『文学論』──自己本位の読み方のまとめ

長谷部さかな 著
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はじめに (趣旨説明)
   2015/4/23 (木) 08:08 by Sakana No.20150423080808

 夏目漱石『文学論』を十年計画で読みはじめてから早くも満八年
たちました。
 なにしろ神経衰弱にして狂人と噂されたこともある天才作家の文
学論です。おそろしく難解な代物で、一度や二度読んだだけでは理
解できるはずがないと覚悟はしていたのですが、なんとかこれまで
に二度通読したことにはなります。
 一度目は漫然と読み、二度目は英訳を参考にしながら読みました。
三度目は残りの二年間で私なりに自己本位のまとめを意識しながら
読みたいと思います。
 三度読んでも、十分に理解できるという自信はありません。その
程度の浅い理解のレベルで、まとめようとするのは無謀かもしれま
せんが、まとめを意識することに意義があると思うことにしましょ
う。
  目次は次の通りです。 

 序
 第一編 文学的内容の分類
 第二編 文学的内容の数量変化
 第三編 文学的内容の特質
 第四編 文学的内容の相互関係
 第五編 集合的F

 文学的内容論プラス集合的F論──そして、 第一編では、「凡
そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す」という公式が示
されています。「Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに
附着する情緒を意味す」。
 まるで科学論文です。筋道を立てて考えることが苦手な読者は歯
が立ちそうもありません。
 もっとも、序を読めば、何とかなりそうな気もします。本論に比
べると、序からは作者のなまなましい感情(f)が伝わってきます。
「何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり」とか、「倫敦
に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間
にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営み
たり」とか。
 『文学論』執筆の動機や狙い所もある程度は見当がつきます。
 「根本的に文学とは如何なるものぞ」という問い──これが『文
学論』の狙い所のようです。「心理的に文学は如何なる必要あつて、
この世に生れ、、発達し、頽廃するか。社会的に文学は如何なる必
要あつて、存在し、隆興し、衰滅するか」という問いかけもありま
す。
  しかし、「文学とは如何なるものぞ」や「文学は如何なる必要あ
って存在し、衰滅するか」が『文学論』の根本的な問いだとしても、
本論を漫然と読んだだけでは、その答を見つけるのは容易なことで
はありません。
 文学の定義も必要もはっきりせず、何だか頼りないような気持に
なります、そのようなあいまいさやためらいを吹き飛ばすかのよう
な快刀乱麻の断定があります。「凡そ文学的内容の形式は(F+f)
なることを要す」という法則です。
  これはどういう意味か、ボンクラ頭には理解しにくいのですが、
漱石『文学論』では肝心カナメの土台だと思います。「根本的に文
学とは如何なるものぞ」という問いを解くカギは、この法則に隠さ
れているような気がします。

 『文学論』の序の文章は文学的でも、本論は科学的論文──とい
うのが、最初に読んだときの私の印象でした。序と本論がかみあっ
ていないのです。序は「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なるこ
とを要す」という公式にあてはまるが、本論は内容は文学論でも形
式は文学的内容の形式(F+f)にあてはまらないのではないか。
 おそらく本論は文学を研究対象として科学的に解明しようとする
試みなのでしょう。しかし、そのうちに本論にもやはり情緒的要素
(f)がふくまれていることに気がつきました。たとえば、シェイ
クスピアの戯曲やオースティンの小説やワーズワースの詩の一部な
どが引用されているからです。これらの引用された小説や戯曲や詩
には情緒的要素(f)があります。
 また本論の応用篇ともみなされる『吾輩は猫である』など漱石作
品には情緒的要素(f)はたっぷりふくまれている──ということ
は(F+f)の法則がやはり本論にもあてはまるというリクツにな
るかと思います。
 もっとも、漱石自身が述べている自己評価によれば、『文学論』
は学理的閑文字であり、失敗の亡骸(なきがら)あるいは立派に建
設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟のようなものだそ
うです(『私の個人主義』)。
 このようなネガティブな自己評価にまどわされますが、それでも、
やはり『文学論』を無視してしまうわけにはいきません。漱石が
『文学論』の研究を通じ自己本位という考えを得て、それが自信に
つながり、創作の方面で成功しているからです。死後百年たった今
も漱石の作品は読者に読まれています。
 『吾輩は猫である』から『明暗』まで約十一年間の創作活動は
『文学論』の失敗の廃墟から生まれました。『文学論』がなければ、
おそらく創作家夏目漱石の成功もなかったでしょう。
 岩波文庫版の解説者亀井俊介は、「『文学論』は、本当は無類に
面白い作品なのである」と評しています。漱石の小説と併読し、内
容を照合するなどの工夫をすれば、無類に面白い作品になるかもし
れません。

