『文学論』──自己本位の読み方のまとめ

長谷部さかな 著
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情緒の再発(復起)
   2016/12/21 (水) 08:29 by Sakana No.20161221082931

12月21日

「作者が表出した作品を読んだ読者の中で幻
惑を受けるのは、情緒を再発(復起)させる
人にかぎられます」
「読解力があり、しかも感受性の強い読者だ
ろう」
「由来この情緒の復起なき人は文学に縁のな
き人々にして、世の中にはかくの如き人すこ
ぶる多し」
「しかし、文章のうまい人が情緒を復起させ
すぎるとアブナイ。たとえば、芥川龍之介、
太宰治、川端康成、三島由紀夫」
「彼らは作家として成功したからそれでいい
のです。問題は情緒を復起しすぎる読者でし
ょう」、
「そんな読者に文学の読書をすすめてはいけ
ない」
「真に文学を楽しむ資格を持っているのは、
文学書中にある焦点的印象又は観念Fより己
の情緒fを部分的に復起する人々で、この部
分的に復起することが、ちょうど適度に文学
を味わい得る程度です。つまり、直接経験と
間接経験との差異はそのfの強弱に存します
が、間接経験がその強さにおいて直接経験に
劣るというところに文学をして永く世界に跡
をたたしめざる一原因なるべしだそうです」
「そういう漱石だって情緒の復起過剰気味で
かなりアブナかった」
「漱石先生は漢学の素養と文学論の研究によ
って、危機を乗りこえました」


情緒的要素の除去
   2016/12/24 (土) 07:56 by Sakana No.20161224075606

12月24日

「読者が文学賞翫という間接経験に際して自
らを幻惑する際に一部抽出、除去する情緒的
要素をあらためてざっとまとめておきます」
  1)自己関係
  2)善悪
    A)非人情
    B)不道徳文学
       崇高
     、 滑稽
       純美感
    C)君主の道徳と奴隷の道徳
    D)芸術のための芸術
  3)知的分子の除去」
「自己関係というのは、作中人物の行動に対
して読者は関係ないということか」
「ええ、責任を負わなくてすむので気が楽で
す」
「少々のことならいいが、善悪の道徳観念を
抽出して無責任というのは問題がある」
「君主の道徳と奴隷の道徳はちがいます。教
育者と芸術のための芸術家の道徳観念もちが
います」
「知的分子の除去とは?」
「人間には、わけのわからん難解な文章をあ
りがたがる傾向があります」
「わからぬが故に文学的価値ありか。なるほ
ど、わかったようなわけがわからんのような
説明だ」


悲劇に対する場合
   2016/12/27 (火) 08:25 by Sakana No.20161227082540

12月27日

「『文学論』第二編 文学的内容の数量的変
化は、最後に、悲劇に伴う情緒fについての
解説となっています」
「かつて我が国においては劇といえば必ず悲
劇を意味した。人々は『平家物語』『忠臣蔵』
『金色夜叉』『婦系図』などの登場人物の運
命に紅涙を流した。『虞美人草』の甲野君は、
悲劇は喜劇よりも偉大である、と言っている」
「読者や観客は実生活ではできるかぎり苦痛
を避けようとしています。それなのに、書物
の上、舞台の上に移して面白しと興じるのは
不思議です」
「アリストテレスは『詩学』中の悲劇論にお
いて、悲劇の効用としてカタルシス論を展開
した。<排泄>という意味だが、<浄化>
という意味もある。つまり、悲劇を読む読者
や悲劇を観る観客はいわば情緒的な下痢を起
こし、魂を浄化させる」
「排泄の後のすっきり感という説のようです
ね。『文学論』ではアリストテレスのカタル
シス論にはふれていません。その代わり、余
の考えによれば、苦痛は吾人の尤も忌む所な
るが故に尤も存在の自覚を強ふすといふパラ
ドックスより来るに似たりとあります」
「余の考えとは漱石の考えか」
「アリストテレスの糟粕をなめた考えではあ
りません。悲劇の関する所は死生の大問題な
り。死生の大問題は吾人の実在を尤も強烈な
る程度において、吾人の脳裏に反射し来る。
而して死生の大問題は皆苦痛ならざるはなし。
ただその苦痛は仮の苦痛なり。仮装なるが故
に一大安心あり。仮装なるが故に吾人の存在
をさかんならしむ。これ吾人が好んで悲劇に
赴くの第一の理由ならざるか」
「日本人には他人の悲しみに共感する能力が
あり、他人の悲しみを他人事とは思わないと
ころがある。それが悲劇的な結末を好む傾向
とつながっているのかもしれない」
「しかし、一般的にいって悲劇は流行らなく
なりましたね。他人の悲しみに共感し自己犠
牲を払ってみせて感動させるお人好しの日本
人が少なくなってきたようです」


