『文学論』──自己本位の読み方のまとめ

長谷部さかな 著
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連想法と写実法
   2016/3/23 (水) 07:12 by Sakana No.20160323071256

03月23日

「文学的内容の相互関係のリストをぼんやり
眺めているうちに、文芸上の真を伝える手段
は、大きく分けて、連想法と写実法になると
私には思えてきました」
「それは文学界の共通認識にはなっていない」
「伊藤整『文学入門』の分類によれば、連想
法は物語文学、写実法は記録文学に相当する
──と考えれば、ほぼ共通認識に近くなりま
す」
「なるほど、写実法は、アリストテレスの模
写説、沙翁の思想(演技とは自然を鏡に写し
出すこと──『ハムレット』第二幕第三場)、
坪内逍遙の小説神髄、正岡子規の写生文のす
すめなどに反映されている記録文学であり、
一方、連想法は『竹取物語』から現代の恋愛
小説や推理小説などに連なる物語文学と考え
ればよいのか」
「もちろん、文学作品の中で連想法と写実法
が白と黒のようにはっきりと区別されている
わけではなく、両者が混在している場合も多
いようです。まあ、一応の目安ということに
しておきましょう」

 文学芸術の中心に物語文学をおいて考えれ
ば、もっとも感覚的なものとして詩歌がある。
それからもっとも現実そのものに近い形のも
のには記録文学がある。記録文学、物語文学、
詩歌というこの三つに主点を置いて文学作品
の類を考えることができる。
 ふつうの文学史の種別の仕方は、小説と詩
に分けたり、あるいは叙事詩、抒情詩、小説、
戯曲と分ける。さらに長編小説と短編小説と
に分けたり、詩を散文詩や抒情詩や叙事詩や
劇詩に分けたりする。このような一般的な区
別の仕方には大して意味がない。
      (伊藤整『文学入門』第十章) 


投出語法
   2016/3/26 (土) 18:43 by Sakana No.20160326184336

03月26日

「連想法の一番手は投出語法(projection)で
す。自己の情緒を投出(project)して外界を説
明する手段となす」
「投出の英語がプロジェクト(project)と言わ
れてもなあ。ますますわかりにくい」
「訳者のマーフィーによれば、第四編 文学的
内容の相互関係(Inter-relations Between 
Literary Substances)は、『文学論』のなかで
もおそらく、これまでもっとも評価されていな
い論点だそうです」
「では、もっと評価されるように説明してくれ」
「この投出語法への着目は作家夏目漱石の誕生
への大きな布石になったにちがいないと私は思
います」
「投出語法の理論を応用した文学作品が『猫』
だというのか」
「そうですね。吉田六郎は、自己超出という言
葉を使っていますが、猫の実体は夏目漱石と名
乗る夏目金之助なのです」
「投出と超出とでは意味が違う」
「当たらずと雖(いえど)も遠からず、でしょ
う」

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたか頓と見当がつかない。
何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣
いていた事だけは記憶している。吾輩はここで
始めて人間というものを見た。(『猫』一)

 漱石が『猫』にそそぎ込んだたぎる情熱とは、
そもそも何であろうか?それは、自己超出のや
むにやまれぬ欲望である、と私は思う。
     (吉田六郎『吾輩は猫である』論)


投出語法──倫敦消息
   2016/3/29 (火) 10:15 by Sakana No.20160329101513

03月29日

「『猫』に先行する作品として、『倫敦消息』
にも注目しておきたいと思います」
「それはイギリスに留学していた漱石が親友の
正岡子規の病気を慰めんが為に書き送った日記
形式の手紙だ」
「子規は喜んで、この手紙に『倫敦消息』とい
うタイトルをつけて、『ホトトギス』に載せま
した」
「筆者は自分のことを我輩と称している」
「『猫』は吾輩です」
「我輩も吾輩も同じようなもので、夏目金之助
と猫も我輩であり、吾輩でもある」
「禅坊主見た様な哲学者の様な悟り済ました事
も云って見るが、矢張り大体の処が俗物という
のは八木独仙のことだが、苦沙弥や迷亭も同じ
穴のムジナ、要するに大平の逸民だ」
「というわけで、『猫』には苦沙弥、迷亭、独
仙などには夏目金之助=夏目漱石の情緒fが投
出されており、さらに先行する『倫敦消息』に
も夏目金之助=夏目漱石の情緒fが投出されて
いることをあらためて確認しました」