 『文学論』は進化途上の未定稿です。漱石は序で、文学論は未定
稿と断っています。
 「既に未定稿なるが故に現代の学徒を教へて、文学の何物たるか
を知らしむるの意にあらず。世のこの書を読む者、読み終わりたる
後に、何らかの問題に逢着し、何らかの疑義を提供し、あるいは書
中いへるものよりも一歩を拓きて向上に路を示すを得ば余の目的は
達したりといふべし」。
 「学問の堂を作るは一朝の事にあらず、また一人の事にあらず、
われはただ自己がその建立に幾分の労力を寄附したるを、義務を果
たしたる如くに思ふのみ」。
 
 二○一一年三月十一日、東日本大震災に見舞われました。その直
後、瓦礫の撤去を手伝いながら私の頭をふとよぎったのは、未成市
街の廃墟のような『文学論』の瓦礫撤去に参加している大勢のボラ
ンティアの姿です。そして、私もまたその群にまじって、幾分の労
力を寄附し、義務を果たしたような気分にひたれるかもしれないと
いう幻想にとらわれました。           (2015/04/23)


文学とは如何なるものぞ
   2015/5/1 (金) 07:11 by Sakana No.20150501071107

05月01日

「それでは、夏目漱石『文学論』のまとめを意
識しながら、もう一度、最初から読み進めてい
きたいと思います。二年間の期間限定です」
「三度目の正直ということもある。おつきあい
させていただくよ」
「ありがとうございます。『文学論』は解読に
苦労しますが、幸い、この百年間に多くの研究
者がいろんな角度から解説してくれているので
参考になります」
「参考資料をすべてチェックしたのか」
「多すぎて、一通り目を通すだけでもたいへん
です。でも、主なものはなるべく網目から洩ら
さないようにしたいと思います」。
「要するに『文学論』は何を論じているのだ?」
「根本的に文学とは如何なるものぞ──です」
「それで、結論は、如何なるものだ?」
「結論を急いではいけません。まず、根本的に
考えることです。心理的に文学は如何なる必要
あつて、この世に生れ、、発達し、頽廃するか。
社会的に文学は如何なる必要あつて、存在し、隆
興し、衰滅するか」
「世間の大勢は文学無用論ないし文学不要論だぞ」
「それもちゃんと視野に入っています」


文学の定義
   2015/5/4 (月) 06:06 by Sakana No.20150504060619

05月04日

「根本的に文学とは如何なるものぞ」
「それは文学とは何かという定義の問題だと
思って探しましたが、『文学論』には見つか
りません」
「三四郎の手帳を借りればよい。大学で西洋
人の先生による文学論の講義に出席すると、
先生は古来文学者が文学に対して下した定義
をおよそ二十ばかり並べた。三四郎はそれを
大事に手帳に筆記している」
「三四郎はとっくの昔にあの世へ行き、あの
世のストレイシープになっています。もっと
も彼が筆記した文学の定義は『英文学概説』
(英文学形式論)に載っていますが、漱石先
生の見解は、<私は文学なるものは科学の如
く定義をすべき性質のものでなく、下し得る
ものとも考えへて居らない>というものです」
「つまり、三四郎は講義に出席して役に立た
ないことを筆記した。彼の努力はムダだった」
「そういってしまえばミもフタもありません。
もっと気のきいたアドバイスをお願いします」
「電光影裏に春風を斬れ」