喜劇に対する場合
   2016/12/30 (金) 08:50 by Sakana No.20161230085037

12月30日

「『文学論』第二編 文学的内容の数量的変
化はこれで終わりです」
「ちょっと待て。『文学論』で悲劇に対する
場合を論じるなら喜劇に対する場合について
も論じなければバランスがとれない」
「アリストテレスの『詩劇』でも喜劇はとり
あげられていないはずです」
「悲劇は喜劇より偉大であると片付けてしま
って、それでいいのか」
「『文学論』第二編では、喜劇については、
不道徳文学の滑稽のところで論じているし、
『猫』や『坊ちゃん』はどうみても喜劇です
からそれで十分でしょう」
「なぜ読者が喜劇を歓迎し、『猫』や『坊ち
ゃん』のような作品に幻惑されるのか。その
理由を解説してほしい」
「読者が喜劇を歓迎するのはホッブスが言っ
たように、誰かを笑うことが自分の優越感に
つながるからではないでしょうか」
「他人の不幸は蜜の味か。ドン・キホーテや
フーテンの寅さんを笑って、優越感を抱いて
もしようがない」
「民主主義の社会では、総理大臣でも警視総
監でも、金持や資産家だって笑いの標的にな
ります。偉い人の足をひっぱり、価値観をひ
っくりかえして、憂さ晴らしをするのです」
「しかし、呑気と見える人々も、心の底を叩
いてみるとどこか悲しい音がする、というと、
喜劇と悲劇が近づいてくる」

「笑いはいわばピストル、近いところでは強
烈、的確に威力を発揮するが、遠くへは届か
ない。悲劇はそれに比べると、大砲の弾丸の
ようなもので、近くよりも遠いところで力を
出す」(ジョージ・メレディス)



文学的内容の特質
   2017/1/1 (日) 18:20 by Sakana No.20170101182020

01月02日

「新春を言祝ぎ、『文学論』第三編 文学的
内容の特質 を見直すことにします」
「何度見直してもたいして替わり映えはしな
いかもしれない」
「みがきをかければツヤが出ます。なんとい
ったって文学的内容の特質、英語でいえば、
The Particular Character of Literary 
Substance ですから」
「要するに形式は(F+f)だろう」
「形式はそうですが、内容は意識の波のほん
の一部分を断片的に縫い拾ったものです」
「意識の推移のすべてを網羅し、文字で漏れ
なく描きつくすことはできないのか」
「人間の一生は意識Fの流れる長大な物語で
す。そのすべてを文学的内容として文字で表
現するのは不可能です。意識の波のほんの一
部分の断片的な写実ならなんとかなるとは思
いますが、いずれにせよ、物語はどこかきり
のよいところで終わらせなければなりません」
「するといわゆる全体的な写実主義は不可能
ということになる」
「まあ、そうですね。次に同一の現象も異な
る国民や異なるグループの間では著しい相違
を以て現れることがあります」
「それがどうした」
「同一の言語が時に同一のFを代表しないこ
とがあり、国によって、あるいはグループに
よって解釈が相違することがあるのです」
「そんなことが文学的内容の特質になるのか」
「同一の境遇、歴史、職業に従事するものに
は同種のFが主宰することが最も普通の現象
です。したがって、文学者もしくは文学的傾
向を有する人々の心行きもしくは観察法を論
じるにあたっては、文学者と他のグループの
Fを比較してその類似や差異を見るのが便利
です」
「それはその通りかもしれない」
「而して普通は文学に対するに科学を以てす
れば、暫く文学者対科学者(哲学者をも含む)
につき論ずるところあるべし」
「文学を科学と比較するのはいいが、そこで、
科学者に哲学者を含めてしまったのが『文学
論』第三編の信用を落した」
「まあまあ、その辺で。新年早々言挙げはし
ないようにしましょう」


