の醜さを知り、己の馬鹿さ加減
を知れということか」
「こんな顔でよくも人で候と反(そ)りかえ
って今日まで暮らされたものだと気がつく─
─そこへ気がついた時が人間の生涯中尤も難
有い期節であるという教えです」

 主人は痘痕面(あばたづら)である。御維
新前はあばたも大分流行ったものだそうだが
日英同盟の今日から見ると、こんな顔は聊か
時候遅れの感がある。あばたの衰退は人口の
増殖と反比例して近き将来には全くその跡を
断つに至るだろうとは医学上の統計から精密
に割り出されたる結論であって、吾輩の如き
猫といえども毫も疑いを挟(さしはさ)む余
地のない程の名論である。現在地球上にあば
たっ面を有して生息している人間は何人位あ
るか知らんが、吾輩が交際の区域内に於いて
打算してみると、猫には一匹もない。人間に
はたった一人ある。しかしその一人が即ち主
人である。甚だ気の毒である。
 吾輩は主人の顔を見る度に考える。まあ何
の因果でこんな妙な顔をして臆面なく二十世
紀の空気を呼吸しているのだろう。(『猫』九)

「成程似ているな」と主人が、さも感心した
らしく云うと「何がです」と細君は見向きも
しない。
「何だって、御前の顔にゃ大きな禿があるぜ。
知ってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手を已め
ずに答える。別段露見を恐れた様子もない。
超然たる模範細君である。
「嫁にくるときからあるのか。結婚後新たに
出来たのか」と主人が聞く。もし嫁に来る前
から禿げているなら欺されたのであると口へ
は出さないが心の中で思う。
「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ。禿
なんざどうだって宜いじゃありませんか」と
大(おおい)に悟ったものである。
              (『猫』四)

 かくとも知らぬ主人は甚だ熱心なる容子を
以て一張来の鏡を見詰めている。元来鏡とい
うものは気味の悪いものである。深夜蝋燭を
立てて、広い部屋の中で一人鏡を覗き込むに
は余程の勇気がいるそうだ。吾輩などは始め
て当家の令嬢から鏡を頭の前へ押し付けられ
た時に、はっと仰天して屋敷のまわりを三度
駈け回った位である。如何に白昼といえども、
主人の様にかく一生懸命に見詰めている以上
は自分で自分の顔が怖くなるに相違ない。只
見てさえあまり気持のいい顔じゃない。稍あ
って主人は「成程きたない顔だ」と独り言を
言った。自己の醜を自白するとは見上げたも
のだ。容子から云うと慥かに気違いの所作だ
が言うことは真理である。これがもう一歩進
むと、己の醜悪な事が怖くなる。人間は吾身
が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄
に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦
労人でないと到底解脱は出来ない。
              (『猫』九)

 人間にせよ動物にせよ、己を知るのは生涯
の大事である。己を知る事が出来さえすれば
人間も人間として猫から尊敬を受けてよろし
い。           (『猫』十)


超自然的材料の表出法
   2015/9/19 (土) 08:36 by Sakana No.20150919083617

9月19日

「超自然的材料には宗教的Fと妖怪変化、妖精、
妖婆など宗教的ならざるFがあります」
「宗教的Fの表出法となると、作者が特定の宗
教の信者かどうかによって変わってくる」
「漱石先生は、求道者です。神についての表出
法は哲学的、科学的ともいえますね」
「恋が宇宙的な活力というのが科学的な表出と
はいえない」
「しかし、在天の神ジュピターから土中に鳴く
蚯蚓、おけらに至るまでこの道にかけて浮身を
窶(やつ)すのが万物の習いというのは壮大な
表出であり、私は科学を感じます」
「理数を苦手とする者は安易に科学という言葉
を使うべきではない」
「人間が同じ材料でつくられているのに同じ顔
をしている者は世界中に一人もいないというこ
とを観察して、猫が製造家の伎倆に感服してい
ます。その製造家を神として崇めてはいるので
はなく、作者の伎倆に感服しているのです。科
学的な猫といえるのではないでしょうか

  抑(そもそ)も恋は宇宙的の活力である。上
は在天の神ジュピターより下は土中に鳴く蚯蚓、
おけらに至るまでこの道にかけて浮身を窶(や
つ)すのが万物の習いであるから、吾輩猫ども
が朧うれしと、物騒な風流気を出すのも無理の
ない話しである。回顧すればかく云う吾輩も三
毛子に思い焦がれた事もある。(『猫』五)