漱石の法則
   2015/5/7 (木) 06:12 by Sakana No.20150507061208

05月07日

「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なるこ
とを要す──この法則が『文学論』を読みと
くカギです。Fは焦点的印象または観念を意
味し、fはこれに附着する情緒を意味します」
「わけがわからんと、ぼやいて、尻尾を巻い
たのは誰だ?」
「ニュートンの法則はご存じですか」
「物体は外部から作用を受けなければその速
度は一定である。 動いているものは動き続
け、止まっているものはいつまでも止まって
いる──これが第一法則(慣性の法則)。さ
らに、第二法則と第三法則がある」
「『文学論』では<物体は外より力の作用す
るにあらざれば静止せるものは終始その位置
に静止し、運動しつつあるものは等速度を以
て一直線に進行す>とあり、また『猫』八に、
<ニュートンの運動律第一に曰くもし他の力
を加うるにあらざれば、一度動き出したる物
体は均一の速度を以て直線に動くものとす、
とあります。やはり、(F+f)はニュート
ンの法則を意識して打ち立てられたものにち
がいありません」
「そういう思いこみは科学的な態度ではない」
「ニュートンの法則だってわけがわからんの
に正しいことになっています。信じるほかは
ありません」
「それでは宗教になってしまう」
「私は漱石の法則(F+f)を中学校の国語
の授業で教えるべきだと思います」
「ニュートンの法則は実験によって証明でき
るが、漱石の(F+f)も証明できるのか」
「学生たちに宿題を与え、証明させましょう。
後世怖るべし。近頃の中学生の潜在能力は侮
れません」



意識とは何ぞや
   2015/5/10 (日) 05:34 by Sakana No.20150510053454

05月10日

「漱石の法則(F+f)で、焦点的印象または
観念の焦点的──FocusのFについて説明するに
は、まず、意識という語の説明からはじめなけ
ればなりません」
「意識とは何ぞや?心、精神、あるいは魂と同
じなのか、ちがうのか。ちがうとすればどこが
どうちがうのか?」
「それは心理学上容易ならざる問題で、到底
一定義に収め難きものという専門家もいます」
「意識といっても、現象的意識と反省的意識と
はちがうともいわれておる」
「印象は現象的意識、観念は反省的意識とかか
わりがあるかもしれません」
「思いつきを口走らないで、正しいことを言っ
てほしい」
「なるべくそのようにつとめますが、文学論は
心理学の研究ではありませんから、意識とは何
ぞやについての完全な定義を求めなくてもよい
のです。とりあえず、Lloyd Morganという人が
その著『比較心理学』で説いている<意識の波>
説を採用すると、説明が便利になります」
「意識が波のように時々刻々変化するという説
だとすると、現象的意識だね」
「反省的意識も変化すると思いますが、まあそ
の辺は深入りしないで前にすすみましょう。意
識の波の頂点即ち焦点Fは意識のもっとも明確
なる部分であり、その部分は前後にいわゆる識
末なる部分を具有しています」
「それは現象的意識の波にちがいない」
「Aという意識の波の頂点がBに移るとき、A
はaという辺端的意識と変じて存在し、Bがさ
らにCに転じるとaとbはともに意識の波の辺
端的意識となります」
「きみ自身が今朝、経験したばかりの意識の波
を例にとって説明してくれ」
「さきほどの私の焦点的意識Aは文学論でした。
それが、Bの宇宙論に移って、Aはaとなる。
宇宙の誕生は何年前だと思いますか」
「さあ、百億年前かな」
「百三十八億年前です」
「たいして変わらない」
「たいへんな違いですよ。それはともかく、次
の瞬間、私は窓の外の若葉へ眼をやり、若葉を
季語とした俳句をひねることにしました。一日
一句、朝の頭の体操です」
「どうせ駄句だろう」
「駄句でもかまいません。要するに、私の意識
の波の頂点Fは若葉俳句に移った。そして、今
やaの文学論とbの宇宙論が辺端的意識として
残存しているのです。さわやかな一日のはじま
りではありませんか」