文学的Fと科学的Fとの比較
   2017/1/5 (木) 07:24 by Sakana No.20170105072430

01月05日

「『文学論』第三編第一章で論じられるのは
文学的Fと科学的Fとの比較一般です」
「そんな比較をして何の意味があるのか?」
「異質のものと比較することによって文学的
内容の特質が見えてきます。およそ科学の目
的とするところは叙述にし て説明にあらず。
語を換へていへば科学は"How"の疑問を解けど
も"Why"に応ずる能はず。即ち一つの与へられ
たる現象は如何にして生じたるものなるかを説
き得れば科学者の権能ここに一段落を告ぐるも
のなり」
「それに対して文学の第二の目的は幻惑だとい
う。市場経済の見地からいえば、読者を幻惑さ
せれば作者は成功者になる。12月9日は漱石
忌だが、没後百年でも漱石の著書は今だに売れ
ている。市場経済における成功者であり、幻惑
の達人とはいえるが、文学の第一の目的を漱石
は叙述していない」
「それは読者がそれぞれ自分で考えよというこ
とでしょう」
「読者は自分の頭で考えようとしない。だから
作者につけこまれ、幻惑されやすくなるのだ」
「自分の頭で考えるのは哲学者です」
「哲学者を科学者に含めてしまったのが『文学
論』だ」
「しかし、学生時代に『老子の哲学』という論
文を書き、『文学評論』では18世紀における英
国の哲学を論じています。さらに、『文芸の哲
学的基礎』と題する講演の記録もあります。文
学の基礎に哲学があるといいう認識を漱石先生
は抱いておられたはずです」
「そのことをはっきりさせ、文学と哲学の関連
性を説明しなかったのが『文学論』の欠陥だ」
「『文学論』だけでなく、漱石先生の著書全体
を読んで判断する必要があると思います」


文芸上の真と科学上の真
   2017/1/8 (日) 07:32 by Sakana No.20170108073242

01月08日

「『文学論』第三編第一章で論じられるのは
文学的Fと科学的Fとの比較一般ですが、そ
れに対して第三編第二章では文芸上の真と科
学上の真とが比較されています」
「Fが真に変わっている」
「Fは単なる意識の流れですが、真というと
追求すべき目的になります。科学も文芸もそ
れぞれに真を追求します」
「文学も文芸に変わっている」
「それは目的がちがうからだと思います。文
芸の目的は幻惑ですが、文学の大目的は『文
学論』ではあきらかにされていません」
「なるほどね。芸術の目的も幻惑だ」
「芸の術ですからね。英語でいうとart」
「芸術家は英語でartist、フランス語でartisan。
職人という意味にもなる」
「芸術家と文学者は目的がちがいますね」
「芸術家は職人だが、文学者は職人とはかぎ
らない」
「すると、文学者が芸術家にふくまれるとい
うのは誤りですね。そういえば、俳句や短歌
は第二芸術だという第二芸術論争が行われた
ことがありますが、あの論争は何だったので
しょう」
「文学や芸術の意味がわかっていない連中が
自分勝手に思いつくままの議論をしただけの
論争だ」
「やっと、積年の謎が少しだけとけたような
気がしますが、まだ文学上の真が何かわかり
ません」
「文芸上の真と文学上の真もちがうというこ
とがわかっただけでも収穫だと思うしかない」


『文学論』の真
   2017/1/12 (木) 05:55 by Sakana No.20170112055510

01月11日

「文芸上の真と科学上の真とがちがうことは
わかった。では『文学論』の真はどっちだ?」
「それは科学上の真だと思います。およそ文
学的内容の形式は(F+f)なることを要す
という法則が打ち立てられていますから」
「つまり、『猫』とか『明暗』とかの小説は
文芸上の真を追求しているが、『文学論』は
科学上の真を追求しているという理解でいい
のだな」
「それでいいと思います。(F+f)は、科
学者たちの発想をヒントにして得られたもの
です」
「意識の波の頂点Fは、印象又は観念だと漱
石はいう」
「それは、ウイリアム・ジェームズの意識の
流れの説とディビッド・ヒュームの印象と観
念の連続説に基づいていると私は思います」
「ウイリアム・ジェームズの意識の流れの説
は今田寛『心理学』で紹介されているという
が、ディビッド・ヒュームの印象と観念の連
続説はどこに書いてある?」
「『文学評論』の「十八世紀における英国の
哲学」です。<吾人が平生「我(ego)という
実体は、まるで幻影のようなもので、決して
実在するのではないそうである。吾人の知る
ところはただ印象と観念の連続にすぎない>」
「しかし、『文学論』では、フランスの心理
学者Ribotの説が紹介されている」
「リボーの説も参考にしていますが、ヒュー
ムの影響が先行していると思います」
「ヒュームはロックやバークレイとともに経
験論の哲学者とされているが、科学者とはい
えない」
「でも『人間の情性に関する研究』や『情感
論』などの著書から判断すると科学者ですね。
ウィリアム・ジェームズは医学者、生理学者、
心理学者です」