  我輩も時には禅坊主見た様な変哲学者の様な
悟り済した事も云って見るが矢張り大体の処が
御存じの如き俗物だからこんな窮屈な生活をし
て回や其の楽(たのしみ)をあらためず賢なる
かなと褒められる権利は毛頭ないのだよ。
                       (『倫敦消息』)


投出語法──自転車日記
   2016/4/1 (金) 05:40 by Sakana No.20160401054054

04月01日

「『猫』に先行して『ホトトギス』に掲載さ
れたエッセイには『倫敦消息』のほかに『自
転車日記』がありますが、これも『猫』の文
体に似ています」
「『自転車日記』の主人公は自分のことを余
としている。我輩でも吾輩でもない」
「初期作品における語り手の第一人称は次の
通り変化していますが、いずれにしても語り
手の意識の波の頂点(F)や情緒(f)には
作者自身が投出されているとみてよいのでは
ないでしょうか」

 『倫敦消息』         我輩
 『自転車日記』『倫敦塔』   余
 『吾輩は猫である』      吾輩
 『坊っちゃん』        おれ
 『草枕』           予

「『自転車日記』は下宿の二婆さんから自転
車に乗ることをすすめられたが、うまく乗り
こなすことができなかったという話ですが、
自分の心の中にある猜疑心とか継子根性とか、
ふつうの人間なら隠したがるネガチブな心理
をあえて表現しています」
「おやじはちっともおれを可愛がってくれな
かった。母は兄ばかり贔屓(ひいき)にして
いたという坊っちゃんや、親兄弟に見離され、
あかの他人の傾城に、可愛がらりょう筈がな
いという苦沙弥のひがみ根性と同じだ」
「夏目金之助は生まれてまもなく古道具の売
買を渡世にしていた貧しい夫婦ものの養子に
もらわれ、小さい笊(ざる)の中に入れられ
て、毎晩四谷の大通りの夜店に曝(さら)さ
れていたそうです。そこへ通りかかった姉が
可哀想だといって連れて帰ったけれどもすぐ
にまた塩原家の養子にされてしまいます。こ
れではひがみ根性が出るのは当然でしょう」
「その経験が『猫』や『道草』ととして結実
したのだから、文学にとっては慶ばしいこと
だ」

 此二婆さんの呵責に逢てより以来、余が猜
疑心は益(ますます)深くなり、余が継子根
性は日に(日に)増長し、遂には明け放しの
門戸を閉鎖して我黄色な顔を愈(いよいよ)
黄色にするの已を得ざるに至れり。
           (『自転車日記』)



投出語法──倫敦塔
   2016/4/4 (月) 05:28 by Sakana No.20160404052813

04月04日

「『倫敦塔』は留学中に一度だけ見物し、歴
史上の悲劇的人物をしのびながら空想をまじ
えて描いた作品です」
「英国史を知らない読者が読んでもさっぱり
理解できない」
「ですから、投出語法の応用はここにはない
という気がしていたのですが、よく読んでみ
るとそれらしき文章が見つかりました」
「意識の内容に変化のない程の苦しみはない
と書いている。しかし、投獄された経験もな
い漱石はそんな苦しみは味わっていないはず
だ。自分が経験していない情緒fを空想して
表現するのも投出語法といえるだろうか」
「『倫敦塔』が発表されたのは『帝国文学』
明治三十八年一月号──『ホトトギス』へ
の『猫』の連載がはじまったのとほぼ同時期
であり、『文学論』は執筆中でした」
「つまり、漱石の意識の内容は囚人とちがっ
て、変化があったことになる」
「しかし、教師の仕事にいやけがさしており、
ある意味では囚人に似たようなものだと思っ
ていたかもしれません」
「そうかな」
「いずれにしても、引用した箇所は『文学論』
と関連づけて読んだほうがよいと思います」