情緒とは何ぞや 
   2015/5/13 (水) 07:12 by Sakana No.20150513071203

05月13日

「f(情緒的要素)は文学の欠くべからざる
ものです」
「feeling(感情)の頭文字。英語ではemotion
も情緒という意味だが、feelingもemotionも同
じような意味か」
「fだけではただの情緒、感情でしかありませ
んが、F(意識の波の頂点)に附着すると、文
学的内容の形式(F+f)になります」
「作者が(F+f)で言いあらわしても、読者
が(F+f)として受容しなければ、文学的内
容の形式として成立しない」
「そこが文士渡世のつらいところです。深沢七
郎という作家をご存じですか」
「『楢山節考』の作者だ。<人生永遠の書>と
正宗白鳥が激賞した」
「白鳥という読者にとって、『楢山節考』は
(F+f)という文学的内容の形式は成立して
います。ところが、深沢七郎は人間滅亡教の教
祖で、読書など一つもしたことがないような顔
をしていました。それでも、夏目漱石くらいは
読むのだろうと、ある人(秋山駿)が聞くと、
<夏目漱石は二、三枚読んで、この人はにせ者
じゃないかなという気がしてやめちゃったです>
と答えたとか」
「ハハァ、すると、にせ者の文学論を苦労して
読んでいるきみはなに者だ?」
「(めげずに)漱石の法則(F+f)について
補足しておきますと、三つの場合が考えられます。
 (一)F+fとなって現れる場合
 (二)作者がfを表現し、読者がFを補足する
 (三)作者がFを表現し、読者がfを引受ける」
「具体的な例を示してくれ」
「『文学論』に載っている次の例でいうと、憂心
殷々、已焉哉、謂之何哉の三句は、詩人の感情f
であり、出自北門、終窶且貧、莫知我艱、天實爲
之の四句はFです」

 出自北門、憂心殷々、終窶且貧、莫知我艱、 
  已焉哉、天實爲之、謂之何哉、
 (北の門より出でゆけば/憂いの心は殷殷(いん
 いん)たり、終(あ)くまでも窶(やつ)れて
 且つ貧しきも/我が艱(なや)みを知るもの莫
 (な)し/已(や)んぬる哉/天実(じつ)に之
 (これ)を為せり/之を何んとか謂(い)わんや)


心を自由にする修行の形式
   2015/5/17 (日) 10:06 by Sakana No.20150517100639

05月16日

「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なるこ
とを要す──この漱石の法則(Soseki's Law
on Form of Literary Substance)は、人間的
内容の形式(Form of Human Substance)、つ
まりいかに生きるべきかという文学的主題の
形式にも応用できるのではないでしょうか」
「漱石がそういっているのか?」
「私の模倣的な頭にひらめいただけですが、
『吾輩は猫である』にもそれらしき表現があ
ります」
「どの辺に?
「『猫』第八で、苦沙弥先生が八木独仙に相
談すると、独仙は<心さへ自由にする修行を
したら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気
なものではないか>と言います。あ、そうか、
と苦沙弥先生は頓悟した。そして、(F+f)
の法則を応用して癇癪を抑えることができた
ようです。さらに、作者はそんな文章を書く
とによって神経衰弱と狂気を克服できたので
はないか──とこれはまあ、私の想像ですが」
「人間の心がそう簡単に自由になるものだろ
うか」
「F(意識の波の頂点)に何を置くか、そし
て、どのようなf(情緒)をそれに附着させ
るかを考えた上で実行する自由はあると思い
ます。結果は修行次第です」
「人間の自由とは、所詮その程度のものか」
「その程度のことでも、ほんとうにわかって
いる人は少ないと思いますよ」


個人的一生涯におけるF
   2015/5/19 (火) 08:45 by Sakana No.20150519084505

05月19日

「『文学論』では、広義において意識の波の焦
点F(印象または観念)は三通りに分類をする
ことができるとなっております。
 (一)一刻の意識におけるF
 (二)個人的一世の一時期におけるF
 (三)社会進化の一時期におけるF(時代思
    潮)」
「それはわかっている」
「もう一つ、私は個人的一生涯におけるFとい
うものを考えたいのですが」
「どういうFだ?」
「高浜虚子に<去年今年貫く棒のようなもの>
という俳句があります。この棒のようなものは
(二)個人的一世におけるF、あるいは(三)
社会進化の一時期におけるF、に相当するもの
だと思いますが、さらに個人的一生涯における
Fを考えることもできるのではないでしょうか」
「?」
「諺に三つ児の魂百まで、というのがあります。
そのように人間が生れてから死ぬまでの生涯を
通じて一貫する意識を考えたいのです」
「仮に魂が存在するとしても、ふだんは意識の
底にひそんでいるはずだ。意識の波の頂点Fに
上ってくることはめったにない」
「吉田松陰の生涯をどう思います?かくすれば 
かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大
和魂/身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め
置かまし 大和魂」