十八世紀における英国の哲学
   2017/1/14 (土) 08:44 by Sakana No.20170114084443

01月14日

「『文学評論』の「十八世紀における英国の
哲学」ではロック、バークレイ、ヒュームと
いう三人の英国哲学者の思想の概略が紹介さ
れています」
「それは彼らの思想が十八世紀の文学に何ら
かの影響を及ぼしたと漱石は考えたにちがい
ない。それならそうと『文学論』でもはっき
りと書くべきだった」、
「三人とも経験を重視する哲学者で、人間が
生得観念(innate idea)を持っているというデ
カルトの説を否定しています」
「<我考える故に我あり>とデカルトいって、
理性、つまり我の考える能力が生得観念。こ
れを合理論という」
「それに対してロックは、人間の心はいわば
白紙(タブラ・ラーサ、tabula rasa)であり、
生得観念はない。すべての観念は、必ず感覚
性(sensation)と反思性(reflection)の二つ
を通じて、経験を待ってはじめて得られるべ
きものであると主張しました」
「経験論対合理論だ。その決着はついている
のか」
「ヘーゲルの観念論対マルクスの唯物論とか
たちを変えて、論争は続き、一時はマルクス
の観念論が優勢のように見えましたが、ソ連
の崩壊によって勢が衰え、現在に至るも哲学
的決着がついているとはいえません」
「漱石の法則(F+f)のFは印象又は観念
と説明されているが、経験論の影響を受けて
いると見てよいのか」
「論文『十八世紀における英国の哲学』を読
むかぎりでは、ロックよりもヒュームの影響
の方が大きいと思います。吾人が平生<我>
(ego)と名づけつつある実体は、まるで幻影
のようなもので、決して実在するのではない。
吾人の知るところはただ印象と観念との連続
にすぎないとヒュームは言っています」
「意識の頂点Fは印象又は観念という漱石の
法則の由来はその辺にありそうだ」」




文芸の哲学的基礎
   2017/1/16 (月) 08:25 by Sakana No.20170116082550

01月17日

「漱石先生の講演によれば、文芸の哲学的基
礎は吾人が平生<我>(ego)と名づけつつあ
る実体が、まるで幻影のようなもので、決し
て実在するのではない。吾人の知るところは
ただ印象と観念との連続にすぎないという認
識とかかわりがあります」
「そこのところを漱石は総括していた」
「もう一度再掲します。
 (一)吾々は生きたいと云う念々(ねんね
  ん)に支配せられております。意識の方
  から云うと、意識には連続的傾向がある。
 (二)この傾向が選択(せんたく)を生ずる。
 (三)選択が理想を孕(はら)む。
 (四)次にこの理想を実現して意識が特殊な
   る連続的方向を取る。
 (五)その結果として意識が分化する、明暸
   (めいりょう)になる、統一せられる。
 (六)一定の関係を統一して時間に客観的存
   在を与える。
 (七)一定の関係を統一して空間に客観的存
   在を与える。
 (八)時間、空間を有意義ならしむるために
   数を抽象してこれを使用する。
 (九)時間内に起る一定の連続を統一して因
   果(いんが)の名を附して、因果の法則
   を抽象する。
「われわれが生きたいと云う念々に支配されて
いることはたしかだ。それは人間や動植物の生
存の条件だが、なかには死にたいという念々に
支配されている人間もいる」
「いずれにしても、意識には連続的傾向があり
ます」
「眠っている間は、意識がとぎれる」
「睡眠中に夢をみることがあります。夢も一種
の意識といってよいでしょう」
「夢ならいつかは目覚めるが、最後の息を吐け
ば、expire。そこで意識はとぎれる」
「文芸の哲学的基礎の復活はないのでしょうか」
「誰かの意識が連続さえしていれば、文芸の哲
学的基礎は不滅だ」


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「『文学論』──自己本位の読み方のまとめ」 長谷部さかな 著
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