  古代の神は全智全能と崇(あが)められてい
る。ことに耶蘇教の神は二十世紀の今日までも
この全智全能の面を被っている。然し俗人の考
うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈
が出来る。こう云うのは明かにパラドックスで
ある。然るにこのパラドックスを道破した者は
天地開闢以来吾輩のみであろうと考えると、自
分ながら満更な猫でもないと云う虚栄心も出る
から、是非共ここにその理由を申し上げて、猫
も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間の
脳裏に叩き込みたいと考える。天地万有は神が
作ったそうな、して見れば人間も神の御製作で
あろう。現に聖書とか云うものにはその通りと
明記されてあるそうだ。さてこの人間に就いて、
人間自身が数千年来の観察を積んで、大に玄妙
不思議がると同時に、益(ますます)、神の全
智全能を承認する様に傾いた事実がある。それ
は外でもない。人間も斯様にうじゃうじゃ居る
が同じ顔をしている者は世界中に一人も居ない。
顔の道具は無論極っている。大きさも大概は似
たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ
材料から作り上げられている。同じ材料で出来
ているにも関らず一人も同じ結果に出来上って
おらん。よくもまああれだけの簡単な材料でか
くまで異様な顔を思い就いた者だと思うと、製
造家の伎倆に感服せざるを得ない。余程独創的
な想像力がないとこんな変化は出来んのである。
               (『猫』六)


知的材料の表出法
   2015/9/22 (火) 07:12 by Sakana No.20150922071223

9月22日

「神は人間のせつな糞の凝結せる臭骸とは、
ひどい。こんな表出をする筆者は神経を病ん
でいるにちがいない」
「この手紙の差出人は立町老梅またの名を天
道公平という人物ですが、気狂いになって巣
鴨の病院へ収容されたそうです」
「さもありなん」
「ところが、苦沙弥先生はこの文章に深遠な
る意味があると考えて、何度も読み直し、何
とか理解しようとしているのです」
「先生と呼ばれる人種は、分らぬところに馬
鹿に出来ないものが潜伏しているのではない
かと思い、そんな作者を尊敬する傾向がある」
「天才と気狂いは髪一重といいますからね」
「漱石も夏目狂せりと噂を立てられた」
「しかし、漱石先生はこのような知的材料の
表出法によって狂気への衝動を克服し、文豪
と呼ばれるようになったのです。天道公平の
文章だって研究する価値はあると思います」
「ほどほどにしたほうがよい。書物を読むの
は極(ごく)悪う御座いますと、円覚寺の若
い僧侶は云っている」
「なぜでしょうか」
「読書によってくだらない知識が増すと、自
分が馬鹿だということをつい忘れがちになる。
つまり、悟りの邪魔になるからだろう」

 神は人間の苦しまぎれに捏造(ねつぞう)
せる土偶のみ。人間のせつな糞の凝結せる臭
骸のみ。恃むまじきを恃んで安しと云う。咄
々(とつとつ)。酔漢漫(みだ)りに胡乱
(うろん)の言辞を弄(ろう)して、蹣跚
(まんさん)として墓に向う。油尽きて燈自
(おのずか)ら滅す。苦沙弥先生よろしく御
茶でも上がれ。・・・・・・。(『猫』十)

「書物を読むのは極(ごく)悪う御座います。
有体(ありてい)に云うと、読書程修行の妨
(さまたげ)になるものは無い様です。私共
でも、こうして碧巌などを読みますが、自分
の程度以上の所になると、まるで見当が付き
ません。それを好加減(いいかげん)に揣摩
する癖がつくと、それが坐る時の妨げになっ
て、自分以上の境界(きょうがい)を予期し
てみたり、悟を待ち受けてみたり、充分突込
んで行くべきところに頓挫が出来ます。大変
毒になりますから、御止(およ)しになった
方が可いでしょう。もし強いて何か御読みに
なりたければ、禅関策進という様な人の勇気
を鼓舞したり激励したりするものが宜しゅう
御座いましょう。それだって、只刺激の方便
として読むだけで、道その物とは無関係です」
               (『門』)


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「『文学論』──自己本位の読み方のまとめ」 長谷部さかな 著
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