 「大和魂! と叫んで日本人が肺病病みの咳をした」
 「起こし得て突几ですね」と寒月君がほめる。
 「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸が云う。
 大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をす
 る。独逸で大和魂の芝居をする」
 「成程こりゃ天然居士以上の傑作だ」と今度は迷亭先生が
 そり返ってみせる。
 「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋の銀さんも
 大和魂を有っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を
 有っている」
 「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
 「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行
 き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
 「その一句は大出来だ。君は中々文才があるね。それから
 次の句は」
 「三角なものが大和魂。四角なものが大和魂か。大和魂は
 名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらし
 ている」
「先生大分面白う御座いますが、ちと大和魂が多過ぎはし
 ませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは
 無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞
 いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂は
 それ天狗の類か」(『猫』六)



文学的内容の基本成分
   2015/5/22 (金) 08:24 by Sakana No.20150522082456

05月22日

「文学的内容の基本成分について考えましょ
う。基本成分に分解して、本質ないし実体を
理解した上で、総合するのです」
「それはデカルトが『方法序説』でうちたて
た学問の方法だ。科学技術の研究ならともか
く、わざわざ文学的内容を基本成分に分解し
て考えた上で、おもむろに創作に着手する作
家がいるとは思えない」
「少なくとも『文学論』の著者はその方法で
創作したのです。基本成分ごとに英文学から
の文例が引用されていますが、英文学は今や
故郷と同じく遠きにありて思うものです。こ
こではもっと身近な漱石作品から文例を引用
して考えることにしたいと思います」
「漱石作品だって百年前の日本から材料をと
っているから今や身近とはいえない」
「たしかにかびは生えていますが、それでも
現在の日本人の人情や風俗習慣とつながって
います」
「つらぬく棒のようなもの、というわけか」
「まず、<感覚的要素>と<内部心理作用>
に大別し、次のような基本成分がピックアッ
プされています。

(A)簡単な感覚的要素(Groos『人の戯』)
 触覚、温度、味覚、嗅覚、聴覚、視覚(耀、
形、運動、色)、その他
(B)人類の内部心理作用(Ribot『情緒の心理』)
 恐怖、怒、同感、恋、嫉妬、忠誠心、複雑情緒、
 その他

「笑と涙は、文学作品の読者の内部心理作用に
訴える文学的内容の重要な基本成分だと思うが、
リストから抜けているのはなぜだ?」
「漱石先生ではなく、GrosやRibotの責任です」
「GrosとかRibotとか聞いたこともない心理学者
の説を鵜呑みにしているようだが、大丈夫か?。
「とりあえず、こんな基本成分がありますという
ことを示すために借用しただけでしょう」
「元素周期表には118個の元素が表示されいる。
文学的内容の基本成分は何個あるのか?」
「それは宿題ということにして、中学生に最新の
リストを作成させましょう」


触覚
   2015/5/25 (月) 06:21 by Sakana No.20150525062126

05月25日

「文学的内容の基本成分として感覚的要素から
まず触覚にふれることにしましょう。タッチ」
「色即是空。感覚は欺きやすい」
「文学論では沙翁の『オセロー』から美しい妻
デスデモーナの雪よりも白い肌、雪花石膏のよ
うに滑らかな肌、それからテニソンの詩『砕け
よ、砕けよ、砕けよ』から<消えうせた手の触
感>の描写が引用されています」
「五蘊皆空。受想行識亦復如是」
「日本文学から文例をさがすと、猫が書生の掌
(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられ
た時何だかフワフワした感じがあった、という
のがありました」
「フワフワした感じというのは触覚とはすこし
ちがうのではないか」
「では、『道草』からの文例はどうでしょう。
この寒天のようにぷりぷりした触覚を経験した
ことがありますか」
「なんだ、そのある物とは?」
「生まれたばかりの赤ん坊です。産婆がやって
くるのが遅れたので、やむをえず夫が産婆の代
わりに赤ん坊をとりあげた場面です」
「そんな経験をしたことがないからピンとこな
いが、寒天のようにぷりぷりという表現は面白
い」

 吾輩はここで始めて人間というものを見た。
しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で
一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。
この書生というのは時々我々を捕(つかま)え
て煮(に)て食うという話である。しかしその
当時は何という考もなかったから別段恐しいと
も思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載
せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフ
ワした感じがあったばかりである。(『猫』一)

  彼の右手はたちまち一種異様な触覚をもって、
今まで経験したことのないある物に触れた。そ
のある物は寒天のようにぷりぷりしていた。
                (『道草』)


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「『文学論』──自己本位の読み方のまとめ」 長谷部さかな 著
 Copyright © 2015 Sakana Hasebe