 こんなものを書く人の心の中(うち)はど
の様であったろうと想像して見る。凡そ世の
中に何が苦しいと云って所在のない程の苦し
みはない。意識の内容に変化のない程の苦し
みはない。使える身体(からだ)は目に見え
ぬ縄で縛られて動きのとれぬ程の苦しみはな
い。生きるというは活動して居るという事で
あるに、生きながらこの活動を抑えらるるの
は生という奪われたると同じ事で、その奪わ
れたるを自覚する事が死よりも一層の苦痛で
ある。          (『倫敦塔』)


投出語法──坊っちゃん
   2016/4/7 (木) 07:13 by Sakana No.20160407071305

04月07日

「『猫』もそうですが、『坊っちゃん』も投
出語法の応用例が多いですね。夏目金之助少
年の情緒fが投出されていると思われる箇所
をいくつか抜き書きしてみました」
「わんぱくの暴れん坊主に継子のようなひが
み根性がまじっているところが面白い」
「日本人好みの少年なのでしょう。明治大正
昭和の三代にわたって愛読された古典的青春
小説です」
「ひがみ根性が強いと、うらなりのような性
格になりそうだが、坊っちゃんは元気がよい。
損ばかりしていても、最後は正義が勝つとい
う幻想を読者に与える」
「あなたは真っ直でよいご気性だと誉めてく
れる清の存在が大きいですね」
「夏目家は江戸時代では名主とはいえ町人の
身分。それでいて土百姓に対してご先祖の夛
田満仲をひけらかし、威張っているところが
おかしい」

  親譲ずりの無鉄砲で小供の時から損ばかり
している。小学校に居る時分学校の二階から
飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。
なぜそんな無闇(むやみ)をしたと聞く人が
あるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新
築の二階から首を出していたら、同級生の一
人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛
び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃
(はや)したからである。小使に負ぶさって
帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階
ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるか
と云ったから、この次は抜かさずに飛んで見
せますと答えた。 (『坊っちゃん』)

 おやじはちっともおれを可愛(かわい)が
ってくれなかった。母は兄ばかり贔屓(ひい
き)にしていた。この兄はやに色が白くって、
芝居の真似をして女形(おんながた)になる
のが好きだった。おれを見る度にこいつはど
うせ碌なものにはならないと、おやじが云っ
た。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が
云った。なるほど碌なものにはならない。ご
覧の通りの始末である。行く先が案じられた
のも無理はない。ただ懲役に行かないで生き
ているばかりである。  (『坊っちゃん』)

  清は時々台所で人の居ない時に「あなたは
真っ直でよいご気性だ」と賞める事が時々あ
った。しかしおれには清の云う意味が分から
なかった。好い気性なら清以外のものも、も
う少し善くしてくれるだろうと思った。清が
こんな事を云う度におれはお世辞は嫌いだと
答えるのが常であった。すると婆さんはそれ
だから好いご気性ですと云っては、嬉しそう
におれの顔を眺(なが)めている。自分の力
でおれを製造して誇ってるように見える。少
々気味がわるかった。(『坊っちゃん』)

「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強
いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ
行くのかい」      (『坊っちゃん』)

  これでも元は旗本だ。旗本の夛田満仲の後
裔だ。こんな土百姓とは生れからして違うん
だ。只智慧のないところが惜しいだけだ。
           (『坊っちゃん』)


投出語法ーー草枕
   2016/4/10 (日) 05:43 by Sakana No.20160410054349

04月10日

 「『草枕』の語り手にも作者が投出されてお
 ります」
 「語り手は画工ということになっている。漱
 石も画を描くのは好きだったらしいが、画工
とはいえない」
 「むしろ詩人ですね」
 「たしかに俳句と漢詩をつくるのも好きで、
 作品も残っている。しかし、詩人といえるだ
 ろうか」
 「厳密にいうと、どうかわかりませんが、総
 合力で芸術家だったことはまちがいありませ
 ん」
 「そうかな。『草枕』は芸術という言葉が使
われているが、戯作のようなところもある。
 戯作は芸術ではない」
 「でも、読んでいるうちに、長閑な気持ちに
 なってきます。あらゆる芸術の士は人の世を
長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊たっ
 とい」
 「しかし、晩年の漱石作品、『行人』『道草』
 『明暗』などを読んでも、ちっとも長閑にな
 らないし、心が豊かにならない」
 「それは読み方がわるいからですよ」

  とかくに人の世は住みにくい。
  住みにくさが高じると、安い所へ引き越し
 たくなる。どこへ越しても住みにくいと悟っ
 た時、詩が生れて、画が出来る。
  越す事のならぬ世が住みにくければ、住み
 にくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、
 束の間の命を、束の間でも住みよくせねばな
 らぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここ
 に画家という使命が降る。あらゆる芸術の士
は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが
故に尊たっとい。        (『草枕』)


投出語法──二百十日
   2016/4/13 (水) 07:53 by Sakana No.20160413075349

04月13日

 「『二百十日』では豆腐屋の思い出に作者が
投出されていると思います」
 「漱石は豆腐屋の息子だったのか」
 「圭さんは豆腐屋の息子ということになって
 いますが、漱石先生はそうではありません」
 「それでは投出語法にならないのではないか」
 「近所に豆腐屋があったのです。そして、お
寺の鉦(かね)の音がかんかんと響いてい。
その思い出が投出されているのです。絶妙の
取り合わせではありませんか」
 「そうかな」
 「とにかく、子供の頃のその記憶がよみがえ
 ってきたのです」
 「寒磬寺と云う寺は実在するのか」
 「随筆『硝子戸の中』では西閑寺となってい
 ます。二十一世紀の現在でも新宿区喜久井町
にある浄土宗のお寺に誓閑寺という寺があり
 ますから、たぶんそれでしょう」
 「喜久井町なら漱石の生家があったというか
 ら地理的にはその誓閑寺の可能性が高い」

 「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆
 腐屋があってね」
 「豆腐屋があって?」
 「豆腐屋があって、その豆腐屋の角かどから
一丁ばかり爪先上がりに上がると寒磬寺(かん
 けいじ)と云う御寺があってね」
 「寒磬寺と云う御寺がある?」
 「ある。今でもあるだろう。門前から見ると
 ただ大竹藪ばかり見えて、本堂も庫裏もないよ
 うだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか
鉦を敲く」
 「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
 「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でか
 んかんと幽かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜が
強く降って、布団のなかで世の中の寒さを一二
 寸の厚さに遮ぎって聞いていると、竹藪のなか
 から、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分
らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃と、
 倒れかかった山門と、山門を埋め尽くすほどな
大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗い
 た事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけ
 を聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」
 「海老のようになるって?」
 「うん。海老のようになって、口のうちで、
かんかん、かんかんと云うのさ」
 「妙だね」  (『二百十日』)

  どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐
 屋は無論あった。その豆腐屋には油の臭におい
 の染込こんだ縄暖簾がかかっていて門口を流れ
 る下水の水が京都へでも行ったように綺麗だっ
 た。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西
 閑寺(せいかんじ)という寺の門が小高く見え
 た。赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に
掩われているので、中にどんなものがあるか通
りからは全く見えなかったが、その奥でする朝
 晩の御勤おつとめの鉦の音ねは、今でも私の耳
に残っている。ことに霧の多い秋から木枯の吹
く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音
は、いつでも私の心に悲しくて冷めたい或物を
叩き込むように小さい私の気分を寒くした。
              (『硝子戸の中』


投出語法──野分
   2016/4/16 (土) 08:31 by Sakana No.20160416083118

04月16日

「白井道也は文学者である、と『野分』は書
き出されています」
「三段論法によれば、
  白井道也は文学者である、
  吾輩は猫である、
  故に、白井道也は猫である、
ということになる」
「三段論法はともかくとして、白井道也にも
作者が投出されていることには間違いありま
せん」
「しかし、田舎の中学を二三箇所流して歩い
た末、去年の春飄然と東京へ戻って来た。始
めて赴任したのは越後のどこかであったとい
うが、漱石の場合は越後ではない。伊予の松
山だった」
「越後も伊予も田舎ですから、同じことです」
「田舎を軽んじてはいけない。日本の未来は
地方再生がなるかどうかにかかっている」
「地方再生は二十一世紀の課題です。作者=
白井道也=坊ちゃん=猫は、二十世紀のはじ
め頃、十重二十重に絡んだ因縁により田舎で
喧嘩をしたあげく、東京に舞い戻ってきたの
です」
「予は文学者であるなどと粋がらず、教育者
として田舎に骨を埋めてほしかった」
「そういうわけにもいけません。鴻雁の北に
去りて乙鳥(ツバメ)の南に来るさえ、鳥の
身になっては相当の弁解があるはずじゃ」

 白井道也は文学者である。
  八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三
箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京へ戻
って来た。流すとは門附に用いる言葉で飄然と
は徂徠に拘かかわらぬ意味とも取れる。道也の
進退をかく形容するの適否は作者といえども受
合わぬ。縺れたる糸の片端も眼を着すればただ
一筋の末とあらわるるに過ぎぬ。ただ一筋の出
処の裏には十重二十重の因縁が絡んでいるかも
知れぬ。鴻雁の北に去りて乙鳥の南に来るさえ、
鳥の身になっては相当の弁解があるはずじゃ。
  始めて赴任したのは越後のどこかであった。
                      (『野分』)



投出語法──虞美人草 
   2016/4/19 (火) 07:52 by Sakana No.20160419075220

04月19日

「漱石先生のロマンチックな一面が投出された
美文です。ご賞味ください」
「尾崎紅葉や泉鏡花の美文と似たようなもので、
ついていけない。とっくに賞味期限がきれてい
る」
「夢の世を夢よりも艶に眺めしむる黒髪に幻惑
されませんか」
「あれは嫌な女だと作者が弟子にホンネを言っ
ているではないか。一般読者を馬鹿にするのも
程がある」
「でも、三越が虞美人草浴衣を売り出したり、
宝飾店が虞 美人草指輪を売り出すなどして、
評判になりました。ビジネスとしては大成功で
す」
「文学としては失敗作だ」
「その大目的を生ずるに必要なる第二の目的は
幻惑の二字に帰着すと『文学論』にちゃんと明
記されていますよ。私は成功作だと思います」
「しからば、聞くが、第一の目的は何だ?」
「それはちょっと・・・・・・」
「『虞美人草』はその第一の目的にかなってい
るのか?」
「引き続き情報収集につとめ、いずれの日にか
ご報告できるように努力します」
「いくら情報収集しても、頭を使って考えなけ
ればダメだ」

 紅を弥生に包む昼酣なるに、春を抽んずる紫
の濃き一点を、天地の眠れるなかに、鮮やかに
滴たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よ
りも艶に眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める
鬢の上に玉虫貝を冴々と菫に刻んで、細き金脚
にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠
き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸のさと
動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴の
ひろがりに、一瞬の短かきを偸んで、疾風の威
を作すは、春にいて春を制する深き眼である。
この瞳を遡って、魔力の境を窮むるとき、桃源
に骨を白うして、再び塵寰に帰るを得ず。ただ
の夢ではない。糢糊たる夢の大いなるうちに、
燦たる一点の妖星が、死ぬるまで我を見よと、
紫色の、眉近く逼るのである。女は紫色の着物
を着ている。       (『虞美人草』)


 『虞美人草』は毎日かいている。藤尾という
女にそんな同情をもってはいけない。あれは嫌
な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が
欠乏した女である。あいつをしまいに殺すのが
一篇の主意である。うまく殺せなければ助けて
やる。しかし助かればなおなお藤尾なるものは
駄目な人間になる。最後に哲学をつける。この
哲学は一つのセオリーである。僕はこのセオリ
ーを説明するために全篇をかいているのである。
だから決してあんな女をいいと思っちゃいけな
い。小夜子という女の方がいくら可憐だかわか
りやしない。
      (明治40年7月19日小宮豊隆あて書簡) 


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「『文学論』──自己本位の読み方のまとめ」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2015 Sakana Hasebe